フレズノ不敬事件ドキュメント

以下は明治末期に日本人社会を二分したと言われるフレズノ不敬事件について、時間の経過とともにまとめたものである。なお出典は仏教徒側、国民派と呼ばれる側であることを考慮に入れる必要がある。(文末に掲載)
藤賀與一「北加基督教便覧」によると、事件の概要は次の通りである。1911(明治44)年11月3日、ベーカーズフィールドにおいて天長節祝賀会開催のさい、美以伝道館を代表せる一青年が、御真影に対して最敬礼をしなかったとの非難が、その週間の伝道会祈祷会において他の一青年によって唱道され、伝道館内に紛擾を惹起した。
この紛擾を調停すべくフレズノ美以教会から牧師北沢鉄治が出張して、集会の席上、礼拝と敬礼の差別を述べた刹那、聴衆の中から突然「国賊」と叫ぶものがあって場内は騒ぎ立ち、その余波はたたちにフレズノに拡大され、後に平原全般において仏教徒対キリスト教徒の問題となり、日本人会を両分、桑港日本人会は両会の証明権を停止したので、紛擾は一層甚だしくなり、非国民、偽国民の応酬となり、オークランド、桑港まで波及、一般の良民は大に迷惑を被ったので別にフレズノ郡日本人会を組織して在米日本人会と連絡を取り合ったのは翌年四月であった。


<事件の発生>
1911(明治44)年11月3日、ベーカーズフィールドの祝賀会場で同地の美以教会幹事、武田庄太郎(編者注:写真で見ると、あどけない顔つきで、やや軽率そうなところはあるが、悪巧みのできる顔ではなさそうである)が祝辞を述べるべく壇上に立ち、暴慢たる態度を示し陛下の御真影に対してなんの敬意も表せず、平然と口を開いて述べた。一同切歯扼腕したがめでたき日に紛擾を起こしてはと必死に耐えた。司会者も鎮撫に力を尽くしたのでその場はおさまった。ところが武田は5日、美以教会の感話会でで御真影に敬礼することをひどく攻撃し、あんなことをするやつは真の信者じゃないと罵倒嘲笑、これにはたまりかね同胞85名が連署を持って武田の処分を迫った。
11月20日の日本人会臨時総会では武田が除名処分にされ、社会的死刑判決を受けた。

<事件についての北沢の手記>
事件の発生場所は、むしろ5日の美以教会というべきである。武田の論争相手となっていたものは青野長太郎というものである。
武田は、「敬礼と礼拝のふたつの言葉を混同してしまった。わたしがいいたかったのは、キリスト教徒はたとえ天皇の偶像であっても偶像は礼拝してはならないということである」という。青野は「キリスト教徒たるもの御真影に頭を下げてはいかんというた」と主張。廻りにいたものに聞いてもあるものは武田の言うとおり、あるものは青野の言うとおりとしてらちがあかない。
この事件が日本人会にかかるというから、そんなおおごとにしなくても会員同士の個人的な口論だからと、美以教会にまかせてくれと会長田中孝平および副会長下司卯吉に頼んだが断られ、日本人会マターになってしまった。
このため、この事件に対する意見が違うという理由で私は日本人会役員を辞職した。
日本人会に対して武田は20日に脱会届を出したけれども、日本人会は出頭して説明せよといった。これに対して武田は「こんな人の持説に干渉して、後で責任をおうてくれますか、それがさだまらぬうちはでません」と断ったので、欠席のまま除名にし桑港領事館へ届けた。

<11月17日、北沢がベーカーズフィールド美以教会で行った演説の要旨>
敬礼と礼拝は分けて考えるべきである。従来天照大神をはじめ歴代天皇を礼拝したのは、基督教的立場から言えば、唯一神の他は礼拝しないと言う本義からいえば、偶像崇拝に当たるわけである。さりながら今上陛下または御真影に対しては礼拝ではなく敬礼することができる。事実わたしもそうしている。しかしこれも強制してはならない。各人の自由意思によって決められるべきもので、法律とかやかましいことを言うものではない。

<御真影に対する北沢牧師の意見>

44年11月25日、日米新聞フレズノ欄抜粋

「御真影に対するキリスト教徒の立場」と題して為したベーカーズフィールドの演説は意外なる誤解を受けたが、御真影に対して敬意を表するは当然であって、毫もはばかるところはないということをいおうとしたのである。
ただし、御真影に対する観念は、人によってさまざまである。御真影を見ることによって遠く帝都に心を馳せるものもあれば、御真影そのものに神聖さがやどると考える人もある。それはひとの自由である。

<北沢の前科>
かれはかつてポートランドにいたとき、神武皇祖を呼ぶときにHeなる代名詞を使って袋叩きにあい、同地を落ち延びたことがある。

<有志立つ>
有志が調査員を派遣しようとし、中立性を期すために新聞社や日本人会に参加を要請されたが、拒絶された(編者注:明らかにこのあたりは事件が拡大していくのを苦々しく思っているふうがうかがえる)。結局北沢に直接問いただしてみたが、冷然と一笑に付された。で、12月6日第一回有志大演説会をフレズノ市カーン街東洋ホールで開催。六百人以上の聴衆が集まった。
署名五百六十七を集め、
一、北沢を不敬漢と認め制裁を加える。
一、フレズノ日本人会は北沢に制裁を加えることを望む
を決議した。
十二月のフレズノはシェラネバダ下ろしがふきつのり、街頭には

