1,はじめに
 チベット問題を取り扱うに至ってその原点ともいえるチベットが未曾有の国際的紛争に直面した近代を考察していきたい。ここで取り上げようとする事柄は現在起こっている中国とチベットの緊張関係いわゆるチベット問題がどのような経緯で始まったのか、その根底にある”チベット問題以前の”史実はいかなるものかを考察していく。

2,近代におけるチベットを取り巻く国際関係
a,清朝とチベットの関係
 清朝のチベット進出が開始されたのはチベットが第6代ダライ・ラマ、清朝が康熙帝の時代である。この時代に康熙帝はホショト部のラサン・ハンにチベットの首都であるラサに進入させ、宰相サンギェを殺害し第6代ダライ・ラマであるツァンヤンを追放した。ツァンヤンは偽ダライ・ラマの汚名を冠せられ北京へ送られる途中に病死した。ラサに入ったラサン・ハンはイェシェ・ギャムツォを第6代ダライ・ラマとしたが民衆はツァンヤンを慕い、これを認めず、ツァンヤンの作った歌にあるように鶴に乗ってリタンという町から帰ってくることを信じていた。そのころリタンの町には自らダライ・ラマの転生者と名乗り、ポタラ宮に帰りたいという幼児が発見されたが、ラサン・ハンは彼を幽閉した。  そのころ、ジュンガリヤでかつてチベットに勢力を波及したガルダン・ハンの後裔ツェワンがラサン・ハンの進入によってチベット内部が混乱していることを知り、1717年大挙してラサに進行してラサン・ハンを殺し、イェシェ・ギャムツォを監禁した。この事件はチベット干渉を企画していた康熙帝に衝撃を与え、ただちにツェワン征討の軍を起こした。康熙帝は民衆の賛同を得るため幽閉されていたツァンヤンの転生者であるカルサン・ギャムツォを擁立し、ラサへ侵攻してツェワン軍を破りイェシェ・ギャムツォを北京に護送し、カルサン・ギャムツォを第7代ダライ・ラマとした。
 これ以後チベットにおける清朝の干渉は積極化していく。康熙帝はラサン・ハンの旧臣であるカンチネーとポラネーを中央チベットと西チベットの駐在官とし、兵2000人をチベットに駐在させた。
 清朝がチベットへの支配を強めると同時にチベットが鎖国を行うことになったのは1792年のグルカ征討以後のころである。1788年、91年に行われた紅帽派を信じるネパールのグルカ族のチベット侵入により、清朝の乾隆帝はチベットにおける黄帽派の危機と見て兵3000人をネパールへ送った。その後乾隆帝は駐蔵大臣をダライ・ラマと同格とし、全ての政務を大臣に稟議しなければならずダライ・ラマが独断で決定することができなくなった。これが清朝のチベット支配が完全なものになった瞬間であろう。しかし、清朝の勢威が衰えるにつれてチベットは清朝の規則に従わず、清朝もこれを見逃すようになっていった。つまり清朝のチベット支配は名目だけで実質は伴わなくなっていったと言えよう。

