Art/Metric

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視覚芸術の計量空間
(過去系)



ピカソを「見る」って、ムズカシイ
@ルートヴィッヒ・コレクション/ピカソ回顧展
@三越美術館@新宿

(04/07/1998)

 いったい、ピカソの絵を、どんなふうに見ればいいんだろう?

 20世紀最大の巨匠、キュビズムの創始者、青の時代・桃色の時代と、次々と作風を変えた男。他人によって評価され、他人によって名付けられた「ピカソ像」が先だってしまい、どうも、ピカソの「絵」を見ることが困難になってるような気がする。

 あるいは、小学生時代の、図画・工作の教科書などで目にした「ピカソの絵」。よい絵というのは、ホンモノそっくりの絵のことだと素朴に思ってたので、その当時のぼくは、あんなヘンチクリンな顔なんて、誰かのイタズラ書きと、たいして変わらないじゃないか、と思ってた。ぼくのまわりの、あまり絵なんぞ見ない友人たちも、ほぼ、同意見である。

 やっぱり、(西洋)美術史という、デッカイ流れがあって、それに位置づけないかぎり、「ピカソってすごい」と言えないのだろうか? なんとなくモネとかルノワールはキレイだと思うけど、セザンヌ以降の近代絵画、キュビズムとかっていう呼び名や定義を知らない頭のイイ中学生に、「こんなふうに見てみなよ。こんなところがスゴイだろ?」って、説明出来ないものだろうか?

 いや、べつにぼくは、「ピカソってスゴイ」ってみんなに言わせようと思ってるんじゃないからね。ただ、ピカソの「絵」を見ることと、「ピカソの絵」を見ることは違うと、そう思ってるだけ。とにかく「絵」をよく見て、よく考えよう。美術史が教えるところの「〜主義」とか「〜時代」ってのを抜きにして。

 オバアちゃん細胞というのがある。いきなり、何だ?と思うかもしれないけど、脳ミソのある働きを担ってる一部分のこと。ヒトはカメラのように世の中を見ていない。っていうか、脳ミソの働きによって、初めてヒトは見ることが出来る。

 ヒトは、視野の中央で細かい文字を見てるし、止まってるものより動いてるものを選択的に把えている。また、人の顔を見る時は、風景を見るのとは違った見方をしている。あたかも文字を見るのと同じように、「顔」は「顔」として独立して見ているのだ。自分のオバアちゃんを見たときにだけ働く脳細胞が、オバアちゃん細胞である。たぶん、猿からヒトになる段階において、表情によるコミュニケーションが重要になり、それに伴って、顔や表情を高度に専門処理する機能が、脳ミソに備わったのだろう。
日本人の顔の区別はつくけど、外国人の区別がしにくいのは、このような訳。文字の判別がつきにくいのと同様、顔も判かりにくい。

 さて、この展覧会のピカソの作品をざっと見渡してみると、9割近くが人物を描いている。あと、牛や馬、楽器など。風景画と言えるものは、ひとつしかなかった。

 これは、何を意味してんだろう。彼が描いているものは、ぼくらの頭の中で、目にした瞬間に記号化してしまうものばかりだ。べつに他人からとやかく説明されなくても、ヒトの顔や馬や牛、バイオリンなんて、どんなカタチをしてるか想像がつくっていうものだ。それらをピカソは描いている。なんだか当然すぎることを、ぼくは言ってるのかもしれない。

 そして、言うまでもなく、これらのヒトの顔や牛なんかは、目や鼻があっちこっちいった、いわゆる「ピカソの絵」だ。決してホンモノそっくりではない。「あっちこっち」と言えるのは、ぼくらが見知ってる記号としての顔や馬や牛とは違うと思うからだ。つまり、ピカソの「絵」ではなく、そこに記号として知ってる顔とのズレを見ているに他ならない。人の顔を見ているのではなく、人の顔を確かめているのである。

