憂歌団 軌跡

1953 

7月27日 花岡憲二 大阪市に生まれる。

1954 

1月22日 内田昌宏 大阪市に生まれる。
3月19日 島田和夫 大阪市に生まれる。
3月24日 木村充揮 大阪市に生まれる。

1969

木村、内田、島田の3人が大阪市立工芸高校に入学。

1970

この頃、内田の頭に「憂歌団」という名前が浮かび、木村とバンドらしきものを組む。

1972(ひらめ誕生!)

高校卒業後、阿倍野の喫茶店で定期的なライブを行う。

1973

京都でブルーズがブームとなる。憂歌団も京都で活躍する。ウェストロード
や上田正樹などのエレクトリックブルーズバンドに混じって
アコースッティック・ブルーズの魅力を強調する。

1974

京都のブルーズ・ブームが爆発。憂歌団はドラムに島田、ベースに花岡
が加わる。ライブハウス「拾得」や「京大西部講堂」、同志社、立命館を
始め、学園祭を制覇する。この年の春からマネージャーに奥村ヒデマロ氏が就任。

1975

北海道をツアー氏、洞爺湖畔の温泉地で合宿?「おそうじオバちゃん」や
「ドツボ節」が萌芽する。このツアーの帰路、トリオレコードのディレクター
中江氏と吉祥寺「まんだら」で遭遇、ショウボートレーベルからの
レコードデビューが決定する。8月、幻の「夕焼けコンサート」で伝説的な
名演奏を行い、特に関東方面の音楽ツウにエラク受ける。10月1日、シングル
「おそうじオバちゃん」でデビュー、赤丸付でチャートインする。が、しかし、
1週間後に突然「放送禁止Aランク」の指定を受け、有線放送からも締め出し
をくらう。しかし、11月1日に発売された「鬼気せまるヴォイス、圧巻の
ボトルネック、幻の憂歌団その真実とは…」という、デビューしたて
の若いバンドに対するものとは思えないキャッチコピーで発表された
ファーストアルバム「憂歌団」は大好評を博した。東京の初コンサートは
銀座のヤマハホールに「久保田麻琴と夕焼け楽団」をゲストに迎え行った。


1976

2月、伝説のホール、神田共立講堂で開催された「上田正樹とサウスtoサウス」
のコンサートに飛び入り出演、観客を圧倒する。4月「憂歌団LIVE AT
サーカス サーカス」(16mmモノクロ30分)が完成。家業の都合で
ツアー参加が難しかった木村に代わってこのフィルムが全国のファンを魅了する。
7月、2枚目のアルバム「SECOND HAND」発表、日比谷野音で
「SHOW BOAT CARNIVAL」開催。このイベントも映画化される。
8月日本のロックシーンの起爆剤となった「8・8ROCK DAY」にゲスト
出演、アコースティックのバンドの登場は初めてのことだった。11月、帝塚山、
奈良女子大、嵯峨美大、京大、一ツ橋、同志社、桃山学院、近大、神戸大、
関西学院、阪南大…。名実ともに学園祭キングとなる。12月、伝説の
ブルーズメン「スリーピー・ジョン・エスティス」の引退公演で
前座とバッキングをつとめる。憂歌団にとっても初の全国ツアーとなる。
このツアーも映画化される。(BLUES IS A LIVE)カラー60分。

1977

3月、初のライブアルバム「生聞59分」を発表、好セールスを記録。
5月、ライブの収録場所でもある「西部講堂」で初のワンマンリサイタル
を挙行、連日2時間近いアンコールを行う。この年の「夕焼け祭り」の
出演者は山下洋輔、泉谷しげる、浅川マキ、夕焼け楽団、裸足のラリーズ、
大駱駝艦他である。NHK「若い広場」に出演。全国から大反響を呼ぶ。

1978

4枚目のアルバム「四面楚歌」発表、記念コンサートには、タモリ、内藤やすこ
がゲストに出演。この頃、タモリがオールナイトニッポンで憂歌団をかけまくった。

1979

年間100本強のLIVEが淡々と続く。神代辰巳監督作品、日活映画「赤い髪
の女」(原作中上健次)の音楽を担当する。10月、なんと地元大阪では
初めてのリサイタルを開く。アルバム「ローリング・ステディ」発表。

