田中鶴吉

 旗本士族の出。 父、田中馬之介。
 14才の時横浜へ出、米公使ハリスの通詞だった久助と知己となり、バンリードの終戦でイギリス船「柳十三番」号で密航。同船船長のバーデンの紹介でバック・エンド・ヘッド靴会社社長宅の家僕として働く。
 1872(明治5)年1月、岩倉大使がサンフランシスコのグランドホテルで在留日本人と引見し、「一芸一能に秀でたものは重く用いる」としたため、感激して「一芸一能」を身につけようと決意。主人に無断でネバダに行き、ヴァージニア鉱山に使役を申し込んだが、断られる。 このとき、現地で日本人売春婦を見かけた、という証言を残している。
 1874(明治7)年からアラスカでさけ缶詰人夫を4カ月。その後、ブルックスの紹介でアラメダ郡の製塩工場で7年間働く。
 1883(明治16)年、小笠原諸島聟島で製塩業を始めるが、一時は時事新報上で「東洋のロビンソン・クルーソー」と賞賛されるが、失敗。再挙をはかるべく、福沢諭吉の援助を受けて、1887(明治20)年井上角五郎、塚本松之助らとともに渡米するが、帰米後井上角五郎がいったん帰国したところを金玉均事件に連座してしまったのをみて同行の開拓者と別れ、自活の生活にはいる。
 「人は食べることが第一」と「おまんま宗」を唱え、ツインピーク山上に家を構え、オフューム劇場の会計助手として30年以上勤務。2男2女を残し、1925(大正14)年76才で死去。遺骨は遺言により山上に撒かれた。

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