モンタナ神経科クリニック

      我が師フランク・モレルの思い出

      モンタナに来る前まで、私はシカゴにある大学病院でてんかんの専門医になる為にフェローシップの訓練を受けていた。その大学病院とはRush Presbyterian St. Luke's Medical Center といい、1200床ものベッド数のシカゴ最大規模を誇る病院であった。私の属していた神経科てんかん部門のボスは Dr.Frank Morrellといい、その道では世界に名の知られた権威であった。

      もともと私はウィスコンシン大学医学部で神経内科のレジデントを終えて、それからさらにてんかんを専門にやって行こうと考えはじめていた。私をウィスコンシン大学で指導したのは、脊髄疾患、脳代謝の権威であったポーランド人のヘンリー・S・シュッタ教授であった。彼が私をウィスコンシンに引っこ抜いてくれなかったら私は今ごろ南カリフォルニアの私立医科大学の大学病院の中でスモッグに染まって窒息死していたかもしれない。そう考えると彼は私に取っては命の恩人だった。そのウィスコンシンに丁度新しくてんかんの専門医の助教授として赴任してきたのが私のビッグ・ブラザーのアンデイ・ケナーだった。彼はメキシコ生まれのユダヤ人だったが、彼の両親はナチスがポーランドに侵攻する少し前に運良く出国できたが、一緒に来なかったほかの親戚はみんな迫害にあって全滅してしまったという。彼の両親は、戦前当時メキシコがアメリカを工業力で追い抜こうと血道を注いで、外国から多くの知識人や技術者を招聘して優遇していたので、アメリカに行かずメキシコを選んだ。結果的に戦後メキシコはあの通りで、アメリカに大きく水を開けられてしまった。アンデイはメキシコシテイの医学部を主席で卒業してアメリカに来ててんかんの専門医になったのである。アンデイはシュッタ教授から高く評価されていたが、そのアンデイはなぜかこの私に目をかけてくれて高く評価してくれた。だから結局私はシュッタ教授からも高い評価を受ける事が出来たのである。それでその医学部のレジデントの訓練を終わったら私はしばらくそこに講師兼フェローで残る予定だった。ところがアンデイは同僚のてんかん専門の医師と対立して早くも居ずらくなっていたのが、急にもっと彼にとって職場環境の良い所に移ると言い出した。そこで彼が運良く受け入れられたのがラッシュ医科大学のフランク・モレルの教室だったのである。アンデイは私にウィスコンシンを離れて一緒にシカゴに行こうと猛烈に誘惑した。そして私はそれに従ったのだった。シュッタ教授は残念がって別れを惜しんだが、会うは別れの始めであり、人生とはそういうものである。

      フランク・モレルのオフィスは巨大な医科大学、関連病院群のコンプレックスの中で最も古い建物の一角にあった。その建物がどのくらい古いかといえば、建物の礎石銘の落成の日付がなんとシカゴが町から市に昇格した翌日であったと言う。その建物の中にはボタンを押しても別の階に行ったまま戻ってこなかったり、呼びもしないのに突然下りてきて「バッカーン」という大音響と共にドアが開く奇妙な古い骨董品級のエレベーターがあったりした(後から聞いた所によると、そのエレベーターの最下階は昔死体安置室があったそうだ。道理で妖気が漂っていた訳だ。)

      その古い建物の3階の西の隅にモレル教授のオフィスがあった。古式蒼然とした建物の中に最新鋭の脳波監視機器を持ち込んだてんかん病棟があり、その端にラッシュてんかんセンターのリサーチオフィスがある。彼のオフィスの西の窓からは、アイゼンハワーフリーウエイの車の途切れざる流れと、かつて映画「逃亡者」の舞台となった、クックカウンテイ病院が見えた。大きなオフィスにはゆったりとしたソファがあり、その周りには過去の文献や資料がうず高く並べられていた。モレル教授のデスクはその真っ只中にあった。面接の時モレル教授は、その所狭しと並べられた資料の山を指差して、

