>>TOP

03 嘘にくちづけ

 お昼が過ぎて、やっと猫飯店ではお客が少なくなりはじめた。店内に立ち込めた中華そばの匂いも薄れてきている。シャンプーは笑顔で客を送り出した。
「まいど、ありがとうございましたーある」
 いま出て行った客のテーブルを片付けはじめた。ムースは気合いをいれると眼鏡をかけなおして、シャンプーの横に立った。
「シャンプー。おら、お前にプレゼントがあるだ」
「出前はどうしたある?」
 シャンプーはムースのほうをちらとみただけで、先ほどの笑顔はない。
「で、出前はまだだ」
「じゃ、さっさと行ってくるよろし」
 シャンプーはおかもちを持つと、ムースをつかまえて表へ放り出した。おかもちものれんの下へ置いた。
「お前がぐずぐずしてると私が文句いわれるね!」
 引き戸が閉まった。
「シャンプーっ」
 ムースは戸へとりすがった。
「プレゼントくらい見てくれてもいいじゃろう! おらがこんなに愛しておるのに…っ」
 ムースに戸をあけて中へ入る勇気はない。シャンプーにどやされるからだ。
 ムースが「シャンプ〜」と情けない声を出していると、後ろから女の声がした。
「なにしてるの?」


 あかねは下校途中だった。猫飯店の前を通るとき、通行人が猫飯店を避けるようにして通っているのがわかった。
 なるほど、長髪に中華風の白装束の男が戸にとりすがって騒いでいる。ムースだ。
「なにしてるの?」
 ムースはあかねに気付くと立ち上がった。
「お前こそなんじゃ。おらに何か用か」
 ムースはぶっちょうずらである。あかねは、ムースがシャンプー以外に愛想よくしているのを見たことがない。
「こんなところで泣いてたらお客さん入れないわよ」
「泣いとったわけじゃないわい。お前なんぞにおらの気持ちがわかってたまるかっ」
 ムースはぼやきながらおかもちを握り、あかねが今来たほうへ歩き出した。いつものようにシャンプーにふられたのだろう。あまりによくあることなので、あかねは気の毒とも思わずに行こうとした。
「ちょっと待つだ。これ、いらんからやる」
 あかねはムースから弧を描いて飛んできたものを、うまいぐあいに両手でキャッチした。手の中の物がきらりと光った。綺麗に細工のほどこしてある、筒状の金属製品だった。
「もらっていいの?」
 ムースは振り返りもせずに、その背中はとぼとぼと向こうの角に消えた。
 あかねはもらったものを観察しながら帰った。それは5センチくらいの円筒状で、よく見ると金色の草花の柄がまんべんなくほどこされている。色合いからみて古いものらしい。少女趣味のあかねの気に入った。きっとシャンプーにあげるつもりで用意したものだろう。
 天道道場という看板のかかった門をくぐり、玄関で靴を脱ぎながら、
「ただいまー」
 奥からかすみの「おかえりなさい」という声がした。
 あかねは着替えずに茶の間へ直行した。かすみが、洗濯物をたたんでいた。
「ね、みてお姉ちゃん、これもらったの」
 あかねはちゃぶ台の席に座り、ひじをついてそれを目の高さにした。かすみが洗濯物をたたむ手をとめた。
「なあに?」
「これ、どっかにフタはないのかな? 何に使うんだろ」
 あかねがキュッと雑巾をしぼるようにして筒を動かすと、つかえがとれたような手ごたえがあった。筒の中央の辺りからふたつに開いた。中を見ると口紅だった。
「口紅だー。きれいな色」
「うすいピンクね。あかねにちょうどいいんじゃないかしら」
 とかすみが言った。
 あかねはうきうきした気分で自分の部屋へ行き、トレーナーとスカートに着替えると、鏡を取り出した。あかねはほとんど口紅を塗ったことがない。学校には化粧なんてしていかないし、出かけるときにするとしても、若い子たちの間ではグロスリップが流行っている。
 新しい化粧品を試すときはいつでも、女の子らしくなった気がする。他人に気付いてもらわなくても、自分の気持ちがはなやいでいくから、あかねは化粧品は好きだ。机に向かって手鏡をたてかけた。あかねは唇のラインをとると、薄く、口紅をのばした。鏡を見る。さっきより少し華やいだ表情の自分がいる。唇は少し桃色がかった程度でかすかな光沢がある。あかねは満足して微笑んだ。
