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12 あたしのこと憶えてる?

 いきなりだ。いきなり、お前は無差別格闘早乙女流の二代目だ、と言われた。
「むさべつかくとう?」
 長い単語に一瞬漢字を当てることができなかった。
 布団から起き上がると、後頭部にするどい痛みが走った。手をやると、後ろで束ねて編んであるらしい髪に触れた。
 覗き込むように、若い女が3人と中年男が2人、こちらを見ている。変な緊張感があって、僕は気後れした。
「ええと…君ら誰? どうなってんの」
 とりあえず自分から名乗ろうとして違和感を覚えた。出てこない。焦って言おうとする。出てこない。
 一番近くに座っていた女が、手をのばしてきて襟をつかみ、ぐいぐい揺すった。
「またくだらないこと言って! だまされないんだから」
 見かけによらずすごい腕力だ。振動で後頭部が痛んだ。
「ちょ、ちょっと」
 僕は女の手首をつかんで離した。
 なびきと名乗る女がすすみ出てきて、「乱馬くん、名前と住所言ってごらん」と言った。
 言うべきことが見つからない。
 とっさに右手を見た。この手は一度くらい…いや、生活している人間なら何度も自分の名前を書いていただろう。名前を書く感覚を思い出そうとするが、右手は何の記憶も持っていなかった。もしかして、左利きだったのかも?
「住所は…日本」
「で?」となびき。
「忘れた…」
 なびきはヒゲの中年男と小声で話したが、十分聞こえた。
「うちどころが悪かったんじゃない? 東風先生に診てもらったら」
「今日はもう遅いから、明日のほうが」
 僕は部屋を見回した。和室だ。部屋の中央に今まで僕が寝ていた布団が敷いてあって、僕の後ろは縁側になっている。今は夜らしく外の様子はよくわからないが、縁側の向こうは庭らしい。池が見えた。池の横には1メートル強もありそうな庭石が無造作に転がっていた。
 ここは僕の家だろうか。全てはじめて見る。何も見覚えがない。懐かしさすらかった。
 ここにいる誰かを知っているかと聞くから、知らないというと、紹介された。
 長女かすみ、次女なびき、三女あかね。ヒゲのおじさんが天道早雲で、手ぬぐい頭が父親の早乙女玄馬。自分の名前も知ったばかりなのに、一気に5人も覚えられるはずがなく、僕にはここが夢の中みたいに思えた。
 記憶喪失だって―――ドラマでよくある。僕が?
 実感はなかった。
「うそ。あたし信じない。からかってるんでしょう」
 ショートカットの娘(まだ名前を覚えていない)がにらんだ。
「僕は嘘なんか言ってない」
 というと、なびきが「ボク!」と繰り返した。何か変なこと言ったろうか。
 長女の、エプロンの、髪の長い女性―――”かすみさん”(玄馬がそう呼んでいた)が助け舟を出した。
「乱馬くんも疲れてるだろうし、あかねも喧嘩しないで。ね?」
 その娘をなだめてからこちらを向き、
「乱馬くんは夕ご飯を食べて、お風呂からあがったところだったのよ。あかねちゃんと喧嘩をして…頭を打ったみたい。明日お医者さんに行くといいわ」
「はあ」
「今日はゆっくり休むといいわ。よく寝たら具合がよくなるかもしれないし」
 かすみさんに洗面所への行きかたを聞いた。ここは結構広い家だ。
 洗面所の大きな鏡に顔を自分を映した。十代後半の少年が映っていた。自分で思っていたより若くて驚いた。さっきの三姉妹の接し方から、なんとなく自分は十代〜二十代だろうと思っていた。
 横を向くと、頭の後ろに三つ編みのおさげがあった。健康そうな顔に、まっすぐな眉。痩せ型ではない。手は大きく、甲に拳タコがあった。腕まくりして気付いたが、筋肉質だ。すそをまくってふくらはぎも見ると引き締まっていて、力を込めると筋肉が盛り上がり、触ると硬い。何かスポーツをやっていたのだろう。あ、格闘家だったか。
