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10 ガラスのハート

 しゃがんでいると、太ももの裏に汗がたまってきた。30分近く経っている。もう帰ろうか。それによく考えたらなんで隠れているんだろう。
 乱馬が自分とのデートをすっぽかし、喧嘩していることも忘れて、何に気をとられているか知りたいからだ。乱馬は傘をゆっくり振ったり、鼻歌を歌ったりして何かを待っている。もう出て行って、「こんなところで何してるの」と聞いてしまおうか。
 あかねが茂みに隠れるのをやめて、立ち上がりかけたとき、誰かの声がした。
「早乙女乱馬さま!」
 あかねはしゃがんで隠れた。葉の影から乱馬のほうをのぞいた。
 乱馬に駆け寄ったのは女の子だ! つばの広い麦藁帽から長い髪が見えた。淡い黄色のワンピースを着ている。あかねは耳をすませた。女の子は、言った。
「ごめんなさい。支度に時間がかかってしまって」
「全然。おれも今来たとこ」
 30分も待っておいて、今来たところ? いつからそんな気の長い男になったんだろう。
「本当に良牙さまにお会いできるんですね?」
 女の子は柔らかい声で尋ねた。
 それを聞いてあかねは気付いた。女の子は、良牙の彼女の雲竜あかりさんだ。カツ錦を連れていないからわからなかった。
「うん、会える会える」
 乱馬は軽くそう答えると、笑顔であかりの背中を押した。
「とりあえず歩こうよ。あ、今日でっかい花火大会あるって知ってた?」
「それより、良牙さまはどこに…」
「歩いてればそこらからわいて出るって。とりあえず、花火見に行こー♪」
 乱馬とあかりは連れ立って歩きはじめた。十分遠ざかったのを確認して、あかねは茂みから出た。
「乱馬ったら、何考えてんのかしら」
 あかりちゃんを良牙くんに会わせてあげるつもりかしら。なんか乱馬がやたら浮かれて変だった気がするけど。嫌な予感がする。とりあえず追いかけよう。
 あかねは近道するため、後ろの茂みを突っ切ろうとした。盛りを過ぎた背の高いアジサイが群生している。こそばゆい葉をかきわけて進んだ。旅館のつっかけに少し土が入った。靴を履いてくるんだった。歩きにくくって仕方ない。
 何かにつまづいた。
「きゃっ」
 転びそうになって、思い切り足元の何かを踏みつけた。うぅっ、とうなり声があがった。足元を見た。人が倒れている。いつものバンダナを頭に巻き、大荷物を背負った良牙だった。
「良牙くん! こんなとこで寝てる場合じゃないのよ」
 良牙を引き起こし、揺さぶった。良牙はあかねに揺すられるまま白目をむいている。
「あかりちゃんが探してたわ」
 良牙は気がついた。
「はっ。あかねさん! どうしてこんな人里はなれた山奥に」
「そんなことより良牙くん。あかりちゃんが探してたわよ」
「えっ」
「早く会ってあげたら」
 良牙は一瞬、表情を輝かせたが、次の瞬間には戸惑って何か考えている。
「いや、そのぉ…。おれも会いたいのはやまやまなんですけど」
「なに?」
 あかねは少し苛々しながら良牙の話を聞いた。はっきりしないのは乱馬だけで十分だ。
「実はあかりちゃんと喧嘩中なんです」
「珍しいわね。良牙くんと、あかりちゃんが」
「はい。ささいなことなんですが、仲直りするきっかけがなくて…」