1980

来日したブルースの巨人「マディ・ウォーターズ」と東京、大阪でジョイントする。

1981

NHK正月特番「スーパーバラエティー」出演。タモリ、桃井かおり、憂歌団
そして桂枝雀という組み合わせは、NHKならではのものと評判になる。東大五月祭
に出演、これで有名国立大の学祭の殆どを制覇する。8月、2年ぶりのアルバム
「夢・憂歌」発表、黒田征太郎氏の×(バツ)のジャケットが話題となる。9月
「SWINGIN' IN PITINN 新宿」にジャズ以外のグループとして始めて登場する。
4日間で1300人動員する。

1982

西部百貨店渋谷店で催された「K2文化の金字塔」なるイベントに参加。黒田、長友
両氏の交友関係の広さに圧倒されつつも、連日のみまくる。2月、テレビ大阪
開局記念コンサートに出演。フェスティバルホール初登場。おまけに「ジュリー」
との初共演でもあった。パチンコはジュリーのファンにもウケた。NHK FM特番
「BLUES MADE IN JAPAN」でRCサクセションと初めてのジョイント
セッションを行なう。5月、日比谷野音にてRCのチャボをゲストにコンサート
を行なう。この年、閉館間近の大阪「角座」で「宮川左近ショー」とジョイント。

1983

フォーライフレコードに移籍。9月、移籍第1弾アルバム「リラックス・デラックス」
をリリース。プロデューサーに伊東銀次を迎え、ブルーズに限らず、スタンダード、
ブギウギ、レゲエ、カリプソと多彩な味のでたアルバムに仕上がる。

1984

渋谷のLIVE INなどによく出演をする。7月、アルバム「気分」をリリース。

1985

5月 憂歌団としては日本で最南端の石垣島でライブを行なう。
10月 アルバム「UKA」をリリース、関西テレビ「今夜は眠れナイト」
にレギュラー出演する。

1986

7月 ミニアルバム「SUMMER DOZE」リリース。9月 新宿シアターアップルで
ライブ、その模様をライブ録音し、「BEST OF UKADAN LIVE」としてリリース。
このアルバムで「パチンコ」が「パチンコ組曲」として収録。

1987

3月 タモリ倶楽部「インテックス芝浦」で収録。
8月 福岡県久留米!の市営球場平和イベントに参加。
のちに上田正樹とのプロデュース「チキンジョージ新春歌絵巻」のきっかけとなる。

1988

5月 プロデューサーに康珍化を迎え、シングル「大阪ビッグリバーブルース」を
リリースする。NHK「加山雄三ショー」に出演、「Stay with you」のタイトルで
「君といつまでも」を本人の前で披露。加山氏も驚く。
6月 大阪市との姉妹都市シカゴへ渡米、「シカゴ・ブルーズ・フェスティバル」
に日本人としては初めての出演。堂々のアンコールを受ける。
7月 憂歌団としては最北の北海道オホーツク、雄武街へ行く。
9月 アルバム「BLUE'S」をリリース、ロングセールスを記録。

1989

3月 中野サンプラザでコンサートを開く。開場には景山民夫、前田日明など、
多彩なメンバーが多く詰めかけた。6月 アルバム「Big Town,Small Hands」リリース。
憂歌団では初めてハワイ、マウイ島、ラハイナ・サウンドスタジオでの
海外レコーディングを行なう。シングル「胸が痛い」リリース。

1990

1月 この年からマネージャーに博多出身の中村鉄平が就任。事務所も独立し、
M憂歌団オフィスを設立する。初代社長に花岡がジャンケンで就任したのは
あまりに有名な話。「神戸チキンジョージ新春歌絵巻」3回目、日変わりで
メンバーがプロデュースを行なう。ゲストの多彩さに好評を博す。
8月 初めての奄美大島ライブ、海の美しさに一同感動する。
9月 シングル「わかれのうた」、フジTV「神谷玄二郎捕物控」の主題歌になる。
11月アルバム「Good time's rollin'」リリース。
木村秀勝、新大阪のホームで突然、木村充揮への改名を宣言、一同、面喰らう。
続いて花岡憲二も花岡献治へ改名、スタッフは各方面の伝達へ奔放する。

