日本人学童隔離事件(第2次)

 日本人児童を白人の通う公教育の場から閉め出せという議論は以前からあったが、サンフランシスコ大地震後の1906(明治39)年十月、同市教育委員会は震災後の混乱にまぎれて、「震災によって学校施設が手狭になった」という理由で、十月十六日の月曜日以降、日本人、韓国・朝鮮人すべての児童は、中国人(東洋人)学校へ通うことが義務づけた。
 日本政府はワシントンに対して強硬に抗議し、米国政府もサンフランシスコに対して批判的であった。ルーズベルト大統領は時の商務労働長官メカトーフを現地に派遣し説得に当たらせた。現地の日本人も、戦う態度を示し、日本人たちは東洋人学校へ通うことを拒否し、大多数の児童が私的に雇われた教師について勉強を続けた。
 けっきょく、この問題は五カ月後、日本人児童の再編入という形で、決着した。しかしこの「代償」として紳士協定による移民渡航の自粛、さらには大統領令によるハワイからの転航禁止が定められた。

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