        「我々には十分な情報があるが、しかし私にはそれをまとめる脳味噌がない (I have a lot of information but no brain to deal with.)」

      と呆気羅漢として言ったので、うっかり笑ってしまった事を昨日のように思い出す。彼がそう言ったのは勿論謙遜の故であり、同じ事を私が言えば人はそのまま信じてしまうに違いないだろう。

      2年間私は彼のもとでフェローシップを経験し彼によっててんかんの知識の基礎を築かせてもらった。彼のセコンダリエレプトジェネシスの理論は年に発表されたものであるが、その後ミラーフォーカス理論に発展し、その後現われたキンドリング理論をサポートする根拠となり、それを検証するような臨床症例が集められて来た。夢のような短いフェローシップの経験であった。ミラーフォーカス理論とは簡単に言うならば、大脳皮質のある一部分で発生したてんかん巣をそのまま満足な治療をしないで放置しておくと、その場所と丁度左右対称位置にある脳の皮質がてんかん波を発生するようになるという現象を説明しようとするものである。だから、てんかん波が脳の両側から出て治療が困難になる前に十分な治療を施すべきだというのがモレル博士の持論であった。

      また、このモレル博士はてんかんの脳手術のMST(multiple subpial transection) を原理から開発した。MSTとは、大脳皮質のニューロンのローカルの水平結合線維の連絡を破壊することによっててんかん電位の周辺ニューロンへの伝播を遮ることが出来るだろうというシンプルな発想から生まれた手術法である。彼はそれをあまたの動物実験の末に、人間の症例に応用したのである。それは一見単純過ぎて、これが本当に有効なのかどうかと一瞬人を懐疑的にするものであった。私はモレル教室にいる間一週間に一度てんかんの脳手術を見てきたが、そのたびにMSTの実行される有り様を端で眺め、術後の患者の様態を眺めて来た。MSTはてんかんの発射巣が運動領域や言語皮質のど真ん中にあるような症例に対して最も威力を発揮し、epileptogenicな皮質を外科的に切除すること無しにてんかんを沈黙させてしまうのである。

      話のついでなので、その中でもいくつか印象に残った症例の逸話を2つほど書いてみる。ある日のこと、ユタ州から8歳程の可愛い女の子が難治てんかんとして外科手術を希望する神経科医師からMSTをしてくれと言って送られて来た。この女の子はMRを見て一目瞭然なことに、大脳が全域に渡って大規模なダブルコーテックスの様相を呈していた。私と同僚のフェローはそれを見て

        「なんでまたこんな症例を送ってきたのだろう。これだけの大規模な基礎病変があるなら、どこを治療しても意味がない。外科治療の適応ではないのではないか」

      とブツブツ言っていたのだった。そこへモレル教授がやってきて、

        「まあそう言わず、とりあえずビデオ脳波で監視してみなさい。MSTをして下さいと頼んできたのだから出来るかどうか、その通り最善をつくしてみよう」

      と言われるので元気を取り直して頭蓋内電極を入れてみた所、もの凄い強力なポリスパイクを伴なう激しいてんかん症状が観察された。しかし、幸いてんかんスパイク波は一ヵ所に限局していた。ただ、それにしてもダブルコーテックス症候群なので、てんかん発生源が浅層病変から来ているのか深層病変から来ているのか決める手掛かりは無かった。そこでモレル教授の考えた事は、長さ一センチ足らずの短い4極の深電極を脳波のラボに作らせて、それを開頭術中にてんかん巣のある皮質に垂直に刺入し、どちらから来ているか確かめようじゃないかという事だった。果たして、それによって我々はてんかん波が浅い層から来ているということを確認した。そこでただちにMST施行という決断に相成り、てんかん巣を沈黙させることに成功した。