 あなたが「ホンモノそっくり」と自信を持って言える肖像画は、果たして、誰にとっても「ホンモノそっくり」なのだろうか? こんな話がある。時は、16世紀、大航海時代、新大陸を見つけたと喜んでたスペイン人が、自分達の女王様の肖像画(ホンモノそっくり)を、大陸の先住民に見せた。すると彼らは「あなたたちのエライ人は、足が無くって片目しかないのか?」と、とても驚いたらしい。つまり、それが何らかの絵姿であることはわかったのだが、トリミングという「決まり事」を知らなかったのだ。

 でも、一体、誰が、先住民のことを笑えるだろうか? 「見る」ということは、ぼくらが思っている以上に、文化に依存するのであると、このエピソードは教えてくれる。

 ピカソの絵に戻ろう。例えば「アーティチョークを持つ女」、寒色系を用いたデカイ絵。キュビズムとかいうのに基づいた絵だ。目も鼻もあちこち向いてる。手がでかい。この絵を「確かめる」のではなく、「見る」とは、どういうことか。
 アーティチョークのカタチの面白さ。ためすつがめす、くるくる回して、その奇妙なカタチを楽しむ(つもりになる)。
 ある瞬間、ある光景として認めた顔を、次の瞬間、頭の中から消し去って、再び、人の顔を認識する行為、その連続によって人の顔を「見る」。しかし、これはピカソにしか出来ない。記号としての顔を確認するのではなく、アーティチョークのカタチの面白さと同じように、人の顔を楽しむ。いびつな手指も顔も、アーティチョークと同じように描かれている。カタチが目に受かることの祝福を、「在る」ことの恩寵をこそ、喜ぼう。

 あるいは「喜び」を「悲しみ」や「強さ」と置き換えてもいい。「ゲルニカ」なんかは、そのように描かれている。

 純粋な視覚芸術において、「見る」とはどういうことか、それを突きつめて考えることは、画家にとって非常に重要な作業であると思う。そしてピカソほどに、この作業を実践した画家はいないと思う。この展覧会では見られなかったが、彼は、おびただしい数の過去の作品を模写している。はっきりわかるものだけでも、ゴヤやベラスケス、アングル、クールベ、マネなど。特に、ベラスケスの「ラス・メニーナス」 を何度も描いているのは、画家の視線というものを探ろうとしていたからじゃないのかな。

 ピカソの「見る」とは、どういうことか。もしかしたら子供や恋人の顔を鼻が接するくらい間近に見ると、ピカソの「見る」に近いことが出来るかもしれない。目や鼻そして耳は、もはや「所定」の場所には認められない。でも、あなたが目にしてるのはひとの顔だ。もしかしたら、あなたは、間近に見る耳のカタチを不思議に思い、面白がるかもしれない。ときどき、ぼくは、キュビズムってこんな風にして生まれたんじゃないかって思うときがある。ピカソの人生を様々に彩った数々の女性。朝のまどろみの中、吐息を感じるくらい間近に見た女性の顔を、その驚きと幸福感をもって描いたらキュビズムの絵になるじゃないかと。

 ピカソの絵は鳩でも見分けることが出来る。鳩にピカソとモネの絵をいくつか見せ、憶えさせる。そして、まだ見せたことがないピカソの絵を見せる。すると、その絵はピカソの絵であると見分けるというのだ。それほどに、ピカソの絵は、ひと目見るだけでピカソの絵と認めてしまうほど、特徴的だと言っていいだろう。そこにピカソの「絵」を見ることの難しさがあると思う。ピカソの「絵」として見ずに、記号として、つまり「ピカソの絵」として見てしまいがいちになってしまうとは、このことを指す。

 以上、久しぶりにピカソの絵を概観して、思ったことを書いた。ピカソの絵をその生涯にわたって見るということは、これで2回目だ。数年前、バルセロナのピカソ美術館で、ひと通り、目にしたことがある。あの時は、めくるめく様式の変遷に目がいってしまい、美術史の流れに位置づけただけで終わってしまった気がするけど、今回は、昔にくらべて、少しは、ピカソの「絵」を見ることが出来たんじゃないだろうか。勝手ながら、そんなふうに思っている。


