『音楽』
小澤征爾  武満徹 (著)
新潮文庫 お 14 3
ISBN-10-122803-5

内容抜粋


 
pp67-68 

武満: 

 このあいだある雑誌を読んでいたら、日本のある作曲家が、最近の西洋の作品は面白くない。むしろ、日本の作曲の方が世界的に一流です、と喋ってる。僕は実をいうとこういう発想はまず間違いだと思うんですよ。みんなが一致して超一流だと認めるような音楽は、僕には必要でないの、ほんとに。音楽はみんなにとって超一流である必要はないわけです。 

小澤: 

全くその通り。 

武満: 

 ところがどうしても日本人は、「世界の小沢」、とかね(笑)、なんだとかすぐ言う。僕違うと思うんだよ。そんな万人にとって世界一流の音楽とか二流の音楽とかなんてね、ないよ。僕は、日本の作曲は今や超一流です、などと言ってるんじゃね、発想の根本においてどうしょうもない時代錯誤だと思うね、はっきりいって。 

小澤: 

僕も音楽の本質は公約数的なものではなく非常に個人的なもので成り立っていると思うんだよ。 
 

pp70-74 

武満: 

パーソナルなもんだ。 

小澤: 

パーソナルな、しかも量では計れないもんだよ。 

武満: 

僕もそう思うね。 

小澤: 

 それが音楽のいいとこなんだ。音楽会へ行って三千人すわっていても、その三千という数が問題なのではなく一人ひとりとの関係が重要なんだよ。仮に、僕がチェロのソリストだとするでしょう。ロストロポーヴィッチとするでしょう、僕が。バッハを弾く。すると、全くそこに個人的な関係が成立してくる。そこに並んですわっているガールフレンドとボーイフレンドの関係すらも消えて、僕とボーイフレンド、僕とガールフレンドとの間に違う線が、放射線が結ばれて、それぞれ違うふうに受けとられるわけよ。 

 これが、言葉だともっと制約が強いから、公約数的なものになるけども、絵とか彫刻とか音楽は、ずっと根本的なところから発している、受け入れられ方の幅がうんと広いわけ。ロストロポーヴィッチが“悲しい”って音を出した時に、ガールフレンドはその時に幸福だから、悲しいのがスウィートがかった悲しいかもしれない、男の方は金がなくてね、うんと悲しいかもしれない、そういう幅がある。ということは、音楽はうんと個人的なもので成り立っている。それが大事だと思うんだ。 

 僕の兄貴がチェロを弾いていたんだ。下手なチェロだけどね、安いチェロ買って、自分でこうやってさらっているわけ。きったない音出してやってるけど、愉しんでやってるのがわかる。そういうことのほうが大切なんじゃないだろうかね。ところが息子の方は、今ね、ヴァイオリンを教える先生はゴマンといるから、最初から、形どおり弾くわけだよ。俺の親類でね、ヴァイオリンを勉強する少年が出てきたなんてのは大変なことだから、水さしちゃいけない。だから、なにも言わなかったけど、これは大変な間違いをしてるわけね。 

武満: 

 音楽の歓びは人間の感情の一番底のほうにあるものでしょ。それはヴァイオリンやピアノに代表される西洋音楽の場合でもそうだけども、日本の琵琶、三味線、琴、尺八も全部同じですよ。僕は近い将来もしかしたらほんとうに日本の伝統的楽器、琵琶や琴や尺八などが全部なくなっても仕方がないと思うな。現在のような教え方、習い方をしていたら失くなるのが当然だと思うよ。 

 僕の『ノヴェンバー・ステップス』を鶴田錦史さんがやる時に、彼女が五線譜の読み方を勉強するというんですよ。僕はその時にそれはしないでください、とお願いしたの。そんなことをしたら肝心の彼女の音楽が失われてしまう。西欧音楽とはぜんぜん違う民族音楽があっていいじゃない。アフリカのピグミーの人がさ、パタパタパタパタパタパタってやるのを、あれを僕たちは美しいと思うよね。それを今度彼らが五線譜を用いて違うことをやりだしたら、きっとひとつも面白くないよ。 

