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15 豆腐の角

「乱馬。いる?」
 あかねの声と同時に、部屋のふすまが開いた。
「ひっ」
 僕はブラジャーを放り出しそうになった。手の上をすべり、泳ぐブラジャーをつかまえ、とっさにふところへねじこんだ。
「聞いて! 記憶喪失が治りそうな方法、いろいろ聞いてきたの」
 あかねはとんとたたみに両膝をつけて、僕の隣に座った。あかねは僕の顔をまじまじと見た。
「怪我してる…」
 そういえば、僕の顔はバンソウコウだらけだった。
「大したことねえよ。それよりなんだ? 治す方法って」
「あのね」
 とあかねは気をとりなおした。「いろいろあるの。全部試してみよ!」




 目の前には、さまざまな食材が広がっていた。あかねが台所から居間へ一生懸命運んでくる。
「鍋でも作る気?」
 ときくと、
「何言ってんの。治療よ治療っ」
 という答えが返ってきた。やっと全てを運び終え、あかねは僕の隣に座って一息ついた。
「ええっとまずは〜」
 あかねはネギを手にとり、僕の首へ手を伸ばした。ネギを僕の首へ一周させ、前でぎゅっと結んだ。青臭い匂い。
「ネギを首に巻くっ。それから〜」
 壷を抱えて、中から梅干を取り出した。
「梅干を額に貼るっ」
 あかねの腕が伸びてきて、ぺちょっ、と冷たい梅干の果肉が、額に当たった。
 あっけにとられていた僕だが、やっと言った。
「おい。なにすんだ」
「どう? 効いてきた?」
 あかねは不安と期待の入りまじった顔で僕を見上げた。心底、ネギと梅干の力を期待しているようだ。
「効くかよっ」
「あれ? おっかしいな。でもまだまだあるから」
 あかねはレモンの輪切りを僕の顔に貼り付けはじめた。冷たい。
「そりゃ美顔パックだ」
 次にあかねは、豆腐を取り出した。
「豆腐の角で頭打てとか言うんじゃねえだろうな」
 びくんとあかねが引きつって、笑い、ごまかした。図星か。このへんから怪しくなってきた。
「もういいよ」
 そうめんで首をくくられそうになったあたりで、僕は断った。
 あかねは「ごめんね」、と僕の顔からレモンをはがした。僕はネギごしに悲しそうなあかねを見ていた。
 本気だったのか…。
 とりなすように僕は、明るく切り替えて言った。
「そうだ、数学の宿題教えてくんねーか」
 あかねは僕につられて、少し晴れた調子で言った。
「うん。いいわよ。あたしの部屋でやりましょ」
 僕はあかねの表情を探った。
 勉強なら居間でも空き部屋でもできる。あかねの部屋に行ったことはなかった。女の子の部屋にも行ったことはなかった。いや、あったのかも知れないが、憶えていない。あかねの誘いは、僕の耳に少しだけ甘酸っぱく聞こえた。いいのかな。許婚だものな。それとも、純粋に勉強をするだけ?
 僕はまだ、あかねの巻いてくれたネギを握っていた。
 あかねの口からこぼれた、「あたしの部屋」という言葉の裏を読み取ろうとした。
 あかねはさっぱりした顔で、なに? という風にまっすぐ僕を見返した。




