写真集に寄せて
Vol. 1
何故マジシャンが?
皆さんは今、こんな疑問を持っているに違いありません。
沢山の人たちに温かく見守られながらも、神谷陽子写真集は沢山の疑問を残しながら、
制作が進行しています。

私がこの写真集を企画するに至るまでには、色々な思惑がありました。
それは初めてマジックの世界をプロとして考え始めた、中学生にさかのぼります。

当時私は勿論ふつうの中学生でありながら、多くのステージでマジックを
披露することがありました。最初のうちは私の考えたエンターテイメントに、
両親を始め、親戚縁者まで非常に好意的でした。勿論、現在の私の30年前ですから、
多分才能あふれる、センスの良いマジックショーを構成していたのだと思います?(笑)
しかし私がもし自分の職業を選ぶなら、マジシャンになりたい!と言ったときから、
周囲は一変しました。

今まであれほどすばらしいとか?素敵!と言っていたあの親や親戚が、
突然冷ややかな目で見始めたのでした。手品師なんて所詮、河原乞食!
人をだます浅ましい職業!頭の悪い人間がやる職業。お前が選ぶ物ではない。

それはまるで卑しい者もで見るような目つきで、私を諭しにかかりました。
そして挙げ句の果てには父親に、私が小学生の時代から集めていた、
沢山の手品用品を焼却されてしまいました。
そして私が一番親しみ信頼していた叔母に相談しても、
それはお父さんがあなたの将来を、真剣に考えてくれるからですよ。と言って、
まるで受けつけてくれなかったのでした。私もそんなものなのかなーと、
少し悲しくなりながらも、残りの中学・高校生の時代をスポーツや大好きな天文学・
音楽で過ごしました。これはこの当時の時代背景としては、至極当然な現象で、
戦中派の人々が今でもマジックを受け入れづらい事からも分かる現実でした。

大学時代から仕事として始めていた音楽には、周りの目は温かく、
音楽はエンターテイメントでありながらも、職業として、
この偏見を持った大人達には認められていたようで、
私はミュージシャンとして仕事に就くことになりました。このいきさつは、
私の自叙伝やいくつかの本の中で紹介しているので、コメントはさけましょう。

しかし、音楽の仕事に失敗したとき、私の脳裏に手品という二文字が浮かんだとき、
その浅ましい職業は、ある意味で世捨て人のような感覚で選んだ物でした。

自分は大きな仕事に失敗して、沢山の人たちに迷惑をかけてしまった。
これからは人生細々と、好きな手品を販売しながら、
大きな夢を持たずに生きてゆこう。まだ、28歳の人間の考え方である。
それほど音楽での失敗は大きい物でした。

私は手品売場を通じ、マジックと出会いました。そこには夢があり、
人を楽しませるという、エンターテイメントがありました。収入が少ないそんなときでも、
沢山のコミュニケーションがとれる手品売場が私は好きでした。

そんなとき、まだ19歳の前田智洋が私の売場でアルバイトをしたり、
沢山の小中学生が、私の売場に集まりました。
和田祐治・小宮賢一・秋元正・小林恵子等もその中の子供達でした。(字が違うかも)

そんな中、私にはこの職業の人たちの閉鎖性を知る事件が起きました。
それは自分が音楽の世界にいたときと同じように、
エンターテイメントとしてマジックをとらえ、色々な交流会や研究会を始めていた頃、
某マジック業者達から、マジックは限られた人間が指導をするべきで、
新参者はおとなしく与えられた物を販売していろ!と言うような内容だったのです。
悩んだ私は、当時所属していた、テンヨーの課長に相談したところ、
お前は手品用品を黙って売っていれば良いんだ。手品道具は、人を騙して売るものだ。
ディーラーなんて所詮そんなものだ。等と、今では考えられないような、発言を受けました。
彼の言うには、チャイナリングを3歳の子供から出来ると言って騙して売り上げを上げる方が、実演をした後、客とコミュニケーションをとって、
売り上げを伸ばすよりも優秀であると言うのである。基本的に打ってナンボ!
と言う考え方である。

そして売り場に通う子たちをさして、マジックなんてやっているやつは所詮落ちこぼれ!
的な発言であった。

私はもう一度周りを見渡した。確かにそこの売場は、
ある意味では落ちこぼれの集団がほとんどであった。友達にいじめられるので、
仕返しにマジックを見せて知的に優位に立とうと言う子ども。(結局はいじめっ子に道具を取り上げられてしまう。)勉強が出来ないので、秘密や不思議を身につけ、
人より優位に立とうという子ども、詐欺師!女の子を口説く目的だけ?

