Art/Metric

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視覚芸術の計量空間



  MEDIALOGUE 日本の現代写真’98
オイオイ、いつの間にボクらを囲む風景は、こんな風になっちゃったんだあ
東京都写真美術館@恵比寿

(05/24/1998)

 さて、この展覧会、90年以降の日本の現代美術の動向を、写真表現を通して探るっていうテーマらしい。そもそも、写真表現とは、その誕生当初、あくまでひとつの技術であり、メディアであり、後から振り返れば芸術「的」ではあるけれども、自立した芸術表現ではなかった。ううむ、こう言うと語弊があるか。つまり、肖像画のかわりとか、画家イラズ映像記録とか、科学的探究などの、用途を伴った技術だった。写真自体が表現の文法を手に入れたのは、ずいぶん後の話、おそらくアメリカにおいてだったと思うし、当のフランスでは、はじめ絵画を模倣する形で広まっていった。

 日本の現代美術の世界では、70年初頭、ミニマルやらコンセプチュアルといった世界(アメリカか)の動きに呼応し、作家の感情や手技に従属しないような作品をつくる上で、写真が用いられはじめた。それが始まり。てな前置きをつけて、展評にゴー。あ、全部は紹介しないよ。大体、網羅してるけど、。

 最初は、鈴木秀ヲ。マグリットに出てきそうな黒い帽子、アンティークショップにあるような地球儀、望遠鏡、カメラ、皮張りの本。それらを組み合わせ、人の顔を模したりした、ユーモラスでレトロなオブジェを写している。150年ほど経った光学キカイ、写真機へのオマージュか。対象を手の内にしたいという、写真という技術が 根源的に持つ欲望、箱庭的な欲望、および、それらが充足し完結した世界を表現している。

 で、いきなり、現実世界の登場。伊奈英次の「WASTE」のシリーズ。圧倒的。 廃物の山、ねじっくれた針金、絡み付いた電気コード、ドラム缶に水がたまり内側にびっしりと吹き出した錆、膨大な数の空瓶。図らずも、ヒトが作り出してしまった「風景」である。ここにゴミ問題をはじめとする環境問題を持ち出して、そのメッセージ性を指摘しても何もはじまらない。人の生活に隷属することから離れたモノ達が放つ、圧倒的な存在感をこそ、見るべきだろう。
 ちょっと前の日野啓三(小説家)だったら、「ひそかに自らの意識が開かれる気分」とか言うかもしれない。あるいは、その光景を、あなたは「美しい」とさえ口にしてもいい。そのような感想を持った上で、それらのモノ達が、もはや我々の手に及ばない存在となっている現実を認め、然るべき戦慄を覚えればよろしい。

 オノデラユキの「古着のポートレート」のシリーズ。洗いざらしの古着を、一着づつ、ばかでかい印画紙に少々硬い調子で焼込んでいる。あなたは、古着達と対峙することになる。コントラストをつけたモノクロなので、それぞれの服の皺や襞といった触覚的要素が強調される。たとえば山脈の鋭い稜線のごとく、たとえば礫砂漠のごとく。川久保玲を持ち出すまでもなく、これも現在の我々が目にしている「風景」。

 所幸則は知ってる人、多いかな。広告とかで有名な人だから。女のヒトのポートレートをデジタルで加工。羽をつけたり、色つけたり。重力のない世界。けっこう、密教画っぽいところもある。

 オサム・ジェームス・ナカガワの、う〜ん、なんて言えばいいんだろ。とにかくみんなアメリカの写真。アメリカのルート66とかの脇にあるでっかい看板広告の部分に、あたかもドライビング・シアターのごとく映画のワンカットをはめ込んだもの、レストランにしらえられたスクリーンに、何やら意味ありげなニュース映像をはめ込んだもの、取り壊したばかりとおぼしき寂れた町工場の、会社名を冠していたと思われる看板に、無関係な子供っぽいイメージをはめ込んだもの。普通、この手の合成は、異化として用いられるはずなのだが、なぜか、ぼくには、あまりに馴染んだ風景として目に映ってしまう。そのような自分の印象にこそ、ぼくは驚きを覚えた。木村伊兵衛賞を写真家以外で初受賞した都築響一の「ROADSIDE JAPAN 」じゃないけど、この国には、もっとブッ飛んだ風景が、アホな役人や自治体、政治家の手によって作られるからなあ。もう、少々の異化では驚かなくなってしまっているのかもしれない。

