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04 花にくちづけ

 乱馬とあかねとムースが、猫飯店の赤い円卓を囲んでいる。シャンプーは全員の分の烏龍茶を出した。
 乱馬が言った。
「…ていうわけで、ムース、その口紅どうやったら効き目がとれるんだ?」
 あかねは大きな白いマスクで口を覆ったままだ。ムースは腕組みした。
「さー、おらも店の奥にあった箱から持って来ただけじゃから、くわしいことはわからん」
 あかねが怒って身を乗り出した。乱馬がそれを制した。
 シャンプーが席についた。
「ああ、それならひいばあちゃんのある。私もその口紅のことなら聞いたことあるが、効き目強すぎるのと、会った男全員にキスされるのはたまらないから使わなかった。あかねはバカあるな」
 あかねが だんっと卓をたたいた。
 シャンプーが「ちょっと口紅みせてみるよろし」と言った。シャンプーが口紅の底を3回ひねると、中から小さな紙が出てきた。シャンプーは小さく折りたたまれたそれをひろげ、読んだ。
「是口紅操男唇イ尓意儘。甘美的芳香誘惑男心。香持続三日間……この口紅は男の唇を意のままにする。甘美的香りが男を誘惑し、香りは三日間つづく、と書いてあるね」
 乱馬が言った。
「3日か…。消えねえわけじゃねえんだ。あかね、よかったな」
 いきなりシャンプーが、あかねのマスクをはぎとり、一方ではムースを思い切りあかねに引き寄せた。一瞬、ムースは背をそらせたが、すぐに例のとろんとした表情になった。あかねに手をのばし、顔をななめにして接吻しようとした。
「きゃーっ!」
 あかねがムースをつきとばす、と同時に乱馬はムースの頭にひじてつをくらわせた。
「こらシャンプーっ、話をややこしくするな!」
「乱馬、そんな浮気女ほっといて私とキスするある」
「あのなぁ〜」
 シャンプーは ハッと何かに気付いて上目遣いに乱馬をにらんだ。
「乱馬、まさかあかねにキスしたのじゃあるまいな?」
「そっ、そんなわけっ」
 頭に血がのぼっていく。なんと答えていいかわからない。
「いっい今それどころじゃねーだろっ」
「したあるな? 乱馬! 私をさしおいて何ということか!」
「おれ、覚えてねーんだし、知らねーよ! 好きでしたんじゃねー」
「私とキスするよろし」
 シャンプーは素早く口紅を引き、乱馬の胸元へ飛び込んだ。乱馬は息をとめて匂いを嗅ぐまいとしたが、間に合わなかった。甘い匂いが乱馬の脳をしめつけた。わずかな意識の抵抗も無駄だった。巨大な欲望の塊が乱馬を飲み込んで、目の前の女の口を吸え、と命じた。乱馬はそれに従おうとした。
 いきなり頬に痛みが走った。気が付くと、あかねが乱馬の両頬を後ろから思い切りひっぱっていた。
 乱馬はシャンプーから離れることができた。と同時に、頬に手を当てた。
「ひ、ひてぇ〜」
 つねられた後の鈍い痛みが頬の肉を痺れさせた。
「いてえじゃねえか!」
「助けてあげたんでしょっ」
 その間、ムースは口をとがらせてシャンプーを追いかけはじめた。
「シャンプー、おらのキスを受け止めるだ」
 シャンプーはテーブルの間を逃げながら、
「お断りある! 誰がおまえなんかと。あいや、乱馬、助けてっ」
 乱馬の背中に隠れた。
「おまえらいいかげんにしろ!」
 乱馬は怒鳴った。テーブルの上の水差しをとり、頭からかぶった。少量の水だったが乱馬の背丈は縮み、女になった。こうすれば匂いに惑わされることもない。水差しの花が肩に引っかかっている。
「あかね、帰るぞ!」
 うわついた空気がらんまの大声で吹き飛んだ。視界の隅であかねがマスクを拾っていた。
 らんまは猫飯店を出た。あかねもついてでてきた。あかねは数歩分後ろを歩いている。らんまが怒っていると思っているのだろう。らんまは何か言おうと思ったが、あかねがマスクをしていて声を出せないことを思い出し、やめた。
 らんまは背中にあかねの気配を感じながら帰った。沈黙はやけに長く感じられた。自然と、考えたくはないが考えずにはいられないことに、思考が傾いていく。
 あかねはさっき、道場であったことについてどう思っているのだろう。おれは覚えていない。英語のノートの話をしていたら、突然うっとりとした瞬間がやってきて、気付いたらあかねが道場から走り去るところだった。あかねは泣いていたようだ。「あんたがいきなりキスしたのよ」といっていたが、いったい、どんな風だったのだろう? 泣かしてしまうような強引な方法で?
 らんまは覚えていないのをもどかしく感じた。自分はつくづく記憶のあるときにあかねとキスすることがないらしい。
 想像の中で、あかねは、こちらに笑顔を向けて立っていた。男の自分が近づくと、あかねは一瞬とまどった表情をしてすぐに怒り出そうとしたが、自分は構わず抱き寄せ、身をよじって嫌がるあかねにキスをした。腕の中のあかねは泣いているが、唇は柔らかくおいしい。
 らんまはその想像に快感を覚えそうになって、ぶんぶん頭を振り、追い出した。
 キスの1回や2回、大騒ぎすることじゃないんだ。おれの意思でやったわけじゃなし、事故みたいなものだ。あとであかねにも気にするなと言ってやろう。面倒臭いことを考えるのはこれで終わりだ。
 らんまはそう割り切ったつもりだった。だが、すっきりしなかった。ひっかかっているのはあかねの気持ちだ。あかねはどう思っているのだろう。それを知るためなら何だってする。
 猫飯店でぶっきらぼうな態度をとってしまったのは照れていただけだということ。やさしい言葉をかけようとしてもうまくいかないこと。あかねとキスしたと聞いたときむしろ嬉しかったこと。
 それらを伝えるためなら何だってする。だが、そのうちのひとつも言葉にできないのを知っていた。
 やがてふたりは天道家に着いた。



