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01 嵐を呼ぶ一生玉

 波が砂浜に打ち寄せては返し、海に沈みかけた太陽は真っ赤に燃えている。おさげ髪の少女はそんな大自然を楽しむ余裕もなく、砂浜を駆けていた。らんまである。
「こらっ、目かくししろっ! もし変な男見たら…」
 前方を走っているあかねは、取り合わない。
「やだっ。白馬に乗った王子様に会えるかもしれないじゃない」
 冗談言っている場合じゃない。あかねはわかっていないのだ。あかねは今、一生玉という惚れ薬を飲んでいる。これから最初に見た異性に一生惚れてしまうのだ。だから乱馬はわざわざ女らんまの姿であかねを追いかけている。
「いいか、あかね! お前が飲んだのは一日玉じゃなくて…!」
 らんまがそう叫んだとき、後ろから、パカッパカッとリズミカルな音がした。振り返ると、砂をまきあげて白馬が駆けてきている。馬上には手綱をとるシャンプーと八宝斎が乗っていた。
「白馬に乗ったおじいさまあるな♪」
 と、シャンプー。
「でえっ、じじい!?」
 らんまは八宝斎の丸い頭を掴むと、思い切り海に向かって投げた。八宝斎は弧を描いて飛び、頭に夕日があたってキラリと輝いた。その間らんまは持って来たタライをあかねの頭に被せていたので、あかねは八宝斎の最期の輝きを見ることはなかった。
 ひらりと白馬から身体を下ろしたシャンプーは、持って来たやかんをらんまに差し出した。やかんの口からは湯気が出ている。
「らんま、男に戻ってわたしに恋するよろし」
 らんまはやかんを受け取った。今まで迷っていたのだが、こうして今、湯が手に入ったということはそれを実行しろということなのか。考えている時間はない。ぼやぼやしているとあかねは誰か男を見てしまうかもしれないのだ。らんまはやかんの取っ手をしっかりと握った。
「シャンプー。ばーさんが呼んでたぞ」
「あいやー、ひいばあちゃんが? 本当か?」
「ああ」
「じゃ、そろそろ店に戻って明日の仕込みするある。再見!」
 シャンプーは降りたときと同じくらい軽やかに馬にまたがり、振り返って手を振った。らんまは馬のしっぽが馬の歩調に合わせて左右に波打つのを見送った。
「あかねっ、てめえ感謝しろよっ」
 あかねはやっとたらいから解放してもらったが、額を強く打ったらしく涙目で「いたーい」とつぶやいている。
「じじいなんかに惚れたら、お前の一生メチャクチャだから…」
 らんまは勢いよくやかんを逆さにした。湯が身体を滑ると、シャツの下の豊満なバストはたくましい筋肉に変わっていく。
「仕方なく男になってやるんだぞっ」
 乱馬はずいっと身を乗り出した。あかねが乱馬を見た。
 おれを見た! 一瞬、こんな風にしていいのかと思ったが、こうなったらヤケだ。戻れない。腹をくくった。
 乱馬はあかねの目を見返した。この愛らしい少女の心が自分のものになる。だから、いいじゃないか! どんなことになってもかまわない。
 波の音が乱馬の焦る気持ちを洗った。五度、波が静かに打ち寄せて引いた。乱馬はそれを数えていた。見詰め合っているのに耐え切れなくなって、乱馬が言った。
「あの…。もう、惚れた…?」
 尋ねる乱馬に、あかねは身を乗り出した。
「乱馬…あたし、目が覚めたみたい」
 乱馬の首にすがりつくと同時に、
「好き」
 と言った。
 乱馬はあかねにされるままに、砂に尻もちをついてしまった。
 何かが終ると同時に始まったような、釈迦が悟りを開いたような、花火が百発打ち上げられたような心地がした。舞い上がってしまったのだ。
「あかね、その…」
「乱馬、好きよ」
 腰の力が抜けてしまった。この旅行にくるとき、あかねと砂浜で抱き合って愛を告白するなんて、ちらっとも思わなかった。あかねの腕が柔らかい。そして日が落ちて、空は群青色に紅を少し垂らしたような色に、美しく染まった。
 次の瞬間、あかねは正気に返って張り手を飛ばさないんだろうか? そら、今! …あかねの腕は乱馬を抱きしめたままだ。
 ひゅうっと冷えた海風が吹いて、乱馬は正気に返ったような心地がした。
「な、あかね、立って…帰ろうぜ。早雲のおじさんたちが心配してる」
「そうね」
 あかねは乱馬に立たせてもらいながら、その手を離そうとしない。乱馬はあかねの手を引いて暗くなりかけた砂浜を歩いた。砂についたたくさんの人の足跡はそれぞれ影を落とし始めている。
「乱馬、帰るまでに聞いておきたいの」
「何を?」
 乱馬はまだ、どんな態度であかねに接していいかわからない。ひどく緊張して自分の声が上ずっているのがわかる。手を引いているのだって実感はなく、恋人ごっこみたいだ、と思った。
「あたしのこと、好き?」
 予想していたとはいえ、直球ストレートの質問に乱馬は転びそうになった。砂が舞った。
「そ、そういうことは…だな…」
「嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、どのくらい好き?」
「ま、ちょっと待て。静かにしてろ」
 猫飯店の出店、海の家の前を通るので、乱馬はシャンプーに気付かれないようあかねをだまらせた。
 それからあかねは、乱馬がしゃべってほしくないと思っているのを知ったのか、黙ってついて来た。天道家の宿泊している旅館に着いた。さあ、どう皆に説明したものか。これはだから仕方なく…成り行きで…
 旅館の二階から、「あっ、乱馬くんたち帰ってきたみたい」という声がした。まだ言い訳の筋道が立っていないのに!
 乱馬は反射的にあかねの手を振り離すことを考えたが、あかねはキュッと握る手を強めた。
 早雲とかすみとパンダが玄関までふたりをむかえにでてきた。
「あかねぇ〜! 心配したんだよ」
「お父さんたら、大袈裟なんだから」
 あかねは笑った。
「あたしはなんともないわよ、ホラ」
 その間もあかねは乱馬の手を離さない。乱馬は非常に決まりが悪い。
「ん、目隠しはどうしたんだい」
「目隠し? 取れちゃった」
「取れたって…!? あれがないと誰かに惚れちゃうんだろう。ん? 乱馬くん、この手は…」
 乱馬は弁解しようとした。
「ち、ちがうんですっ」
「何が違うものかね」
 ガッ、と早雲は乱馬の両肩に力強く手を置いた。
 あかねは「キャッ、ばれちゃった♪」と言いながら乱馬の腕に自分の腕を絡ませる。
 早雲は思いついたようにパンダに話し掛けた。
「早乙女くん、浜辺で挙式なんてのもオシャレだと思わない?」
「パフォ」
 かすみが「まあ」と口元に手をやった。