「とりあえず、あかりちゃんと会って話してみたら? ちょっとしたことでこじれて喧嘩するの、くだらないでしょ」
 乱馬と自分のくだらない喧嘩を棚にあげて、あかねは言った。
「それはそうなんですが。おれ、方向オンチだから、次会えるのはいつになるやら…」
「あたしが連れてってあげる」
「ほんとですか?」
「あっちに行ったわ! ついてきてね、良牙くん」
 あかねはときどき振り返りながら良牙を確かめた。何度か良牙はわき道へそれかけたが、そのたびにあかねは「そっちじゃないったら」とつかまえて腕を引っ張った。
 良牙を連れながらなので、縁日の開かれている神社まで来るのに、やたら時間がかかった。乱馬とあかりの姿はすでに見失ってしまった。
 見回しても乱馬は見当たらない。人が多すぎる。紅いちょうちんの灯りが、屋台ののきに列を作っていた。内輪を持って、浴衣を着た人たちは縁日を楽しんでいる。振り返ると、良牙があてずっぽうなほうへ歩きだすところだった。
「良牙くん! そっちは林よっ」
 あかねは良牙の服を強く引いた。
「あれ。そうですか」
 良牙はこちらに向きなおった。バンダナの辺りに手をやって、周りを見回した。
「いやあ、大きなお祭りだな。花火もあるんですよね。こうしてあかねさんと見れるなんて、嬉しいな」
 なにのんきなことを言ってるんだろう。
「良牙くんも探して。あたしより背が高いんだから見えるでしょう」
「はい」
 そのくらい、混雑していた。
 祭りの出店を半周したところで、あかねはやっと見慣れたおさげを見つけた。
「乱馬!」
 服をつかんだ。が、振り返った人をみて驚いた。人違いだ。背の高い、おさげの女の人だった。
「ごめんなさい」
 謝ってまた探した。祭りの総合運営をしているテントでは、迷子が数人あずけられて泣いていた。この人込みで子供をしっかり見ていて迷子にしないのは至難の技だ。あかねは良牙を連れているのでその苦労がよくわかった。
「あっ」
 あかねは叫んだ。今度こそ間違いない。乱馬だ。
 射的のところで笑いながら、あかりに話しかけている。ここからは20メートルほどある。視界に何度か人がかぶさったが、あかねは見失わないようにしながらそちらへ進んだ。
「乱馬!」
 聞こえたのだろうか。乱馬はこちらを見た。一瞬、目が合った。
「乱馬っ」
 乱馬は目をそらすと、あかりの手を引いて人の流れに入って行った。
 あかねは驚いた。なんで逃げるんだろう。
「良牙くん! 今の、乱馬とあかりちゃんだったよね」
「え? おれ、わかりませんでした」
「見間違いじゃないと思うんだけど…」
 あかねと良牙は、乱馬とあかりの消えたほうへ歩いたが、もうふたりは見つからなかった。
 そのとき、冷たいものが顔に当たった。あかねは空を見上げた。雨だ。
 良牙があわててじゃのめ傘をひろげ、あかねにもさしかけた。今まで祭りを楽しんでいた群衆は、あわてて帰りはじめる。屋根のない屋台はビニールシートを商品にかぶせた。蒸したような土の匂いがした。
「あかねさん、とりあえず神社の社殿いきませんか。ちゃんと雨宿りできますよ」
 良牙とあかねは、奥まった社殿の縁へ向かった。



 社殿の縁は暗いので涼しいかと思ったが、かえって蒸し暑かった。良牙はちゃんと雨宿りできる、と言ったが、実際にはほとんど屋根の部分はなく、雨宿りを目当てに来た人たちは引き返して行った。