 あかねとらんまが帰ってすぐ、日は暮れた。らんまはしばらく女のままでいる気らしい。あかねは部屋に入ってマスクをとり、ため息をついた。さっき少し泣いたせいで、気持ちが疲れていた。
「しっかりしなきゃ」
 あかねは声に出した。あんまり落ち込みすぎるとらんまを責めているみたいになってしまう。
 足元に何かまとわりついた。驚いて下を見ると、ペットの子豚、Pちゃんだった。あかねはPちゃんを胸元へ抱き上げた。
「Pちゃん、かえってたの」
 子豚は小動物特有の愛らしい動きで答えた。あかねは話せない子豚に向かって、いつものように悩み事をうちあけた。
「ねー、Pちゃん。乱馬には迷惑だったのよね。あたしとキスしたこと。さっきも怒ってたし」
 あかねはそこまで言って胸がいっぱいになり、Pちゃんをあやすように腕の中で揺らした。
「好きでしたんじゃないってはっきり言ってたもの。ねえ?」
 子豚に顔を近づけると、Pちゃんは鼻をひくひくと動かし、あかねにキスをした。豚の平べったく大きな鼻がつかえてうまくいかなかったが、キスだった。あかねは驚いた。
「…この口紅、動物にもきくのね。Pちゃんまでキスするなんて」
 わかっているのかいないのか、Pちゃんは照れたようにくりくりと顔をそむけている。
「かわいいっ」
 あかねは悲しい気持ちを忘れたように思った。そしてお礼に、子豚の鼻先にちゅっと小さなキスをした。