1991

1月 新春歌絵巻4回目。東芝日曜劇場、「ホタル族」のテレビドラマ音楽を
担当。タイトル曲「けむりが目にしみる」は、以後、ステージでの定番となる。
2月 熱狂的なファンの要望で「胸が痛い」をアコースティックバージョンで
即興演奏。ステージを重ねるごとに充実し、9月には再び、シングルでリリース。
10月 古館伊知郎の「どうにもゴタク族」のエンディングテーマに採用される。
6月 感動の奄美大島に再度招かれる。海・空.風のワザか?!木村、神の声
を聞く。11月 18年目の憂歌団メンバーが選曲、新録音、新テイクを含めた
ベストアルバム「17/18oz.(オンス)」を発表。CDジャケットは、NY在住の
デビッド・サンドリン氏が描いてくれた。

1992

1月 新春歌絵巻5回目。2月 原田芳雄バンドとチャリティーツアーを回る。
3月〜6月 アルバム「17/18oz.(オンス)」をひっさげての全国脚行。
憂歌団としては初めての全国18ヵ所のホールツアー。
4月、ひらめ憂歌団初体験@長崎NCC&スタジオin長崎。続いて、8月に
鳥栖、12月に福岡のライブへ足を運び、完全にやられる。

1993

憂歌団結成20周年を期に10年間籍を置いたフォーライフレコードから
ワーナーミュージックに移籍。1月 新春歌絵巻6回目。7月 兵庫県の滝野
JAZZ FESでハナ肇とクレージーキャッツと感動の共演。
崔洋一監督作品映画、「月はどっちに出ている」のエンディング・テーマに
「WOO CHILD」が起用され映画とともに好評を博す。9月TV東京「タモリの
音楽は世界だ」にゲスト出演、沖縄「ピースフル ロブ ロック フェスティバル」
に初出演、3年ぶりのオリジナルアルバム「GON-TA」をリリース、服部良一音楽祭
「大阪城ホール」出演。10月 京都西部講堂古巣でジョイントライブ。
8月、ひらめ、長崎の電車通りでライブ前に勘太郎さんと遭遇。ライブ後、
楽屋に招待してもらい、各メンバーとおしゃべり&写真撮影させてもらう。
10月、数年振りに再会した友だちのツテで再び楽屋に行く。

1994

1月 新春歌絵巻7回目。3月 ライブビデオ「憂風」をリリース。7月 米子
「境港マリーナ」海辺の街の音楽祭で高中正義とジョイントライブ。
8月 この年から博多クロッシングホール2days憂歌団ライブ「憂風イン
クロッシング・ホール」がスタート。第1回目のゲストはゴンチチとアズミ。
(ひらめ、もちろん2日間とも行く。2日目は初の最前列に座る。)
大分文化放送主催でシーナ&ザ・ロケッツとジョイントライブ。(ひらめ、
これまたもちろん行く。後日放送。ひらめの声らしきものが聞こえる。)
9月 九州21世紀グループ「パチンコCM」の音楽を担当。憂歌団初のカバー
アルバム「知ってるかい!?」をリリース。大好評を博すとともに好セールスを
記録する。10月 服部良一音楽祭「大阪城ホール」に2回目の出演。
TBS筑紫哲也「ニュース23」にゲスト出演とともにエンディングテーマに
「風を追いかけて」が起用される。
11月 フジTV「ダウンタウンのHey Hey MusicChamp!」に出演、
「パチンコ」を演奏して、若者たちの度肝を抜く。
NHK教育TV大塚寧々「ソリトン金の斧、銀の斧」に出演。11月 シングル「風を
追いかけて」リリース。12月 大遊協(大阪遊戯協会)のイメージソング、
シングル「HAPPY GO LUCKY」をリリース。
ひらめ、年末初めての関西音楽紀行敢行。憧れの磔磔でのライブの度肝を抜く。
大晦日、初めてブルースギャングを見、有吉須美人のピアノに圧倒される。

