副島八郎

 1861(文久元)年10月13日、佐賀市松原町に生まれる。7歳から12歳まで旧藩校に学び、のち町立小学校に学ぶ。
 1880(明治13)年2月、17歳にして陸軍教導団に入り、翌年卒業。熊本鎮台配属。翌年、近衛歩兵連隊。1888(明治21)年8月除隊。
 1890(明治23)年1月10日渡米。渡米目的は政治、法律、経済の勉強とされる。自身では「日米関係の悪化をみこし、土地を買うためであった」とし、資金として副島種臣、大隈重信らからでたという。まずヘイト青年会のストージ博士のもとに寄寓。しかし、サンフランシスコに到着時は所持金270ドルで土地を買うとまではいかず、農業実習をかね、まず長沢鼎方で働いた。
 ここで西洋料理を覚え、同年秋、長沢方を辞す。さらに一ヶ月15ドルの家庭労働につき、1年間を過ごす。
 1893(明治26)年冬、トラッキーという製氷会社のチーフコックに雇われ、月給75ドルをとるようになる。これは当時の日本人としては空前の高給取りだった。
 1894(明治27)年5月26日、ヘイト青年会の理事当時、活版印刷による「新世界」を発刊。当初は脇役だったが、経済的に行き詰まり、田舎で働いていた副島が呼び出され、8月から一手に経営を賄うことになった。
 1900(明治33)年には堂本誉之進、石丸喜一らとともにバークレーに日本清酒醸造会社を設立して社長におさまる(株式募集のため、名義を貸した)が、失敗。清酒の名は「白扇」といった。また、この年にはサンフランシスコでペスト検疫事件が発生し、これを機に設立された在米日本人協議会の創立時の役員を務める。地方遊説委員にも推される。
 1901(明治34)年に発生したシティー・オブ・リオネジャネイロ号遭難事件で日本人の死亡者が31人にのぼり、救援相互扶助団体の設立が当時の領事横田三郎らからよびかけられ、日本人慈恵会が設立された。その設立時の役員にも名を連ねる。
 1904(明治37)年、清酒業の失敗から新世界を同郷の倉永照三郎に譲渡し、一時オークランドの米人家庭で働く。コックとしての腕を再び発揮し、貯金もたまるようになり、新世界発刊のメンバーであり旧友の玉井栄次に食料品店の経営にあたさせるが、玉井は肺炎で病死。さらに家庭内労働を続ける。
 1910(明治43)年秋の天長節に端を発したフレズノ不敬事件では仏教系の立場から論陣を張り、「国民新聞」を創刊。事件収束とともに1912(大正元)年廃刊。家庭内労働の貯金はすべて残務返済でなくなった。その後、中北加日本語学園協会会長、1913(大正2)年、サンフランシスコで週刊誌「北辰」(のちの「桑港週報」「日本とアメリカ」)を発行する。
 還暦の際には「祝賀基金」として寄付を募り、総額を救世軍の養老院計画に寄付した。
 63歳で初婚。
 排日移民法の制定に憤慨して「北辰」紙上でメキシコ移住の大キャンペーンを行い、その後「北辰」を証券業の大沢栄三に譲り、1926(昭和元)年、メキシコ・ソノラ州エルモシヨ市の郊外エリ・カルサルに内山外海(げかい)とともに移住し開拓した。
 選んだ場所は砂地で水のない、「なぜこんな場所を選んだのだろうか」と不思議がられた地点だった。当初副島夫人を含む4人で移住したが、夫人は体調を崩し、ロサンゼルスへ帰国。もう一人は精神に変調をきたし、日本へ送還された。
 アリゾナなどで成功していた井戸水による潅漑農法を目指し、井戸を掘ったが、飲料にするのがやっとだった。すぐ傍らの小山の頂上に高い竿をたて、日の丸を翻し、朝夕2度、かかさず日本の方角へ向かってラッパを吹くのを日課としていた。「あのハポネスはなにをしているのだろう」と不思議がられた。
 1928(昭和3)年8月19日、以前使用人だったメキシコ人、ホセ・ガルベスが、日中まず訪れて金を無心したが追い返され、夜になって引き返してまず副島を銃殺。内山に命じて100ペソの小切手を書かせ、さらに内山も刺殺。自動車を奪って逃走した。
 無人の山中とあって発見されたのは14日後で、遺体は半ば白骨化していた。エルモシヨ日本人会は総動員で警察の捜査に協力し、数日で犯人を捕縛、銃殺刑に処した。
 サンフランシスコに知らせが伝わると、救世軍の小林政助が派遣され現地で調査にあたるとともに、サンフランシスコにおいて追悼会を催し、サンマテオ日本人墓地に記念碑が建てられた。
 鉄堂と号す。渡米後、一度も帰国しなかった。

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