b,英国とチベットとの関係
 イギリスがチベットと関係を持つようになったのは清朝のグルカ征討よりも以前である。イギリスの勢力はプラッシーの戦い等の後、ネパール、ブータン両国の国境に迫った。1772年、ブータンはベンガル地方の混乱に乗じてクーチェ・ビハールを占領した。ブータンの侵入はベンガル地方の直接の脅威であったためイギリス軍はブータン軍を破り、ブータンの首都プカナに迫り全土を制圧しようとしたが、ブータンはチベット仏教国であったので国王の要請により、当時幼かったダライ・ラマに代わり、第6代パンチェン・ラマが仲裁を申し入れた。その時イギリスはチベットが清朝に西部に位置し、ブータンはチベットの属国であるという事実を知り、そしてチベットの金銀貨や麝香などの珍しい贈り物を手にしたイギリスはベンガルとチベットの交易を計画するようになった。1774年、ボーグルをチベットへの使者としてパンチェン・ラマの住むシガツェに赴かせ、パンチェン・ラマに好意的に迎えられたがラサ政庁の鎖国政策により通商関係を確立することはできなかった。
 その後約100年間イギリスとチベットの間には何もなかったがラサの託宣所のラマ僧達がチベットには魔力の加護があり、イギリス軍の武装を無力にしている。今こそチベット、シッキム間に有利な国境を決定すべきだと唱え、1887年チベット軍はシッキムに侵攻した。イギリスは侵入兵の撤退を要求したが何の反応も示さなかったので翌年ベンガル政庁はチベット軍を攻撃し、1890年シッキム条約を締結した。
その内容は
1、 チベットとシッキム間における国境の画定と国境不可侵の協約。
2、 シッキムに対するイギリスの保護権。
3、 チベット、シッキム間の通商、シッキム国内の遊牧、両国官吏の交渉往来。
しかし、貿易活動はチベット商人の妨害で事実上断絶していった。そこでイギリスはラサ政庁との直接交渉に入るためダライ・ラマに手紙を1901年まで再三送ったが鎖国を理由に送り返された。そのころロシアがチベットへ接近していたのである。

c,ロシアとチベットとの関係
 ロシアはモンゴリアとチベットとの間に通商関係を開くためにしばしばパンチェン・ラマに要請した。その結果ロシア商人はラサに入ることを許され、モンゴリアからチベットに赴く留学僧はロシアのチベット仏教に対する好意を宣伝した。その後ダライ・ラマ13世が親露政策を決意したのは留学僧のドルジェフであった。彼はモンゴル語、ロシア語や世界情勢に精通し、ついにダライ・ラマの家庭教師にもなった。1898年ドルジェフをペテルブルクに特使として派遣し、1900年ロシア皇帝はチベットに対する親善と支持を表明し、翌年には両国の親善関係を確立した。こうしてチベットをめぐって清朝、イギリス、ロシアが対立していくことになるのである。
 ロシアとチベットの急速な接近によりイギリスは1903年英印軍4000人をチベットに侵入させた。英印軍は翌年ラサに入城し、ダライ・ラマはモンゴリアへ逃亡し、ラサ条約が締結された。
この内容は
1、 インド、チベット間に貿易市場を開く。
2、 チベットはインドへの輸出入完全を全廃する。
3、 賠償金は50万ポンドを75年賦で支払うこと。
4、 チベットはイギリスの許可なしに他の外国人の内政への干渉、外国の代表の入国、鉄道、通信、道路、鉱山等の利権を提供しないこと。
 この条約によりチベットとロシアの交友関係が崩れざるを得ない状況になったのである。しかし、このような情勢をロシアが傍観していたのは日本とロシアの極度な緊張関係によるものであった。イギリスはこの緊張を利用し、日英同盟を締結した。その後イギリスとロシアの対立は1907年英露条約で収束した。英露条約とは
1、 両国はチベットの内政に干渉しない。
2、 両国はチベットとの交渉は清朝を介してのみ開始すること。ただしラサ条約に起因することに関してはこの限りではない。
3、 両国ともラサに代表を派遣しないこと。
4、 両国は道路、鉱山等の利権を要求しないこと。
この条約によりイギリスはチベットをロシアからのインド侵攻に対する防衛の空白地帯にしようとしたのである。