 そして、ふいに用事を思い出した。
―――乱馬に英語のノート返してもらわなきゃ。
 本当を言うと、乱馬にみせたいな、と思ったから用事を思いついたのだ。あかねは部屋を出て、スリッパをパタパタいわせながら一階へ降りると、かすみに尋ねた。
「ねえ、乱馬どこ?」
「乱馬くんなら道場よ」
 あかねは渡り廊下を通って道場へ行った。静かだ。のぞくと、西日が磨かれた床板にうつっている。乱馬は中央の少し右のあたりにいた。暑いのか、上は黒いシャツ一枚だ。あぐらをかいた状態で逆立ちし、頭と両手でバランスをとっている。
「乱馬」
 声をかけると、乱馬はあぐらを崩さずに逆立ちだけやめて身体を半回転させ、床に尻をつけた。
「ん、なんだ?」
 あかねはなかなか用事を言わない。化粧に気付けとは言わないがせめて「いつもと感じがちがうね」くらい、乱馬の口からきけたらいいな、と思っていた。
 乱馬が逆立ちをやめたので、スカートの中を見られる心配はない。あかねはスリッパを脱いで、ひたひたと広い道場に足音を響かせながら、近くへ寄った。
「あたしの英語のノート、どこにあるの」
「居間になかったか?」
「うん」
「んー、そうすっとおれの部屋か…それか」
 乱馬は膝に手をついて立ちかけ、動きをとめた。あかねの顔を見ている。あんまり呆けた表情なので、どうしたの、と言おうとした。乱馬はいきなり両手をのばして、あかねの頭を掴んだ。
 乱馬の顔が近づいて、視界が暗くなった。
―――なに?
 唇に、ふにゅっとしたあたたかいものが当たっている。乱馬が自分の髪の中で手を動かす、しゃりっという音が聞こえた。片手を頭の後ろに、片手をあかねの頬に当てている。乱馬の息。乱馬が唇を動かして、ちゅっという濡れた音がした。
 キスしてる! あかねは一瞬、思考が停止した。道場の窓からは、さっきと変わらない午後の日差しが差し込んでいる。
 次の瞬間、思い切り突き飛ばした。
「やだっ!」
 乱馬の手が頭から離れて、乱馬は道場の隅まですっとび、身体が一回転した。
 あかねは唇をぬぐった。あんまりいきなりだったので、おどろいて、涙が出てきた。
「乱馬のバカッ!」
 そう言い捨てるのがやっとだった。涙を見られたくなくて、あかねは逃げるように道場をあとにした。


 あかねは部屋にかけこむと、後ろ手でドアをしめてベッドにつっぷした。ドアにかかったルームプレートがカラカラと揺れた。涙をぬぐい、気持ちが落ち着くにつれて驚きが怒りに変わっていく。
 乱馬がいきなり、何の前触れもなく―――少なくともあかねの合意なく、キスしたのだ。いい雰囲気だったとかそういうのではない。人が変わったみたいだった。あかねは怒っていたが、同時に恥かしかった。まだドキドキしている。あかねは涙が完全に止まって、ベッドに座りなおした。
 乱馬はどういうつもりなんだろう。きっと何かの冗談でやったのだ。あたしのファーストキスだったのに!
 あかねは以前、乱馬が猫化したときにキスされたことがあったが、あれは唇が当たった程度だった。乱馬に会う前はずっと片思いの男性がいたが、その人とはキスするような間柄ではなかった。だから、乱馬とちゃんとキスしたのはさっきの不意打ちが初めてということになる。
 かすみが一階から、「お茶が入りましたよー」と声をかけたが、あかねは気持ちがたかぶっていてそれどころではなかった。
 あかねは人差し指と中指で唇に触れた。まだ感触が残っている。
―――男の子の唇って、思ってたよりずっとやわらかいんだ…。
 顔が熱くなっていくのがわかる。あかねは部屋の中を歩きまわりはじめた。
 うまく考えられない。乱馬をとっちめてやりたいが、次に会ったとき、いつもの自分でいられるだろうか? いつもの可愛くない、勝ち気なあかねでいられるだろうか? 自信がない。せめてもう少し落ち着かないと。しかけてきたのは乱馬なのに、どうしてこっちに合わせる顔がないのだろう。
 そのままぐるぐる部屋を20周ほどしたころ、誰かが2階に来る足音がした。まさかと思ったが足音はあかねの部屋の前で止まった。ノックが2回。
「あのよー…」
 乱馬だ!
