
私のタワーリングインフェルノ体験
あれは私が小学生のころですから、もう30年くらい前の話です。私の生家は土建屋でして私の父親がいうには「今からはビルに住む時代バイ。木造の家なんかに住んどったらいかん」と九州の男らしく家族に相談もないまま即決し三角のビルを建てました。家具が収まりにくい間取りがおかしい等の理由で借り手が現れず結局私たち家族がエレベーターもないそのビルの五階に住むようになりました。その後も彼は山の崖ぷちに城のような家を建て結局我々は引っ越すはめになるのですが、まだ回りに高い建物も少なく遠くには海が見えたりしてなかなか快適な日々を過ごしてました。幸せな日々はそんなに長く続くものではなく、一階や真正面にキャバレーや24時間レストランが開業し夜中は酔っ払い客達でうるさくてとても寝られたものでなく夜はヤクザとチンピラばかりで姉や母は恐いと外出もできなくなる有り様で昔の木造住宅を懐かしく想う毎日を過ごしていました。
そんなある夜、私は煙でせきこみながら、ガラスがパリパリ割れる音で目を覚ましました。驚いて窓から外をみると前のキャバレーがオレンジ色の炎でつつまれ消防車がまさに消火作業を始めるところだったのです。びっくりし居間へ行くと下のレストランの従業員で泊まり込みだったウェイトレスのお姉さんたちがワンワン泣いて母が落ち着くようになだめ、まだ寝ている姉を起こしてくるよう私に言いつけました。(どういう神経してるんでしょう?姉は)非常階段はつけておらず唯一の出口であるシャッターは前の炎で熱くて触れず又煙の量も次第に多くなり階段を駆け足で昇るかのように五階まで早くも上がってきました。
父はまず押し入れからフトンをだし破り始めました。なにをやるのだろうと皆が見守るなかそれをヒモにしてみる見る間に長いロープを仕上げ窓から垂らし地上まで届くことを確認し「よし大丈夫だ。これで脱出するぞ」と言うのです。誰が最初に降りるのだろうと皆がおじけづく中、父は私に向い「節男!お前がよか。一番軽かもんな」と言い窓枠に登って脅える私を母は庇い結局彼は「お前は臆病もんねえ、こんなこと怖がっとって男がどげんするとか?」といいやはりちょっと心配になったのかまずは金庫を試してみることになりました。何百人もの近所の皆さんが下で見守る中ゆっくり金庫は降りていき後10メートルくらいを残すとき哀れにも父の作ったロープはブツっと切れ下の駐車場へ観衆の悲鳴と共に金庫は地面に突き刺さりました。
我々家族とお姉さん達もそれを境に言葉をなくし、部屋の中に充満しだした煙の中{もうだめだ}という重苦しい雰囲気に包まれました。人間は極限におかれたとき、異常な行為もおかしいと思わなくなると本で読んだことがありましたが父が突然、母に「腹が減った、握り飯をつくれ。」と言い付け戦中派の人らしく銀シャリ(古い。もう死語)への執念をみせ皆もそれに従ってシクシク泣きながら、オニギリを作りました。これを最後の晩餐といえるのかロウソクの火の中でみなテーブルにつき誰も一言も話すことなく黙々と沈痛な面持ちで食べているところ「大丈夫ですか?おちついて!もう安心してください火はもうすぐ消えます」とハシゴ車の消防隊員が窓の外から呼びかけ我々は狂喜しオニギリを手にとびはね、隊員の「なんでオニギリ食べてんの?こんなときに」と言いたげな彼の顔が今でも忘れられません。
下の人達からすればビルの上からフトンで作ったヒモを垂らし、最初は腰にヒモを巻いた男の子が窓枠から体を出しそれから金庫を降ろすような状況であれば、誰でも我が家族のパニックを連想し気が気ではなかったのでしょう。やはり私の家庭は通常の一般的な日本人家庭ではなかったのだと、ここ南米に住むようになってから一層確信するようになってきました。やはり子供が南米の気質にあった性格だった場合、簡単に風変わりな子と責めては可哀相ですね、その両親のせいでもあるわけです。そう思いませんか?(こういって私は自己弁護する)
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