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20 ボクと駆け落ちしてください

 あかねは鞄の中へ手を入れ、荷物を確かめた。
 服、下着、洗顔セット、お風呂セットに、手帳、文庫本、財布、通帳。
 もう一度腕時計を見、改札を確かめてからホームの柱にもたれなおした。
 約束の時間から20分はすぎている。何かあったのだろうか。行き先が早雲に知れるかもしれないから、できるだけ知り合いに会いたくなかった。早く電車に乗ってしまいたい。
 乱馬と一緒にいるのがばれて、お父さんが嫌な気持ちになったら、気の毒だと思う。お父さんは泣くかもしれない。何日も私と乱馬がそろって欠席したら、学校の友達は変に思うだろう。
 それでも私は行く。
 私だって乱馬に頼るばかりじゃなく、助け合って強くなろう。宝探しの旅が成功しさえすれば、元の許婚に戻れる。
 遠出用の旅行鞄は重かった。誰にも何も言わないで、じっと待った。
 不安と期待がうずまいてあかねを抱え込んだ。あかねは電車にさえ乗れば、乱馬と旅に出さえすれば、この憂鬱を断ち切ってしまえる、と信じていた。
 乗るはずだった電車が発車を告げた。少し待てば同じ快速急行の電車がある。
 あかねは遠ざかって行く、四角い車両の行く先を思った。
 電車が完全に線路の向こうへ見えなくなると同時に、乱馬の声がした。
「あかね」
 振り返ると、乱馬がちょっと笑って立っていた。
「もう、遅刻よ。切符はどこまで…」
 言いかけて、あかねは言葉を失った。
 乱馬の後ろから、右京がひょいと顔を出したのだ。
「切符やったらちゃんと買うてあるで。あかねちゃん、旅行に行くんやったらうちもまぜてえな」
 乱馬はすまなさそうに、あかねをうかがうように、ひきつったごまかし笑いを浮かべている。
 右京は乱馬の腕をとり、「行こか」と引っ張って歩き出した。
 新たな電車に乗りこみ、3人は向かい合わせの4脚のロマンスシートに座った。乱馬と右京が隣同士で、あかねは乱馬の向かいだ。右京は通路側のひじかけに巨大フライ返しをたてかけている。
 右京はお弁当のことや、店の休業期間について乱馬に話し掛けていた。
 あかねはむっつり黙り込んで、片ひじをつき車窓の外の景色を眺めていた。
 右京がトイレに立った。
 あかねは視線を景色から乱馬に戻し、にらみつけた。小声でかみつくように言った。
「なんで右京がいるの!!」
 乱馬はしどろもどろで、
「その。成り行きで…仕方ねえんだ」
「だらしない! あたし家の人にも友達にも言わずに来たのに、あんたはどうして右京にしゃべっちゃうのよ!?」
「落ち着けよ…」
 言いかけた乱馬に、おっかぶせるように、右京の声が降ってきた。
「許婚は一蓮托生やで。秘密なんかあらへんのや。な、乱ちゃん」
 いつのまにかトイレから戻って来ていた。右京は流れるような動作で席についた。
「うち、乱ちゃんと旅行は初めてやから楽しみやわぁ。どの宿にする? 飛騨温泉のパンフもろてきてん」
 右京はにっこり微笑んで、乱馬にパンフレットを見せ指差し始めた。乱馬は場の雰囲気を和ませるために、パンフレットをあかねにまわそうとしたが、あかねは無視して窓の外を見た。
 腹が立つのとあきれたのとで、ののしる気も失せた。列車はすでに東京を出、車窓からのながめは爽やかな9月の緑ばかりだったが、あかねには全てが灰色に見えた。