「かすみさんが心配してたぜ。呼んでも降りてこないって」
 あかねは勇気を絞るようにして、ドアの向こうに向かって言った。
「ほかに言うことないの!?」
 大丈夫。いつものように怒ることができた。あかねは心の隅で安堵した。
「ほかにって、さっき、道場でのことか?」
「そっ、そーよっ」
「あのよー、おれ、何かしたか? あんまり覚えてないんだけど」
「はあ?」
 あかねは部屋のドアをあけた。乱馬が自分の態度を決めかねた様子で立っていた。「覚えてないって…覚えてないの!?」
「う、うん」
「このいーかげん男! あんたねえ、自分のしたことに責任を」
 そういいかけたあかねを、乱馬は、例の呆けた表情で見ていた。次の瞬間、乱馬の顔が近づいてきて、あかねは思い切りビンタをくらわせた。
「…ってー!」
 乱馬は廊下に尻餅をついて、頬を押さえた。あかねの手も痛むほどのすばらしいビンタだった。
「あんた何なの!? もうあたしに近づかないでよねっ」
 あかねはいきおいよくドアを閉めた。
「ちょっとまてよっ」
 乱馬がドアの向こうで叫んでいる。
「どういうことだかさっぱりわかんねーよ。今だって気付いたらお前に殴られてたんだ! 嘘じゃねーって」
「どーだか!」
「何がどうなってるんだ?」
「あんた、いきなりあたしにキスしたのよ!」
 言ってやった。
「…きっ……!?」
 ドアの向こうが、急に静かになった。
「覚えてないっていうんでしょう。いつだってそうよ。卑怯者っ」
「おれは…その…」声が小さくなった。「ご、ごめん」
 謝ってほしかったんじゃないのに。卑怯者なんてののしる気はなかったのに、乱馬と話しているとどうしてこうなってしまうのだろう。あかねは語調をゆるめて言った。
「ねえ、乱馬、どういうつもりだったとかないの? 今だってしようとしたじゃない」
「わかんねー…。ただ、お前から何かにおいがして、…気付いたら殴られてた。」
「におい?」
 あかねはとっさに、自分のそでを嗅いだ。何も匂わない。何の匂いだろう。いつもとちがう、身に付けているものといったらあの口紅くらいだ。あかねは机の上に立ててある口紅をとってドアのところへ持って行った。
「これの匂いかしら」
 あかねは乱馬に何かされないよう、ドアから腕だけ出して渡した。10センチほどのドアの隙間から乱馬を見ていた。乱馬は口紅をあけ、匂いを嗅いだ。とたん、顔をあげ、ぼんやり宙を見ている。心ここにあらずというか、恍惚というべきか。口がだらしなくあいている。
 あかねはドアをせばめた。
「乱馬!」
「え? ああ」
 乱馬が正気に返った。口紅にふたをした。
「この匂いだ。まちがいねえ」
 乱馬は口紅をあかねの手の中に返した。
「あかね、もう、その口紅顔からとったか?」
「まだ」
「ちゃんととっとけよ。また、その…変なことになったら困るだろうが」
「うん」
 乱馬の言葉に恥かしさがぶり返してきて、あかねはドアを閉めた。
「乱馬、下へ行っててよ。あたし洗面所へ行きたいから」
「お、おう」
 足音が遠ざかっていく。乱馬と話をして緊張したのは久しぶりだ。あかねは深呼吸したが、まだ胸に空気の塊がつかえている感じがした。タオルをとり、洗面所へ向かった。洗面台に立ち、いつもより多めにメイク用の洗顔クリームをとり、唇とその周りにすりこんだ。それをお湯で流すとさっぱりした。これでもう大丈夫のはずだ。
 あの口紅がどんなものだったか知らないが、ムースのおかげでひどい騒ぎだった。乱馬にもちゃんと話しておこう。
 あかねは茶の間へ行った。乱馬と、知らない間になびきが帰ってきていた。なびきはせんべいをかじっている。かすみがおかわりのお茶を注ぎながら言った。
