生命の起源をさぐり、生命の合成をめざす研究がつづけられている


長野 敬


クローン・ヒツジのドリーが1996年7月に誕生し、その後ウシとマウスでもクローンづくりは成功している。生物の種によって難易度のちがいはあるだろうが、すべての生物でクローンづくりはできるだろ う。もちろん人間でも可能であり、それを行わないのは技術の限界と言うことではなく、社会の約束に基づくことである。

クローン技術は、ある意味で生命の合成ということができる。なぜならこの技術では、核を除いた卵細胞に外から核を加えて、個体発生の経過を再発足させるからである。

核を除いた卵細胞は、そのまま放置すればまもなく死んでしまうのだから、真に生きているということはできない。そこに外から細胞核を加えることによって、個体発生を続けていくことのできる「生きた」存在が、再び合成されるのだ。

しかしまた別の意味では、クローンづくりは生命の合成とまではいうことができない。素材とした卵細 胞や核は、生きている動物から得たものだからである。素材を提供する生物なしに、実験室で卵細胞や核が新たに作り出されるわけではない。もともと生きている生物なしには、クローン技術を進めることはできない。現代の生物学で「生命の合成」というときには、生物に由来せずに生きた細胞を手に入れる可能性のことを指している。

地球の46億年の進化の中では、明らかに一度、生物に由来せずに生きた細胞が誕生した。「物質から細胞まで」の歩みは、一つの長い物語にたとえられるだろう。その全体像は、まだ明らかというにはほど遠い段階ではある。しかしこの記事でもみられるように、筋書きの一部ずつには、かなり輪郭のはっきりしたところもある。物語の長い「線」の上に、いくつかの輝く「点」を」見分けることができるのだ。

科学による生命の合成は、必ずしもこの「線」をそのまま最初からたどる必要はない。たとえば実際の生命進化では、「RNAワールド」がまず成立して、それからあとに、その機能のうちの触媒活性(代謝)と情報伝達(遺伝)の面を、タンパク質とDNAがそれぞれ受け継いだと考えられている。

そうだとしても、まずタンパク質とDNAから出発することでもかまわない。アミノ酸をつなぐタンパク質合成装置とか、ヌクレオチドをつなぐDNA合成装置によって、かなり長いつながりをもつタンパク質や DNAの分子も、今では合成できる。これにもとづいて、単純な代謝と遺伝を行うシステムを組み立てることができれば、それはりっぱな生命合成の第一歩である。

逆の方向からの試みも考えられている。たとえばアメーバの細胞からミトコンドリアを全部取り除いて、そこに外から別にミトコンドリアを加えて復活させる。ミトコンドリアを除いた細胞は、そのまま放置すれば死んでしまうはずだから、これはクローン技術が「生命の合成」と呼ぶこともできる。ただし、まぎらわしさをさけるためには、細胞の合成よりは「細胞の再構築」というほうがよいかもしれない。

物質から組み立てる方向と、細胞を解体して再構築する方法と、この両方から研究がつながるとき、科学は生命の合成に成功したと言うことができるだろう。

今生きている生物でも、特に変わった環境やきびしい環境の下の微生物などは、さまざまに生きているくふうをこらしている。
実験室という不自然な環境の下で生命の合成を研究する上では、自然界の中の極端で不自然な環境にすむこうした細胞の生き方も、大きな示唆をもたらすかもしれない。生命の合成は、まもなくやってくる次の世紀の生物学の中で、どんな思いがけない展開をみせるだろうか。

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