国賊日本人会長の職にあり、皮下血あり眼底涙ある士は来たり会せよ

と張り紙が貼られた。
これに対し日本人会は臨時常議員会を開き、北沢を信任した上で、北沢が辞意を表明、これを受理しないというかたちで閉会した。
有志家側は総会の開催を要求、十二月二十七日に開催し、一気に北沢の解任決議を採択してしまった。
一月七日の定期総会で新会長に神川理一が選ばれた。
一月二十三日、北沢が「新聞で私が不敬漢であると決議されたと言う記事を読んだが、それは事実か、事実とすればいかなる理由でそうなったかを教えていただきたい」という手紙が届いた。

<フレズノ日本人会の勘当>
二月十四日付けで、在米日本人会から「現在の貴会の状況では同胞の福利を増進するという目的は果たせない」という通知が来て、日本人会としての機能を停止させられた。
十九日、常議員会を開いて、証明権を停止されようが北沢の息の根を止めるまで戦うと確認しあい、桑港へ糾問の全権委員を急派することに決定。平智山、筆者など四人が急行。

<在米日本人会とのやりとり>
桑港では書記長心得という紺野六郎がでてきた。「牛島会長に取り次いでおくので七時までに電話する」というので待っていたところ、かかってこない。たまりかねてといあわせると「ダーレもおられません」と寝ぼけた声が帰ってきた。明日は日曜日。夕暮れまで探し回ったがだれもつかまらず、よるになってやっと紺野を見かけたので問いただすと「牛島会長はロスにでかけて不在。黒沢副会長にいっておいたので明日にはどうにかなるでしょう」と平然としたものであった。
二十六日、結局紺野一人が応対することになって、「なんで停止したんだ」というと「現在の執行部が信頼できないからだ」という。「では、事件以来一カ月以上無政府状態にあった北沢執行部はよかったというのか」と口論になった。ここにおよんで紺野はだんまりである。
ここにオークランド日本人会の松崎愛二が出てきて、臨時参事会をひらくべく奔走してくれたところ、黒沢格三郎は激怒して「おれの目の黒いうちはそんなことはさせん」といって結局十三日の定期参事会までなんにもなしになった。その定期会でも結局松崎の仲裁案は否決されてしまった。
十六日、サンフランシスコ・ラーキン街メープルホール、二十一日オークランド・ウェブスター街日本ホールで演説会、いよいよ宣戦布告だ。

<副島八郎の登場>

(この項編者のまとめ)

副島の名前が出てくるのは、このオークランドでの演説会で採択された宣言書が初めてである。副島は「湾東在留帝国臣民義会」の発起人・会長として十四人の先頭に名前を並べている。副島は当時事業に失敗してオークランドに蟄居していた。
この臣民義会の「目的」は「不敬漢ならびに不敬漢を庇護するごとき言動を為すものに飽くまで制裁を加える」という物騒なもので、その具体的方策としてまずバークレー、アラメダ、オークランドなどの地方日本人会のオルグをはかることと、在米日本人会のボイコット、日本本国政府への頭越しの交渉などを挙げている。

<反撃>

(この項編者のまとめ)

三月十日、若尾峡南らキリスト教徒側は新団体を設立。フレズノ郡日本人会と名付ける。有志会との仲裁もうまく行かず。
若尾峡南は日米新聞のフレズノ通信員であったが、のち中加タイムスの主幹。
四月二日、在米日本人会は新団体に証明権を付与。
有志会はますますエスカレートし、キリスト教徒はみな社会主義者であり、我孫子久太郎は無政府主義者であり、幸徳秋水と通じて不敬の念を広めようとしており、社会を転覆しようとしている連中だというふうに非難を強めた。
北沢は大逆事件の直後、教会内で「幸徳のごとくあれ」という演説を為したことがあるという。

<その後>

(この項編者のまとめ)

この時点で「不敬事件の真相」は終わっているが、事件はさらに続いた。結局どちらの日本人会も在米日本人会から資格停止され、当地の日本人は大いに困った。そこで第三の日本人会が設立され、業務を行うことになった。在米日本人会からは塚本松之助ら長老が派遣され仲裁に当たったが、なかなか成功しなかった。「国民新聞」を発刊した副島は、ひさびさに筆を振るい、「国民主義」と自らの思想を名付けて各地を遊説して回った。この思想がどのようなものであったか、新聞の現物は残っていないが、徳富蘇峰の「国民新聞」の国民主義に影響を受けた、国権主義的な立場だったのではないかと推測される。事件が長期化すると、中加タイムスの若尾が暴漢に襲われると言ったお粗末なテロも起きた。結局双方とも疲れはてた形で解決、あるいは消滅した。国民新聞は1912(大正元)年末に解散、抱え込んだ負債はまたしても副島が抱え込むことになった。

◎不敬事件の真相 伊藤晩松 明治四十五年八月一日発行より


表紙に戻る


このホームページのホストは です。 無料ホームページをどうぞ!