 

フェミニズム論のレポートで、フェルメールについて書いたら”0点”食らった
@「発情装置」@上野千鶴子

(03/27/1998)

 今まで、ぼくはフェミニズム論、ジェンダー論を意識的に排していた傾向がある。決して、胡散臭いとか、小うるさいと思ってたわけじゃなくて、たぶん、オスとしての自分の無知・無自覚を気づかされたくなかったのだろう。でも、そういう態度は改めなくちゃなあと、最近、思いはじめた矢先、この本「発情装置」に出会った。

 もちろん、上野千鶴子の名は知ってたし、一冊も読んだことがなかったにもかかわらず、著作の題名だけは数冊、挙げることが出来るほどだった。でも、フェミニズムについて知らないから、罪ではないというのは間違いで、少なくとも知ろうと努力しなければいけないと思う。いや、べつに、だからといって、読んだからって、オッケーってわけじゃないけどね。

 まだ、全部、読み終えていないけど、すこぶる刺激的なこの本「発情装置」を読んで勝手に思いついたことを書かせてもらう。

 処女作、処女峰という言葉がある。なぜか天文の世界にも処女彗星なる言葉まである。さて、この「処女」を「童貞」と言い換えてみよう。

「これが、あの大家○○の童貞作かあ」
「その時、オーストリアが誇る登山家が極めた童貞鋒を○○と名付けた」

 どうだろう、この違和感。ぼく自身、中古CD屋でモンテヴェルディの「聖母マリアの夕辺の祈り」を買おうとしたところ、なぜか、CDの背インデックスには「童貞マリアの夕辺の祈り」と書かれていて、思わず購買欲を削がれたという記憶がある。別に字義的にはおかしくないんだけどね。

とにかく、感覚的には、これが「性の非対称」というもの。

 美術においては、この「性の非対称性」が女性の「視られる身体」として現われる。いかにも神話的装いを与えられた、実は娼婦であるゴヤの「マハ」や、マネの「草上の昼食」などが挙げられるだろう。そして写真という表現に至っては、これが如実に現れる。もちろん、この「視る・視られる」関係を実に意識的に作品に取り込んできたシンディ・シャーマンなんて人もいるんだけど。
上にあげた作家や作品は、「発情装置」でちゃんと取り上げられている。

 以下、ぼくが本文に傍線を引っ張りたくなった箇所をいくつか引用してみよう。

「カメラマンと言うからには、、、」
「近代に視線の優位が確立して以来、「見る主体」はつねに男であった」
「視姦する男の視線が、いつのまにか女から衣服を剥ぎとって、裸体を透視しているように、その視線のリアリティを、マネは「草上昼餐」の中で描く。着衣の男とヌードの女という”不自然”な組み合わせがアートの名のもとに許される」
「このようにフェミニズム批評がアートの領域に及ぶことによって、芸術至上主義の名によって守られていた性的スキャンダルが次々に暴かれていく」

 うわあ、キリがないやあ。まあ、これだけでもずいぶんと分かってくれたと思う。 ぼくの興味をひいたのは写真が原罪として持っている「スキャンダル性」であり「視線の政治学」というものだ。

 彼女の著書では触れられていないが、ぼくはフェルメールを思い出した。え? フェルメールだって? あの静謐な室内に柔らかく入り込む外光のもと、まるで奇蹟の降臨を感じさせる絵を描いたあのフェルメールが、どうしてスキャンダルと関係あるの? と思うかもしれない。

 ほとんど歴史上の記録という記録に顔を出さないフェルメールが、どのようにして創作活動をしてたかは、ほんとにわかってない。その生涯に30数点の作品を残したのみで、画家同士の師弟関係・交友関係なども、ほとんどわかっていない。 まあ、それでも美術史家がいろいろ調べてみるといくつか興味深いことが見つかってきた。例えばカメラオブスキュラ。