「そこ、因数分解間違ってるわよ」
 あかねの部屋は、毛足の柔らかい絨毯がひいてある。ベッドや椅子、洋服箪笥は白や黄色などの薄い色で統一されていた。
 僕とあかねは部屋の真ん中に四つ足の机を出して、宿題に取り組んでいた。
「そうか。どうりで合わねえわけだ」
 僕はノートに長々と書かれた計算を、消しゴムでぐりぐり消した。
 あかねは本気で勉強をするつもりだ。変な期待をしてたのは僕だけだ。情けないやらため息が出るやら、数学に向かう気持ちもしぼんでしまった。ネギを巻いてくれたから、仲良くなったような錯覚を起こしたんだ。
「どうしたの? 元気ないわね」
 ため息が聞こえたらしい。
「うん。おれ、ちょっと…疲れた」
 座った体勢から仰向けに寝転がり、頭の下で手を組んだ。
 居候部屋の畳の部屋と違って、ふんわりとした絨毯の弾力が新鮮だった。組みあわせている手の甲にするりとなめらかな絨毯の毛足が触れた。僕は眼をつぶる。空気で感じる女の子の部屋。あかねの部屋は、他の部屋にはないかすかな香りがあった。あかねの服とか木の家具とか体臭とか、そういうものが少しづつ溶け出して出来た匂いなんだろう。
 まだ少し緊張していたが、居心地がいい。身体が絨毯へ沈み込んでいくみたいだ。
 実際、僕は疲れていた…。
 まぶたの裏を、とぎれとぎれの映像が飛び交う。
 学校の授業。どんどん進む黒板の文字。制服姿のあかね。天道家の食事風景。パンダ。ふと振り返ったあかねが僕に言う。「あんたなんか乱馬じゃない」。紫色の空気。あかねの足元から、僕の重ねた嘘がドロリとわきでて僕を飲み込む。
 突然、冴えた声が僕を引き上げた。
「眠いの? 乱馬」
 全身に弱い電流が走る。びくっと痙攣して目が覚めた。寝かかっていた。
「いやっ、大丈夫っ」
 僕は起きあがり、かぶさるように机に向かった。
「眠いなら少し寝たら?」
「いやいい」
「無理しないで。ちょっとづつでいいじゃない」
 ね? とあかねは、母親みたいに優しく僕をのぞきこむ。その優しさはほんの少し、悪夢を押し流したが、それにすがってはいけない気がした。
「何言ってんでえ。眠くないって言ってんだろ」
 僕は強く言った。
 あかねはなだめるみたいに言った。
「無理に乱馬の言葉使わなくていいのよ」
「…え? あの…おれ…」
 一瞬意味をつかめなかった。
「がんばってるのは知ってるけど、無理したってどうにもならないでしょう」
「知ってたの?」
「うん。ときどき言葉づかい変だもん」
「そう…。けっこう似てると思ってたんだけど」
 気が抜けた。
「だますつもりじゃなかったんだ。僕…」
 あかねはさえぎった。
「なにも心配しなくていいの。無理しなくていいのよ。ごめんね乱馬」
 そうは言うけど、と僕は思った。そうは言うけど、あかね、切なそうな顔してるじゃないか。ごめんね乱馬って、僕に言ってるんじゃないんだろう?
「僕は大丈夫。格闘も練習して強くなる。前はできたんだ、わけないよ」
 格闘のできない早乙女乱馬は、天道道場の跡取りになれないので、出て行かなければならない。
 あかねは、
「別にっ。強くなくたっていいわよ」
「え…? ほんと?」
 僕は訊きかえした。
「他にもいいところくらい…」
「僕のいいところって? どこ?」
 ”僕の”を強調したことに気付き、あかねは僕を見た。僕は姿勢を正した。
「えっと、あれよ」
 あかねは人差し指を指揮棒みたいにちょいちょいと宙で回し、視線を斜め上にやっている。
「そう! 前より優しくなったっ」
 思いついたらしく、あかねの表情が明るくなった。
「勉強も真面目だし、素直よ」
 少しは僕のことも見ていてくれたんだ。嬉しい。こんな風に言ってくれるなら、どんな苦労をしても構わない。僕は久しぶりに褒められた子供みたいに、どきどきして、胸がパンクしそうだった。
「ありがとう。嬉しい」
 と言うと、あかねも照れて黙ってしまった。スカートをきゅっと握りしめるのが見えた。
 記憶をなくして不安なときに親切にしてくれたから好きなったわけじゃない。僕が最初から早乙女乱馬だったらよかったのに。
 僕は思い切って手を伸ばし、あかねの手に重ねた。あかねは一瞬ひるんだみたいに、スカートから手を離した。あかねの手の中に、僕の手をすべりこませた。僕とは質の違う、柔らかな手。
 あかねは大きく目をみひらいて僕を見た。僕は緊張していた。手は汗ばんでいただろう。
 きっと僕の記憶喪失は治らない。何を見ても懐かしいとは思わない。新しいものばかりだった。昔の僕の真似もしてみたけど、しっくりこない。
 僕は心を決めた。もう早乙女乱馬の真似をするのはやめだ。
 あかねにだって会って数日だけど、一目ぼれって言葉があるんだ。昔の僕がどんな風だったかは知らないが、それよりずっと大切にする。優しくなかった男のことは忘れて、そろそろ僕を見てくれないか。
 僕は口を開きかけた。
 階下からかすみさんの声がした。
「乱馬くん、あかねぇ。お客さまよ」
 僕とあかねは、散るように手を離した。