 太田三郎の「POST WAR 50 私は誰ですか」のシリーズ。中国残留孤児の顔写真を切手シートにしたもの。写真という複製技術、切手という流通するメディアを組み合わせたもの。より多くの人の目に入るようにという願いが込められている。題名はシャレではない。ここにはもうひとつ、航行する時間のパラメーターが加わっている。果たして、彼らの顔は、届くべき人のもとに届くのだろうか。

 山本昌男の作品、一瞬、何が写されているのか判別出来ぬほど、ずいぶんと焼きこまれた写真。セピア色に変色している。遊園地や、滝、何の変哲もない野原の草花。おそらくアルバムにきちんと整理され個人の思い出へと転化するべき「イベント」に成り損ねたイメージの破片。それらを、まばらに壁に貼り付けたもの、無愛想な更紙のアルバムに貼ったもの。写真というのは、何かの写し絵である前に、時間を航行するメディアであることを実感。なんとなれば、10年後、20年後に、自らが写ったプリクラを見返すことを想像するがいい。写した時には、「今」を取っておく、仲良しお手軽マシーンが、時を経るだけで、こうも本来の意味を変成してしまうものかと実感するはずだ。よくよく考えてみるとプリクラって怖いぞ。(ちなみに、figaro77、まだ一度もプリクラしたことがないのだ。アムロちゃん出産記念に、いっちょ、一緒に写ってくるか?)

 で、最後。森万里子。会場内、白い壁に囲まれた一角。カーテンの中に入る。なるほど、会場内の静かな歌声はこの部屋から流れていたのかと、スピーカーを見て確認。プラズマ・ディスプレイの中の映像は、何かのアニメで目にしたかもしれない白を基調としたコスチュームの作家本人が、ガラス玉を弄ぶ近未来的イメージ。 それに加え、同じ様な画像をガラスにはさみ込み、整然と並べている。肉体性と重力の完全なキャンセル・アウト。これら森万里子が作り出す羊水的映像は、Win95以降の我々にとって、現実以上の現実なのかもしれない。しかしながら当然のこととして、目の前にあるにもかかわらず、手に触れることは出来ないのである。少なくともこれを読んでいるWebなヒトにとってはjpeg、デジカメなんて、あり触れた言葉であるに違いない。ヒロスエリョウコといえば、ネットでどっかから引っぱってくるjpeg画像に他ならず、CMや雑誌は、単なるアリバイにすぎないとまで言ってしまおうか。結局のところ、メディアの発展とやらは、我々と対象の距離を、果たして縮めたと言えるのだろうか?

 とまあ、勝手な寸評を書き連ねてしまったが、全体的な感想としては、「思えば遠くへ来たもんだ」ってな感じか。ここ数年で、映像が持つ意味と価値が、明らかに変成していることを痛切に感じた。いつの時代にだって過渡期というものがあることはわかっているつもりだけど、どうやらここ最近の時の流れってのは、ぼくらが素朴に思っているよりも、ずっと速いみたいだ。

 プリクラの流行や、村上龍の見事な失敗作「ラブ・アンド・ポップ」に見られる、「今」だけを大切にする風潮に、無自覚に流されていると、そのうち、「今」の集積に押し潰されそうな気がするのだが、、これって、オレがすでにオヤジ化してる ってことかあ?う〜む。初プリクラして、日本の未来について考える時期か、オレは。

(付)この展評に関連して、以下に、95年春の原美術館で行われた現代美術における写真表現をテーマにした展覧会についての展評を載せるので、そちらも併せて読んでいただきたい。そんなに昔のテキストではないのだが、同じ写真をテーマにした現代美術の展覧会にもかかわらず、作品の内容や問題意識が、ずいぶんと変化してる気がするのだが、、。もちろん、企画上の切り口の違いもあるけど。この当時、まだプロバイダなんて、ちょびっとしかなくって、パソコンによる画像処理もメモリをバカスカ積んだ一部のマシンでしか、まともに行うことができなかったはず。ここ数年の違いってのは、まさに、そのこと。


  装置/機械としての写真をめぐるいくつかの考察
ちょっと古いけど許してね
@原美術館@品川

(03/07/1995)
Latest Uploaded!! (05/25/1998)

 この展覧会は「時間」「空間」「記憶」という、美術のみならず、さまざまな表象行為にとって普遍的、かつ不可欠なテーマをかかげ、いま日本で、写真あるいは写真を用いて作家活動をしている12人の作品を集めたものである。ここでは機械、装置としての写真がもつ特性を生かしている作家6人について考察してみた。