「あかね、どうしたの? 返事もしないで」
 乱馬とあんなことがあったとで、あかねは、かすみの顔を直視できなかった。
「ごめん。何でもない。音楽かけてたら聞こえなかったの」
「そう? ならいいけど」
「乱馬、顔あらってきたわ。さっきの口紅だけど、ムースがくれたの」
 乱馬がこちらに目を向けた。と、手をのばし、あかねに引き寄せられるように顔を近づけた。
「ちょっとっ」
 あかねは突き飛ばした。乱馬は尻餅をついた。なびきはせんべいを持つ手をとめた。
「乱馬くん、今、あかねにキスしようとした?」
 乱馬の頬が急に赤みを増して、「ちっちがうっ」と手を振った。
 あかねは乱馬から顔をそむけて立ち上がった。
「あかねっ、お前まだ匂うぜ」
「ちゃんと洗ったもん!」
「そんなこと言ったってよ…」
 あかねは食卓を回りこんでなびきの側へ行った。乱馬から離れることができた。
「なびきお姉ちゃん! あたし何か匂う?」
なびきはあかねの匂いを嗅いだ。
「…なにも匂わないけど?」
「乱馬が、この口紅の匂いがするって言うの」
 あかねがポケットから例の口紅を出し、なびきは口紅を開けた。
「ていうかこの口紅匂いしないじゃん」
「うそだろ!?」
 乱馬が声を大きくした。「そんな強いにおい、わからないわけねーだろ」
 あかねもかすみもかいでみたが無臭だった。乱馬が、甘い、動物を抱いたときみたいな匂いがしたと力説しているところへ、八宝斎が帰って来た。
「お、あかねちゃんが持っとるそれは!」
「おじいさん知ってるの」
「女傑族の秘宝のひとつ、口唇奪取紅薬ではないか」
「こうしん、だっしゅ?」
「それを使ってしまったのか?」
「うん」
「ならば熱いキッスをせねばなるまいっ。あっかねちゃ〜ん♪」
 八宝斎は皺だらけの口を更にすぼませ、唇を突き出しながら跳んだ。乱馬が八宝斎の頭を掴み、ぐしゃっと畳にたたきつけた。
「いきなりなにやってんだ! オイ、説明しろよ」
「ええい、はなさんかい」
 八宝斎は乱馬の手を払いのけ、起きた。八宝斎が腕組みをして話しをする体勢に移ると、かすみが八宝斎の分の茶をいれた。
「それはわしが若い頃に見た女傑族の秘宝、口唇奪取紅薬(こうしんだっしゅこうやく)じゃ。この部屋に漂う甘美なかおり。間違いない。それで化粧を施した女が誘惑すれば、男はその甘い香りに心溶かされ、必ず熱い接吻で答えるという」
「でもあたし、顔あらったわよ」
「さあ。わしも詳しいことは知らんが、強いにおいじゃから、そう簡単には落ちんのじゃないか?」
 気付くと、乱馬が呆けた顔をこちらに向けていた。近くに寄りすぎたらしい。あかねは乱馬をはりとばした。
「いっ、てぇ〜」
 乱馬が殴られたところをさすっていた。
 あかねは気を取り直して、言った。
「とにかく、匂いがしなければいいんでしょう?」
 台所からサランラップを持ってきて、マスクの内側の口の辺りに貼り、そのマスクで口元を覆った。ラップはぴったりと唇にはりついて、鼻でしか息ができない。息苦しいが仕方ない。しかし、このままずっといるわけにもいかない。あかねは口紅の出所であるムースを探すため、部屋を出て行こうとした。
 ちょっと猫飯店に行ってくるわ、と言おうとして、口が塞がっていることに気付いた。
 乱馬が、
「どこに行くんだ?」
 と言った。
 あかねはポケットから口紅を出して指差し、更に外を指差した。それから宙に「ね、こ、は、ん」と書いた。
「おれもついてってやるよ」
 乱馬も立ち上がった。

つづく

>>TOP