遺伝子治療の誕生


ジェフ・ライオン  ピーター・ゴーナー

ゼスト

プロローグ


この本は大きな議論を呼び起こした。我々人類の遺伝子を再構築するという、米国政府の支援による最も大胆不敵な医学実験プログラムの話を書いたものである。

かつて禁じられていた領域へ研究者がたどたどしく、しかも、引き返すことのできない旅を踏み出した壮大な歴史を、我々はできる限り克明に再現したいと努めた。

研究者たちは遺伝治療―ここで言う遺伝子治療とは、包括的な言葉であらゆる分子医学の分野を含むーを応用し、人類の病気を遺伝子レベルで診断し、解明し、治療し始めた。これは同時に、これからの医療を少しずつ変えていく。この急速な発展した遺伝子治療は、一般人の我々にとっても無視できないものであり、良いにつけ悪いにつけ、最新の医学技術がどにょうに治療に応用されているのかを我々は追求したい。

遺伝子を操作するということは、我々の宿命―前世から定まっている運命―を変えることであり、我々人類を長い間魅了してきたユートピア願望の具体化の一歩にさえ思える永久に若さを保ちたいという願いを、現代の錬金術である遺伝子治療はかなえてくれるのだろうか。良い面もあれば、その反面に必ず暗い一面がある。ある時間が過ぎれば、ヒト遺伝子治療をおそるおそる最初に行ったことも、やがて現在の我々がライト兄弟がキティホーク最初の飛行に成功し、科学の進歩に驚いた昔を懐かしむのと同じように、我々の子孫が思いだしてくれるであろう。我々はこの遺伝子治療という武器を、慎重に英知を持って応用できるであろうか? それとも悪用してしまうのだろうか。

80年代の半ばから、シカゴ・トリビューン紙の記者として、遺伝子治療の連載報道を書き続けながらも、我々はこの技術が約束してくれる輝かしいものと、それが及ぼす影響の大きさに、驚いていた。

この報道を続けていくに従い、この信じられないようなアイデアが、一般大衆が遺伝子の置き換えという大問題を、容易に受け入れたのだろうか? 
我々は毎日のようにサイエンス・フィクションや奇想天外な物事に接しているので、おそれを感じる力をなくしてしまったからなのか? それとも他に理由があるのか? 

科学の進歩は目覚ましい。十数年前、病気の原因遺伝子はほとんど見つかっていなかったし、遺伝子を置き換えたり、欠陥遺伝子を矯正するような考えも模索中であり、動物実験にようやく手が加えられたばかりであった。専門家すらも殆どが遺伝子治療が不可能とは言えないまでも、今世紀中には応用は先ずできないと思われていたが、この予測は十年も経たぬうちに、劇的に変わってしまった。現実に新しく発見された病原遺伝子の報道が毎週のように世界の新聞を飾っている。

94年の秋、ソルトレイク市のユタ大学医療センターでマーク・スコルニックが率いる研究陣が、女性を脅かす乳癌と子宮癌の二大悪質遺伝子を見つけたと報告した。90年以来、世界で十指以上の研究チームがこのBRCA1と命名された遺伝子を追い続けた。

この発見で研究者は触発され、その後わずか20ヶ月経たぬうちに、第二の遺伝子BRCA2が発見された。この二つの癌遺伝子は遺伝的体質の10%を占めている。やがてBRCA1は遺伝だけでなく、毎年14万5000人の女性の命を奪っている、誰にでも起こり得る乳癌の最も共通した原因遺伝子であることが分かった。同時にドイツ・ポーランド・ロシア系ユダヤ人女性の約1%がBRCA1の突然変異体を遺伝的に持っていることが分かり、悲しいことに乳癌が最も頻発する遺伝病だとも言える。

96年の3月、シアトルのワシントン大学とヴァンデルビルト大学医学部の研究者たちが、このBRCA1の中にある腫瘍を抑制するメカニズムを解明し、癌細胞にある遺伝子を送り込むことでこの細胞の命を断ち、腫瘍を抑制できることを示した。彼らは連邦から即座に承認を貰い、その2ヶ月後に15人の患者に遺伝子治療を施した。対象は転移性の子宮癌を患い、これまでの治療方法では腫瘍を抑制できなかった患者である。

