美山貫一

 山口県人。横浜の宣教師からサンフランシスコのギブソン牧師宛の添書をもって渡米。カネー街23の歯科医デニソン方の物置の片隅を拠点に、毎週土曜日の集会を開く。はじめは東部志望だったが旅費がなく、夜間に英語を勉強しようと場所をさがし、たまたまワシントン街916の中国人ミッションを訪れたらそこにギブソン牧師がいた。そればかりではなく、ここにはすでに1875(明治8)年から日本人学生(小谷野景造、二宮安治次=いずれも後に日本の教育界で活躍)らがいて、リンカーン・スクール校長ウィルキンソン夫人とパウエル街組合協会内夫人伝道会のあっせんでここを間借りしているとのことであった。彼らは毎日曜日に英語の集会を持っていた。地下室15号室を毎月3ドルで借り、うち2ドル50セントを婦人会が援助し、のこり50セントを留学生らが負担するという状態だった。この地下室組の中には、田中文蔵などもいた。
 当時の回想によると「その時代の渡米青年の苦労は一通りではなかった。中国人飯屋にいって5セントで一杯の飯を買い、スープを飲むのが楽しみだった。時には靴下を買う金がないので、シャツの古いのを引き裂いて足にクルクル捲いておりました」
 1877(明治10)年2月25日に中国人教会でギブソン師より受洗。10月6日に同所で福音会を発足。会員35名、式に出席したのは10名だった。当時を「穴ぐら時代」と呼んだ。なお、福音会は宗教団体であるとともに、互助団体的色彩も強く、まったく宗教色のない会員も多かった。
 1881(明治14)年、タイラ福音会が分裂、美山が会長となる。1883(明治16)年にはステベンソン福音会が再分裂。これらの背景には、当時のこんにゃく版雑誌「東雲」に「美山の圧制に耐えかねて」とある。
 1884(明治17)年に帰朝し、日本の青年に対してアメリカ行きをすすめた。
 1887(明治20)年には美以(メソジスト)教会カリフォルニア青年会からハワイに派遣される。一時帰朝のあと、禁酒会の設立や共済会の組織などに尽力。晩年は鎌倉教会で過ごし、1935(昭和10)年7月20日永眠。墓は寿福寺の裏山の墓地にある。

表紙に戻る