 飛騨地方の山あいには、数十から数百もの温泉が沸く。温泉旅館街と土産屋が軒を連ね、中でもひときわ小さな、ひなびた温泉旅館があった。紺色ののれんは日に焼けて白くなり、壁にはひびが走っていた。
 のれんをくぐって最初のロビーに一番派手なひびがあるんだもんな、そりゃ泊まる気も失せらあ。もう見慣れたけど。と思いながら、乱馬は湯上りの髪を拭いた。柱時計を見ると夜の7時半だった。
 予算の関係でこのボロ宿に泊まることになった。八宝斎の宝が隠されているという温泉が見つかるのがいつになるかわからないし、乱馬は野宿でもよかったのだが、あかねと右京を連れていてはそうもいかない。
 旅館の温泉に入り、浴衣の帯に手をかけながら、乱馬はロビーへ来た。長風呂のしすぎて体が火照っていた。他に客はいない。ビニールのソファーに座った。浴衣のおくみを引っ張りぱたぱたと団扇で風を入れると涼しかった。
 備え付けの雑誌に手を伸ばす。「飛騨の不思議温泉特集」というのがあった。そのページをめくった。
 部屋には居づらかった。右京は、あかねの前だろうとおかまいなしに腕を組んだりしてくる。あかねは自分で宿泊費を払っていたが、乱馬の宿泊費は右京が持っているのだ。強くは言えない。
 飛騨に来て3日が経つが、あかねとはほとんど話していなかった。あかねはつんと顔を背けているか、本を読んでいる。右京とも乱馬とも必要なこと以外話さない。
 怒ってる……んだろうなぁ。あれは。
 乱馬とも右京とも話さず、知らない土地で、ひとりつんけんしているのはつまらないだろう。もっといつもみたいに殴るとか、怒鳴るとかしてくればいいのに、あかねは大人しい。何を遠慮しているんだろう。
 雑誌を眺めていると、かなり変わった温泉が多くあることが分かった。
 蛍温泉、水面が蛍のように光る。ワニ温泉、湯船にワニが住んでいる。
「なんだこりゃ」
 これだけ変な温泉があるなら、男溺泉もあるかもしれない。乱馬は前かがみになって、真面目に雑誌を読み始めた。
「乱ちゃん」
 そこへ、右京がやって来た。同じく風呂上りのようだ。乱馬は一瞬目をあげて、右京を見た。右京は女らしい動作で隣に腰掛けた。乱馬の鼻を、湯上りの匂いがかすめた。
 学校では男装しひとつくくりにしている髪だが、こうやって降ろして浴衣を着ていると、女にしか見えない。右京は長い髪を耳にかけながら空いた手で浴衣のたもとを押さえた。
 乱馬は雑誌へ意識を戻した。
 胸宇温泉、恋の病と心臓病に効く。湯の花温泉、お湯でしか育たない熱帯地方の花が咲いている。
 ふいに右京が、手にもっていたタオルを伸ばしてきた。
「乱ちゃん、ちゃんと拭かな、髪の毛まだ濡れとるで」
「いいよ別に」
 乱馬は少し頭を背けた。
「風邪ひくやんか」
 根負けして、右京のするがままにおさげを拭かせておいた。
「なぁ、乱ちゃん」
 と右京が話し掛けたが、乱馬はほとんど聞いていなかった。雑誌を読むのに忙しかった。
 卵の湯、温泉卵がひとりでに沸く。地獄湯、血のように紅い湯の温泉。男溺泉は? 女が治る温泉はないのか?
「子供の頃はお風呂もよう一緒に入ったなぁ」
「ふん」
 寒天湯、湯がゼリー状。
「ここは静かでええなあ。たまにはこんなとこへ乱ちゃんとふたりで来たいわ」
「うん」
 タケノコ湯、一月入り続けると約3センチ身長が伸びる。注意、湯船のタケノコは食べないでください。
「そういえば、なんであかねちゃん来たんやろ? なんや機嫌悪いし」
「うん」
 すずめの湯、湯量が少なく人間は入れない。…意味あんのか?
「楽しまんのやったら無理に来んでもええのに」
「うん」
 と答えてしまってから、慌てて言葉の意味に気付いた。
「いや、あかねは元から来る予定だったんだ」
「そうなん? まあ、ええけど。忘れんといてや。乱ちゃんの許婚はうちだけやねんで」