そんな中でも私は手品を使ったエンターテイメントの素晴らしさを一生懸命説きまくった。
そして実践して売りっぱなしだけのマジックでなく、サロンとして集える、
マジック売場を目指したのである。売場は徐々に活気づいてきた。
そんな中、私のエンターテイメントを本当に継承してみたい人物が現れた。
その子は14歳の中学生の女の子で、名前を小林恵子と言った。

彼女は桜蔭中学と言う、有名な進学校に通う才女で、勿論皆さんもご存じの通り、
すばらしい女性であった。美人で頭も良く、気さくで誰とでも仲良くなれる。
そんなある時彼女から本格的にエンターテイメントを教えて欲しい。と言う願いを受けた。
当時その売場は、池袋の東武デパートにあり、そこには彼女を始め、
沢山の女子中学生も出入りをしていた。そんな中の彼女の発言に、周りの友達達は、
冷ややかな目であったように思える。しかし彼女は真剣であった。
私はこの当時から手品という言葉に疑問を持ち始めていて、
エンターテイメントの本来の意味とは随分ずれる感覚を持っていた。

彼女は真剣に教えて欲しいと言った。
私はどの程度教えて欲しいのか?と尋ねた。

1.趣味としてやってゆくため? 
2.プロになる可能性も秘めて?
3.それとも本当に真剣に、  
  自分の持っている全てを教えて欲しい?

彼女の答えは、3であった。

私は彼女に質問した。親を捨てる覚悟があるか?
彼女は答えた。

捨てます!

この下りは、小林恵子のマジシャン誕生に詳しく載っているので、
まだ読んでいない人は、是非読んでください。

親を捨てる。この言葉は、究極の選択であり、
今はもう死語になってしまったある意味での名文句である。

私が考えたことは彼女の可能性を最大に引き出せば、
ひょっとして今後のマジックの可能性が大きく変化することもあるのではと言うことであった。その当時の私には彼女はそれほどふつうの優秀な女の子であったのだ。

もう一度本当にエンターテイメントを追求してみようか?叶えられるなら、
手品を河原乞食から本当の意味でのショーに作り替えることが出来るのだろうか?
そのときから私の考え方は一変した。
手品は手品。
奇術は奇術。
魔法は魔法。
それらの区別無く、観客を楽しませる存在として、全てを使った物をマジックショーと呼ぶ。
そして落ちこぼれでない、または心から落ちこぼれになっていない、
人生の罰ゲームのような仕事でない、
本当の自らマジックを職業として選んだマジックの集団をEMC
(エリート・マジシャンズ・クラブ)と呼ぶ。
私にとってマジックは、音楽で失敗した人生の罰ゲームでしかなかった。
そして今度は敗者復活戦である。

しかしこれからの人たちにとっては、それはどちらでもなく、
堂々と、人に胸を張って答えられる職業であるべきである。
Vol. 2
私の手品コーナーは、渋谷の東横デパートのマジックコーナーに移った。

東横デパートに移って、マジックショップの売り上げは飛躍的に伸びた。
それは自分が子どもの頃本当に親しんだ売場が、ここであったことと、
その当時影響を受けた、清水一正氏がここにいたことなど、
まさに自分の目指す下地が出来上がっていたに他ならなかったからだ。
(清水一正氏は、現在大阪の阪急梅田店にディーラーとして健在。)

清水氏の後、代わった何人かのディーラーは、
コミュニケーションを主体とする売場作りをした清水氏の方針を受け継げず、
売り上げを上げるのに苦戦を強いられた。
そこに私の起用である。私はそこで売り上げを上げると共に、
マジックの本当のおもしろさを沢山の子ども達や学生達に教えた。