 良牙とあかねはふたりでひとつの傘に入っているが、奥の方にも相合傘している男女の人影がある。あかねは良牙を引いて、とっさに縁の下へ入った。
 見間違いでなければ、相合傘しているのは乱馬とあかりさんだ。良牙とあかねは中腰の姿勢のまま、縁の下を通って、乱馬とあかりに近づいた。乱馬とあかりの足だけが見える。乱馬の中国靴と紺色のズボン。あかりの黄色いワンピースのすそと、白いサンダルが並んでいた。雨音は弱まって、乱馬の声が聞こえやすくなった。
「…だよ、あかりちゃん」
「でも」
「楽しくなかった?」
「そんなことありませんわ。でも、良牙さまが」
「良牙なんか、いつどこにいるかわからないだろ。おれならいつでも側にいてあげられる」
「そんな。そんな。乱馬さまにはあかねさんがいるじゃありませんか」
「良牙のほうがいいのか?」
「…」
「…そ、か」
 乱馬が、足の位置を少し変えた。通り雨はやみかけて、乱馬は傘をたたんだようだ。
「おれが黒豚溺泉に落ちて、ブタになれたらよかったのに」
 あかりさんに向かって、何言ってるんだろう。あかねはあっけにとられていた。隣の良牙は拳を握ってぶるぶる震えている。
「乱馬、きさまーっ!」
 良牙は縁の下から飛び出した。あかねも続いて出た。
 あかりが、「良牙さま!」と言った。
 良牙は、あかりをかばうように近くに寄った。
 乱馬は良牙に向かって構えた。
「ちょうどいい。良牙、この場で勝負しろ!」
 乱馬は良牙に指をつきつけた。「勝ったほうがあかりちゃんと交際するんだ」
「ばっ、ばかやろう! お前、今あかりちゃんにふられたばっかりだろ!」
「うるせえ。問答無用だ! 勝負するのか、それとも逃げるのか!?」
「逃げるわけないだろう!」
 良牙は乱馬にのせられて、前に進み出た。
 あかねは良牙を止めた。
「良牙くん駄目よ。乱馬の口車に乗せられちゃ。からかわれてるんだから」
 良牙は、あかりと何か小さな声で言葉を交わした。あかりはバッグに手をやって、何か取り出した。内緒話をしているみたいなふたりが気に入らないのか、乱馬はいきなり良牙に飛びかかった。
「きゃあ」
 とあかりが叫ぶ。
 乱馬が良牙に馬乗りになって、腕を高く振り上げた。と、乱馬の動きが止まった。自分で振り上げた拳を顔の前に持ってきて見つめ、「あれ」と言っている。
 あかりが地面に何か置いていた。良牙は、乱馬をはねのけた。乱馬は喧嘩する気はなくなったらしく、良牙と何か話している。文句をいいながら、あかりが地面に置いた石のようなものを拾った。

 状況がつかめなかった。あかねは、とりのこされている。良牙も、あかりも、事情を知っているみたいだ。
 乱馬が、初めて気付いたという風にあかねを見た。
「あれ、あかね。いたのか」
 いたのか。ですって?
「いたわよ…。あんたがあかりちゃんに告白してたときから! ずっと!」
「え゛」
「もぉお、あんたなんか知らない! 勝手に黒豚溺泉でもなんでも、溺れてりゃいいのよ!」
 あかねはそういい残し、もと来たほうへ踵をかえした。猛烈に腹が立って、視界が燃えているみたいだ。
 あたしを馬鹿にするのもいいかげんにしてほしい。あかりさんを好きですって? おれはいつでも側にいてあげられる? ああそうですか!
