堕ちたロジエッタにまつわる物語(9/30)

 天使ロジエッタは、花畑の真ん中にぽつんとある黒い岩を刻んだ祭壇の上に置かれた半透明の硬い卵(いわゆる天使の卵)から生まれた。
 渓流のように背中に流れる豊かな
髪は、穏やかな海の深い碧。
 肌は山羊の乳のような白。
 羽根はシミ一つ無い透けるような白。
 かぼそい手足に、小さな頭。
 広いおでこの下には、大きな赤い瞳が生き生きと輝いている。
 小さく上を向いてとがった鼻。
 小さなお口。
 まるでお転婆な少女のよう。
 すでに千年生きた栗色の髪と若い成人女性の体を持つ天使が、手慣れた手つきで卵白の粘液にまみれたロジエッタを取り上げた。
 百年ぶりに生まれた新しい天使である。
 前はもっと生まれたものだが。
 さて、これから彼女を空中庭園である天国の真ん中を流れる清流で洗い清め、神様の元にお目見えさせなければならない。
 それは緊張する、けれども嬉しい仕事だ。
 さっそく千年生きた天使はロジエッタを流れで洗った。
 ふと、その時、おかしなシミのようなものが両方の翼の付け根にあるのに気づいた。
 あらあら、折角きれいな子なのに。
 年長の天使は注意深い眼をそのシミのようなものに近づけた。
 それは、黒く、渦巻きのような形をしていた。
 よく眼を近づけてみると、それは印に見えた。
 六を表す印を、円周上に並べたような形。
 長く生き、長く神に仕えた天使は知っていた。
 それは悪魔の印であることを。
 悪魔。
 世界に災害と疫病をまき散らし、人の心に虚偽と傲慢、怠惰、貪欲を植え付ける存在。
 地の底の蛇の腹にある地獄に住む、天使達の敵。

