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17 じじいの宝

 日曜の夕方、天道家の脱衣所前には怪しい影があった。サッカーボール大の影はドアのすきまに額をこすりつけるような動きで、のぞいている。
 脱衣所の奥で風呂を使っているのは、天道家の三女あかねである。
 影はつぶやいた。
「くっ。この角度からではどうしても見えん…」
 乱馬は八宝斎の頭をわし掴みにした。
「じじい。何してんだ」
「ええい、邪魔するでない! ただでさえ見づらいというに!」
 乱馬は八宝斎をドアからひきはがそうとするが、どういうしがみつきかたをしているのか、腹に吸盤でもあるみたいにはがれない。両手両足で禿げ頭をつかみ、全体重をかけてゆさぶった。
「は〜な〜れーろーっ」
「うぐぐぐ」
 みしみしと音がして、ドアのちょうつがいがはじけ飛んだ。
 やばい、と思うと同時にドアが倒れてきた。ドアの下から身を起こすと、脱衣所の中へ目をやった。あかねは素肌にバスタオルを巻いて、胸の前ではさんだところだった。
 目が合うと、あかねはあっけにとられた表情をみせ、次の瞬間にはどしどし歩み寄ってきた。
「は、話を…」
 と言いかけた乱馬の胸ぐらをつかみ、往復ビンタをあびせた。そして八宝斎を何度もふみつけた。バスタオル一枚でそんなことをして、はだけやしないかと、乱馬は頬を押さえながら小さく心配した。
「出てけーっ!」
 あかねに蹴やられながら、乱馬と八宝斎はよつんばいで茶の間へ逃れた。
「おじいさん、乱馬くん、お茶が入りましたよ」
 息を整える乱馬と八宝斎に、かすみは茶をすすめる。
 八宝斎は乱馬の背中を踏み台にして、ちゃぶ台へついた。腕を組み、目をつぶって何やらつぶやいている。乱馬はそれを聞き取ろうとした。
「―――前はもっと見れたのに、最近では賢くなって死角で着替えるようになってしもうた。由々しきことじゃ…」
「何の心配をしとるっ」
 乱馬は拳で八宝斎を殴った。八宝斎は畳につぶれた。
 一拍おいて、八宝斎はすごい勢いで起き上がった。
「こうしちゃおれん! 乱馬! 早雲と玄馬を呼べ!」