 そのとき、乱馬の知らないところでロビーから走り去る影があった。あかねである。旅館のスリッパでバタバタと階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。
 胸の鼓動が激しいのは、階段を駆け上がったせいばかりではない。乱馬と右京の会話を聞いたのだ。不運にも、途中まで。
―――無理にいなくていい、ですって! 馬鹿にして!
 あかねは転びそうになりながらスリッパを脱ぎ、和室に飛び込むと、隅に寄せてある自分の荷物を引き寄せた。出してあった洗顔用具や本を荒い動作で詰め込んだ。
 望みどおり帰ってやる。顔もみたくない。
 今まで自分の荷物をあまりひろげず、すぐまとめられるようにしてあったのは、こんな事態になると心のどこかで感じていたのかもしれない。だってもう限界だ。このまま耐えていたら、ストレスで毛が抜けそう。
 浴衣を脱ぎちらかし、私服に着替え、財布を確認した。
 と、鞄の底から、古い飛騨の地図が出てきた。こんなものがあること忘れていた。家を出て行くときに、こっそり八宝斎の書棚からとってきたものだ。地図には何か書き込んであったが、八宝斎の字は汚ないのと、紙の劣化が激しいのとでほとんど判別不可能だった。あかねはもう一度だけ地図を広げた。
 「鏡」という文字が見えた。そこではじめて、この間読めなかったのは地図を逆さにしていたせいだと気付いた。
 しかし、そのまま地図を投げ出した。
 あたしはもう帰るんだから、おじいさんの宝なんて関係ない。宝はいらない。
 そのままの勢いで旅館を出て行こうと鞄をかかえたが、よく考えたらロビーを通らないと出て行けない。宿泊費は前払いだったから迷惑はかからないが、右京と乱馬にはどう言おう?
 あかねは階段を降りながら、旅にきたことを後悔していない、と思った。自分に尋ねるように思った。踊り場の窓はすっかり暗く、鏡のようになっていて、大きな鞄を持ったあかねの姿をうっすら映し出していた。
 乱馬が誘ってくれて、この旅に来なかったら、きっとあきらめきれなかっただろう。だからもういい。
 右京と乱馬がいちゃついているところを見るのは辛かった。右京と張り合うなんて出来るわけないじゃない! もう嫉妬で胸を焦がすのは嫌だ。疲れた。他の女の子といるなら、せめて、あたしのいないところでやって…。
 ロビーを通るとき、さっきの姿勢のまま、右京と乱馬が並んで浴衣姿で座っていた。
 最初にあかねに気付いたのは右京だった。
「あかねちゃん?」
 右京の声で、乱馬があかねに気付いて立った。
「あかね。どうしたんだよ。その荷物…」
 あかねは別れの言葉を選んでいたが、話の途中で自分が泣いてしまわないか、それだけが心配だった。
「あたし、もう帰るわ」
「えっ!?」
 乱馬は慌てて、ソファーの背を乗り越えてあかねのそばへ寄った。
「なんで!? まだ見つかってねえだろ」
「うん。でももういいの。あきらめる」
 宝さがしのことを知らない右京が、「何の話しとるん?」と言った。
 あかねは、
「なんでもないわ。右京も乱馬も温泉でゆっくりしてってよ…」
 と精一杯の愛想笑いを向けた。
 あかねは、自分の顔が熱くなって、涙がせりあがってくるのを感じた。慌てて荷物を抱えなおした。
「さよなら!」
 そのままロビーを駆け抜け、旅館の玄関を飛び出して行った。
 乱馬は追ってこなかった。外の空気はぬるく、すっかり暗かった。あかねは涙をボロボロこぼしながら駅へ向かった。幸い、土産屋は店を閉め始める時間で、人通りは少なかった。
 言いたいことの半分も言えなかったが、あたしは怒鳴ったりしなかったし、乱馬に悪い印象は残らなかっただろう。
 あかねは、二度と乱馬と会えない可能性がかなりある、と感じていた。だってもう許婚じゃない。乱馬は定住しないから、連絡先はないし、あっちから訪ねて来ない限り会えない。自分に会いに来るような気持ちが乱馬にあるとは思えなかった。あたしを仲間外れにするために、許婚を連れて待ち合わせ場所に来るような、そんな男だ。だまされるってこういうことかもしれない。
―――さようなら。喧嘩ばかりしてたけど、それでも、誘ってくれたとき嬉しかった。
 何度も胸の中で、彼に届かない別れを告げた。
 手の甲や顔を涙でべとべとさせた状態で、駅へ着いた。暗くなった切符売り場で時刻表を確かめる。
「…あれ?」
 何度見直しても、最終電車が8時となっている。あかねは田舎の電車を甘く見ていた。腕時計を見ると、すでに8時10分だ。
 薄暗い、無人の構内を見回し、途方に暮れた。ここで夜明かしするしかないだろうか? 所持金は電車代しか残っていなかった。あとは銀行でおろすしかないが、すでに閉まっている。
 途方に暮れ、ふらふらと駅から出、少しでも明るい所にいたくて、歩道の電灯の下へ行った。大きなショッピングセンター並みの土産屋の前だ。土産屋はすでにシャッターが降りている。涙はもうとまっていた。
 あかねはその場にしゃがんだ。荷物を自分の隣に置いて、身を寄せた。あかねとその荷物を、電灯がスポットライトのように照らした。地面のアスファルトはほこりっぽくざらついていた。
「どうしよう」
 とつぶやいた。寒い季節ではないから、とりあえず凍死はない。田舎だから治安も悪くない。
 でも、道端で寝るの?
 電灯が照らしているところ以外は、黒く、遠く感じられた。
 そのとき、ある男が、後ろからあかねに声をかけた。



(ほ、ほら。アニメ熱闘編に「ボクと駆け落ちしてください」って題あったっしょ?)
つづく

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