小林恵子は同僚の平野新継(後の無敵王)と共に、アルバイトとして、
東横デパートのマジックコーナーの売り上げを上げることに努力を続けた。

この当時、緒川集人が小学生として売り場に通い始めた。
売場はいつも活気づき、売り上げも多いときには、月額800万にも上るようになった。
この売り上げは、単純にテンヨーからもらうギャラに換算すると、
月給200万にもなる。勿論、それ以外の副収入もあるのだから、
考えればこの時期に、音楽で作った借金を返すことが出来、
後のウイザードイン設立の資金が出来たのもうなずける。

しかし小林恵子、平野新継達が卒業を控えたとき、新しい転機は来た。

果たして彼らの将来の設計は?
このときを振り返って彼女が言うには、
マジックを一生懸命やって果たして何になれるのだろう。
大成功して、デパートの販売員?
でも良いんです。
自分は子ども達に沢山の夢を与える方法を見つけたのだから。

私は目から鱗の落ちる思いがした。

収入の安定から、自分が果たして今、何をすべきかを見失っていたことを深く反省した。
そして独立を決意した。

1989年4月17日沢山の思惑と希望を胸に秘め、
WIZARDS’INNは渋谷の宇田川町に誕生した。
マジックをエンターテイメントとして考える、物販を含んだ総合企業として。

この当時私は一冊の本を出版していた。KKベストセラーズから出版の、
すぐ出来る超能力マジックである。
この本は友人の音楽プロデューサーがこの当時人気のあった
ミスターマリックの様な超魔術現象を誰でも気軽に楽しめるようにと企画した物で、
彼の考え方に私も共鳴して、監修を承諾したものであった。

本は記録的に売れ、沢山の反響もあった。
単に種明かしだけではなく、ダイバーノンの話や、
デビッドカッパーフィールドの話などが、ふんだんに織り込まれ、
これがマジックのきっかけになった人たちも沢山いたほどだ。

しかしそれとは裏腹に悲しい中傷も受けた。

彼はマジックキャッスルなどに出入りしていない!
ダイバーノンは彼のことなど知らない!
キャッスルにもバーノンにもゆかりのない人達からの中傷である。
これは自叙伝でも書いた話で、そんな中傷が間違いであったことは、
後の私の仕事内容で、沢山の人々はすぐ嘘と分かったようだ。

しかし今でも私たちのことを誤解する輩は、沢山の嘘の中傷による物で、
悲しい限りである。

そんな中、群雄割拠するマジック業界を一つにまとめるべく、沢山の若者達に、
啓蒙・教育を続け、本当に柳田昌宏自身が、文化人として力を付けたとき、
小林恵子は24歳になっていた。

このときの他のスタッフは、
無敵王(平野新継)24歳
秋元正  25歳
緒川集人  18歳
の年齢を迎えていた。

みんな若者である。

しかしマスコミの中で彼らを注目させるためには、決して彼・彼女らは、
若者ではなかったのである。

小林恵子は羽生善治との将棋番組で注目を受け始めた。
そんなとき、上岡龍太郎の番組から、レギュラー出演のオファーがあった。
マジックを真剣に見せることを心がけ、彼女を素敵に見せることを誓ったスタッフ達が、
日曜日のお昼にミルキー恵子のテレビ・プロフィンガーとして送り出したのである。

番組は色々な反響を残しながらも、2クールで終了した。
25歳になった彼女は、若々しく見えても、
視聴者は25歳の大人の女性として見るものである。
しかし25歳のマジシャンの実力では、バラエティーならいざ知らず、
本格的にマジックを見せるには、まだ力がなさすぎたのである。

マルシアが彼女の年齢について、上岡龍太郎につっこんだ。なーんだ!
私と大して年齢かわらないじゃない。

私はショックだった。

14歳からこの世界に入り、私と共にマジックの啓蒙につとめ、
ウイザードインを支えた彼女は、マスコミにデビューをしたときにはもう、
大人の年齢になっていたのである。

女の子が、そして子ども達があこがれる職業の第一歩は、華やかさである。
誰でもテレビにでで、素敵な服を着てちやほやされてみたい。
そんな気持ちを大人や成功者達が、不謹慎と一言で片づけて良いものだろうか?
今でもウイザードインを訪れるマジシャン予備軍達のほとんどは、
大なり小なりそんな他愛もないタレントを夢見る。

野球の選手やテニスプレーヤー・作家・漫画家・大学教授までが、
タレントとしてテレビを賑わしていいる時勢に、力や人気のあるマジシャンが、
タレントとしてテレビを賑わしても良い時代が来るべきでは?

