雨 猫

 

 

 雨の,匂いがした。湿った風が吹く。

 見上げた先,空が色を変えていく。蒼から透明。やがて白へと。―――泣きだした,空。

 

――――まずいなぁ。

 走りだしながらちょっと顔をしかめた。もともと猫のこと,水気は嫌いなのだ。溜息をついて足を速める。

 さすがに人気のない通りを駆け抜ける。あと,ふたつ。いつもの裏路地へ滑り込もうとしたその時,目の前に陰が被さった。

「ごめっ…」

 とっさに謝りかけ,目を見開く。勢いよく振り向いた先には,誰の姿もなく。辺りを見渡しても,誰の気配もなく。

 ひやりと。涼しさが駆け抜ける。乾いた冷たい風が吹きこんできたような感触は,全く雨の中らしくない。

「…?」

 無言でしばし立ちつくした。―――訳がわからない。確かに誰か,いた,と思ったのに。

 真白く煙った街の中,影もうっすら硝子色に霞む。たったそれだけの差違のはずが,ひどく,世界が空っぽに見える。

 振り切るように踵を返す。走りだしながらもう一度振り向く,視界の隅に硝子色がゆれた。

 

 

 

 

 

「本当だって」

「そりゃ単にお前が見おとしただけじゃねぇ?」

「おれ,気配には結構敏感なんだけど」

「じゃあ最初の影のが気のせいなんだろ」

「ンな時によく寝惚けてられたなお前」

「誰が寝ぼけてんだよランパス!ホントにいたって,絶対」

「ちょっと過敏ぎみだったんじゃないか?その辺いつも人通り少ないし」

「その頃ならまだそう暗くはなかったろうけどなあ。そんな怖かったか,コリコ」

「だれが怖いかよ!!ホントに見たの,おれ!」

 まったくどいつもこいつも―――きっぱり気のせいと決めたように人をからかいまくる悪友どもに,ふて腐れてコリコパットはかみついた。となりでは彼とよく似た毛並みの姉代わりも呆れたように笑っている。

「でもコリコ,あんな時にあんなとこふらついてるような物好きなんてそういないわよ?」

「おれだって好きでいた訳じゃないや」

 いつもの面々で遊んでいて,ちょっと長居しすぎただけである。降るからさっさと切り上げて帰る,はずがいつものごとく遊びに熱中してしまって時間を忘れ―――まぁ,自業自得といえばそれまでではあるが。

「気のせいなんかじゃ,ないってのにな」

 ぼやく声は誰の耳にも届かず,笑い声とからかいに消えた。

 

  広場の喧噪にひとり背を向け、ふわりと白い影が踊った。

 

 

 

 

 

 

 

(気のせいじゃない、きっと)

 確信めいた思いと共に、ヴィクトリアの足は裏町へ向かっていた。

 事実、雨の日には常にして街が異世界の顔を見せる。コリコパットの見たという影もおそらくはその現実の住人。

 軽い足取りで路地裏を駆けると、塀の陰やがらくたの中からいぶかしげな視線が投げかけられる。手入れの行きとどいた純白の毛並みに、銀鋲の光る白い首輪に。一目で屋敷猫のものだと知れるヴィクトリアの容姿に。本来ここにいるべからざるそれへの敵意すら含むその視線はしかし、彼女をみとめては伏せられ、あるいは反らされる。―――どの街区(テリトリー)にも属してはおらず、だからこそどこへでも行ける者達――ジェリクルキャッツと呼ばれる彼らを止める猫などこの街にはいない。

 劇場街の裏へ通じる細い路地の入口で、空を見上げて眼を細めた。

 真っ青だった空のいろがにぶい蒼色に近づいている。やわらかな風は水の匂いがした。

――――雨が降る。

 白銀に輝く西の雲から、おそらくは通り雨と知れるけれど。

 『彼ら』に遇うにはそれで充分。何故かそう、わかる気がした。

 

 淡い金の瞳に笑みを浮かべる。

 好奇心旺盛な自分の行動が、らしくなく思えて少し可笑しかった。

 これじゃまるでコリコと同じね。

 そう思ってまた、一人クスリと笑った。

 

 

 

 

 目の前を透きとおる影がよぎる。

 ぽつりと頬に濡れた感触。―――雨が、降ってきた。

 

 あっという間に風景が硝子色に染まっていった。

 まだわずかに残る明るさがかえって非日常性を強調する。路地裏のあちこちに感じられた気配は降り出すと同時に消えていた。

 その街角にかすかな気配。

 普段ここに満ちているものより格段に淡くゆらめくそれはやがてその姿を現した。

 ゆらめく透明な、淡い影はそれでも姿を保ったままで。ふらふらと雲を踏む足どりでそれでも何かを目指すように歩く。

 ふと見れば路地裏のあちらの壁、こちらの影からゆらりゆらりと新たな影がぬけだしてきて歩き始めた。重く、あるいは危うい足どり。そんな足で何を目指して、何を求めて彷徨い行くのか。

 惹かれるように立ち上がる。踏み出そうとしたその頭上から、

「帰れなくなるよ、ヴィクトリア」

 魔術師の声が降ってきた。

「ミスト」

「君みたいな子はヘタしたら向こうへ行っちゃうから…来てみて正解だったかな?」

 黄金の瞳をきらめかせて微笑む。少年のように小柄な姿をしていてもその眼は時に誰よりも大人びて見えた。

「…向こう、というのはどこ?」

「『彼ら』の向かうところ。本当ならいくら僕たち猫が神秘に近くてもいけないはずだけど、『彼ら』の世界に入りやすい子はたまに一緒になってついてっちゃうことがあるからね。ちょうど、さっきの君みたいに」

