マルヒニッキ


1月14日

 図書館の分館は大型団地のほとりにたたずむ小学校のなかにあって、深夜に行くのはけっこうこわい。サッと返却ポストに、けっきょく延滞してしまった本を投函し、この寒い寒い冬の夜にこごえつつ自転車を駆っておりますと、団地のはずれにポツンと青看板がともり、見れば一軒の「カラオケ喫茶」。そこを通りすぎるときに漏れ聞こえたのはテレサテン。言わずと知れた『つぐない』の、愛をつぐなえば……と、なかなかの美声でしっとり歌いあげる女性に、姿なき慕情をつのらせた今日このごろ、みなさんいかがおすごしでしょうか。カラオケで、原由子かテレサテンを歌われると恋に落ちがちなエーシです。

 ところで、借りていた本に疑問点が発生しましたので報告します。
 『近代庶民生活誌』第三巻[三一書房]に「新語の考察」[加茂正一/三省堂/S19]という、戦中の新語を研究したのがあって、これまたすこぶるおもしろい資料でしたが、新字の発明に関する項に、

 又、ピンポンに対し、支那では、訳語として、台球といふ新語を造つた外に、音的表示のため、「■■」という新字を造つて用ひる。

 とあった。「■■」の部分はたぶん通常の日本語環境で表示できない。画像をつくってみるが、横に書いてしまうといまいち感じが出ないので、漢字だけに感じが出ないとは困ったものだと、そんな小粋なユーモアをまじえつつも、さて、縦につくってみますと、


 という、おもしろい二字。それぞれ「ピン」と「ポン」であるらしい。
 これが新造の文字だと書いてあったが、奇しくも、ちょうど一緒に借りていた『南総里見八犬伝』にも、もちろんピンポンでなく、凄惨な修羅場に人の斬られるシーンで出てきていたのだった。この二字で「よろめき」と読ませていて、なるほど、時代劇のなかなか死なぬ悪役みたいに、つわもの(兵)が右足を踏み出したり左足を踏み出したりと、いかにもよろめいている感じの漢字で感じが出ていてイイ感じだと感じ入ったものだった。
 してみると、この二字はそのままのならびですでに滝沢さんの時代には存在していて日本でも使用されていたのであって、昭和十九年の時点で新字ではないのかもしれない。いや、あるいは江戸時代、すでに中国ではピンポンがおこなわれていたのかもしれない。とすればピンポン用に開発された文字を、滝沢さんは「よろめき」の意味で使ったことになる。ピンポンやってる人を見たら、よろめいてるなあ、と思わねばなりません。さらには、ピンポンなるスポーツは「卓球」なんていう漢語ふうの訳ではなく(あるいはそれとは別に)「よろめき」と訳すべきであり、「よろめき少女の愛ちゃん」などと呼ばれて、愛ちゃんはよろこぶまい、と思いました。

 それはさておき、このおもしろい文字を見て、やはり漢字は絵なのだなあ、と思いました。さきほどみなさんを大爆笑とともに大尊敬させた大小粋なユーモアも、あながち小粋なユーモアの域を出ぬものではなく、ほんと表意文字なる「漢字」は見た目の「感じ」が重要というか、しかるべき意味を持っている。そして、たとえばこれを横に書いてしまうと、


 となって、絵としては、ふたりの人が二人三脚をやってるような、たがいに支え合っている姿になってしまうから、縦に書いたほうが「よろめき」感が深かろう。
 ネットの文芸方面でしばしば論議される「縦書きか横書きか」という問題については、私は表示に関して「縦書き」を重んじるのですが、それはたんに文字のデザイン上のことです。漢字も、またそれを日本でアレンジした仮名のたぐいも、デザインは縦の流れを基調になされている。そのデザインを制約するところの「書き順」もまた縦であって、たとえば、ひらがななんかは、横に書くより縦に書いたほうが、ダンゼンすらすら書きやすいことは、やってくらべてみれば明らかだ。アルファベットには横書きの筆記体があるが、日本語には横書きの草書体などないというのも、日本語が縦書きの文章であることの実用面での証左たる。そしてなにより、活字にしても、とくにひらがなは、横よりも縦のならびのほうが、見た目うつくしいと思う。いわゆる機能美なのでしょう。
(ちなみに「シコウ回路」のロゴは、横基調を目ざしてデザインしたが、やはりヘンとツクリで縦に分断されている「路」にはムリが発生している。いつかどうにかしたいところ。)
 しかし、私は子どものころに長いこと書道をならっていたんで、ちがいが経験的に感得されているのかもしれず、とくに書くことにおいて、横書きにばかり親しんできた人には、あまり違和感は見い出されないかもしれない。が、少なくとも、日本語文章としての文字列の字づらのうつくしさにおいて、たとえ活字やフォントであろうとも、横は縦にまさるまい。
 本来ならば、横書きの普及につれて、とくに「書き順」の観点から文字が変形されたり、横書き用のが発明されるべきところだったのが、それより先にワープロ時代(さらには携帯メール時代)に突入してしまった現在の状況は、悲劇と言えば悲劇だ。グラフィカルな表意文字とともに、字づらの美をほこっていた日本語文章が、これでその追究の手を止めてしまうとしたら、なんとも遺憾のきわみでありますけれども、きっといつかテクノロジーはワープロ時代に適合した日本語文字の美を追究するに至るだろうと信じている。すなわち、どんなものになるかわからんですが、キーボードとフォントという現在の方式と異なりながらも利便を欠かぬうえで、肉筆を回帰志向した文字入力とその表示法が確立されるのではないかと。ヘッドギアみたいなものをつけて頭に思いえがいた文字がそのまま入力されるといったかんじか。
 なにはともあれ、目下のところ、実用的にも美的にも、文字の進化は停滞して時代に遅れてしまっている。若者の「活字ばなれ」のまさか原因ではあるまいでしょうが、そんなダサイ文字たちを仲間に小説だのなんだのやろうとするとき彼らへの同情を禁じえない。かわいがってあげたいと思います。

1月12日

(C) Eishi Kon, 2003



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