野村仁
 美術のメディアのひとつとしての、表現の手段としての写真が、現代美術に現れ始めたのは1960年代後半である。写真は個人の「手技」がなく、無機質で客観的なクールなメディアであり、当初のコンセプチュアルな作品にとって適したものであった。例えば野村仁の作家として活動をはじめた頃のいわば出発点となる「遅延論(Tardiology 1969 )」という作品がある。あらかじめ自重で潰れていくことを意図された段ボールを時間を追ってその変形の様子を写真に納めたものだ。野村はその作品以降、一貫して時間に、正確には「流れゆく時間」にこだわり続けてきた。今回、出品された「午後のアナレンマ」「北緯35度の太陽」などは、この「流れゆく時間」を、愚直に、そして丁寧に太陽を撮り続けることによって、見事に視覚化している。プラトンやケプラーのいう「天界の音楽」という言葉がごく自然に理解できるイメージをつくりだしている。
 もうひとつの野村の作品は、コンタクトプリントを束ね、何冊ものアルバムにしたものだ。視線がその方向をたまたま向いていたという、ただそれだけの動機でシャッターをきった写真、その羅列。写真を視線のメモ帳がわりに用いて日常の風景を断片を切りとっていく。
 今回出品されたいずれの作品も時間を追った単純な記録行為をベースとしているが、出来上がったものは、かくも異なっている。天上の循環する時間と日常の一方通行の時間が対照的に表現されている。

伊藤義彦
 伊藤義彦の作品には、野村との関連性が大いに指摘できる。例えば、連続写真。腕を伸ばしてカメラを持ち、回転させながら写し、ベタ焼にしたものが、野村の作品にある。また、オランダのヤン・ディベッツには、日の出から日没まで、ある建物を撮り続けた連続写真を、伊藤と同様にコンタクトプリントにした作品がある。伊藤の10点ほどの作品から、この二人の作家との共通項を差し引くと、彼の独創性が浮び上がってくる。
 連続写真はもともと被写体の運動や変化を分析するために用いられる。運動を分解し、断片化し一コマ一コマに収めていく。つまり視覚の微分化である。それに対し伊藤はコンタクトプリントを用いてハーフサイズ72枚を再び並べあげ、再集積する。断片化された視覚の積分化である。その結果ダイナミックな「うねり」や「回転」が72枚の「断片たち」から立ち上がる。

杉本博司
  視覚の断片の集積ではなく時間の集積をすると杉本博司の「劇場」シリーズにつながる。アメリカ各地の映画館で、映画一本の上演中にシャッターを開けたままにして撮影したものである。スクリーンは白くとんでいる。ほとんど人影のない観客席。上演中は全く目に入らない劇場内の凝った装飾が暗がりに仄かに浮かぶ。一体ここには何が写しこまれているというのだろうか。
 杉本は劇場を写していない。そして上映中の映画をも写していない。そこに写されているのは、人が一本の映画を「見る」という行為そのものである。白いスクリーンは上映されている映画はもちろん過去に映し出された映画、そしてこれから上映されるであろう映画の映像が溶かしこまれている。これら一連の写真に、人は個々の映画体験を想起し、さらに生の経験のメタファーとしての映画 = 記憶を投影する。ノスタルジーを喚起するのは豪華な古い装飾だけではなさそうである。

小山穂太郎
 昔はどこの家でも見られたであろう、ありふれた日本間。セピアの色調と染み、印画紙上のスクラッチが時間の風化作用を表現すると同時に、作家の手の痕跡を伝えてくる。いつかどこかで見た風景。彼の作品には常にそんな印象が付きまとう。中心の一点に収斂する厳格なパースペクティブは、見るものの属する時間、写された光景の属する時間、そしてその向こうにある「大過去」としての時間を串刺しにして、連綿と続く時間の連続性を提示する。

