牛島謹爾



長沢鼎(右)とともに写真におさまる牛島

 ポテト・キングの名をほしいままにしたパイオニア。蚊しかいないといわれた湿地帯のスタックトンの河下を開墾し、独立農園を経営。ジョージ・シマと名乗り、「シマ・ファインシー」ブランドで、一時は全米の相場を左右するといわれた。一方で苦境に陥ることも多く、破産宣告もうけた。
 1865(慶応元)年、福岡県久留米市梅満町に生まれる。二十歳で上京して三島中洲の塾に学んだ。そのころ井上角五郎がカリフォルニアで農業を営み、「時事新報」にしばしば寄稿していたのを読み、1888(明治21)年十二月十五日渡米。
 この当時の在桑日本人は、少数の水夫、料理番の他はほとんどがスクールボーイだった。牛島はまっすぐにゼシー街の福音会に向かって大沢栄三から仕事をあっせんしてもらった。コルマ農園の草むしりだった。この際、朝四時に起きて五時に仕事を始め、午後六時まで、一日十二時間以上働くので、日給八十五セントのところ、雇い主のキャラハン氏が一ドルくれたという逸話が残っている。続いてコルマから近いオーシャンビューの馬鈴薯農園に移り、馬を使っての馬鈴薯耕作の大要を体得した。
 翌年六月、サンフランシスコに出てきてサンアンセルモホテルでの皿洗い、これによって三ドルの旅費を作って同年八月にはサン・ウオキン・バレーのニューホープでホップの摘採などに従事した。日本人が平原部に農業労働者として出現したのは、この前年の馬場小三郎が嚆矢である。大言壮語を繰り返していた書生社会にも将来への展望を考えて「働くべきである」という機運が高まりつつあったころであった。牛島はまた、3年間は夜間学校で英語を学んだ。
 因みに、牛島がサンフランシスコに出た1889(明治22)年二月十一日に帝国憲法が発布され、サンフランシスコのジャーマンホールで在米日本人が集まり祝賀会を催し、大沢栄三が祝詞を述べたという。また同年三月下旬には、前任領事藤井三郎、新任領事河北俊弼の送迎会があり、米山梅吉が演説した。このいずれにも、牛島は出席したとされる。コルマ、オーシャンビューからサンフランシスコのダウンタウンまではそれほど遠くはなく、現在なら地下鉄のBARTで十分程度で行ける距離だ。
 しかし、牛島はともすれば日本人同士であつまって熱弁を振るう書生気質に染まっていたわけではない。当時は書生社会から労働者移民へと変貌する転換期で、まだまだ「金を持っている奴はみんなにおごって当然」という原始共産制的な風土が残っていた。牛島はそのようなもたれあいを嫌い、あまり教会を初めとする日本人社会に顔を出さなかった。そのため、最初に牛島が大金をサンフランシスコの正金銀行に持っていった際、「いったい誰だ」と大騒ぎになったという逸話も残っている。
 ニューホープのホップス摘採に従事したのは、石坂公歴らと同時期だった。その後、冬季の伐木作業(ニューホープ近くの林野開墾地。一日の報酬は四十五セントだった)を経て、1891(明治24)年から同地にて馬鈴薯栽培を試みた。
 元手なしであるから、なんらかのアイデアがなければ初めの一歩は踏み出せない。牛島のアイデアはこうだ。ニューホープのある桃の果樹園のオーナーに、桃の木の間のスペースに馬鈴薯を植えてもいいかと持ちかけた。馬はオーナーの所有するものを使用。その飼料代は折半、種芋代も折半で、収穫物も折半されることになっていた。桃畑は五エーカーの広さ。さいわいにも、栽培は成功した。
 1892(明治25)年には、六十エーカーの豆、二十五エーカーの馬鈴薯を栽培。このあたりから、栽培者としての頭角を表した。
 1893(明治26)年にはスタッテン島百六十五エーカーに馬鈴薯、豆、人参等を栽培。翌1894(明治27)年にはロングフィールドに移り、二百五十エーカーの現金借地耕作を試みる。ここまでは順調だったが、1895(明治28)年にターミナス島で九百エーカーの現金借地耕作をやった際、水害に見舞われ破産宣告を受けた。
 1896(明治29)年、再起を図ってブラック・トラクト二十五番に移る。二百六十五エーカーを耕作。破産後とあって生活は困窮を極め、中国人向けの米を積載したボートが農園近くの川で転覆した際、川底を探って二十俵を拾い上げ、乾かして食べたことがあったという。「天佑でしたな」と、後年の牛島は述懐して住ましていた。この年に「シマ・ファインシー」の商標を考案した。
 翌年は鳴かず飛ばずだったが、1898(明治31)年に、この年五月に勃発した米西戦争に乗じ、軍需用として馬鈴薯を納入し巨利を博した。
 1900(明治33)年にバンクーバーから帰朝し、同年九月下村シメと結婚。二男一女を設けた。
 1909(明治42)年には現在のシマ・トラクト四百エーカーとバークレーにあった自宅を購入。1916(大正5)年には耕作面積は二万五千エーカーに達し、百万ドル以上の利益を挙げた。
 1908(明治41)年に組織された在米日本人会の初代会長。中国文学に造詣が深く、「別天」と号し漢詩もつくった。また太閤記を愛読し、豊臣秀吉に私淑していると語った。
 1926(昭和元)年、徳川家達や渋沢栄一のすすめで帰朝を思い立ち、途上のロサンゼルスで死去。60歳。
 ストックトンにはいまだに、「シマ・トラクト」として農園が残る(経営者は変わっているらしい)。また、同市のコミュニティ・カレッジにはシマの名を冠したモニュメントが残っている。

表紙に戻る


このホームページのホストは  です。 無料ホームページ をどうぞ!