 おそらくレンズと磨りガラスを用いた単純な光学機器だったと思われるけど、フェルメールは、このカメラオブスキュラを用いて、デルフトの風景画や、あの有名な室内の絵を描いたとされている。あ、べつに名前にカメラってついてるからって、いわいるカメラじゃないからね。ダゲールが現代に繋がるまともな写真術を完成したのは、確か1830年半ばだと思ったから、それは、とにかくずっと先の話。

 フェルメールが活躍(?)してたころのオランダは、海運によって市民階級が裕福になったころ、そして忘れちゃならないのが、ホイヘンスといった光学に通じた科学者が活躍したっていうこと。おそらくレンズ研きなんて、けっこう専門技術のはずだから、もしかしたら、ホイヘンスが研いたレンズが、フェルメールのカメラオブスキュラに使われてたかもしれない。

 で、「視線の政治学」という点から見ると、このカメラオブスキュラは、実に「覗き見」的要素が強い。ハンディカムのカラーファインダーじゃないんだから、スクリーンに仄かに映る光景を、慎重になぞっていったはず。

 想像してみよう。一方から光が差し込む部屋、少し奥まったほの暗い場所で、じっと息を潜めて、デッサンしていくフェルメールの姿を(暗幕をかぶってたかもしれない。レンズのF値はそんなに小さく出来なかっただろうから、光量が少ない)。

 一方、描かれる側は、この磨りガラスの向こうにいるはずの画家の強烈な視線を、それほど意識しないだろう。たぶん、モデルとなった者たちは、他の画家ならジロジロと射るような視線を投げかけるはずだが、このフェルメールという男は、何やら怪しげな機械の陰に隠れて、一体、何をやってるんだろうと思ったに違いない。

 ぼくが思うに、ここに、あの無防備な表情・しぐさが体現されてるんじゃないのかなあ。なんとも柔らかく視線を漂わせた表情や、水を注ぐとても自然な所作は、極めて一方的に視線を浴びてるにもかかわらず、それを感じさせないテクノロジーが産み出したものではないかなと。

 フェルメールすらも「視線の政治学」から逃れられなかったけど、写真機ほど如実に、「視られる」という実感を伴わない田園牧歌的な光学機械、カメラオブスキュラが、図らずも、カメラが持つ原罪を裏返して、あの一連の奇蹟とも言える絵画を生みだしたのではないだろうか。「発情装置」を読みながら、そんなこと勝手に夢想しました。

 えっ? 秀逸なフェミニズム論をオマエはちゃんと読んでないじゃないかって?ムム、そうかも知れない。いやあ、だってさあ、フェルメール、スゴイ好きなんだもの、って関係ないか。ま、お勉強はこれからも続けるんで、そう言わないでチョウダイな。


「正直、ワタシ、悶えました」
イタリア現代美術1945-1995 見えるものと見えないもの
@東京都現代美術館@駅から遠いゼ

(03/17/1998)

 イタリアの現代美術っすね。まずはフォンタナの空間概念シリーズ(concetto spaziale)から。例のキャンバス切り裂きとキャンバス穴あけ。イタリアというとルネサンス美術が頭にあって、なおかつ、いわゆる現代モノを見たことがなかったって人は面食らうはず。って、そういう人はこの手の展覧会に来ないんだけど(でも見てね、あ、3/22 までだ)。

 このような作品を眼前にすると、つい人は、「切り裂かれた」あるいは「穴を穿たれた」事実を見てしまいがち。そしてその事実を確認しただけで作品を鑑賞したと思いこんでしまう。なんだよ、穴あいてるだけじゃねえか。そのような傾向は生半可に本などの図版を見たことがある場合によくある。かく言うボクもそうだった。

 しかし、しばしの間、フォンタナの実作を見ていると、「物」としてのキャンバスを感じるはずだ。切り裂いた跡の鋭利な曲線や、穿たれた穴の淵の盛り上がる絵の具が醸し出す、意外な官能性を。そして、キャンバスの向こう側は、実は真っ黒な虚空だという不意に訪れる認識。ここにバタイユ的なエロティシズムを見るのは深読みだろうか。いずれにしろ、何やら触覚的原初的な刺激をぼくは受ける。