「このひとたちはどこへ帰…」

 言いかけたヴィクトリアの目が見開かれる。視線を辿ってミストフェリーズが首をかしげた。

 彼らの友人によく似た影が歩いていた。肩を落とし、うつむいたまま顔も上げずに歩く姿は今にも地面に沈み込みそうなほど重く暗い。

 かける言葉が見つからないままに、思わず伸ばした手はその身体をすり抜ける。驚きに目を瞠るヴィクトリアの中に影の感情が流れ込んできた。後悔、悔しさ、疑問符、怒りその他諸々…気配そのままに淡く遠い声とはいえ、剥き出しの感情が『聞こえる』のは正直恐ろしくさえあった。

「…ギル、この間から元気ないと思ったら…タントと喧嘩でもしたのかな」

 蒼ざめて影を見送る彼女の横で漆黒の魔術師は暢気な声を上げる。

 何故今のが彼にまで聞こえているのだろう。しかも全く動じていないあたりやはり彼は彼だということか。

「ミスト、この人たちは…?」

「誰かの『言葉にできなかった心』。というよりはその残像みたいなものかな。」

 そう言ってミストフェリーズはヴィクトリアのとなりに飛び下りた。

 

「さっきのギルみたいにさ、言わなきゃいけないと思ってても意地張って言えなかったり心の中でぐしゃぐしゃ考えてどうしようもなくなって呑み込んじゃった言葉ってあるんだよね。そういうものってどうなると思う?」

「どうしてその言葉を言わないの?」

「…ヴィクは思ったらそのまま言うもんね。でもそういう人ばっかじゃないんだよ、残念ながら。それでそういう言葉とか想いはね、ふつうみんな心の中に押し込めていつか忘れてしまうんだ。だけど強い思いはみんなが気付かないうちにこぼれだしてそのあたりをふわふわ漂ってたりする。でもさ、そんなものがほてほてその辺さまよってたらすごいことになると思わない?」

 …それは怖い、かもしれない。

 人間はともかく彼ら猫は元来そういう目に見えないものには敏感である。あげくヴィクトリアやミストフェリーズのようにその中でもかなりとびぬけた感覚をもつものとなればそんなものが見えたり聞こえたりするし、気付かない者達でも影響を受けやすいものもいる。そんなものが街中に溢れていてははっきり言って危険きわまりないだろう。

「でも実際にはいつもの街中なんて静かなもんだよね。全くこんなもの影も形もないでしょ?想いの欠片は―――街が食べてるんだ」

「―――食べる、の?」

「もちろん僕らの食事みたいにばくばく食べる訳じゃない。食べるというよりは…そうだね、スポンジがインクやなんかを吸い込むのに似てるかな。それでもそのままほっといたら、当然だけどいつかは吸い込みきれなくなるよね。だけどこの世界ってばその辺よく出来ててさ…」

 帰れる範囲でついていこうか?とヴィクトリアを促して歩き出した。

 影たちと一緒に進むうち、あちらこちらの路地や通りからまた新たに影が加わってくる。その中にまた知った顔がいくつも見つかった。

「こんな雨の日はね、街に染みこんだ想いが溶け出してくるんだ。雨に溶けて、影の姿で集まってくるんだよ。それがあの影―――雨猫、さ。雨猫になって流れ出した想いは―――もう、雨も上がるかな」

 空がだいぶ明るくなっていた。西空に光の柱が射し初める。

 ふと見れば雨猫の群れの辿り着く先は広場のようだった。いつも彼らの集まる場所。

 

 ミストフェリーズに言われるまま、群れをはなれがらくたに腰を下ろした。

「そろそろ、かな。見ててごらんよ、ヴィク」

 雨音が間遠になり雲が割れていく。やがてうっすらと姿を現す蒼空。

 伸び上がるように空を見上げる、雨猫たちの姿が霞んでゆく。そして――――

「雨に溶けた想いは虹をかけて空に還るんだ」

 虹の橋が空と地を繋いだ。

 かすかなたくさんの気配たちがその橋に向かって翔けていく。

 さっきまで確かにそこに在った想いたち。淡く輝いて空に昇る誰かの分身たち―――。

「言えなかった言葉はもう消えてしまうの?」

 それは何とも淋しく思えて、思わず言葉が口をついて出る。

 淡い金の瞳をうけて黄金の瞳が笑みを浮かべる。そのまま虹に視線を戻した。

「消える訳じゃないよ―――変わるだけさ」

 つられて空を見やるヴィクトリアの耳に優しい魔術師の声がとどく。

「空で彼らは大気になる。大気になって星をまわり、いつかまた姿を変えて戻ってくるんだ」

 どんな想いもどんな言葉も、こうしてこの世界を廻っていく。

 だから、ほら。

「これは誰の言葉だろうね」

 そういって笑う彼の後ろから、

 ふわりと。

 柔らかい風が吹いた。

 

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…どの辺が猫? えーと、色々と趣味ですこの話。 

雨猫、という言葉とそれについての設定がもとにあってそこからふくらましたという… 

最初コリコの眼で書き出したんですが解説役はミストだろうと思ったらコリコにこんな事言うかという気になっておかげで途中から主役交代。 

というか主役誰って感じですね…。ごめんなさい。 

雨猫という言葉は漫画家ますむらひろしさんの「アタゴオル」シリーズに登場する名前です(ちなみに通りの名前)。 

他もうひとつ同じシリーズの話のイメージがもとになりました。 

ずいぶん季節はずれな話になりましたがこれ、書き出したときは梅雨だったんですよ…(遅筆め)。 

 

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