 かすみさんは「お風呂からあがったところだった」と言ったが、なるほど、なると柄の中華風のボタンがついたパジャマを着ている。
 すっきりするかと思って、湯で顔を洗った。棚の上にあったタオルを勝手に使った。で、歯を磨こうとしたが、洗面所のコップには歯ブラシが6本立っている。色や大きさはまちまちだ。多分、少し大きめの青、緑、シースルーの青のうちのどれかが僕の歯ブラシなんだろう。
 とたとたと足音がして、さっきのショートヘアの少女が洗面所をのぞいた。
「あのさ」
 僕は声をかける。「僕の歯ブラシどれ?」
「青」
 青の歯ブラシを取った。
「ありがとう。えっと、名前なんてったっけ。もう一回教えて」
「天道あかねよ」
 それきり言うことがなくなって、僕は歯を磨いた。こっちは会って数分の感覚だが、あっちは前から僕を知っている。鏡に映るあかねを見た。さっきは敵意むきだしで僕につっかかって来たが、今はさっきほど怒っていないみたいだ。
「あの。あかね…ちゃんと僕は仲悪かったの?」
「なんで」
「喧嘩してたって聞いた」
「本当に忘れたの? またしらばっくれてるんじゃなくて?」
「しらばっくれてなんか…なんで?」
「だって、乱馬が頭打つ前、喧嘩してるとき―――」
 あかねは、どうして僕が記憶喪失になったか教えてくれた。
 なんでも、あかねのブラジャーが一枚なくなったらしい。あかねは乱馬に訊いたが乱馬は知らないという。だが、盗られた時間と状況を考えると乱馬以外にありえない。問い詰めると、さんざんしらばっくれたあと、あかねの胸は小さいからブラジャーはいらないとか、寸胴とか言って喧嘩をふっかけた。あかねは怒って乱馬を追いかけ、大きめの庭石で殴った。乱馬は打ち所が悪かったらしく、気絶して、目が覚めると今の状態になっていた。
 僕はあきれて物が言えなかった。下着ドロをして殴られ記憶喪失?
 目の前の少女は、「ブラジャー」というとき、声を小さくした。この娘の下着のことなんて考えもしなかったので、恥ずかしかった。勝手に女の子の下着をいじるなんて、前の僕はあかねと深い関係だったか、よっぽど馬鹿だったか、どっちかだろう。
「そうか。ごめん。ありがとう」
 どんな顔をしていいかわからないので、僕は洗面所から出て行こうとした。
 あかねは僕の腕をつかんだ。
「乱馬、他に痛いところとかない? ごめんね」
 初めて近くであかねを見た。彼女の瞳は大きい。さっきはキツい娘だと思ったが、こうして話してみると優しいところもあるらしい、普通の女の子だ。普通に心配してくれているだけなのに、変に胸がつかえたみたいになった。僕はよっぽど女に免疫がないらしい。
「痛いところなんかない。僕は平気だ」
 あかねは変な顔をした。
「”ぼく”っていうのやめてよ。変。いつも”おれ”って言ってたわ」
「おれ」
「そう」
 僕はもう一度口の中で、「おれ」と発音してみたが、慣れてる感じはしなかった。「ぼく」にだって慣れてる感じはないが、どっちだって大差ない気がした。
「僕は僕なんだし、いいじゃないか。別に」
「そりゃ、いいけど」
「それじゃ…」
 僕は逃げるように洗面所から出た。
 父親の玄馬という手ぬぐい頭と同室で寝るはずだったのが、どういうわけか丸々と立派な大きさのパンダと同室で寝ることになっていた。こういうのは室外で飼うものじゃないだろうか。目つきの悪いパンダだ。触ってみると見た目より毛皮が硬く、毛がごわごわしていた。白い部分と黒い部分の毛皮の手触りは同じだった。パンダは布団を敷いている。寝ている間に襲われないといいけど。パンダって雑食だったかな? それは熊か。
 やたら動作がおっさんくさいパンダだったが、やがて僕と布団を並べて就寝した。僕は天井の木目を見た。見覚えはなかった。今日起きたことが、全部冗談みたいに思える。不安になっても仕方ない。目が覚めたら全部思い出しているかもしれない。幸い、僕には面倒をみてくれる縁者もあるみたいだし。
