石坂公歴

 三多摩の豪農で自由党の指導者のひとり、石坂昌孝の子。神奈川県の青年民権家。東大予備門の受験に失敗し、1885(明治18)年9月10日渡米を決意。11月、新橋の美以美(福音会)英語夜学校(サンフランシスコ福音会の美山貫一が前年設立)へ入学。
 大阪事件の失敗をへて1886(明治19)年渡米。1890(明治23)年、日本人労働者50人を率いてニューホープのホップス摘採に従事した。サクラメント平原での日本人労働者の先駆とされる。
 1888(明治21)年、オークランド・サンパブロアベニュー1311番第31室で山口熊野、中島半三郎らとともに「新日本」を発刊。「体裁の整った初めての新聞」とされる。
 1888(明治21)年1月には愛国有志同盟会(のちの愛国同盟)が設立され、「新日本」のメンバーと合流。
 1889(明治22)年には桑港政論派(菅原伝、亘理篤治、山口熊野、大和正夫ら)の機関誌「19世紀」と「新日本」が合流。オファレル街に移転した。
 諸事業に手を出して失敗し、1892(明治25)年父の財産の分け前を得て再渡米。サンウォキンバレーで自作農を試みた。
 事業に失敗し、アラスカの季節労働者などを経て、加州モデストの医師宅に蟄居。生涯独身。1944(昭和19)年、収容先のマンザナ強制キャンプで失明のうちに死去。
 色川大吉による「石坂公歴論」(東京経済大学人文科学論集7号、1965年1月)がある。姉の美那子は北村透谷の妻。

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