 作品をちゃんと見るってこと大切だよなあ。ジャスパー・ジョーンズを見るや、「あ、星条旗だ」、「あ、数字だ」と、記号だけを確認して通り過ぎてしまう人が多い。せめてあの厚ぼったいマチエールだけでもちゃんと見ればいいのにと思ってしまう。まあいいや。とにかく、ずっと、ずっと見てるとだんだんヘンなふうに見えてくる。どんなふうに? 例えば、ひらがなの「み」(み、じゃなくてもいいんだけど)を、紙にずう〜っと、いくつもいくつも書いてみよう。すると、「み」が「み」に見えなくなる。「うおっ、オレはナニを書いているんだあ」と、うろたえる瞬間がある。いつもは瞬時に行なわれる人間の高次の視覚機能であるパターン認識が麻痺するからだ。

 人は、小さいとき、この手の体験をよくしていたんだけど、ちいとばかし賢くなると、「み」を見るや、すぐに「み」は「み」であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ、なんて思ってしまう。そんなヒトは、即、「み」の書き取り、100回の刑ナリ。

 またもや、コリオリの風に流されてしまった。話をもとに戻す。ええと、ファウスト・メロッティ。立体的なパウル・クレーとでも言おうか。クレーの作品と音楽の関係は有名だが、彼の場合も、題名、作品ともに音楽をもとに作られているものが多い。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「カノン」などがそう。 網膜が感じとる軽妙洒脱なリズム感、重力に対するささやかな侮蔑が心地よし。

 この人、知らなかった、フランチェスコ・ロ・サヴィオ。でも、すごい。絵の具の使い方を熟知している。キャンバスとの距離の取り方によって、見え方がすごく変わる(Spazio Luce 1960)。絵の具のにじみやぼかし方、色彩の微妙な差を表現する技法は、とくにアメリカにおいて、発達した。ロスコとか、ラインハートとか。もとを辿ると、フランケンサーラーの版画に行き着く。ロ・サヴィオは、どっから、あんなこと考えついたんだろ。アンフォルメルから?もしかしたら日本の禅画だったりして。

 あとは、アルテ・ポーヴェラが続く。70年代ぐらいだっけ、ベトナム戦争と石油ショックの時代かな。文字通り「ビンボー人のゲージュツ」ですね。「木」とか「麻布」とか、「石」とか。これと呼応して、日本では「もの派」、アメリカではミニマル・アートが出て来るんだけど(あ、厳密なこと、抜きね)。

 同じ、石や金属(カタイもの)と布や綿(ヤワラカイもの)を対比させるような作品を見ても、日本の「もの派」は、あまりこういうこと言いたくないんだけど、禅の公案っぽいかんじ。「鉄1キロと綿1キロ、どちらが重いか?(ウソ)」とか。
 アメリカのミニマルは、とにかくヒンヤリした格好良さがある。買ってきたばかりのステレオが発するメタリックな存在感。
 で、イタリアのアルテ・ポーヴェラは? 単純にイタリア大好き人間のワタクシ的には、イタリア的とは五感を刺激するモノなりと常々、考えているので、やはり素材の組み合わせによる、触覚中枢の励起を感ずる。って、オレはヘンタイか?

 いや、だってさあ、時代は下ってマリオ・メルツのバイクぶら下げたやつ、いかにも東京都現代美術館でしか出来ないようなインスタレーションを、下から見上げてご覧なさい、正直、ワタシは笑いが止まらなかったよお。なんというか、耳の奥、三半規管をクスグられた感じがする。おまけによく見てみたら、フィボナッチ数列がくっついてるじゃないですか。それで加速ね。イタリア人にはかないません。この手のことに関しては。ちなみに、NHK イタリア語会話の康恵ちゃん、好きです(って、関係ないか)。

 てな感じでした。「オマエはヘンタイか」的メール、お待ちしております。同時開催、河原温については、いずれどこかで。この人の作品、うかつにコメント出来ないので。



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