長沢鼎



若き日の長沢

 1852(嘉永5)年2月1日、鹿児島県生まれ。代々の薩摩藩天文方という学者の家系であった。1865(慶応元)年、 イギリスへ藩命により留学
 イギリスでは、ひとりスコットランドに渡り、グラバー(長崎にいた英国商人)がまなんだアバディーンのグラマー・スクールに学ぶ。そのうち幕末が押し迫り、留学費用が滞るようにもなった。そこでトーマス・レーク・ハリスに出会い、森有礼らとともに1867(慶応3)年渡米。ニューヨーク州ブロクトンなどにあるハリスの共同体で肉体労働に従事した。
 労働は過酷で、また日本自体が幕末の風雲の中にあったことから、ハリスに反発して帰国する留学生が多く出た。最後までハリスに忠実だったのは、長沢、森など数人だった。

 
 さらに森ら、長沢を除くメンバーは、ハリスから「国事に尽くせ」として帰国を命じられる。この際、長沢だけが残留を命じられていることから考えると、長沢がメンバーの中で最年少という理由はあったとしても、ハリスの中に、長沢を自分の後継者とする意図があったことがうかがえる。
 いったん帰国した森はまもなく米国弁務使としてワシントンに赴任するが、長沢はこの際帰国をするかどうかで迷った。また1872(明治5)年頃、森有礼を通じて山川捨松を紹介されたとの説がある。 ここにロマンスが生まれたという噂があったが、本人は否定している。
 ニューヨーク州ブロクトンの共同体がうまく行かなくなり、ハリスは西部に新天地を開くことを決心。わずか四人を連れて、1875(明治8)年、サンタローザ入り。ファウンテングローブと名付けた農園を開いた。

現在のファウンテングローブ農園跡地付近をのぞむ
 1879(明治12)年から葡萄の植え付けを始める。当初は中国人労働者をサンフランシスコで調達していたが、1892年頃、最初の日本人として 塚本松之助 らを雇う。このころ、副島八郎 も同農園で働いた。
 このころまで、米国生活ではほとんど日本語を話す機会はなく、たどたどしい日本語しか話せない状況だった。日本人を積極的に雇用したのは、日本語をしゃべりたいという動機もあったという。また、日本企業も米国に進出し始め、横浜正金銀行や日本領事館関係者とのつきあいも始まった。当時、「茶碗蒸しはいかが」と聞かれ、「おいは虫はきらいだ」と答えて笑いを誘ったというエピソードがある。
 1896(明治29)年ごろ、おいの伊地知共喜、農園に合流。
 1897(明治30)年ごろ、メキシコへの植民計画を構想するも実現せず。 これはハリスの発案だったとされるが、長沢もおおいに乗り気で、日本間で資金集めに赴いた。しかし、ちょうど榎本武揚が主唱したメキシコ移民計画が失敗した直後で、メキシコ移民に出資しようと言う機運が乏しく、失敗に終わった。その後のインタビューで、長沢は「日本人は何代にもわたってやる壮大な計画に取り組むという気風がなく、この点で欧米人に劣る」という意味の発言を行っている。
 葡萄王として内外に知られるが、生涯妻帯はしなかった。日本には数回里帰りし、その際には妻探しをかんぐる向きもあったが完全に否定し、またその理由も、明らかにはしなかった。また、在米日本人とのつきあいもごく限られていた。 牛島謹爾鷲頭尺魔 らは数少ない友人。
 明治政府から留学費用のオーバーペイを指摘されて紛糾したり、盲腸炎で危篤状態になったこともあった。また火災、禁酒法による打撃も大きかった。
 乗馬、釣りが趣味で、乗用車は所有していたものの、運転はしなかった。
 1934(昭和9)年、禁酒法廃止の2カ月後、サンタローザで死去。 死去を伝える当時の新聞に、敷地内に土地を貸していた飛行場で、飛行機の前でほほえむ長沢の写真が掲載されている。

日米交流事業の一環として再整備された長沢の円形バーン

 鹿児島市上之園町の甲南中学校庭に、長沢を始め鹿児島の城下町(いわゆる三方限)が輩出した人物を称える碑が建っている。また、近くには長沢生誕の地を示す標識も設置されている。



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