 僕の見舞い客というから、誰かと思ったら、九能先輩と眼鏡の中国男だった。眼鏡の男は猫飯店で紹介された、ムースだ。確かシャンプーを追いかけて日本に来た男だ。
 とりあえず道場にふたりを通した。
「見舞いに来てやったぞ、早乙女乱馬」
 九能が青い花束を僕に差し出す。「それ、ありがたく受け取るがいい。忘れな草だ」
 僕は不機嫌だった。当たり前だ。あかねに告白するところだったのを邪魔され、九能先輩のこの横柄な態度。
 あかねがふたりに茶を出した。
 ムースが僕に包みを渡した。
「これはミョウガじゃ。たくさん食え」
 僕は右手に花束、左手にミョウガを持って、
「おい。確かミョウガって、食べると物忘れがひどくなるっていう…」
 ムースは真面目な顔で拳を握った。
「そうじゃ。この際お前は何も思い出さずに、シャンプーのことはおらにまかせるだ」
 九能が、木刀を自分の肩にぽんぽん当てながら、横にいたあかねの肩を引き寄せた。
「はっはっは。天道あかね、早乙女乱馬が全てを忘れた今、ふたりで新しい愛の歴史を築こうではないか」
「遠慮します」
 あかねは九能の手をはねのけた。
「はっは。照れ屋さんめ」
 九能はまだ笑っている。
 僕はあきれた。
「なんだよあんたら! 帰れよ」
「なんじゃ。せっかく見舞いにきてやったのに」
「礼儀を知らんやつだ」
 と九能。
「誰が礼儀知らずだ!」
 僕は立ち上がった。「帰れ! いや、たたき出すっ」
 ムースが素早く袖を振った。広い袖の中から鎖やかぎ縄が飛び出し、あっ、と思う間に僕の胴体を縛り上げ、道場の床にたたきつけた。
「乱馬っ」
 とあかねが言った。
 ムースは僕の背中を踏み、強くしめあげた。
「この手ごたえ…。乱馬、腕が鈍ったようじゃな」
 どけ、と言おうとしたが、ぐぅっとつぶれた声が出ただけだった。苦しい。頬が床に押し付けられている。
 ゆらりと九能が立ち上がり、僕を見下ろした。
「なに本当か。僕が確かめてやろう」
 ムースは僕から少し離れた。
 僕が起き上がるより先に、九能が木剣をふりあげた。
「だーっ」
 剣を振り下ろす九能。やばい、と思ったが、上半身は縛られていて受けられない。
 九能の太刀がひらめき、目の前が暗くなった。
―――なんだ? 僕は気絶したのか。

 だが、体が勝手に動くのを感じた。
 足の親指で剣を受け止めた。そのまま木刀を回転させ、九能の手から振り払う。
 一瞬で身を起こし、後ろ回し蹴りで九能の頭をなぎ倒した。
 反動でおれの体は宙に浮く。
 仕上げに九能の頭へ着地した。
「おれに勝とうなんざ百年早いぜ」
 うりうりとかかとで踏みつけた。



(忘れな草は本来「forget me not」の意味だが…まぁいいか)
つづく

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