武藤山治

 19才で渡米。サンフランシスコでのスクールボーイをかわきりに、巻きタバコ工場の職工、サンノゼのパシフィック大学の掃除人として肉体労働に従事。
 大倉組の高橋小金次が渡米したさいにキッコーマン醤油の販路拡張をたのまれ、みづから意匠を考案してサンフランシスコ共進会に出品した。容器は万古焼の三角形のもので、当初非常に好調だった。キッコーマンも喜び、「ニューヨーク方面に進出して武藤を支店長にする」といっていたのだが、1カ月ほどして急に売り上げが低下した。調べてみると、米人顧客は醤油を買っていたわけではなく、容器を一輪挿しにするためにかっていただけということがわかった。
 のち、「米国移住論」を1887(明治20)年、丸善から出版。出稼ぎにとどまらず、土地の取得と永住の必要性を説いた。
 三井銀行をへて、鐘淵紡績社長。衆議院議員。その後時事新報に入り、暗殺される。

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