        「ほらね、出来る事はやってみるものだ」

      とフランクは言った。

      またあるときはスタージウエバー症候群の少年にMSTを手掛けた事がある。この疾患 は大脳皮質にカルシウム結晶の沈着を来たすが、彼の進行性のてんかん発生源は後頭葉の視覚皮質の真ん中にあって、頻繁な部分てんかん発作のたびに閃光幻覚を起こし、重積発作も何度か経験し、抗てんかん剤も奏効がなかった。こうなったら最後の決定的治療は、同名半盲になって視野を失っても後頭葉の部分切除しかないとして紹介されて来 た患者であったが、モレル教授はこれにMSTを施行する決断をした。これにはさすがの神経外科医もびっくりして反対をした。血管壁に沈着した大小のカルシウム塩が大脳皮質の中に氷山のように浮かんでいるような状態を思って、そんなところにMSTなんかしたら、不注意に鈎針でカルシウムの塊を引っかけて血管を破綻させ、大出血して血 腫でも作るリスクが大だ、タイタニック号がわざわざ氷山にぶつかりに北氷洋に進路をとるようなものだと言って手術の引き受けを渋ったのである。モレル教授はそういう神経外科医をなんとか説得して丸めこみ、遂に本当に手術をしてしまった。私はその手術に立ち合ったが、外科医はMST鈎針を動かしながら、

        「うわあ、まるでジャリ道の中をつるはしを引きずっているようで、ジャリジャリするよお。血管壁を破るんじゃないかと心配だよお (Wow! I feel dragging a tool in gravel road. I am afraid I may break up surface blood vessels!)」

      と言いながら汗だくであった。かたやその傍らで手術の成り行きを見つめていたモレル教授は、

        「そうならないようにMSTをするのが君の腕の見せどころだ (You do a great job to complete the mission avoiding such bummer)」

      とただ一言。結局その手術は大過なく終わり、手術された皮質を見ると外科医が大きなカルシウム沈着を避ける為にMSTの溝を迂回曲折して苦心惨憺した後がくっきり残っていた。そして手術室を出て行くときは、

        「もうスタージウエバー症候群の患者にMSTをするのは真っ平だ。これきりにしてくれよ、頼むから (You will no more ask me to do MST in such a patient of Sturge-Weber Syndrome, please.)」

      と捨てセリフを残して行った。しかしながら、事実、この難行苦行手術の結果、てんかん発作は激減し、少年は後頭葉を失わずに済んだのだった。MSTはここでもその威力を見せつけた。

      モレル教授は創意工夫の人であり、どんなに八方塞がりのように見える状況においても常に、まだ何か出来るはずだ、と希望をもち続けて、可能なありとあらゆるオプションを検討して実行に移し、これだと決めると大きなリスクを請け負うこともためらわなかった。 私が得たてんかんの知識と病態生理の基礎は彼から受け継いだものである。もちろんその中には将来研究が進むにつれて証明されるものもあれば、棄却されるものも出て来るかもしれない。しかし、そうであったとしても構わない。学問というものはそういうものなのだ、と我が師モレル教授は口癖のように言われていた。この謙遜な求道の精神はいつまでもモレル教室の伝統として今でも私の心の中で生き続けている。時々意見が合わなくて喧嘩をしたりした事もあったが、私がシカゴを離れてモンタナに移るときも別れを惜しんでくれた師であった。私の娘を抱いて一緒に写真に収まってくれた最後の日が本当に最後になってしまった。

      彼は1996年の十月に他界した。モレル教授の享年は70歳。死因はクロイツフェルト・ヤコブ病であった。クロイツフェルト・ヤコブ病とは発生率が年あたり100万人に一人という希な病気である。死の2、3か月前に他の用件で電話でしたときはモレル夫人に風邪で休んでいると言われたので、「お大事に」とメッセージを残しておいた。風邪どころではなかった。

      私は今でも難しい症例に出会うと「これをフランクが見たらどういうコメントをするだろうか」と思う事がある。もっと喧嘩してもっと彼から学んでおけば良かったと後悔するが、それこそ「孝行をしたいと思えど親は無し」という心境である。フランクを慕ってラッシュ医科大学に移籍したアンデイも同じ気持ちでいるはずだ。


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