第2章:パラドックス


1992年、エジンバラ

1991年秋、WHO会議が開催されたすぐ後、英国における男性生殖研究者の第一人者リチャード・シャープ博士が、ニルス・スキャンベックを訪ねた。

シャープ博士は長年エジンバラのMRC生殖生物学部門で働き、研究チームのリーダーとして、すでにこの分野での実績を高く評価されていた。

このまたとない機会に彼らは、データと証拠、そしてそれらの意味するものについてじっくりと検討した。「どうやら精子形成のプロセスに何かが起きているらしい。このプロセスについてほとんど解明されていないが、いずれにしても、異変は些細なものでなく、甚大かつ広範なものだった。何らかの大きな変化が起きている。なのに、その原因がまるでわからない。」とシャープは考えた。

シャープのチームは、精子形成と呼ばれる、成人の精子産生プロセスを専門分野としていた。第一の疑問は、何らかの要因が形成中の精子にダメージを与えることができるかだった。

「精子形成は見事に体系化された、複雑きわまりないプロセスだ。父親からの遺伝物質(染色体)を準備し、組み合わせ、それが次の世代の出発点を形作る。もっともすぐれた遺伝子の複製だけが確実に受け継がれるように、進化によってこしらえられたプロセスだ。それゆえに、このプロセスは形成中の精子を害する可能性のあるあらゆるものに対して、きわめて敏感に反応する。」とシャープは説明する。

精子の始まりは円形の精原細胞で、その核には男性が両親から受け継いだ遺伝物質、DNAが詰め込まれている。DNAは両親からそれぞれ23本ずつ受け継いだ染色体からなる。まず、精子と卵子と癒合したときに正しい数の染色体を持てるように、精原細胞は一連の細胞分裂を通じて染色体の半分を失わなければならない。さらに、成熟するにつれ、細胞の形が変化する。染色体は微少な楕円形の頭部にぎっしりと詰め込まれる。尾の部分が発達し、泳げるようになる。

細胞タンパク質など余分なものはすべて落とされ、可能な限り身軽になる。こうして、遺伝子を積んで卵子への長い旅ができる精子が誕生する。

精子形成の過程で精原細胞は増殖して数を増やし、分化して精子となり、精巣上体と精管を通過して、最後に副精巣の尾部に貯蔵される。精原細胞が次世代の出発点となる精子へと変貌するには、約10週間かかる。

このプロセスは、あらゆる環境要因にきわめて敏感だ。確実に最良のDNAの複製だけを残すために、あらゆる抑制と均衡が働き、つねにDNAの品質を管理している。もし何らかの支障が探知されれば、その細胞は死滅するようプログラムされている。

過去50年間に起きた環境中の何らかの変化が、日々着実に成人の精子の数を減らしている、しかも世界的な規模で。犯人は一体なんだろう。見当も付かなかった。外界に存在する熱や放射線やある種の化学物質が、それほど広範囲に影響を及ぼすとは、とうてい考えられなかった。

1992年始め、シャープのもとへ、ある論文が送られてきた。その論文には、発生途上でホルモン活性を変化させることによって、成長後の動物の精子数を変化させることができるという研究の概要を説明していた。

「甲状腺機能を抑制すると、成長・発達を遅らせることになり、動物は普通より小さくなる。だがそれらの動物が成長すると、反対に精巣は普通より大きく、精子の数も多くなる。研究者達は、おそらくセルトリ細胞の数の変化によるものだろうと結論づけた。」

シャープは考えた。セルトリ細胞の増加によって精子数が増加するならば、その逆もまた事実だろうか?何らかの理由で発生中のセルトリ細胞が減少すれば、生体の精子数も減少するだろうか?

精巣癌、停留睾丸、尿道の異常、精子数の減少、すべてがセルトリ細胞に関連していた。もし何かがセルトリ細胞の機能や数に影響を及ぼすとしたら、それこそがすべての異常を説明しうると彼は考えた。

彼は初心に戻って、あらゆる文献を読み返した。特に注目を引く論文があった。その論文は女性ホルモン・エストロゲンのセルトリ細胞に対する影響を概説していた。それによれば、女性ホルモンは男性の発達に決定的な影響を与えるかもしれないというのだ。

エストロゲンは卵胞刺激ホルモンなどの分泌を抑制し、セルトリ細胞の増殖を抑え、早い時期にその数を少なく固定し得る。そうなれば、大人になってからの精子の数を少なくする。そのうえセルトリ細胞のホルモン分泌が阻害されれば、そのタイミングによっては、精巣の下降や尿道の形成に影響し、精巣癌への道筋をも設定してしまう。

エストロゲンは微妙なバランスで成り立っているシステムを乱し、発達を取り返しの付かないほど破壊してしまうかもしれない。

一般的には、すべての胎児は母体内で大量のエストロゲンにさらされているが、それによって発達が狂わされることはない。特に妊娠中の母胎のエストロゲン値は最も高くなっている。

それからすれば彼の結論はまさにパラドックスだった。だがさまざまなデータを調べるうちに、胎児は必ずしも母親のエストロゲンに直接さらされていないことに気づいた。

なぜならホルモンはあまりにも強力なので、標的の細胞に到達してはじめて作用するようにエストロゲンを運ぶ方法を、私たちの体は備えている。母親の体内のエストロゲンは血液中にあるタンパク質・性ホルモン結合性グロブリン(SHBG)と結合している。これが他のメカニズムと共に、母体が持つ大量のエストロゲンから胎児を守ると考えられる。

だが、と彼は考えた。もし何らかの別の、何らかの作用物質が、胎盤という防壁を通過して、子宮内でエストロゲンのように作用したなら、どうなるだろう。それは男の胎児の性発達を完全に攪乱しうると。

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