 瓦が昼間の日差しのぬくもりをまだ残している。ぬくもりというか、熱い。裸足の裏が焼けそうだ。
 乱馬は夕食を終えると旅館の窓から抜け出して、屋根の上へ避難していた。部屋にいると、なんだかいたたまれないのだ。なびきはちくちくとからかってくるし、早雲とパンダは結婚式の準備をしている。かすみはその手伝い。あかねはといえば、乱馬にべったり、夕食を乱馬の口へ運ぼうとする。それを断るととても切なそうな顔をするのだ。
 乱馬はただでさえ奥手なのに、人前でいちゃついて「あーん」だなんて馬鹿みたいな真似――― もちろんやった。泣かれるのはもっと苦手だからだ。
 乱馬は瓦のヘコミに尻を落ち着かせて、熱さから逃れるため足の裏と裏を擦り合わせた。
 あかねが他の男に惚れてしまったら大変だ、と焦った勢いで自分に惚れさせてしまったが、これでよかったのだろうか? 乱馬はあかねの愛が大きすぎて、真正面から受け取ることができなかった。
 きっと甘くて大きくて、幸せの塊みたいなんだろうソレは、受けとめたが最後身動きがとれなくなるんじゃないだろうか。自分は思ったよりとんでもないことを決めてしまったんじゃないか。
 乱馬は独身最後の夜を過ごす男の気持ちで夜空を見上げた。満天の星空だ。
 旅館に帰ったら、きっと自分にはあかねと同じ部屋をあてがわれる。同じ部屋、同じ布団で―――乱馬はあかねの柔肌の感触を想像しそうになって、ぶるるいと頭を振った。おさげが跳ねた。
「…今日はどっか外で寝よ」
 少し頭を冷やしたほうがいい。



