鷲頭文三(尺魔)

 1865(慶応元)年八月十七日(陰暦)、新潟県三島郡飯塚村(現越路町)の酒造家に生まれる。自由民権運動に関わる一方、土木工事の請負を経て明治19年、仙台の第2師団に入営。連隊書記をつとめ、北海道を放浪後、1894(明治27)年渡米。「私は中産階級の放蕩児であった。新聞も起こした。政治の尻馬にも乗った。事業もした。とうとう食いつめてアメリカにわたったのである」と書いている。
 「寸善尺魔をなす」と称し、「尺魔」と号した。二十五歳の時新潟県議の前歴を持つ。
 日清戦争の幻燈をもってひともうけしようと(あるいは本人いわく、日本の参戦の目的を在米日本人およびアメリカ人に知らしめようと…真偽は不明である)当時の農商務大臣榎本武揚に掛け合って支度を整え、サンフランシスコに到着。ポートランド等を転々としたが、幻燈は米国では子供のおもちゃ程度にしかならず、まったく目算がはずれ、金時計など金目のものを売り払ってサンフランシスコにたどり着く。
 まず金門日報社に永井元を訪ね、同年暮れ、桑港新報に入社し、大和正夫(主筆)、亘理篤治(翻訳記者)らと働く。
 1896(明治29)年、「梁山泊」なる団体の機関紙として滑稽誌「アゴはず誌」発行。会員から「大王」なる尊称を奉られたが、実態は飯炊きであった。同誌に、当時英文の雑誌を発行する計画を持っていた佐野圭三という男と、彼と親しかった福音会関係の米婦人に関する漫画を載せたため筆禍にあった。名誉毀損で訴えられ、漫画家の高橋孤泉ともども9カ月の刑を受ける。この間、副島八郎から厚遇を受けたことに恩義を感じ、出獄後新世界に入社。社会部主任として健筆を振るう。
 「アゴはず誌」の後継誌の「太平洋」をヨネ野口とともに発刊するが三号雑誌に終わる。さらに、ジャパン・ヘラルドの創刊にも関わる。
 実業界にも触手を伸ばし、日米勧業社の設立にも関わり、さらに我孫子久太郎の大和コロニーにおもむき、作業に従事する。
 日米紙上に長沢鼎の評伝を連載。
 1922(大正11)年、日米紙上に「歴史湮滅の嘆」と題して百回近くの連載。
 1924(大正13)年には同紙上に「吾輩の米国生活」と題してこれまた百回以上の連載を行う。
 1932(昭和7)年に帰国し、神奈川県茅ヶ崎市で余生を送る。日系移民史の研究でも知られ、帰国の際膨大な史料を持参したとされるが、戦災で焼けたという。
 非常な酒好きで、晩年はアルコール中毒の症状が出、絶えずウイスキーの小瓶を持ち歩いていたという。

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