
「月の桂の木の下で」(桂花幻想之月夜 その2)●中国の古い伝承によれば、月には豪奢な宮殿があり、その庭に高さ五百丈もある桂の大木が生えていているという。あるいは、月そのものが桂で出来ているという話もある。唐代以降、桂は金木犀を指すものとなったが、本来は何らかの常緑の香木であったことには変わりはない。月の宮とやらは、よほど芳しいところなのだろう。その昔、仙人になる修行の途中、過ちを犯し月に追放された呉剛という者がいた。彼はその桂の大木を切り倒すという罰を与えられていたが、その桂の木は、切っても切ってもまた生えてくる。この中国版シジフォスともいうべき業を担った男は、李賀の詩にも出てくる。
●桂皮・桂枝といえば、東南アジア原産のクスノキ科の香木、シナモンであるのに、なぜ、桂が金木犀になったのだろうか。月にあるのは桂の木だとしても、その桂が金木犀を指す言葉となったのは中国・唐代のことである。中秋の名月なるものは、もとは中国の暦に拠るものであり、秋という季節と冴え渡る月明かりの組み合わせは、なかなか相性の良いものなのだろう。月を眺め楽しむには、夜の戸外でもさほど寒さを感じず、なおかつ夜が長く、大気が澄み渡っていなければならない。このような条件が整うのは、日本でも中国でも同じく秋に限られよう。中秋の名月が欠けて新月となり、次なる満月を経てから再び幾分欠けゆくまでが、およそ金木犀の開花期にあたる。このような理由で、架空のものであった月の宮の桂が、いつしか香り豊かな金木犀に置き換わったとしても不思議はないと思う。
●ここで、李賀の詩を2つ紹介しよう。桂の木に関する記述がある部分だけを抜粋する。
夢天 天を夢むこれは月世界に身を置いて詠んだ詩である。鸞珮(らんばい)とは、鸞鳥という空想上の目出度い鳥の羽根飾りのこと。玉の白さと見紛う月世界、その露に潤った光のなか、羽根飾りを纏った仙女が行き交っている。辺り一面には、金木犀の香りが漂っている。なんとも妙なる幻想的な光景ではなかろうか。五感に訴えつつも控えめであり、凛とした静謐な幻想世界を描く時、李賀の詩才はもっとも輝く。老兎寒蟾泣天色 老兎(ろうと)と寒蟾(かんせん)は天色に泣き
雲楼半開壁斜白 雲楼(うんろう)は半ば開きて壁は斜めに白し
玉輪軋露湿団光 玉輪は露に軋りて団光(だんこう)湿(うるお)い
鸞珮相逢桂香陌 鸞珮(らんばい)は相逢う桂香(けいこう)の陌(みち)月に棲む老いた兎と寒げなヒキガエルと仄白い天に向かって悲しみ泣けば、
雲の宮殿は半ばその扉を開き、そそり立つ壁は斜めに白く輝いている。
玉の車輪の露に軋む円い光の塊の濡れそぼつなか、
鸞珮を帯びた仙女たちは木犀の匂う道を行きかう。
●次なるは、天上の謡。
天上謡 天上の謡これもまた、月世界から宇宙を眺めたものとされている。ずいぶんダイナミックな情景を描いているが同時にここにもまた清冽な幻想世界が立ち現れている。天河夜転漂廻星 天河は夜転じて廻星(かいせい)を漂わし
銀浦流雲学水声 銀浦(ぎんぽ)の流雲は水声を学(まね)ぶ
玉宮桂樹花未落 玉宮の桂樹 花は未だ落ちず
仙妾採香垂珮纓 仙妾(せんしょう)は香を採りて珮纓(はいえい)を垂る天の川は回転してぐるぐる星を漂わせ、
銀色の川辺に浮かんだ雲はさらさらと流れており、
玉の宮殿の木犀はまだ花をこぼさず、
仙女たちは珮纓という匂い袋を腰に下げて香草を摘んでいる。
●どちらの詩も、月の桂は、香りそのもの、もしくは香りを連想させるものとして扱われている。月の桂を、単なる架空の産物としてではなく、実(じつ)なる香りを醸すものとして扱っている。このような扱いは、桂=金木犀となってから以降、詩を能くする者が金木犀の香りに想を得て成り立つものと考えるのが自然であろう。もともと桂林の地に自生していた金木犀を、芳しい香り放つ木として珍重し、各地に植樹した結果、月見の季節と相俟って、桂=金木犀という了解がなされたのだと思う。
●せっかくだから李賀の詩の凄いところを、もうひとつ紹介しよう。それは幻視の自由度というものだ。視点が自由自在に動く様は、上記抜粋でもおわかりいただけると思うが、はじめの夢天という詩の続きに、次のような詩句がある。