 16歳の格闘家。その言葉に何の覚えもなかった。お前はサラリーマンだと言われれば、僕はハァそうですかというだろうし、お前は整体師だと言われても、ハァそうですかと答えるだろう。格闘家だと言われたときも同じだった。根無し草の浮遊感が僕を包んだ。世界中の人がぐるになって演技をし、僕をだましているのかもしれない。
 思い出そうとするのをやめると気が楽になった。そのまま僕はウトウトと浅い眠りに落ちた。




「…んまっ、乱馬っ」
 まぶしい光が差し込んで、布団がはぎとられた。
「早くしないと学校遅れるわよ!」
 まだ眠かったが、なんとか身体を起こした。だるい。眠い。はいだ布団を片手に、もう片方の手を腰にあて、仁王立ちしているのはあかねだ。とりあえず、「おはよー」と挨拶してみた。
「遅刻するってば!」
 起こしてくれたらしい。二度寝したら失礼だろうと思い、僕は起き上がった。遅刻遅刻って…あかねは薄青の、不思議の国のアリスみたいなデザインの制服を着ている。
「学校行くの?」
「あんたも行くのよ」
 あかねは僕の背中を押す。僕も行くのか。僕は自分が記憶喪失だったことを思い出した。
「顔洗って、居間でご飯だからね」
 洗面所に放り込むように僕を置いていった。
 僕は顔を洗い、いったん部屋へ戻って服を探した。部屋を見回すが制服らしきものはない。仕方ないから、箪笥に入っていた人民服の上下に着替えた。ぴったりだし、多分僕の服だろう。
 食事をして家を出た。なびきも同じ学校に行くらしい。あかねと同じ制服を着ている。「もう行くわよ」とあかねがせかした。僕の皿にはまだサラダが半分残っていたが、道がわからない僕はあかねについていくしかないのであきらめて家を出た。僕とあかねは並んで歩いた。
「一晩寝たらよくなった?」
 とあかねが聞いてきた。
「いや。全然」
「そう」
 あかねは少し暗い声で、「帰りに東風先生のところへ連れていってあげる。名医なのよ」
「学校って、高校だよね。あかねは何年生?」
 僕は話題をそらした。思い切って「あかね」と呼び捨てにしたが、嫌そうな顔はされなかった。あかねが僕を呼び捨てにしているから、大丈夫だろうと予想はしていたが。
「あたしも乱馬も1年F組よ。なびきお姉ちゃんは2年」
 川沿いの、学校までの道をしっかり憶えた。川をのぞきこんだが魚はいそうになかった。
「乱馬は毎朝フェンスの上を歩いて登校してたの」
 あかねが言った。
「この川沿いのフェンス?」
 けっこう長い距離なのに。僕はそんなサーカスみたいなことが出来るのか。やってみようという気にはならなかったが、あかねがやって欲しそうな顔をしていた。仕方ない。「よっ」と掛け声を出して、フェンスに足をかけた。両足を乗せて手を離した。結構高いが、いける。バランスをとって歩いてみた。楽勝だ。
「いけるいける」
 と笑いかけると、あかねもつられて少し微笑んだ。にこっ、という感じだ。
 驚いた。
 僕の胸に塊がつかえて、きりきりと痛んだ。
 ああ、この娘、笑うとすごく可愛い。どうしよう。
 いきなり声がした。
「早乙女乱馬ーっ、覚悟ーっ!」
 …僕?
 振り向くと、木刀を振りかざした男が駆けてくる。男は木刀を振り下ろした。僕はとっさに両手で木刀を挟み、真剣白刃どりの格好になった。
「なっ、なんだ! あんた!」
 僕は木刀を振り払い、慌ててフェンスから降りた。男は両手をひろげ、あかねに抱きつこうとした。
「おはよう天道あかねーっ」
 あかねは鞄をうまく振り回し、木刀男の顔面にぶつけた。2、3回殴り、木刀男が目をまわしたところであかねは走り出した。
「九能先輩にからまれたら面倒だから、急ぐわよ!」
「なにあれ。生徒?」
「校長の息子で、変態! 2年の九能帯刀先輩!」



(ベタベタの記憶喪失ネタ!)
つづく

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