d,中華民国とチベットとの関係
 相次ぐ西欧諸国の干渉は清朝のチベットの宗主権を反故にしようとした。そこで四川省西部のチベット、カム地方には中国農民の移住が行われ東チベットは1910年西康省となった。帰国の途、清朝の侵略ぶりを見聞したダライ・ラマは1909年に軍の撤退を要求したが、翌年四川軍がラサに進駐しラサ市内で発砲する暴挙を行った。そこでダライ・ラマはロシアに避難しようとしたが種々の障害によりイギリスの勧告に従いインドに非難した。こうしてダライ・ラマは親露政策を転換してイギリスの武力援助を要請した。
 ところが1911年に辛亥革命が起こり四川軍の勢力は衰退していったのを機に翌年ダライ・ラマはラサへ帰り残存軍を一掃しチベットの完全独立と漢人の追放を宣言した。
 一方中華民国の大統領袁世凱は「チベットは中国本土の各省と同等の地位に立つ」との声明を発表したがイギリスは袁世凱に対して中国のチベットに対する宗主権の否定などの要求を通達した。ここが現代のチベット問題の始まりであろう。この時ドルジェフによりモンゴリアとチベットは再接近しようとしていた。そして両国は1913年蒙蔵条約により互いに独立を承認しあった。その後この状態の収拾のためシムラ会議といわれるイギリス、中国、チベット三者会談が実現した。この会議での中国の主張は
1、 チベットは中国領土の一部である。
2、 中国は駐蔵大臣をラサに駐在させ、従来通りの権利を有する。かつ衛兵2600人中1000人はラサ駐在、ほかの1600人は各地に分駐させる。
3、 チベットの外交軍事事務は、中国中央政府の指示を受けて行うこと。中央政府の許可なしに外国と訂約できない。
4、 チベット人で中国人のために監禁され、財産没収されたものは全て釈放返還のこと。
5、 中国とチベットの国境は、この文章の附図に示したとおりとする。
英国の主張は
1、 中国はチベットの独立を承認する。
2、 チベットの国境は崑崙安定塔以南、甘粛省西部、四川省打箭炉及び雲南省阿敦子以西に至る。新疆省と青海はそのうちに含めるものとする。
3、 イギリスはチベットと単独に通商条約を締結する。
4、 中国軍隊はチベットに駐屯してはならない。
5、 中国はチベットから強奪した財産は賠償すること。
チベットの主張は
1、 チベットの独立承認。
2、 チベットの領域は、青海、リタン、パタン、打箭炉を含む地域とする。
3、 1893年及び1908年の印蔵通商条約は英蔵両国にて改訂する。
4、 中国は官員をチベットに置くことはできない。
5、 中国、蒙古各地寺廟は、ダライ・ラマが教主であることを認め、ラマを派遣してこれを維持すること。
6、 中国は強制徴収した税金及び蔵人の受けた一切の損失をことごとく賠償すること。
となっているが、英蔵側と中国側の意見にははなはだしく離れており討議は6ヶ月続いたが結局シムラ会談は決裂し、イギリスとチベットのみにより、調印が行われた。この結果、現在も中国側は宗主権は昔のまま存続すると考えチベット側はダライ・ラマの独立宣言はあくまで有効であると考えるようになったのである。

3,終わりに
これによりチベット問題の起因は1959年に起こったチベット動乱よりも以前から始まっていることが分かる。チベット問題を解決するためにはこれらの史実を十分に認識した上で互いの民族が互いの民族を理解しようとすることが大切である。互いの理解がないうえで問題を解決しようとしても、そこには誤解が生まれお互いが今以上に憎みあう結果になり得るのである。1959年以降100万を超えるチベット人が軍によって殺されたり、政治犯として捕らえられた結果死亡したり、物価の上昇を起因とする飢餓によって死んでいる。互いの理解があればチベットに軍を進めようが進めまいが犠牲者は格段に減少していたであろう。互いに互いを理解することが最低条件なのである。それが国際平和の第一歩である。

参考文献
英国議会人権擁護グループ著 チベット問題を考える会編訳『チベット白書』日中出版1989年
クリストファー・ギブ著 小川英朗訳『チベット史ものがたり』日中出版1989年
グレヴィッチ著 世界政治資料編集部訳『チベットの解放』新読書社1959年
ジャムヤン・ノルブ著 ペマ・ギャルポ・三浦順子訳『中国と戦ったチベット人』日中出版1987年
永沢和俊『チベット』校倉書房1964年


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