遥望斉州九点煙 遥かに望めば斉州(せいしゅう)は九点の煙斉州は中国のこと、九点の煙とは、そのまま、九つの点状のモヤのような様。当時、中国は九つの州から成っていたらしい。一泓の海水は、ひとたまりの海水。すると、この詩句は、月面から地上を見晴るかした情景を詠んだものとわかる。あの広大な中国大陸が、靄のような九つの点にしか見えず、それを取り囲む大海原すら、杯に注がれた水のようだ、と詠んでいるのである。
一泓海水杯中瀉 一泓(いちおう)の海水 杯中に瀉(そそ)ぐ
●アポロ計画以前に、地球より38万km彼方の月面から地上を眺める詩を書いた李賀であるが、よもや、すぐ傍らに横たわる万里の長城が、月面から肉眼で確認しうる人造物であるとは、思いもよらなかっただろう。
■参考)李賀詩選 (岩波文庫)
(10/24/2000)
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「月夜に金木犀の香り漂い」(桂花幻想之月夜 その1)
●あれほど強く妙なる芳香を放っていた金木犀だが、すっかり花を落とし、散らずに残った半ば干乾びた花に顔を近づけても微かな残り香を感じるのみ。足元にはまるで珊瑚砂のような花が散らばっている。手にとって見ると、それは四手の星型となっていて、きちんと4枚に分けられるものではなく、ひと繋がりになっている。これは花弁ではないようだ。紫陽花と同じく顎(ガク)が色付いているだけだろう。更にルーペで観察してみると、1対の雄蕊と不完全な雌蕊が見うけられる。金木犀は雌雄異株であり、その雄株のみが日本には存在することは前回書いた。
●数日前、ためしに花をひとつ摘まんで口にしてみたところ、ほんのわずかにしか甘味は感じられなかった。香りだけで昆虫を惑わし、蜜を与えない原始的な被子植物の中には例えばタイサンボクがあるが、あれらと同じように甲虫類に花粉でも食わせているのだろうか。しかし雌雄異株であることから察するに、花粉を供する雄花にのみ、虫が取りついても意味がない。やはり、わずかばかりの蜜を虫たちに与えているのだろう。
●自宅の玄関脇に咲く金木犀の花を仔細に見てみたところ、ようやくひとつの花にムシを見つけた。小さな羽虫がもぞもぞとしている。このようなムシが取りついて、金木犀の花から花へと移り渡ったところで、雄花ばかりゆえ、受粉もなければ実も種子も出来ない。その香りの強さの割に、昆虫たちを集めないように見えるのは、このような小さなムシのみがやってくるせいかもしれない。原産地である中国、桂林ではいったいどんな虫が花粉を運ぶのだろうか。
●どうやら、この桂林の「桂」とは、中国・唐代以降、金木犀を指す言葉であったという。そういえば、桂花珍酒や桂花茶は、この金木犀を用いて香り付けをしている。桂林が原産地であるのは、だから、当然とも言える。花の盛りにあたる陰暦8月(現在の10月上旬)を桂月と呼び、秋のこの季節を桂秋とも呼んだ。その時期の桂林市内では、長く続く街路に金木犀が咲き乱れ、むせぶほどの芳香を放っているらしい。
●今月は、およそ満月から、立待月、居待月、寝待月と欠けゆく月を眺めることができ、ちょうど時期を合わせて金木犀の花も咲いていた。月夜に金木犀の芳香漂うというこの組み合わせには思い当たるひとも多いであろう。そこで思い出したのは、去年の秋にこの日記でも紹介した李賀の詩である。月には桂の樹があって、その樹を切り倒し続けるという業を背負った者の話があった。その桂の樹とは、すなわち金木犀のことである。次回、月と金木犀を扱った李賀の詩を紹介しよう。
(10/22/2000) 「金木犀の香りは海峡を渡るか」
●はじめは爽やかな芳香を放っていたキンモクセイも盛りを過ぎたようで、今はじつに濃厚な甘い香りを漂わせ、熟れんばかりのその香りは、味覚をも刺激する。根元にちらほらと散った花が見うけられる。雨さえ降らなければ、およそ一週間の花の命と聞く。
