我孫子久太郎

 1865(慶応元)年、新潟県水原村で生まれる。母は出産の際に死亡、母方の祖父母方で育つ。14歳の時に家出して上京し、キリスト教の感化を受けた。1885(明治18)年、20歳でサンフランシスコに上陸。所持金は1ドルだった。

 浜田房次郎、玉井重次郎らとともにUCバークレーを卒業(社会学)。一方で福音会の中心メンバーとして働く。1889(明治22)年のペスト検疫事件を機に設立された在米日本人協議会の創立時の役員を務める。
 スクールボーイの傍ら、小学校に通い、洗濯屋、食堂に働く。1898(明治31)年、2つの日本語新聞を買収し、「日米」を創刊する。
 1903(明治36)年、日米勧業社を設立、各地の鉄道、鉱山、農園に日本人を送り込む。とくにユタ州オグデンに日米勧業社鉄道部をもうけてグリーンリーバー〜リノ間の供給を活発に行った。英語に堪能で請負人として各地の鉄道、鉱山現場に人夫を供給。ハワイからの転航組の世話にも奔走した。
 後から渡米した青年たちへの援助に尽力するとともに、排日派との折衝において日本人社会の中心的な発言者として活躍。
 1901(明治34)年に発生したシティー・オブ・リオネジャネイロ号遭難事件で日本人の死亡者が31人にのぼり、救援相互扶助団体の設立が当時の領事横田三郎らからよびかけられ、日本人慈恵会が設立された。その設立時の役員にも名を連ねる。
 1907(明治40)年のハワイからの転航禁止によって人材供給が絶たれ、請負業は下火となる。
 1907(明治40)年、リビングストンに2000エーカーの土地を購入。大和コロニーを建設。同コロニーは白人と日本人との理想的な協調関係を実現したと賞賛された。
 が、せっかく順調であった日米新聞の収益を、あまりにヤマトコロニーにつぎ込み、日米の経営は低空飛行を続けた。
 1909(明治42)年4月、日本に帰って津田梅子の妹、余奈子と結婚。 長男、泰雄。
 1930年代に入って、排日の動きとともに日米社内で大規模な従業員ストが発生し、晩年を苦しめた。1936(昭和11)年、サンフランシスコで死去。 その後日米の社主は余奈子婦人が引き継いだ。

住所は、

2310 Union St. San Francisco 

現在は、モダンなカフェやブティックが集まる一角となっている。

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