開国と江戸幕府の滅亡


1 開国

  江戸時代は鎖国をして、外国とはほとんどつきあっていなかったのですが、江戸時代も後半になると、いろいろな外国船が日本列島に接近しました。その例としては、ラクスマン根室に、レザノフ長崎に来たことがあげられます。これに対して幕府は、沿岸の防衛を強化するために、間宮林蔵樺太を探検させ、伊能忠敬には全国地図をつくらせました。さらに、日本沿岸に近づく外国船は砲撃せよという内容の法令である、外国船打払令(1825年)を出しました。このような幕府の態度を批判したのが高野長英渡辺崋山です。彼らは後に幕府によって処罰されました。これを蛮社の獄といいます。このような幕府の強硬な態度は、アヘン戦争で中国が負けたことによって、緩やかなものに変化しました。
 そして、1853年アメリカペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航し、開国を要求しました。それを受けて幕府は、1854年日米和親条約を結びました。その内容は、下田・函館の開港というものでした。これによって日本の鎖国は終わりを告げました。
 さらに、1858年に大老井伊直弼ハリスの間で、貿易を行うための条約である日米修好通商条約が結ばれました。その内容は、函館・横浜・新潟・神戸・長崎を開港し、貿易を行うというものです。また、この条約は、外国に治外法権を認めること、日本側に関税自主権が無いという2点において、日本にとって不利なものでした。治外法権を認めた結果、日本国内で犯罪をおこした外国人を日本の裁判にかけることができませんでした。また、関税自主権を持たなかった結果、外国製品に自由に関税をかけることができませんでした。
 この幕末の貿易では、生糸が輸出され、毛織物や綿織物が大量に輸入されました。また、この貿易の結果、物価が上昇したために民衆の暮らしが苦しくなり、百姓一揆打ちこわしが激化しました。

2 江戸幕府の滅亡

 このように民衆の暮らしが苦しくなると、攘夷論を唱えて日米修好通商条約に反対する人々が多くなりました。これに対して、井伊直弼は厳しい処罰をもっていどみました。これを安政の大獄といいます(1859年)。この後、井伊直弼は水戸藩の浪士によって暗殺されました。これを桜田門外の変といいます(1860年)。
 攘夷論というのは、外国との貿易に反対し、外国人を国内から追い払おうという考えです。これに、天皇を敬い幕府に反対する尊王論が加わって、尊王攘夷という考えが芽生えました。
 この考えを実行した代表が薩摩藩長州藩です。薩摩藩は大名行列に飛び出してきたイギリス人を有無をいわさずに斬り殺してしまいました。これを生麦事件といいます。翌年、イギリスは鹿児島を砲撃し、多大な損害を与えました。これを薩英戦争といいます。また、長州藩は下関から外国船に対して砲撃を繰り返していました。これに対して、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国が下関を砲撃しました。これを四国艦隊下関砲撃事件といいます。
 これらの事件を通して外国の力を知った両藩は、攘夷の考えをあきらめ、倒幕をめざしました。そのために、薩摩藩と長州藩は土佐藩坂本竜馬の仲立ちにより、薩長同盟を結びました。
 これに対して幕府は、長州藩を攻撃しましたが失敗に終わり、幕府の影響力の低下を示す結果になってしまいました。そこで、15代将軍徳川慶喜は自ら政権を朝廷に返上しました。これを大政奉還(1867年)といい、これによって江戸幕府は260年の歴史に幕を引きました。これを受けて天皇は、王政復古の大号令を出して、これからは天皇が政治を行うということを宣言しました。
 この後3年にわたり、旧幕府軍と新政府軍の間で争いが続きました。これを戊辰戦争といいます。これは鳥羽・伏見の戦いから函館五稜郭の戦いまで続きました。