1995

1月17日AM5:46 関西地区にあの恐怖の阪神大震災が轟く、この時、憂歌団は
ワーナーミュージックの佐藤氏の結婚式に招待され、東京にいた。新春歌絵巻8回目は、
震災により、神戸チキンジョージが全壊したため中止。5月 神戸チキンジョージ
の跡地にて「青空ライブ」を敢行。7月 あの伝説の夕焼け祭りに憂歌団出演。
上田正樹らと共演。半年遅れの新春歌絵巻を関西地区のライブハウス5ヵ所、
5日間にわけて行なう。8月 「憂風イン クロッシングホールVol.2」。ゲストは、
斎藤和義、本田修司。9月 沖縄「ピースフル ラブ ロック フェスティバル」2回目の出演。
10月 憂歌団20年ぶりのデビューアルバム「ブルーズ・バウンド」
リリース。厄年突入の憂歌団健在。11月 大阪通天閣の真下にある歌謡劇場で
通天閣の歌姫、叶麗子とジョイントライブ。チケット発売日1時間半で完売。
12月 工事中だった神戸チキンジョージが完成、この記念すべきこけら落としに
憂歌団出演、2days行ない、初日は黒田征太郎氏とのライブペインティング。
ひらめ、年末関西音楽紀行第2段を決行。

1996

1月 テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が新しく放送される。このオープニング、
エンディングテーマを憂歌団が担当。楽曲は名曲「ゲゲゲの鬼太郎」と「カランコロンの歌」。
新春歌絵巻9回目。7月、ベストアルバム「お中元」発売。
夏の終り 「ゲゲゲの鬼太郎」第33話「逆襲!妖怪さら小僧」に憂歌団登場。
ねずみ男のうまい話にまんまとのり、大売れする。アフレコも本人達が担当、
木村さんが唄う顔はまさに妖怪そのものであった。
ひらめ、9月のブルーズ・ギャングのライブ後、初めて木村さんとたくさん話し、
すっかりキムラー(木村充揮を愛して止まない女性のこと)となってしまう。
10月 「憂風イン クロッシング・ホール vol.3」
1日目にシーナ&ザ・ロケッツとアリゲーターズ
(三宅伸一、内田勘太郎、新井田耕造)、2日目に憂歌団。

1997

1月 新春歌絵巻10回目。新潟のパチンコ大栄グループのCMに出演、音楽担当。
3月 渋谷シアターコクーン3daysライブ「憂歌三昧」を行なう。
3日間とも全く内容が異なっており好評を博す。
4月 南こうせつ氏の日比谷野音コンサートにゲスト出演。
9月、東映映画「恋極道」の音楽を担当する傍ら木村、花岡、島田がちょい役で出演。
小出肇監督作品、吉本映画「OSAKAビッグリバーブルーズ」
の主題歌に「大阪ビッグリバーブルーズ」が起用される。
10月、ポッカ缶コーヒーのCMの音楽を担当する。
愛知県の「INAZAWA MUSIC FESTA'97」に山崎まさよしらと出演。
客の殆どが山崎君ファンという中で「木村さ〜ん かわいい〜」という黄色い声が飛ぶ。
11月 ベストアルバム2「お歳暮」発売。12月 初のCDーROM「憂歌団」発売。
勘太郎さん、博多で島唄ナイトをプロデュース。(2月と11月)
ゲストに大島保克、石垣勝治、ビギンを迎える。
木村さん、ジャズユニットでライブをする。
ひらめ、関西音楽紀行3、4回目を年始と年末に行なう。大晦日では、
今は亡き、W'OHOLで初めてストリングスの入った木村さんを聴き、惚れ直す。

1998

新春歌絵巻11回目。5月 博多、住吉神社能楽堂でライブを行なう。
秋 突然の休業宣言。冬眠ライブを名古屋、東京、大阪で行なう。ひらめ、名古屋と
東京に足を運び、彼らの門出を見送る。勘太郎さん、7月(生月)と11月(博多)で
島唄ナイトをプロデュース。博多では黒田征太郎氏のライブペインティング。
10月 木村さんと有山さん、博多で津軽三味線奏者の石井秀弦と共演。
翌日、佐世保のSUNSET99 LIVE SASEBOに出演。すべての客を喰う。

1999

新春歌絵巻12回目。メンバーはそれぞれ登場。木村さんは有山さんと、勘太郎さんは
下田逸郎さんと、花岡さんは花伸と、島田さんは鮎川さんと、それぞれが共演をする。
1月末、冬眠ライブ放映。3月「箱」を発売。