山中信夫
 今でこそ写真は、「シャッターチャンス」という言葉が示すとおり光景の瞬間を切り取る装置として、広く受け入れられている。しかし1839年にフランス人ダゲールによって発明されたダゲレオタイプの写真機が活躍していた当時、写真は一瞬を切り取るどころではなく、写される者に長時間の静止と緊張を強いるシロモノであった。「写す」ことはまさに厳めしい儀式とも思えるような行為であったに違いない。当時の肖像写真からそのことが窺える。
 山中信夫は、あえてピンホールカメラに立ち戻ることによって「写す」行為がもともと持っていた儀式性を現出してみせる。ピンホールカメラは光学的に被写界深度∞の映像が得られる。近景の草花から遠景の遺跡や鱗雲まで、針穴を通る光景を等しく印画紙に投影する。この世に「存在する」といこと自体がわけへだてのない喜びであり祝福であるかのように。
 長時間をかけピンホールカメラという箱に光の粒を蓄えていくという行為は、なにかの宗教的、求道的にも思える。小箱を携えて光の粒をひたすら集める巡礼者というイメージが、山中信夫に、とくにカラーの2点の詩的な情感をたたえた写真から感じられる。

福田美蘭
 福田美蘭は確信犯である。メディアを通して見ているモノと、実在物としてのモノの微妙で奇妙なズレを、普段、気にも止めないようなそのズレをわざと拡げてみせる。
 ファッション雑誌の1ページを拡大し、映画館の入口にある手描きのポスター広告のように描きだしている。御丁寧にページ数までふってある始末。あまたの映画館のポスターとは違う「巧さ」があるが、一体、福田は何のつもりでこのような絵を描いたのだろうか。絵画の伝統の中で重要なジャンルの一つ、肖像画として見ると、何か浮き足だったのっぺりとした感じがある。その原因は彼女の技術不足では決してなく、確信犯としての福田の思惑にある。
 通常、ファッション雑誌などのポートレイトを撮影するとき、レンズの絞りをなるべく開き気味にする場合が多い。するとピントの合う範囲、被写界深度が浅くなり背景をぼかして省略することができる。この効果により人物が浮き上がり、背景のうるささを省くことができるわけだ。福田はそのイメージを意識的に用いて、私たちが実際に見ている実在物のイメージと、メディアを通して見慣れているイメージとの乖離を炙り出している。
 彼女と同じような確信犯は、それぞれの動機や表現方法は微妙に異なるが、かなりの人数の作家がいる。ゲアハルト・リヒターをその重鎮として、ポップとの関連からイギリスのリサ・ミルロイ、最近日本でも展覧会が行われたロバート・ロンゴなど、日本では嶋剛がこの系統であろう。もともと、アメリカのハイパーリアリズムあたりから写真のもつイメージと実際のイメージとのずれに着目し、それを愚直に示すことにより「見る」という行為をめぐって様々な思弁的要素の強い作品が現れた。写真、映画からビデオやコンピューターによる仮想現実まで、メディアとその技術は時代を追って成長し続けている。無批判的に自己検証なしにひろがり続けるメディア環境のなかで、「見る」という行為にこだわる鋭敏な感性を持つ作家たちによって、今後も美術表現のなかで批評行為として用いられていくことだろう。


  「川村龍俊コレクション展〜ジョン・ケージから広がった美の世界」
ケージのデュシャンへのオマージュ、泣けるぜ! ク〜!
@八王子@純心女子大学の純心ギャラリー

(05/10/1998)

 ジョン・ケージといえば、今世紀において、音楽のみならず、はばひろく芸術・思想に影響を与えたヒト。プリペアード・ピアノという、ピアノの弦にネジや消しゴムをはさんで音色を変え、あたかもアフリカの民族楽器のような音を出すように工夫したり、偶然性という概念を音楽に持ち込んだりした点で、画期的アンド衝撃的。なにしろ、作曲家の作為というものを排除しちゃったわけだから。これは、べつに、作曲家の責任逃れっていうもんじゃなくて、意志や感情に、「音」を従わせるのがイヤだったってこと。コインを投げたり、サイコロを振ったりして、音のパラメータが決められる。あるいは、この考えをずっと敷衍していって出来たのが、「4分33秒」という音楽である。

 演奏者が、ピアノの前に座り、4分33秒、一切、音を出さないのだ (!!)。そんなのありかよ、って思うかもしれない。音と沈黙は等価である。あるいは、ピアノが無音でも、会場のざわめきや、咳払いが聴こえるかもしれない。あなたは、こういう、特別な4分33秒間を与えられてはじめて、そのことに気づく。そういう「音楽」表現。

 とまあ、アメリカではかなりラディカルなことをやってたので、ヨーロッパ(に限らずか)の音楽家に、ずいぶんと批判を浴びた。しかしながら、同時に、(西洋)音楽という概念をずいぶんと広げてくれたヒトでもある。そういえば、似たような芸術家がいたねえ、便器にサインしたり、モナリザにヒゲを描いたヒトが、、。