 いつもの茶の間ではあるが、下座には早雲と玄馬がかしこまっており、上座では八宝斎が小さな体をこころもち反らせて腕組みしている。なびき、かすみと乱馬は入り口のところでその様子を見物している。いつのまにか服を着たあかねもかすみの隣にいた。
「お師匠さま」
 早雲が言った。「大事なおたっしとは何でしょう?」
「うむ」
 ふところから煙管を出し、一服してから、八宝斎は言った。
「先刻、重大なことを思い出した。実は飛騨山中に宝を隠してある」
 宝と聞いて、なびきが一番前に身を乗り出した。
「そろそろ時期じゃと思うので、探しに行きたいが、供はひとりにしたい。なにせ秘密の宝じゃからの」
 あかねが、「もったいぶるのね」とつぶやいた。
 八宝斎はふいに、宙に視線を泳がせた。
「そう、アレをめぐり、楽京斎とわしは激闘を繰り返した。何年にもわたって。おかげで宝の行方はうやむやになり、わかっているのは飛騨山の温泉―――秘湯中の秘湯にあるということだけ」
 玄馬が言った。
「それを我らのうちの一人と探しに行くと?」
「そうじゃ。その宝さえあれば、わしはもう心残りはない。それさえあれば武道家の夢どころか、男の夢、全人類の夢が叶う」
 玄馬がひじで早雲を押しのけた。
「是非、わたくしめをお供に」
「あっ、早乙女くんきみってやつは。お師匠さま、是非私をお供に」
 八宝斎はふたたび煙管をふかしはじめた。
「わしはどっちでも構わんぞ。早よ決めい」
 玄馬と早雲は言い合いをしていたが、道場で手合わせして勝ったほうが八宝斎の供をすることに落ち着いた。
 あほくさ、と思いつつも、乱馬は早雲と玄馬が試合しているところを見たことがなかったので、興味から試合を見物した。かすみは夕飯の片付けがあるから、と行ってしまった。
 早雲も道着に着替え、ふたりが向き合って構えたときには、それなりに乱馬も居住まいを正した。あかねも正座して、試合開始を告げた。
 出だしこそ真面目に空手技を繰り出していたふたりだが、玄馬が早乙女流の技を出しはじめたあたりから怪しくなってきた。
「無差別格闘早乙女流、地獄のゆりかごっ」
「ぎゃぁああああ」
「突発奥義、口髭抜毛拳!」
「ひぃいいい」
 玄馬が優勢かと思われたが、早雲も負けじと手ぬぐいを奪おうと、玄馬の頭を掴んだ。おそらく禿げ頭であろう頭部をさらすことを、玄馬は異常に嫌がっている。
 あまりにあほらしくて、40分を過ぎたあたりで、乱馬は「もう引き分けでいいじゃねえか」といさめた。
 汗まみれだった玄馬が戦闘態勢を止めた。
「天道くん、見損なったぞ。あのような卑劣な技を」
 同じく息の荒い早雲が答える。
「君が先にやったんだろう。それに、髭技はちょっと痛かったねぇ…。怪我はなかったけど」
 早雲は口髭に手をやってなでた。
「それはわしに対する当てつけかねっ」
 玄馬は顔を真っ赤にして怒っている。「天道くんがこのような非道な男とは思わなんだ。今日を限りに兄弟弟子の縁を切ってもらう!」
「望むところ」
 と早雲も答えた。
 乱馬は、「おやじ!」と声を大きくした。
 あかねも駆け寄って、「お父さん」と言った。
「乱馬、荷物をまとめろ! …天道くん、長い間世話になった」
「えらい迷惑だったよ、きみ」
「もうその髭面を見なくていいと胸がスッとする」
「なら早く出て行きたまえ」
 早雲は、玄馬と早雲の間に割って入るように立つ乱馬を、ちら、とにらんだ。
 乱馬は真面目な顔をしている早雲が苦手だ。どきりとした。
「乱馬くんとあかねの婚約はなかったことにしてもらう」
「当然。志を異にする流派とは敵同士! ゆくぞ乱馬!」
 玄馬は乱馬のおさげをつかみ、道場を出て行きかけた。引きずられながら乱馬には、道着姿の早雲と、おろおろしながら早雲のそばに立つあかねが見えた。
 玄馬はそのまま居候部屋まで乱馬を引いていき、荷物をまとめはじめた。
「おやじ! 本気かよ!」
「本気だとも。ああまで言われて、これ以上この家に居られるものか。それとも何か。残りたいのか」
 目をのぞかれて、乱馬は言葉に詰まった。
「べ、別におれは…」
「そうだろう。とにかく出て行くしたくをせい」
 本気で出て行く気らしい。玄馬のリュックは、もう7割方埋まっている。
「手前の都合で勝手言いやがって! おれだってなっ、おれの都合ってもんがあるんでい!」
 乱馬は自分なりに説得しようとこころみたが、玄馬は耳をかさない。おれは知らない、と座り込んでそっぽを向いた。
 いきなり、ふすまが開いた。
「早乙女くん、まだいたのかい」
 早雲だ。
「お、おじさ…」
「さっさと出て行きたまえ!」
「今出て行こうと思ってたところだ! 乱馬、はよせい!」
「乱馬くんの荷物は表へ出しておく。あとで取りに来ればいいだろう」
「乱馬、ゆくぞ!」
 かすみさん、かすみさんならこの場をおさめてくれるかもしれない。乱馬はそう思い、台所へ行こうとしたが、早雲が立ちはだかった。
「そっちは玄関じゃないだろう」
 乱馬は手ぶらで、玄馬に連れられて、天道家を出た。2階のあかねの部屋の窓を見上げる。
 あかねの部屋の電気はついていなかった。早雲を説得しているのかもしれない。
 乱馬はまだ状況に、気持ちがついていかないのを感じた。こんなに簡単に、いきなり、許婚を解消されるとは思わなかった。出て行くというのに、あかねに何も言っていない。
 何度も振り返りながらあかねの部屋を見上げる乱馬に、玄馬は、女々しいぞ! と叱咤した。早乙女親子は天道家を離れて行った。




 もうすっかり日が落ち暗くなった空き地に、どさどさと荷物を投げ出したのは、玄馬だ。玄馬から5メートルほど距離をとり、立ち止まったのは、乱馬である。
 玄馬は荷物を開き寝袋を出し始めた。寝袋を広げてはたき、空気を入れたところで、玄馬はまだ立ったままの乱馬に気付いた。
「なんじゃ、お前の寝袋はないぞ。天道くん家に置いてきたろう」
 父親の面がやけに憎たらしかった。
 あんなにあかねのおやじを怒らせて、あの剣幕では、天道家に入れてもらえないだろう。
 玄馬はランプに火を入れた。丸い眼鏡と四角い顔が、赤く照らし出された。
「非道い男だ、天道くんは。長い付き合いじゃがあのような男だとはおもわなんだ」
「くだらねえ喧嘩に巻き込むんじゃねえ!」
 乱馬は大きな声を出した。「勝手に許婚にするだのやめるだの、おれらを何だと思ってんだ」
「じゃから、許婚は解消でいいだろう。未練があるのか」
「なっ。んなわけ!」
「そうじゃろうな。あかねくんとお前は不仲だったから。あのまま許婚を続けていたとて、本当に夫婦になれたか、あやしいもんじゃ」
 あまりな言い草に、乱馬は、指をならしながら玄馬に近づいた。
 数秒後、空き地では玄馬がたんこぶを作って失神していた。
 玄馬の顔から、ひびの入った眼鏡がずり落ちた。




 乱馬は天道家に向かって、小走りに駆けた。
 今、夜の11時である。早雲と玄馬のいざこざが起きたのは一時間ほど前だから、少しは早雲の怒りもとけているかもしれない。乱馬ひとりなら家に入れてくれるかもしれない。まぁ、それは、一番都合のいい予想だが。
 角を曲がると、天道道場の、東京に構えているにしては立派な瓦葺きの門が見える。門等の黄色い灯りの下に乱馬のリュックがこんもりと照らされており、そばに女が立っているのが見えた。看板のかげになっていてスカートしか見えないが、多分、あかねだ。
 乱馬は速度を上げた。

つづく

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