ハワイ官約移民

 1885(明治18)年から1894(明治27)年まで、日本政府とハワイ政府との契約に基づいてハワイのサトウキビ栽培などの農作業に従事した移民形態。ハワイ政府は最低賃金の保証、渡航旅費の支給あるいはたてかえ、職場のあっせんなどを行った。二十六回にわたって実施され、二万八千九百九十五人がハワイにわたった(ホノルル総領事館報告)。
背景には、当時の財務卿、井上馨とハワイ駐日総領事、ロバート・ウォルカー・アーウィン(ベンジャミン・フランクリンの血縁)とが親密な個人的関係を有していたことのほかに、西南戦争後の激しいインフレを終息させるためにとられた緊縮政策(松方デフレ)の結果、零細小作農が急増し、国内の余剰労働力が問題化したことが挙げられる。
 アーウィン、井上とも親しかった益田孝・三井物産社長が募集などの実務に深く関与し、応募が広島、山口両県に多かったのも益田や井上の意向が働いていたとされる。応募者には身体検査などを含む選考が行われ、高いときで数倍の競争率になった。

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