その間にも、第2,第3,第4世代というように、遺伝子欠陥患者に健康な遺伝子を注入する技術が次々と開発されていった。しかし、この分野はまだ緒についたばかりで、米国でも90年代以降(96年7月まで)122例の遺伝子治療が行われただけである。そもそも遺伝子治療は奇病といわれる遺伝病から手が付けられたが、今やその多くは癌治療に向けられている。世界ではこれまで600人以上の患者が遺伝子治療を受けている。

しかし、この治療は未だ初歩的な域を脱していない。これまで完治した患者も、病状が悪化した患者もいない。それなのに遺伝子に基づいた治療方法は医療研究で最も注目されている分野である。国立保健研究所(NIH)は年間11億ドルの予算の内、2億ドルをこの研究に当てているし、私企業も同じく2億ドルを注ぎ込んでいる。世界各国もこの研究を熱心に取り上げている。

世界の遺伝子治療医は今や脳、肝臓、肺、骨格、皮膚静脈瘤、リンパ節へいかに遺伝子を届けるかに心血を注いでいる。大学病院や医療センターは次々と遺伝子治療科を設置し、先進諸国は協力して我々人間という動物を作り上げている、約10万個という遺伝子を分離し、その性格を解明しようとしている。

一般大衆は本質的に保守的で、未知のものに恐れを抱いている。しかし、我々の知るところ、彼らは遺伝子治療の未来に希望を抱いている。毛嫌いするよりも、その可能性にある種の期待を持っていることが、「我々の生きている間に、癌は完治できるようになるか?」という質問に表れている。一般大衆が遺伝子知識を充分に持っているとは言い難いが、DNAをデオキシリボ核酸という注釈を付けなくても、理解できるようになった。この数年にわたる連載報道が少なくとも表面的には、分子遺伝子学の基礎知識を理解できるようにしたと思う。

我々の間には分子生物学、特に遺伝子治療がすべての病気を治してくれるような期待感がある。しかし、この期待感は現実より遙かに高く、正常とは言えない。この分野で最も先駆的な、かつ思慮深い一人、「組み換えDNA諮問委員会」で96年7月まで8年間政府代表を務めたネルソン・ウィヴェルは、一般市民の期待過多があると言っている。10年前には考えられなかった遺伝子診断と研究室での遺伝子操作技術は格段の進歩したが、治療方法には目を見張る進歩が見られなかったと、ウィヴェルも言っている。遺伝子治療の進歩には時間が必要で、多くの基本的な障害を解決し、我々一般市民がその恩恵に浴するには、後10年、いやそれ以上の時間を要することになるであろう。

ウィヴェルは賢明な男で、この遺伝子治療の夢を守ろうとしている。この新しい治療法が完成するまで、市民の期待感を抑えておこうとしているのは、正しい。抗生物質の開発にしろ、骨髄移植の完成にしろ、うつ病の向精神薬開発にしろ、これまで10年、いや20年という歳月を費やしてきた。数ヶ月、数年という単位ではない。遺伝子治療をここで崩壊させたくなかったら、早急な乱用よりも、我々は根気よくこの治療法の完成を待つことだ。
事実、NIHの所長ヴァルムス博士も、遺伝子治療は無限の可能性を持っていることが誇大宣伝や期待過剰が先行していると警告している。

しかし、真の危険は我々の期待過多であるのではなく、この技術の応用の監視を怠ることにある。既に、この技術が悪用されつつある兆候があり、また遺伝子治療は悪用されやすい。大企業、政治家、その他の利益追求機関の興味が、我々一般市民の利益と合致しなければ、その結果は大惨事につながる。

96年の夏、ヴァルムス博士は「DNA組み換え諮問委員会」の廃止を提言した。これまで20年間も監視役をしてきた委員会は最早無用で、承認は直接FDA(米食品薬品局)から受けるべきだと言っている。

我々は激動的な世界に生まれて来た。ソビエト連邦は崩壊し、アパルトヘイトは消滅し、パレスチナとイスラエルが平和条約を結び、世界平和への希望も芽生えてきた。しかし、それ以上の劇的変化は科学分野である。宇宙開発、物質の究極粒子の解明、人工頭脳の研究という無数の科学分野で急速な進歩が起こっている。だが、我々市民に直接影響を及ぼすものは、分子生物学であり、遺伝子治療である。目前に迫ったこれらのものは、極めて興味ある、しかも時として難解な題目でもある。我々読者に理解していただけるように最大の努力をして、この本を書いたつもりである。


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