 そう、マルセル・デュシャン。デュシャンもずいぶんと、美術の概念を広げてくれたヒト。パリでは、そんなことばっかりやっていた。んでもって、アメリカへ渡る。デュシャンは、アメリカの若い芸術家から、いちもく置かれる存在だった。フルクサスがあるのは、まったくもってデュシャンのおかげである。当の、デュシャンは、そんなこと、おかまいなく、作品を作ることなんかさっさとやめて、毎日、チェスばかりしていた。

 デュシャンを尊敬していたケージではあるが、彼が美術作品を作るようになったのは、デュシャンが亡くなってからだと、この展覧会のコレクションのオーナーである川村氏は、教えてくれた。ケージが最初に作った作品が、「マルセルについて何も語りたくない」のシリーズ。んん、な、泣ける!この題を持つ作品が2つ、展示されていた。大ガラスへのオマージュとリトグラフ。

 さて、今回の展覧会、デュシャン、ケージにはじまり、日本の若手美術家の作品まで、60点ものコレクションを見ることができた。かなりの数だし、ぼくが知ってる作家の数も限られているので、正直、ここではフォローしきれない。ただ、全体的に受ける印象が、作品の個性を越えて、相通じる何かがあることは確か。ふつう、あれだけ、バラエティに富むコレクションだと、なんで、この作品買ったんだろ的なものが混じってることが少なくない。それを逃れて、なおかつ、質の高い作品をコレクション出来たのは、2年という比較的、短い期間で集められたってことと、当然のことながら、コレクターの美的感心の集中度(自覚の度合い)が高かったからだろう。個々の作品やケージについての話を、脇で聞いていたのだが(別に、盗み聞きしてたわけではない。川村氏の声がデカくて、よく通るのである)、打てば響くように、あいまいさのない答が返ってくる。なるほど、こういうことかと、作品を見ても納得できる。

 で、個人的に盗みたくなった(笑)作品アンド気になった作品をいくつか、、。ケージのリトグラフ、河原で拾った石を、チャンスオペレーション(運まかせ)によって、紙の上のどの位置に置かれるかを決められ、その石の輪郭をなぞる。そのくり返し。なんとなくトボけた感じと、心地よいリズム感があって、イイんだってば。あと、母袋俊也の水彩(Hommage1906)。かそけし筆の動き、色、個人的に好き。1906の謂れはわからない。デュシャンとケージの生年ではないなあ。さかぎしよしおう氏の石膏作品。くねくね、にょろにょろ、といった、畳語かつ擬態語が、すぐさま浮かんできて実に原初的触覚を刺激する。幼稚な感想だって思わないでね。このような畳語を用いた擬態語ってのは、日本や南洋の島々も含め、広義のモンゴロイドの間で使われてる言語に特有のもの。すなわち我々、モンゴロイドのずいぶんと原初的な造形感覚に通じてるって思ったわけ。でも、さわっちゃイケナイのよね、、。あと、三浦務氏の「convex & cocave」。ガラスを用いたもの。深い青。吸い込まれるような青である。convex & concave、すなわち凹凸レンズ状にゆがめられたガラス面が、我々の視覚をゆさぶる。何が置かれ何が描かれてるわけでもないが、ぼくは、理科室の匂いと、コーネルの箱を思い出した。コーネルの箱もよく青が使われるが、作品の自己完結の度合いが高く、閉鎖的。一方、三浦氏の作品は、奥行も含め、広がりを感じさせる。贅沢を言うなら、このひとの、大きな作品も見てみたいと思う。

 この展覧会、純心女子大の学芸員実習の一環として企画されたってところが、ミソ。出品作品こそ、決められてるとはいえ、どの作品をどこの壁に、どのように展示するかといったもの一切を、学生に任せたという。自分の作品は、ギャラリーの壁に必ず自分でセッティングしてる作家の作品も含めて。だから、展覧会を見て一番、驚いて、かつ、オモシロイと思ったのが、当の出品作家だったという話を聞いた。なるほど。こういう企画、野心的かつ長い目で見れば教育的でいいんじゃないですか。官僚的美術館でトップ・ダウンの仕事の手伝いをするより、こっちの実習の方が100倍、意味があると思う(作品の持ち主の理解があれば)。


