塚本松之助

 1857年1月4日生まれ。慶応大学卒。福沢諭吉の薫陶を受け、慶應義塾の校章のペンマークは自分がつくったと自称していた(慶応側によると、特定の個人名はでていない)。
 小笠原の製塩事業に失敗した田中鶴吉とともに、福沢諭吉の後援をうけて渡米。まず塚本単独で長沢鼎方で農夫として従事し、のちキャラベラス郡バレー・スプリングで20エーカーを買い入れ開墾事業に着手したが、土地売買の売り主が実際の所有者でないことが判明し退去を命じられ、全損を被り、井上は帰国、丹正之とともにサンホゼ市のベントンホテルの洗濯人となる。佐藤九蔵をも呼び寄せ洗濯業に従事。1890(明治23)年にはサンホゼで植木園を経営したがまもなく大石徳太郎にゆずり、洗濯業を開業。
 1889(明治22)年にティブロンで日本人として初めての洗濯店を開業していた鹿児島県人榎本某から、1891(明治24)年同店の権利を譲りうけ、同所にて経営に乗り出す。
 1899(明治32)年にサンフランシスコにうつる。23番街で蒸気機械を導入して営業(サンセット洗濯所)。順調に顧客を増やしたが、排日運動の標的となって1907(明治40)年ごろから猛烈な迫害に苦しんだ(サンセット洗濯所事件)。1907(明治40)年頃から電気を導入するなど先験的な経営。検挙投獄は数十回に及んだ。
 1958(昭和33)年4月8日死去。妻、ミツ。彼女は1974(昭和49)年まで生きた。夫婦ともども101歳の長寿をまっとうした。
 

表紙に戻る