荒井常之進

仙台藩士。新井とも表記。幼少から漢学に通じ、安井息軒門下に学ぶ。戊辰戦争の際、幕府側の立場にたって官軍に抗し、函館戦争まで従軍する。函館の町でロシア正教の宣教師ニコライに出会い、キリスト教に入信。その後森有礼に見いだされ、従者という形で森のアメリカ赴任に随行する。

森は荒井を日本政府のための人材というよりも、ハリスの新生社のための人材とみなしていたようで、荒井は渡米後すぐ当時ニューヨーク州ブロクトンにあった新生社のコミュニティに合流し、長沢鼎らとともに信仰生活にはいっている。
1875(明治8)年のハリスのカリフォルニア移住の際には、長沢とともに四人の側近に選ばれ、ハリスに同行。サンタローザでは印刷所の担当となり、宗教的パンフレット、葡萄酒などのビジネスの出版物、さらには自分自身の英文詩集なども出版した。
長沢がハリスの現世でのビジネスの右腕となり、グレープキングと呼ばれるにいたったのに比べると、荒井は宗教上、信仰上の存在が大きかったと思われる。事実、信仰者としての存在に比べ、生活者としての才覚はほとんどといっていいほどなかった。どのような立場にいたのかはいまひとつ明らかではないが、おとなしく、抑圧されていたという描写もある。ハリスの新生社を「桃色教団」と非難する論陣を張った婦人運動家、アルザイア・シュバリエによると、荒井はファウンテングローブでは抑圧されていたとされる。粗末な衣服をつけ、日本へ手紙を書くことも禁じられ、母親の死に目にもなんらなすところがなかった…とのレポートが残されている。
ただし、戊辰のころの強硬な主戦論者としての行動や、俊秀をうたわれたその学才、あるいは日本へ帰国後の行動から考えて、それほどみじめな境遇に甘んじていたとは考えにくい。
奥遂と名乗る。信仰は終生捨てず、20世紀を目前にして日本へ帰り、東京・巣鴨に居住。当時、すでにニューヨークへもどっていたハリス夫妻は驚き、止めたという。
帰国後、鉱毒事件に奔走していた田中正造と出会い、田中の回心におおきな役割を果たす。敬けんな信仰者として、「巣鴨聖人」と呼ばれた。 

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