  これは教育的!オルブライト=ノックス美術館展
@また、デパート展かあ?
@伊勢丹美術館@新宿

(04/30/1998)

 またもやデパート展。この展覧会、すこぶる教育的(?)である。印象派の画家たちの名前と作品をいくつか知ってるっていう感じのヒトにとっては、西欧近代美術史を概観する上で、うってつけといってもいいだろう。んなわけで、ちょっぴり絵に通じてるヒトは、ふだん、あまり絵に接しないヒトを連れていって洗脳してチョウダイ。

 アメリカの美術館というのは概して、この手の教育的なコレクションを持ってるとこが多い。今回、見ることができる作品も同様。

 個々の作品の感想は後回し。ホントに感想だけなので。で、はじめに、どのように教育的なのかを書く。べつにネタバレではないので、これから見に行くヒトも読んでちょうだい。

 はじめにクールベがあるのはいいでしょう。いわゆる写実。すべてはここから始まったと、、。その後、いくつかのラインを設定できる。

(1) ドガのバレエの踊り子。手足がまるで、プラモデルみたいに模型的。円筒みたいというか。のっぺりと描いてる。このあと、ホントはセザンヌの人物画が欲しいが、ちょっと高くて買えないのか?そしてピカソをはじめとする(分析的)キュビズム、レジェへと繋がる。
(2)モネの風景画から、ピサロ、ルノワールの風景画、スーラ。描かれたもの以上の意味は込められていない。ボナールとかまでくると、このラインに乗せるのがアヤしくなるのだが。
(3)ゴーギャンの「黄色いキリスト」。描かれたものに描かれたもの以上の意味が込められ、色使いとモノのカタチが大胆になってくる。タヒチ以前のブルターニュ・ポンタヴァンの地で描かれたもの。フランスの辺境の地で、後のマチスやシュルに繋がる実験が成された。
a:「黄色いキリスト」に出て来る信仰篤き女性たちの帽子(?)や背景の樹のマロい曲線、意表をつく鮮やかな色は、フォービズム(野獣派)につながりマチスの「音楽」を生む。ドイツ表現主義のサイド・インパクトありだが。
b:描かれたもの以上の意味を込められた絵画が、キリコや、シュールレアリスムのエルンストやダリ、マグリットの世界へと繋がる。
(4)カンディンスキーもあったので、あとモンドリアンがあれば具象から抽象へのプロセスも含めることができる。

 まあ、概観してみると、ドガとゴーギャンの作品が、後の絵画史を形作るキーポイントとなってることがわかる。(ホントはドガじゃなくて、マネが欲しかったりするのだが、、。まあ、あの踊り子ならマネじゃなくてもいいでしょ。)すると、どうも収まりの悪い作家というのもいる。ユトリロやモディリアニ、シャガールは、パリの黄金期の作品として、乱暴にひとくくりしたとしても、ゴッホやココシュカなんか外れてるよなあ。って、べつにオカシイって言ってるわけじゃないからね。具象という手枷足枷の中で、ギリギリまで頑張って、絵画を精神の器にしたヒトたちなんだから。凄いヒトたちなのです。

 後から振り返ってみて、きちんと作品の位置づけをしやすいように、少しづつ作品を買い集めていったのだと思う。アメリカ人が素朴に思い描く、小さなヨーロッパを手中に収めるという行為。いずれにしろ、基本方針がしっかりとしていて、かつ、それを持続している美術館というのは、いい美術館です。

 どこぞの国みたいに、バブルに踊らされ作品を買いまくって、不良債券として人目に触れず倉庫の肥やしになってるのとは、ワケが違う。あるいは、作品購入のプロセスが怪しい役人的美術館とも、違う。だから、デパート展でも何でも、人目に触れることは、いいことです。

 で、ようやく私的感想。ココシュカのロンドン・テムズ河の眺め、異常です。パースペクティブが錯綜していて、画面全体がうねっている。凄すぎ。けっこうココシュカは好きなんだが、あまり評価されてないし、作品を見る機会もあまりないんだよなあ。
 あと、ドローネーとクプカか。3年ほど前に、関西方面でクプカの回顧展あったよねえ。行きたかったんだけどなあ。もっと、見せてくれ〜、オルフィスム。技術文明が生み出した「光」に純粋に反応してるんだよ、彼らは。デンコちゃん(関東限定ネタ)に怒られるような電気使いすぎのヒトは、ドローネーを見て、電気の有難みを知るベシ。


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