 乱馬は風呂上りに水をかぶって出よう、と湯船の中で思った。早雲と玄馬と八宝斎がいるので、あかねは家の中でもマスクを外さない。だが自分が女でいてやれば余計な心配が少しは減るだろう。ただあの一件のあと、あかねは自分とけんかしたみたいに気まずかった。
 突然、風呂のドアが少し開いて、下のほうから子豚が入ってきた。
「良牙…」
 子豚は湯船に飛び込んだ。と、湯が盛り上がり、水位があがって良牙があらわれた。
「よー、来てたのか」
 と乱馬は言った。
 天道家の風呂場は大きいので、湯船に男二人が入っても余裕の広さだ。良牙は前髪にしたたる湯を切った。
「乱馬、きさまを殺す!」
 良牙の怒声は風呂場に大反響した。ああ、うるさい。
「悪いけど、おれ、今、お前と勝負する気分じゃねーんだ」
「あかねさんの唇を奪ったばかりかひどい侮辱をしやがって!」
「侮辱なんてしてねー」
「お前あかねさんにキスしておきながら、好きでキスしたわけじゃないなんて言ったそうだな」
「言ってねーよ!」
 怒鳴り返したあとで、乱馬は、猫飯店でそういうことを言ったかもしれない…と思い当たった。
「あかねがそんなこと気にしてたのか?」
「きさまにあかねさんの許婚たる資格はない! そしてこの響良牙がお前を倒し、2度のキスの責任をとって、あかねさんと交際する!」
「何の責任だって?」
「おれがあかねさんと2度キスした責任だ」
 乱馬はカッと感情が波立って、一発殴ってやろうとおもったが、とどまった。
「良牙、空想上のことを現実で口に出すなよ。はずかしいから」
「認めたくないのはわかるがな。二回目はあかねさんのほうからしてきたんだぜ。か、回数なら、おれの勝ちだ」
 良牙は自分で言って頬を赤らめている。
 どういうことだ? 乱馬は良牙の言葉を鵜呑みにしないまでも、あかねを疑った。おれとしたときは泣いたくせに、良牙には自分からしたのか? 胸の中に黒い火がともった。
 乱馬は湯船からあがった。
「来い! 望みどおり勝負してやらあ!」
 続いて湯船からあがった良牙に、乱馬は手桶の水をぶっかけた。男の身体に体毛が生じ、一瞬で縮んで子豚になった。乱馬はそれをつかむと急いで服を着、足音も荒くあかねの部屋へ向かった。
「やい、あかねっ」
 ドアをあけた。あかねは机に向かっていた。こちらの勢いについてこれない様子で、ぽかんとこちらを見ている。マスクはしていない。
「何? ノックしてっていつも言って…」
「お前、良牙がいいのかよ!」
「?」
「良牙とっ、キスしたって」
「はあ?」
 あかねは笑った。「誰がそんなこと言ったの? あたしと良牙くんがそんなことになるわけないじゃない。お友達なのに」
 乱馬の右手で上がれていた黒子豚が、急に元気をなくした。乱馬はあることを思いついた。
「おめー、P助にはしたか?」
「え? …かわいいから鼻にチュッ、くらいはするけど」
「くそっ。良牙の野郎、いいかげんなことを!」
 胸のもやもやがすーっと晴れていった。
「さっきから何なの。あたしが誰としようと関係ないじゃない!」
「関係なくねーよ! おれはその…アレだ。口紅の被害者だし」
 あかねの表情がいきなりきびしくなった。
「そーよねっ。あたしとなんかしたくなかったのにお気の毒さまっ」
「だっ だれもそこまで言ってねえ」
「言ったわよ! 猫飯店で、『好きでしたんじゃない』って」
「言ってねえ!」
「言った!」
「言ってねえ!」
「言った!」
「とにかく勘違いがひどいだから、お前、ちゃんと話を聞けよな? くだらねーことで落ち込んでんじゃねえ」
 乱馬は黒子豚を廊下の向こうへ放り投げ、部屋に引き返すと、ずんずんあかねに近づいた。
「な、なによ」
「これはおれと良牙の勝負だ! それに、おれの好きでっ、やるんだ!」
 乱馬はあかねに近づいた。と、あの甘い香りが乱馬をつつんだ。これならナイーブなおれでも簡単にキスできる。はんばなげやりにそう思ったのを最後に、とろりと意識が溶けていった。



 乱馬は半分怒りながら部屋に入ってきて、勝負とか良牙とかわけのわからないことを言いながら、あかねにキスした。ムードも何もあったものじゃない。あかねが乱馬を突き放そうとした瞬間、カシャッと音がした。
 カメラの音? あかねは、視界いっぱいに広がった乱馬を突き飛ばした。ドアのところになびきが立っていた。カメラを持っている。
「なびきお姉ちゃん!」
「乱馬く〜ん、もっとやさしく迫らないと、あかねに嫌われちゃうわよ?」
 なびきがからかった。乱馬はみるみる顔が赤くなって、
「うるせえ!」
 とどなりながら、あかねの部屋を飛び出して行った。
「おねえちゃん…いつからいたの!? 写真撮ったでしょう!」
「だって隣の部屋で怒鳴りあってるんだもの。かわいい妹と義弟の仲裁しようと思って来てみたら、おアツいところだったから、撮っちゃった」
「だれが義弟よ! あれは乱馬がいきなり」
「わかってるって」
 なびきはあかねの肩に手を置き、ポラロイド写真を差し出した。
「乱馬くんがもうちょっと大人になるまで、待ちなさいよ」
 そして部屋を出ていった。
 あかねは放心したように、ベッドに腰掛けた。手の中には一枚の写真が残されている。ポラロイドだから、数分で完全に見えるようになるだろう。
 今はまだ画像に黒い紗がかかったまま、抱き合う男女の影が見える。本当にこれが乱馬とあたしなのかしら?
 あかねは全てが見えてしまう前に、写真をふせて、机の奥へしまった。さっきの乱馬との子供みたいなけんかを思い出した。言った。言ってねえ。言った。言ってねえ。
 今はまだ、いいや。おねえちゃんの言うとおり、本当のキスはとっとこう。いつかこの写真を見てなつかしく思うことができるまで。




(初キッスがレモン味だとしたら、事前に舐めてた飴のせい)

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