●前回、帰化植物、セイタカアワダチソウの話を書いたが、このキンモクセイも中国原産の植物である。前者はきっと貨物船の積荷とやらに紛れ込み、後者、キンモクセイはもっぱら、この妙なる香りゆえ、もたらされたのだろう。静岡県三島大社には、樹齢1200年を数えるという金木犀の古木があるそうだ。少なくとも平安時代のはじめには日本にあったということになる。その三島の金木犀、樹高15mもあり、風向きによっては、その香り、2里にも及ぶという。金木犀など庭に植えてる家が多いから、遠く離れた場所での香りが、はたして三島大社の金木犀なのかわかろうはずもないのだが、そんな話も腑に落ちるほどの立派な樹容なのだろう。
●花がこのような芳香を放つ理由は、ふつう、花粉を運ぶ昆虫たちを寄せるためである。しかしキンモクセイは雌雄異株であり、日本には雄株のみが存在する。たとえその甘い芳香で虫たちを引き寄せたとしても、いわゆる受粉は出来ない。それ以前に、なぜか金木犀の花に昆虫が寄り集まらないらしい。相性のいい昆虫に恵まれなかったのだろう。その点において、セイタカアワダチソウは運が良かった。一時期、花粉症の元凶だと思われていたセイタカアワダチソウだが、まったくの虫媒花である。数にまかせて花粉をばらまくようなことはしない。多くの昆虫が受粉を手助けする。ここ100年ほどで味方となる昆虫を見つけられたのは、なぜだろう?単純に距離だけを比べれば、中国より北米の方が遠いのに。
●日本と北米の植物種に多く共通性が見られることは、どうやら植物学ではよく知られた話らしいが、これには受粉を助ける昆虫にも共通した働きが求められるはずだ。大昔、ベーリング海峡が陸続きだったという根拠だけでは心許ない気がする。それとも、金木犀と比べるならば、金木犀の原産地である中国の桂林と比べるべきなのだろうか。あの湿潤の地に比べれば、現在の都市部・郊外などの殺伐とした場所は、北米の乾燥した平原によほど近いのかもしれない。
●あるいは、昆虫にとっては、雄株、雌株の双方を行き交わない限り、雌雄異株の植物種そのものの絶対数を増やすことにならないわけだから、結局のところ、蜜にあやかろうという昆虫も増えなかったと考えるべきなのだろうか。受粉などの手助けなどせず、勝手に蜜を吸ったところでバチが当たるワケでもなかろうと思うのは、香りを一週間ほど楽しめばいいなどと考える、人の身勝手さというものだろうか。いや、人はしっかりその繁殖の手助けをしている。接木、挿木でしか増えぬ金木犀を、こうも身近な秋の風物に仕立て上げたのだから、蜜を吸ってるうちに受粉の手助けをする昆虫たちよりも、ずっと自覚的にその繁殖の手助けをしたことになる。
●妙なる香りは、しかし、遠く大陸に咲く雌株に向けて放っているのかもしれない。だから、あんなに甘やかで強い香りなのだ。
(10/14/2000) 「泡立つ セイタカアワダチソウ」
●「キカショクブツ」という言葉を知ったのは、いつの頃だったか。小4くらいだろう。その時、セイヨウタンポポとカントウタンポポの見分け方を知り、北米原産のセイタカアワダチソウという草花のことを知った。あの時分、家の近所では駅裏の造成地のあたりにだけ、その大群生を見かけたけれど、今や川辺のススキを駆追する勢いで繁茂し、すっかり秋の草花の顔となった感がある。
●線路際や砂利びきの駐車場をめぐる柵のあたり、もう、むやみやたらと、背丈の高いその姿を目にする。だいたいがまとまって自生しており、基本的に日差しの強いところが好きなようだ、というか大丈夫なようだ。ツユクサがひっそりと塀や生垣の脇などに咲くのと違い、ろくに草も生えていないような更地や造成地に、いちはやく根付き自生してしまうのが、このセイタカアワダチソウ。