 さっきの雨でぬかるんだ地面が、泥になって、あかねのつっかけの中に入ってきた。ぬちゃぬちゃする。気分は最悪だ。
 早足で神社の境内を歩いていると、じょじょに煮えたぎった頭が冷えてきた。
 どうして乱馬はあたしを無視したり、からかったり、ひどいことをするのだろう。どうして昨日あたしとデートした場所で、他の女の子に告白できるんだろう。
 乱馬がわからない。あかねは乱馬を遠く感じた。2度と会えない人のように思った。言葉は通じても気持ちが通じない。
 あかねはどんどん歩いた。早足か走っているのかわからないくらい必死で足を交互に出した。
 彼は負けず嫌いで陽気で、そばにいると楽しい。ふだん悪口を言いあっていても、照れ隠しだと思うようにしてきた。でも、他の女の子とデートをしたり、あかねの好意を無視しても、悪いとは思っていないようだ。その証拠に、知っていて何度もあかねを裏切る。
 あたしは台風の目みたいなあの人に、振り回されているだけなのかもしれない。時々思いついたように見せるあたしへの好意は、ただのきまぐれなんだ。今までもそう思うことはあったが、今は特に強くそう感じた。
 あかねが心の中からしめだそうとしたその人は、あかねの後を追ってきていた。後ろで足音がする。
 話したくない。声を聞きたくない。
「あかねっ」
 乱馬はあかねを呼んだ。
「ちがうんだって! さっきのは…」
「ついて来ないでっ」
「話聞けよ!」
 あかねはすーっと深呼吸をした。乱馬と自分のことだけなら、今、走って乱馬から離れてしまっても構わないが、良牙とあかりのことがある。あかねは止まって、振り向いた。乱馬を正面から見た。落ち着いた声を出そうとした。
「なんであかりちゃんなの。乱馬、良牙くんの友達でしょう?」
「何の話だ」
「友達の彼女をとっちゃっても、平気なの?」
「だから違うって! 話せば長くなるけど、もとはと言えば良牙が」
 あかねが少し後退すると、逃げ出すと思ったのか、乱馬は手を伸ばしてつかまえようとした。
 あかねはその手を叩いた。バシッと音がした。
「嫌っ。触らないで」
 自分でも予想外なくらいきつい口調になってしまった。
 乱馬も驚いて、叩かれた手の甲を気にしていた。
「あかね」
「どうしてこんな意地悪するの? 何考えてるかわからない。…あたし、もうあんたといたくない。」
 乱馬は今度こそあかねの腕をつかまえた。あかねは腕を引っぱられたが、体全部で抵抗した。あかねの腕がすりぬけそうになるたび、乱馬は何度もつかみなおした。乱馬が本気で握れば抵抗もできなくなって、痣になってしまうはずだが、そうはされなかった。
「泣くなよ」
「泣いてないわよっ」
「これ見ろ」
 乱馬はポケットからハート型のガラス玉を出した。あかねの目の前につきつけた。あかねは勢いに押されて、少しあごを引いたが、乱馬はさらにあかねに近づけた。見覚えがあった。昨日、あかねが拾った、良牙のものだった。今は乱馬の手の中にある。
「これは呪いのガラス玉で、いま、おれの心が宿ってる」
 突然何を言い出すのかわからない。乱馬の手の中で、ハート型のそれはただのガラスに見える。
「お前にやる」
「…いらない」
 乱馬は無理やりあかねの手にそれをねじこんだ。丸まったあかねの指にひっかかるみたいに、ガラス玉がおさまった。
 あかねの腕をつかむ乱馬の手の力がゆるんだ。そっとなでるような動作で、放した。
「なぁ。ごめん。色々、びっくりしたよな?」
「…」
「その呪いのガラス玉、良牙が持ってきたんだ」
 さっきとは人が変わったみたいに優しい口調だ。
「おれの心は、そのガラス玉を持ってるやつの物になるんだ。最初は小さい女の子で、次にあかねで、あかりちゃん。で、今またお前が持ってる」
 あかねのかたくなな態度をほぐそうとするように、小さな子を相手に話すみたいに、乱馬は言った。
「なにそれ」
 話の意図がよくわからない。
「だから、おれが本気で想ってるのは…」
 乱馬はあかねの頬に手を伸ばして、自分のほうを向かせた。
「やめてっ、やめて! やめて!」
 あかねは乱馬が何をしようとしているのかわかって、暴れた。すぐに、誰にでもそういうことをするのだ。
 あかりさんにだって、さっき!
「こんなのいらない!」
 ガラス玉を投げつけた。乱馬に投げたつもりが、ガラス玉は乱馬の足元に叩きつけられた。
 カシャン、と冷たい音がした。
 乱馬は何か言おうとしたが、いきなりその場にしゃがんだ。うずくまっている。あかねは何事かと思って、数秒様子を見た。乱馬は動かない。
「なによ」
 乱馬をのぞきこんだ。胸を押さえている。
「どうしたの」
 乱馬はじっと目をつぶっていた。



(今回で終わるはずだったのにやたら長引いて…)
つづく

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