
方向音痴というのは、つらいものである。「お前は駄目な人間だ」と言われているような気がする。確かに駄目な人間ではあるのだが。
うちには車が無いので、街に出るときは電車を利用する。街にはA駅があり、私の家はD駅とE駅の中間に位置する。D駅とE駅は同じ路線なので、いつもは街に近い方のD駅を使っている。駅の位置関係はこんな具合だ。
A−B−C−D−E
先日、ちょっとした都合で、普段は使わない方のE駅から街に出る事になった。娘は、いつもと違う駅なので少し戸惑っているようだったが、電車が来ると素直に乗ってくれた。
そして、電車はいつも利用しているD駅に到着し、ドアが開いた。娘は再び戸惑ったような表情して、こう言った。
「ついたよ」
降りないの、と問い掛けるような目だ。どうやら、いつも使っている駅だと分かったようだ。私と嫁は、「そうだね、着いたね、でも今日は降りなくてもいいんだよ」などと、少しでも娘の混乱を解消しようとした。
電車での移動は、歩いて移動するのとは勝手が違う。歩いて移動する場合、どちらの方角に、どのくらい歩いたか、おおよそ把握できる。しかし電車の場合、どのくらい曲がったか、どのくらいの距離を走ったかの判断は非常に難しい。
ましてや、幼い子供である。電車による移動で、どこからどこへ動いたのかを把握するには、相当のセンスが必要だろう。空間における位置関係を把握するセンス、いわゆる方向感覚だ。
電車に乗る事は、方向感覚を養うための良い訓練だといえる。
私の幼い頃の場合は、私の性格や地理的条件などにより、電車に乗る機会が非常に少なかった。もしかすると、私の方向音痴の原因の一端は、そんなところにあるのかも知れない。そう言われてみれば、私はクラスで一番の電車に乗らない子であった。私が方向音痴なのは、環境が悪かったからに違いない。環境さえ良ければ、私だってもう少し立派な駄目人間になれたに違いない。そうだ、そうだ。
話を戻す。こんな父親に対して、娘は、幼いときから電車に慣れ親しんでいる。方向音痴にはならないはずだ。さっきだって、D駅に着いたのが分かったし。きっと良いセンスを持っているのだ。
そんな事を考えているうちに、電車は次の駅に着き、ドアが開いた。
娘が、今度は自信ありげに「ついたよ」と言うのを聞きながら、私は、駄目人間が遺伝しない事を信じようとしていた。
1999.3.5 屁理屈太郎