元年者

 幕末から明治初年にかけて横浜に滞在したアメリカの貿易商、ユージン・M・ヴァンリードが、ハワイ王国の総領事として幕末にハワイでの契約労働者を日本で募集。旧幕府からは許可を得たものの、新政府が渡航を不可としたため、ヴァンリードは日本人百四十九人を無旅券、出航許可なしのまま、英船サイオト号でハワイまで連れ出した。契約期間は三十六カ月で、サトウキビ畑での農作業などに従事した。
 明治政府は、事実上の拉致事件であるとして強硬に抗議。このあと1886(明治19)年にハワイ官約移民が始まるまで、労働者の移住を禁止する措置を取った。
1860年代からハワイでは主要産業が従来の捕鯨から砂糖、コーヒーといった農産物の栽培にうつり、なかんずく西海岸のゴールド・ラッシュによる砂糖消費の増大に対応する形での砂糖産業が発展した。ハワイのプランテーション経営者は、ハワイを「白く保つ」か、低賃金労働者をアジアから求めるかの二者択一の結果、低賃金の方向を選択した。当初は中国人が雇用され、ついで日本人に焦点があてられた。当時のハワイ国王カメハメハ五世も幕府に対し1867(慶応3)年、親書を送るなどしたが、幕末の情勢にあっては意味をなさなかった。
 ヴァンリードは、岸田吟香とともに1868(慶応4)年、横浜での邦字新聞「もしほ草」を発行したことでも知られる。また、留学・渡航のあっせんも手がけ、高橋是清を奴隷的な契約のもとに売り飛ばしたともいわれる。

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