 政治とか科学とかがすごく進んできているときに、時どきそれを引き戻すのが、音楽の役割だと思うよ。小澤さんがさっきから言っていられることで大事なのは、音楽が非常にパーソナルな個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。 

pp88-92 

小澤:

 僕は世界中のオーケストラを指揮してきたけど、どこのオーケストラでもブラームスの弾き方くらいは知ってますよ。ところが、北京のオーケストラだけは、フラームスの演奏法を全然知らなかった。革命後(注:文化大革命)、西欧のオーケストラとの接触が絶えて、そして僕が行くまでほとんど西洋音楽に触れる機会がなかった。だから、僕はオーケストラの基礎的技術は高いが、しかしブラームスの弾き方は全く知らないという、音楽史上稀有のオーケストラに出会ったわけですよ。そういう奇蹟みたいなオーケストラは世界中どこにも存在しないですよ。 

武満: 

北京中央楽団の音楽家たちの中には、ほんとうにブラームスを弾いた経験がない人がいたの? 

小澤:

勿論、たくさんいた。 

武満: 

ほんとう? 信じられないな。 

小澤:

最初の練習の時に、僕が手をあげてくれって言ったら、三人くらいしかいなかった。 

武満: 

弾いたことある人が? 
 

小澤:

そう、弾いたことある人が(笑)。 

武満:

 多少は、弾いていない人がいても、北京のオーケストラのかなりのメンバーはブラームスを弾いた経験があると思っていたんだけどね。だから、それを知ってから、テレビで小澤さんが「ブラームスの音楽は、そうじゃない。音を、もっと、ウウーンと重く出しなさい」と、何度も言っているのを見て、僕はフッと、小澤さんは果たして正しいことを言っているのか、悪いことを教えているのかなと考えちゃったの。というのは、もしかしたら、中国のような白紙のような音楽家たちに、小澤流のブラームスを押し付けることにならないかと心配したんだよ。ブラームスの音楽自体が持っている、ああいう重い、ズゥーンという響きを最初にパッと与えるのは、果たしていいかな悪いかなと考えたの。 

 というのは、いままで中国人の何人かのピアニストの音を聞いて、例えば、劉詩昆(1958年チャイコフスキーコンクール3位)を聴いてみたり、殷誠忠を聴いてみても、ピアニズムがどこの国のものとも違うでしょう。かなり変わったものだけれども、他にはない面白さと独特なものがあるでしょう。ショパンを弾いてもリストを弾いても。それを小澤さんが中国人のブラームスを世界中のどこにでもあるインターナショナルなものに変えてしまうのでは、具合が悪いんじゃないかという気がしたわけですよ。 

小澤:

 そう、その通りなんだよ、僕が恐れたのは。これは中国の新聞記者にもアメリカの報道関係者にも言っているはずだけども、どういうことを言ったかというと、これはセイジ・オザワが考えるブラームスである、これは僕が考えるベルリオーズだと。これを何回も念を押したの。例えば、中国側とのインタビューでは、僕は、いま日本人としてきて、ブラームスとベルリオーズをやった。今度はドイツ人が来て、ブラームスとベートーヴェンをやり、また今度はアメリカ人が来てやり、ロシア人が来てやるだろう。それらは全部違うはずだ、と言ったんだ。けれどもそれが中国では活字にならないね。 

武満:

ああ、そう残念だね。 

pp116 

武満:

 よく言われるんだけども、本当のブラームスは結局日本人には分からないですよ、という俗論(笑)。こう主張する日本人が結構いるんだよ。特にウインナ・ワルツ。確かに、ウインナ・ワルツは日本人には演奏しにくいかもしれないが、その裏がえしとして、外人には能は分からない、という主張が成立する。琵琶なんか外人が面白がっているけど、本当は何も分かっちゃいないんだ、と言うわけ。僕は、そんなことはないと思うんです。 

pp144 
 

武満:
 

 『弦楽のためのレクイエム』。あの曲はあとであなたが一生懸命やってくれて、本当にありがたかったんだけれども、日本で最初にやった時にはぼろくそだったんだよ。こんなのは音楽じゃない、やめなさいというようなことまで書かれたんだから(笑)。だから、本当にやめようかと思った(笑)。 