 朝日がまぶしく浜辺と猫飯店の出店を照らしている。今朝も潮風がきもちいい。
「んっ」
 とシャンプーは、松の生えたあたりまで出てきて身体を伸ばした。「今日もいい天気あるな。これならお客さんもたくさんある」
 体操代わりに2発、シャンプーは拳を空中へ突き出した。正拳突きの型も模範的だ。3発目を松の幹へ叩き込んだ。
 と、松からドサリと何かが落ちてきた。
「あいやあ、乱馬」
「何しやがんでい」
 乱馬は寝不足の目をこすりこすり立った。
「乱馬こそ何してるのか? そうか! 私に会いにきてくれたね!」
 シャンプーは長い髪をなびかせて、乱馬にとびついた。乱馬はといえば、いつもより冷静である。昨日のあかねの熱烈な抱擁を受けたあとでは、シャンプーの愛情表現すら淡白に感じた。
「いやいや。かんちがいすんな」
 乱馬はシャンプーを押し戻した。
「おれはばーさんに話があってきたんだ」
「なんだ。ひいばあちゃんか」
 シャンプーがつまらなそうに店の奥へ声をかけた。
「ばあちゃん! 乱馬が話あるといってるね」
 開店前の店の中は暗い。杖をつく音がして、奥から小妖怪のようなコロンが出てきた。
「なんじゃ、婿どの」
「ばあさん! 昨日の一生玉のことだけど、解毒剤はないのか?」
 シャンプーが口をはさんだ。
「あ、そういえば忘れてたある。あれからどうなったあるか」
「あれから? そりゃ、大変だったぜ…。あかねが、おれを見ちまってよ」
 乱馬は顔がにやけたりしないよう、注意深く言った。
「まことか!? あかねは乱馬に惚れてしまったのか?」
「ま、まぁ、そうだ」
 コロンは皺に埋まった目を更に細めた。
「で、婿どのは一生玉の解毒剤を探しておるのか?」
「ああ」
「やっぱり乱馬は本当は、私を愛しているのだな」
 シャンプーは目を輝かせて、胸の前で手を組んだ。
「ちがわぁ。おれはただ、薬で女の気持ちをもてあそぶような卑劣な真似はしない主義なんだ。おれを見せたのは、まぁ、解毒剤が見つかるまでの応急処置ってとこだな」
 これは昨夜考えた弁解だ。
「ま、なんにせよその方が都合がいいわい。解毒剤はあるにはあるが、ない」
 コロンが言った。
「はあ? どっちだよ」
「解毒剤は海の中じゃ」
「どういうことでい」
「一生玉の仕組みから説明せんといかんな。あの玉は食べ物ではなく石じゃから、飲んだものの体内にとどまり一生効力を発しつづける。じゃから、胃腸の内部を洗浄し、玉を取り除いてやれば効力は消える」
「なーんだ。カンタンじゃねえか」
「で、胃腸の内部を洗うには猫飯店特製の寒天を大量に食べるのが一番じゃ。が、肝心の材料を切らしておってな」
「寒天って海藻だろ? それぐらいおれがとってきてやるよ」
 乱馬は急に元気が出てきて、腕まくりの真似をしてみせた。
「そうしてくれると助かるの。あ、ひとこと言っとくが、昨日の晩サメを何匹か逃がしてしまってな。海藻をとるなら捕まえてからにするんじゃぞ」
「サ、サメぇ?」
 乱馬は朝日を反射する海面を見た。沖のずっと向こうの方で、三角の黒いものがついっと現れて沈んだ。乱馬は自分を奮い立たせた。途方にくれている場合じゃない。考えようによってはあかねの相手をするよりサメと戦うほうが楽だ。
「やってやろーじゃねえか!」
 乱馬はざしざしと砂を蹴って、海へ飛び込んで行った。

つづく

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