●ひとつの花茎に数万個のタネを作り、地下茎でもぐんぐん伸び広がることができるうえ、特殊な化学物質を出して、他の植物の発芽や生育を抑えてしまうという(アレロパシーという現象。ヒガンバナにも見られる)。ただでさえ、北米からやってきたばかりで天敵もいないのだ。増えに増えるのは道理というものだろう。しかしながら、そのような栄華もどうやら翳りが見えてきたようで、ここ最近は、セイタカアワダチソウがかかる病気や、葉を食い荒らす虫が現れているそうだ。虫が増えれば鳥が増え、という感じで、このセイタカアワダチソウも、日本の都市近郊の食物連鎖のサイクルに加わるのだろう。単体で見ればなかなか見栄えのする花なのだが、遠目だと、いつも殺風景なところで見かけるせいか、あの泡立っているかのような黄色い小さい花が無数に見えたとしても、どこかこころ和むという感慨は得られない。その逞しさに、タンポポやオオバコのような健気さは感じられない。
●先ほど、ぼくは、「泡立っている」と書いた。黄色い小さな花は、ぼくにはまるで、海の中で無数の泡が立ち上って行く様に見えるからだが、そのセイタカアワダチソウという名は、タネの冠毛が遠めには白く泡立っているように見えるところから付けられたそうである。そのタネを結ぶのはおよそ12月頃のこと。いままで意識して見たことはなかったので、今年は注目してみよう。きっと「ああ、この綿毛のことかぁ」と納得するような気がする。彼らにとっては繁殖の契機であっても、ぼくにとっては、秋のふてぶてしいほどのセイタカアワダチソウの群生の、ひとつの衰微として目に映ると思う。
(10/12/2000) 「香りにぶつかる」
●4日ほど前の話、シゴト場に泊まり込んだ後、ようやく帰宅となったが、いざ家に着いたのは、やはりというか、深夜のことだった。玄関へ向かって歩きながらポケットの鍵を探っているときのこと、「ごん」という、たじろぐほどの衝撃を感じた。
●あまりに不意のことだったので、はじめ自分の身に何が起きたのかわからなかった。それは、キンモクセイの香りだった。そんなに長く家を空けたわけでもなかったのに、そうか、その間にキンモクセイが咲いたのか。はじめから、そこにキンモクセイがあることを意識していたならば、その匂いをかぐことは、ある意味、確認の作業にすぎないが、その時は違った。不意に出くわした。
●冷えた夜気は過飽和となって水蒸気を析出し、常夜灯のまわりに茫洋とした光輪を作り出すほど。湿り気は、香りの分子と仲が良い。キンモクセイの香りの分子も、微細な水滴に捕らえられて宙を漂う。風も無ければ、じっとりと留まる。その分布に、香りの空気塊に、ぼくが「ごん」と、ぶつかった。
●匂いが微かならば、まず何らかの匂いがすることに気付き、その後、その匂いが何であるかを嗅覚なり視覚なり、あるいは聴覚に頼って意識的に探るだろう。しかし、夜の強い香りは違う。いつだって、不意に出くわす。発する元を知らなければ、出くわす以外の出会い方はなく、夜であるなら視覚に頼って瞬時に香りの元を問いただせない。冷気はただでさえ鼻腔を刺激する。そこに花の香りが濃厚に溶け込んでいるため、記憶の中の匂いのストックと、容易に照合できない。そこで、ちょっとした時間のずれが生じる。
●香りに「ごん」とぶつかってから、その香りが何であるかに気付くまでの、ほんの少しの時間の空隙。地に足つかず、宙に浮いてるような感覚、香りそのものの中に浮かんでいる感覚。そして、それがキンモクセイの香りだと気付いた瞬間、ストンと地に足が着いてしまう。現実に引き戻されてしまう。そんな刹那の実に不思議な時間の空隙。
●あの夜から、帰宅時には、キンモクセイの香りを楽しんでいるが、いつも待ちうけるかのように、心の準備をしてしまっている。だから、あの不思議な瞬間、名付けられぬ香りに浮かぶ感覚は、来年までお預けのようだ。
(10/09/2000) 「ホヤの悪味」
●で、昨日の続き。カキラーメンを食べた後、宮城県の物産フェア会場内をうろつきつつ、ぼくはあるモノを探していた。ホヤである。
●ホヤはご存知だろうか?磯に生息する原索動物というから、分類上では我々脊椎動物の遠い遠い祖先の従兄弟といったところか。脊椎に対応する脊索は幼生時にのみ存在し、成長すると固着生活に入る。形はといえば、ぼってりとした花瓶・土瓶のような感じである。
