脳の改造


1980年代だけでも、数百人もの患者がもともと脳にはない種類の細胞を脳内へ移植する手術を受けました。それは根本的な治療法がない、ある種の脳の病気の症状を軽くすることを目的とした手術でした。脳が何百億個もの特殊化した細胞でできており、しかもそれぞれの神経細胞が千個もの神経接合をしているという複雑さ精巧さを考えてみると、いったいこのような治療法が効を奏する可能性はあるのでしょうか。
 
脳移植には、他の臓器の移植とは非常に異なった面があります。まずその器官全体を移植するわけではありません。腎移植の場合は言ってみれば配管工事で、管をつなぎ替えたりフィルターを取り替えるようなものです。
 
一方脳は、多くの回路がつなぎ合わさってできているので、その一つが不良になると、そこにつながっている回路は、それ自体は壊れていなくても、正常な働きが出来なくなります。そこで移植により不良箇所だけを取り替えて全体を回復させようと言うわけです。
 
ヒトの脳の病気には、脳のごく一部や特定の種類の細胞が選択的に傷害されるものが多くあります。よく見られるものに、筋肉の統制が乱れるパーキンソン病、高齢者の記憶が傷害されるアルツハイマー病、中年の運動と精神活動の両方が影響を受ける遺伝性のハンチントン病などがあります。

脳卒中の場合には、少し別の意味で選択的な障害がでますが、これは血管が詰まったり破れたりするためにいろいろな部分で限られた範囲の脳組織が酸素欠乏となった結果です。
 
脳外科医は、このようにさまざまな病気のいずれもが脳移植の治療の対象になりうると考えています。薬では現在これらを治療できないのです。
 
ヒトでも脳移植が出来るかもしれないと言う考えは、そもそも動物実験からでてきたものです。神経組織を移植された動物の脳の中で移植細胞が生存できるだけでなく、まわりの脳組織と神経接合をつくることも出来ることがわかってきました。ある種の脳障害による行動異常を脳移植により治せたという報告もでています。
 
研究のおかげで、ヒトに対する新しい治療法の手がかりが得られたばかりでなく、脳の再生修復能力について、私たちの認識が改まり、また脳の機能の形成過程についてもヒントが得られました。
 
シカゴ大学のダン博士は、1917年にラット新生仔脳の組織片や細胞を別のラットに移植してそれらが生育できることを示しました。しかし彼女の技術は、当たりはずれが大きかったため、生育に必要な条件を苦心して改良したのが米国とスウェーデンの科学者たちで、それは70年代になってからのことでした。そのポイントは、移植した組織に血液が循環できるようにすること、免疫系が働いて拒絶反応が起きるのを防ぐことでした。

多くの動物実験の成果を総合すると、ヒトでも移植による新しい治療法が可能になるだろうと期待しても良さそうです。調節的な役割の神経経路の修復には特に役立つでしょう。

しかしヒトの脳移植が確かに有効であることが脳外科医の手によって立証されるのはまだ先のことですし、多くの実際上の問題も解決しなければなりません。そしてその間にも研究の進展に伴って、次々と解明される問題が出てくるでしょう。

遺伝子工学の技術によれば、体のどのような細胞に対しても本来とは異なった働きをするように工作することが原理的に可能です。たとえば、皮膚の細胞の遺伝子を改変してドーパミンをつくらせることができるはずです。そのような細胞を実験室でどんどん増やして、パーキンソン病の治療に移植細胞として利用できるでしょう。こんな事が可能になれば多くの利点があります。

患者が自分の皮膚細胞を提供することにすれば、移植片に対する免疫拒絶反応の問題を解決できますし、また胎児由来の細胞を使う場合に避けられない倫理上の問題もなくなります。

脳は心や人格と密接に関係しているだけに、脳に細工をすることを受け入れ難く感じる人も多くいます。しかし私たちが脳の仕組みを理解してその修復を考えることができるようになろうとしている今日、そのような感じ方は薄れてゆくのではないでしょうか。ともあれ脳全体を別人の体にごっそり移すなどというフランケンシュタインのたくらみは、今も今後もSFの世界だけのことなのです。
 


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