私は考えた。
14歳からこの世界を目指した一人の若き女性が、
ようやくテレビの中の世界をつかんだとき、
それは10年の歳月を必要としていたのである。

勿論彼女は力を付けていた。マジシャンとして、文化人として
彼女は一歩一歩階段を上り始めた。

しかし私の心の中には、10代の子達がアイドルとして、
ふつうのタレント達と同じように市民権を得られるようにしなければと言う、
新しい使命感が生まれた。

我々のマジックを知る機会があれば、人は口々に言う。なんてすばらしいんだ。
今までにこんなすばらしいマジックを見たことがない。感動した。

しかし我々がマジックを見せる前までは、ほとんどの知識人達は、
手品だろ?
だって種があるじゃない。
今、はやんないよ。

私がこのギャップを埋めるために奔走して、時間は過ぎ、
10年が経ってしまったのである。
マジックを若い子達が本当にあこがれることの出来る、そして知識人達が文化として、
芸術として本当に認められるエンターテイメントに育てる意志は、この当時固まった。

そして私は2つのことを徹底して始めた。

一つはマジックレクチャーの充実である。
後継者を育てる意味も含め、手抜きのない環境を作ることに全力を尽くした。まず、
秋元正の教育。マジック理論の整備。内容のある、
番組・出版物の制作。これは的を得て、毎日新聞カルチャーシティーの設立や、
文春マジック講座の出版などにつながっていった。

そしてマジックキャッスルのメンバーの発掘。林敏昭・斎木創等の新メンバーの育成。
スカウトキャラバンの優勝者のメンバー推薦。

2つ目は、テレビに耐えうるマジシャンの育成。
まず、緒川集人を徹底的に鍛えた。
そして小林恵子に文化人としてのマジシャンのあり方を徹底した。
最後にチャイルドマジシャンの育成と、アイドルマジシャンのプロデュースを手がけた。

この時期に私は、歌って踊れてマジックの出来る、
プリティキャストをデビューさせた。そして8歳の西尾舞をデビューさせた。
しかしここで私は、また一つの壁に突き当たってしまった。

プリティキャストは、プレイステーションのソフト、
ゴーカイザーの企画として募集したイメージガールである。
最初はゲームショーやプレス向けプレゼン用に企画した物だが、
それだけではつまらないと、キャラクターを一人歩きさせ、マジックを教え、歌・踊り・コスプレと3拍子そろったアイドルとして、デビューさせたのである。

企画は当たり、テレビやマスコミに注目され始めた頃、問題が起きあがった。

タレントプロモーションは、綿密な計画と企画が組まれる物で、
さりげなく見えていても、実は沢山の会議やディスカッションから、
番組・雑誌などのマスコミ戦略が展開される。
そんな中、所属のプロダクションの女社長が、マジックを使ってデビューさせたのだから、もうマジックは必要ない。今度は踊りで本格的に行きたいと言い始めたのである。

テレビ局はプリティキャストがマジックをすることによって、
番組価値があることを期待していたので、これは猛反発が起きた。
勿論私もこの企画の最高責任者であるので、
企画の根元のマジックの重要さを説いて聞かせた。

同じ頃、この社長の娘の、西尾舞と言う少女を、
やはりマジックでプロデビューさせるべく、テレビ・雑誌などに働きをかけていた。
しかし小さなプロダクションが突然メジャーな世界に登場した悲しさか?
その社長は娘も練習をさせず、歌・踊りと、独自の路線に切り替えようとした。
勿論、怪しげなプロデューサーも登場して、この2つの企画は、
マスコミの狭間に消えていったのである。

このプロダクションは、沢山の迷惑を多くの関係者にかけ、私は仕方なく、
全テレビ局ブレーンに、プロモーションストップをかけた。
プリティキャストは消滅した。
そして西尾舞も次第に番組の世界から遠ざかっていった。

私は一つの結論に達した。
マジックを啓蒙するために、マジックの力を使って新しいムーブメントを作るためには、
本当の意味でまだスタッフや関係者、そして視聴者・読者達が育ちきっていないのだと。そして私は、実写で空中を飛び、消え、
歌うスーパーアイドルの消滅と共に新たな企画を胸に秘めたのである。