●だいたい磯に棲む生き物なぞというものは、はたから見ても、いったい何を考えているのか解らんヤツが多い。イソギンチャクなら、突付けば触手を引っ込めるし、ナマコだって、身の危険が迫ると内臓を吐き出して(!)逃げ去るから、何らかのリアクションがある。だから、まだ意思疎通の余地(?)がある。しかし、ホヤは何だ。磯にへばりつき波に揉まれたプランクトンを、あの口とも言えぬ口から海水もろとも吸い込んで、ちびちびと食べているだけ。逃げもしないで外敵らしきものもいない。少なくとも酔狂なニンゲンどもが、あの味を知るまでは、そうやって安逸をむさぼっていたはずだ。
●気仙沼あたりの港町の店に、そのホヤはあった。オレンジ色のニクイヤツ、日本酒をほのかに甘くさせるというエグイ味は、その名も「悪味」と呼ばれていて、あれよあれよという間に、酒を進ませるという。カツオの塩辛を「酒盗」というが、これも酒の肴にはうってつけのもので、ぐんぐん酒を進ませてしまう。悪味にしろ酒盗にしろ、ヒトと酒をめぐる業を思わせる形容である。
●口にしたことのない人に、あの味を説明するのは、なかなか難しい。触感はハマグリの足をもう少しゼラチン質にして柔らかくした感じ、味はといえば、多くの場合、塩辛として食すのだが、まあウニに似てるといえば似ている。
●試食用のカップの脇に「初めての人は注意して食べてください」という但書きがあって、なんだろ?と思い、店員に質問すると、「味ぃ、しらない、初めての人が口にするとねぇ、びっくりして吐き出っしゃうんだよぉ、困ってねぇ」という返答。あのエグさあってのホヤなのに、なんとまぁ失礼なコトをするヤツがいるもんだ。ビビルのはわかるが、吐き出すことはないだろぉ。
●ひとつ、ふたつ、爪楊枝で突付いて食べてみる。旨い。あのクセのある味がタマラン。というわけで、薄味の塩辛を購入。
●その晩、早速、日本酒を購入、熱燗にして、セリエA、ローマ・ボローニャ戦(ナカタ抜き)を見つつ、ホヤを食べた。うまいうまいうまい。酒は進むしホヤは減る。結局、1パック分、かるく平らげてしまった。カラダに悪いかどうかワカランが、さすが、悪味。やっぱり、悪味。
■付記)こんなところを見つけた。へ〜。あの悪味って、そんなヒミツがあったのかぁ。なるほど。
(10/03/2000) 「カキ・ラーメン、それなりに。」
●カ、カキラーメン??奥松島で獲れたカキをふんだんに使ったラーメン?カキの濃厚なエキスを堪能できるスープ?、カキ&ラーメン好きのボクは、池袋、東武百貨店10階催物会場で開催中の宮城県物産フェアのポスターに誘われて、そのカキラーメンとやらを食べたのだ。昨日、日曜日の話。
●宮城県内のあちこちの町や村イチ押しの、米やら酒やら海産物が並ぶなか、会場の端っこに、その店はあった。食券を買い求め、卓につく。しばし期待にムネ膨らませ、やって来ました、カキラーメン。うむ、器がデカイ。スープをひとすすり。うむ、カキの風味はあるにはあるが、ちと、胡椒が効き過ぎてる? 中華街で食べる五目ラーメンの、その五目の代わりにカキを放りこんだ感じ。鶏ガラ出汁の醤油味。ほかのメニューをみると、フカヒレラーメンなどがあるので、いわゆる中華そば風の味付けなんだろう。
●コレが味噌仕立てだったら、美味いんでは?とか思ったんだが、それじゃフツーの牡蠣鍋になってしまうか。せめて胡椒を減らして、カキの風味を引き立てて、ゼータク言えば、スープにさらにカキのエキスを溶かし込むってのは出来ないだろーか?
●まあ、でも、880円(税別)という値段の割には、けっこうたっぷりカキが入ってる。カキはやっぱりカキであり、ひと噛みするごとに、じゅわッと、あの独特の風味が広がる。お、まだあるゾ、おお、こんなトコに隠れてやがった、っていう感じで、麺をすすりつつも、カキだけ先に無くなってしまうことはなかった。食べてるうちに、カキの風味をだんだんスープに溶け込むみたいで、それはそれで、けっこう理想の味に近づいていったし、それなりに満足。
●というわけで、スープも一滴残さず、ごちそーさま。店を出て、ちょっと海産物を買い求めた。何を買ったかは、次回。
(10/02/2000)
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