小澤:

ヘッヘッヘッヘッ、おれもしょっちゅうそんなことは言われているよ。 

武満:

でもね、最初のデビューの時だけど新宿で新聞買ってね、ちらっと見たら、きついこと書いてあるんだね。 

小澤:

何て書いてあったの。 

武満:

 「音楽以前である」と一言。それで終わり。目の前が真っ暗になって・・・・・。それからしょっちゅう音楽をやめようと思っていたよ。 

pp155 

小澤:

 外国へ来る日本人には二通りあるんですよ。例えばアメリカへ来ると、「アッ、ブロードウェイ、あの程度のことは大丈夫、日本の方がちゃんとやっています、心配はいりません」と言う人と、「アッ、これは本物だ。これはすばらしい、日本はだめですね」っていう人と、二通りある。両方とも信用していない。本物だと思うためにも時間がかかるものですよね。日本の方がすばらしいと思うことも、やはり時間がかかる。やはりちゃんと来て、ちゃんと見て、どうだったかということを自分の頭や感情で理解する人がすばらしいと思う。それが当たり前だと思うんです。 

pp157 

武満:

日本全体の状況が、土地固有のローカルティを生かさない方向に動いている。 

小澤:

そう、全体の状況がローカルティを生かさなくなるから、心情として、そういう地方色をいかそうという気持ちが強くなってきていることかもしれないね。大阪は大阪だという。例えば、大阪フィルみたいなキャラクターは日本のオーケストラの中で、ほかにはないね。いい悪いは別として・・・・。 

武満:

僕は好きだよ、面白い所がある。 

小澤:

いい悪い、別の話だけども(笑)、僕は九州を一緒に廻ったんだ。僕は面白かった。 
 

感想


 
  本書は約20年前の本である。いうまでもなく、著者はわが国を代表する音楽家である。この本は本当にいろんな角度から読めるので、引用個所が難しかった。是非、買って全部読んで欲しい。内容は、小澤と武満がさまざまなテーマについて吠えまくっている本である。彼らが言っていることが正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。それは読み手によって感じ方は大いに異なるのではないだろうか。しかしながら、彼らが問題にしているテーマは全く色褪せていない今日的問題である。 
 

  例えば、「現代音楽と伝統的音楽」、「商業主義と芸術」、「日本人にとっての西洋音楽」、「民族音楽と西洋音楽」、「国家の西洋音楽教育へのかかわりかた」、「音楽家の個性」、「政治と音楽」、「子供の教育」、これらについて、彼等なりの答えを必死になって求めているといえるだろう。小澤が自らの芸術について語ることは非常に珍しい。その意味でも、貴重な対談ではないだろうか。 
 

  小澤も武満も海外との関わりが深い人物である。しかも、彼らの専門は西洋音楽。作曲家と指揮者という違う役割を演じているわけだが、彼等が「日本的なもの」、つまり、背負っている文化や慣習を、異国の文化の象徴とも言える西洋音楽の中でどう共存させているのか。この問いについて、二人は揃って、興味深い発言をしている。今、興味を持っていることは武満が西洋音楽の形式を選択したのは何故なのか、素朴ながらそのような疑問を持っている。 

  最後に、西洋音楽と地方色について少し触れる。私は、まだ東欧のオーケストラという軸で通して西洋音楽を聴いて見るという試みをしたことがない。東欧のオーケストラは確かに、アメリカのオーケストラとは雰囲気が違う。例えば、ベートーベンの交響曲では、アメリカのオーケストラが軽快に締めようとするような部分でも、そっけなく演奏してしまったりする。 

  つまり、それがそのオーケストラの持っているベートーベンの音なのである。地域によって、考え方(解釈)が違う。それが西洋音楽の面白さの一つであり、深さにもなっていることは言うまでもないだろう。また、現代音楽・民族音楽についての彼等が考えていることも示唆的である、彼らの感じていることに接すれば、きっと西洋音楽の新しい地平線を感じることができるはずである。

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