啓蒙活動は続いた。

★カルチャーシティの充実。
 毎日カルチャーだけでなく、合宿やレーティングの設立。(秋元正)
★大会やイベントの制作。
 スカウトキャラバンの賞金導入・定期化。(林敏昭)
★企業とタイアップしたマジックの使い方。
 NECインターチャネルのゲームイベントの制作。(緒川集人)
★CM・雑誌・テレビ番組などに対するマジックとしてのプレゼン。
 バンプレスとCM・タレントCM(緒川集人・小林恵子)
★マジック以外のマジシャンの関与する番組・雑誌・企画。
 将棋番組・格闘番組(小林恵子・龍飛雲)

そしてある時、時期は来たのである。

二人の女性が現れた。
一人は小林恵子と同学年で、1才年下になる、武藤由美である。
もう一人は、当時19才の伊井埜陽子であった。

武藤由美ははじめ、ワンフォールウエストと言う名の、
お笑いプロダクションに所属していた。
しかし彼女が決してお笑いが好きだったわけではなく、
タレント活動をしていた彼女が、プロダクションの移籍問題で、
一時身を寄せていたのが、ワンフォールウエストだったのである。

当時プロダクションの社長と色々と相談し、
女性のコメディーマジシャンを育ててみようと言う考えから、彼女に相談し、
彼女は二つ返事でやりたいと言ったいきさつがある。
当時彼女は、CDのレコーディングや、いくつかのテレビ番組、
雑誌のグラビアなどにも顔を出し、
独特の個性をもち、タレント活動をしていた。

きっかけはカメラマンの立木義則氏が、週間宝石の企画でOLヌードと題し、
シロートのフルヌードを撮影していた、何と記念すべき第一号が彼女なのである。
彼女はその後順調にタレント活動を続けるように見えたが、
悪徳プロデューサーの登場、事務所移籍などの問題から、タレント活動を断念し、
金銭的にも困窮し、騙され、借金を大きく背負ったのである。

彼女はその後、ワンフォールウエストを円満で退社し、
もう一度ウイザードインで本格的なマジシャンを目指すことになった。
これはワンフォールウエストの西岡代表の温かい人柄が、
彼女の将来を真剣に考え、本人と相談の上、
人生のやり直しをマジックでと考えたからである。

勿論私が、マジックによって人生のやり直しに成功したように、
今度は当時、24才の武藤由美をどのようにして、社会復帰させるか?また、
小林恵子で10年かかった教育を、彼女で何年縮めることが出来るか?
借金を全部返させ、マジシャンとして一人前にすること・そして貯金を作らせること。
全てがやりがいのある内容であった。

現在の彼女は、借金を返し、貯金が出来、そして多くの大会で賞を取るまでに成長し、
ホームページのカウンターは、小林恵子に並ぶほどに躍進し、マジシャンとして、
月額30万円ほど稼ぐまでに成長している。
そして文才に目覚め、現在マジシャンを主役にした小説を作る作業を手がけている。
私の彼女に対するプロモーションも、地味に見えるかもしれないが、
現在進行形のプロジェクトなのである。
Vol. 3
そしてそれから数年後。もう一人、19才の伊井野陽子の登場である。

彼女ははじめ、マジックショーのお客さんとして現れた。
OLをしていて、ディナーショーやライブに現れる、ごくふつうの女の子である。
緒川集人のマジックショーを見て感激し、自分もアシスタントで良いから、
マジックショーのステージに上がってみたいと考えた彼女の気持ちは、
ごくふつうの女の子のそれと変わらなかった。

誰もがウイザードインのメンバーと仲良くなるように、
彼女も自然と事務所に通うようになってきた。
そしてカルチャーシティに通い、97年の冬、ついに大会に出場してしまった。
結果は新人賞という非凡な才能を見せた。
自然で可愛らしく、ふつうっぽいところが魅力的で、あっという間に人気者になった。

そして自我が目覚め、その後緒川集人のアシスタントとして、
ウイザードインのメンバーに加わった。
二人は自然に恋に落ち、そしてマジシャンとして二人で生きてゆくことを誓い、
ウイザードイン、公認の仲となった。
(これは勿論秘密のことであり、ここで初めて明かすことである。)

しかしここで彼女は低迷をした。まじめに物事を考える彼女は、
エンターテイメントと言う言葉を理解するのには、時間がかかったのである。
大会で予選落ちをすることが続いた。
そして自ら何のためにマジックの世界を選んだのか、自問自答し始めた。

マジックの魅力にとりつかれた人の大半はは、
エンターテイメントとして客の目の前でスポットライトを浴びることにあこがれる。
それは歌にあこがれ、芝居にあこがれ、テレビを目指す若者達と同じである。
しかしマジックを続けて行くうちに、エンターテイメントの難しさから、
別のマニアックな部分に、趣味としての活路を目指す方向に変化してくる。
ウイザードインの掲示板で論議されている問題のほとんどが、
エンターテイメントをしている人間と、それに疑問を持つ人達の会話であることからも、
それが伺われる。

緒川集人のエンターテイメントに引かれこの道に入った彼女は、
エンターテイメントの難しさを知ると共に、
番組(トロトロで行こう)により、
エンターテイメントの本当のおもしろさも知ることになった。
そして自分たちの中で、緒川集人との恋を続けることが、
お互いのマジシャンとして、エンターティナーとしてプラスにならないことを感じだ。

彼女は誓った。
もし次の大会でベスト8に入らなければ、一つの決断を出そうと。
それはマジックをやめるとも、二人が別れるともとれる、決意であった。
しかし結果は惜しくも彼女は、ベスト8に漏れてしまった。

私は考えた。
マジックを、そしてエンターテイメントを目指す、若い女性がまた一人、
マジック界から去って行くのかと。そして私はそれを良しとせず、
以前かから考えていたプロジェクトに手をかけることにした。

私はまず、彼女と時間をかけて話し合いをした。

私の考えは、エンターテイメントとしてマジシャンを子供達が
あこがれるほどの地位まで持ち上げるためには、
テレビや雑誌が重要な物になると考えていた。
そのためには、中年やおじいさん・おばあさんのマジシャンではなく、
キムタクの様な、かっこいい二枚目のマジシャンや、
広末涼子の様なアイドルが育つべきであると考えていた。そしてそれは、
菅野美穂やグラビアのアイドルのように、刺激的な物であったり、
オタクと言われる支持層にも市民権を持つ、
本当の意味のアイドルであると考えていた。

現に私自身は、エンターティナーとして、日本でのマジシャン活動を引退している。
それは現在若者や子供達が、あこがれるマジシャンとして注目されるべく存在は、
緒川集人の年齢であると考えていたからである。
勿論自分のような人間が、ブイブイと威張っていては、
マジック界のメジャー化は難しいと考えたのである。
しかしアメリカでは事情が違い、
東洋の本格的マジシャンというキャラクターが必要なため、
マジックキャッスルにおいてのみ、パフォーマンス活動を行っている。
そして小林恵子や秋元正の年齢のマジシャンが、
中堅どころとして活躍できるように、
マジックキャッスルでもプロモーションの手を休めていない。
この成果や結果は、別の機会に詳しく説明するとして、もの凄く複雑な思惑と共に、
マジックの啓蒙は続いているのである。

彼女は私の考えに賛同してくれた。
たとえ憧れのマジシャンと別れても、エンターティナーとして、タレント・アイドルとして、
マジックの道に残り、本格的な活動を全力で進んで行くことを。

私は彼女が結果だとは思っていない。
あくまでも、日本のマジックが発展するための一歩であり、将来、
子供達がそしてその親が、マジシャンになることをあこがれ、
そして社会的に認知されることの第一歩である。そのためには、
もう売れなくなったタレントのヘアヌード写真集ではなく、
女性が一番美しいときに作る、自信を持てる写真集なのである。

男性が見て刺激的で、女性が見て美しく、不思議で素敵な、将来にも残せる、
本当の自信作を。

この作品をリリースするに当たり、沢山の人達から色々な意見か寄せられたが、
まずは出来映えを見て欲しい。
これはマジシャン神谷陽子のイントロダクションであり、
マジック界が新しい一歩を踏み出す瞬間である。

1999年6月18日(金) 渋谷にて
柳田昌宏44才の前日である。


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