 千年生きた天使は、ロジエッタにある印の事を神に報告した。
 大きく、白髪白髭、痩せこけた体をした神は金の玉座に座って頬杖をついてその話を聞いた。
 始めは目を閉じて何も言わず、しばらくして薄目をあけ、灰色の瞳を覗かせながら言った。
 「放っておきなさい」
 年長の天使はそれを、悪魔の印を無視して普通の天使として教育せよという風に解した。
 そして、他の天使には印のことを黙っておいた。
 けれど、衣服を用いない天使の世界のこと。  印はじきに他の天使にみつかった。
 彼ら(あるいは彼女たち)はロジエッタの事を「悪魔」と呼んだ。
 初めにロジエッタを取り上げた天使は彼女に優しくしたし、悪魔の名を唱える他の年若の(あるいは思慮の足りない年長の)天使達をたしなめもした。
 ロジエッタ自身、大きな目に涙をためながらも、こらえて、天使として正しい振る舞いに務めた。
 飛ぶことを覚えると、彼女はなるべく祈りに答える事に務めた。
 日々の祈りには安息の夢を運び、死の間際の祈りには安らぎを運び、幼い子供のお休みの祈りには空飛ぶ楽しい夢を運び、切なる願いには幸運を運び、見当違いの祈りには神の諫めの言葉を運び、邪な者の後悔の祈りにすら第二の生を生きる勇気を運んだ。
 けれどもある日、ロジエッタが天国の端に腰掛けながら石板に神への奏文を書いていた時、他の天使がその後ろに忍び寄った。
 彼ら彼女達は黒い濡れた土を手にしていた。
 花を根ごと抜いて掘った土だ。
 そしていきなりロジエッタに襲いかかった。
 手にした黒い土をロジエッタの白い肌に塗り込めようとした。
 「悪魔の肌は黒い色!」
 ロジエッタは抗った。
 手足が飛び跳ねる泥でたちまちのうちにまだらに染まった。
 更に泥をなすりつけようと伸びてくる何本のも手足を両足と片手で払いながら、ロジエッタは傍らの石板を掴んだ。
 そして彼女を取り押さえようとのし掛かってきた、腹がぷっくり膨れた少年の天使の縮れた金髪の頭に思いっきりぶつけた。
 石板は割れて砕き散った。
 少年天使の頭も割れて、赤い血がこぼれた。
 他の天使達は一斉に飛びさすった。
 皆、無言で少年天使を見つめた。
 彼は頭から血を流しながら俯せに倒れていた。
 ぴくりとも、動かなかった。
 やがて、天使達は腕を上げた。
 皆そろってロジエッタを人差し指で指さした。
 「悪魔!」
 ロジエッタは、罪深さにおののいた。
 己を糾弾する声におののいた。
 ロジエッタは泣き出した。
 大きな目から、大きな涙をいくつもこぼした。
 それでも皆の声は止まらなかった。
 「悪魔!」
 ロジエッタは走り出した。
 花々を踏みつぶしながら、走って、走って、天国の真ん中を流れる清流を飛び越えて、走って、対角の端まで走りぬいた。
 そんなロジエッタを天使達は飛んで追い責めた。
 「悪魔、悪魔!」
 ロジエッタは、追いつめられた。
 追いつめられた彼女の後ろにあるのは、地上に至る灰色の石の階段。
 ロジエッタは己を責める声から逃れるために階段を下り始めた。
 段を一つ下る度、彼女の背中の翼から、羽根が一本抜けていった。
 一歩一歩下る度、次々と、綿を散らすように抜けてゆく羽根。
 それでもロジエッタは下る歩みを止められない。
 耳を両手で塞ぎながら階段を駆け下る。
 やがて声が聞こえなくなったとき、ロジエッタは地上と同じ高さにいた。
 羽根はすっかり抜け落ちて、翼はもう翼ではなく、赤い地肌が剥き出しの醜い突起でしかなかった。
 目の前には、歓喜に身をくねらせる人物達が緻密に彫られた青銅の天国の門が威圧するように高くそびえ立っている。
 その脇では知恵ある大蛇ウドガルドが青銅の胴鎧をまとい七色の鱗に包まれた身をよこたえていた。
 ロジエッタは、躊躇した。  しかし、自分の背中には翼の羽根はもう一本たりとも残っていない。
 自分は堕ちたのだ。
 仕方ない。
 彼女は、おそるおそる、天国の門を潜った。
 大蛇ウドガルドは何も言わず堕天使を通した。
 彼は入ってくる者は追い払うが出て行く者には関心がない。
 いまロジエッタの前には見渡す限り森があり、背後には天国と言う名の空中庭園がそびえ立っていた。
 
 下生えのない森はすぐに抜けることが出来た。
 森の外には、村があった。
 村人達は、森から出てきたロジエッタをまじまじとみつめた。
 天国のある森は、常人が入ればまず迷い気が触れて出てくる羽目になる。
 そのような所から少女が現れた。
 それも裸で。
 ロジエッタは、村人を知っていた。
 彼らの祈りに毎日答えていたのだから。
 けれど、村人はロジエッタを知らない。
 彼女を夢に見た子供は何人かいるけど、そういう子供は純粋な、つまり幼い子ばかり。
 ある目ざとい男が、ロジエッタの背中に気づいた。
 白い羽根がむしりとられたような背中に。
 それは堕天使の印だ。
 それは悪魔の証拠だ。
 男は叫んだ。
 「悪魔だ!こいつは悪魔だ!」
 村人は大騒ぎになった。
 あるものは神に祈った。
 あるものはロジエッタに石を投げつけた。
 鍬や鍬を振り回して、どこまでもロジエッタを追った。
 最終的に彼女は、村人が「地獄」と呼び慣わしている所に追われた。
 そこは村を取り巻く山脈を越えた向こう。
 赤茶けて乾いた土が彼方まで続き、大きな石や岩があちこちに転がっている荒涼とした荒れ地だった。
 ロジエッタは途方に暮れた。
 天国では花の蜜をすっていれば生きていられる。
 けれど、ここには何もない。
 一輪の花さえ見つけられない。
 ロジエッタは、行くあてもなく彷徨い歩いた。
 もう飛ぶこともできない。
 裸の足の裏に、石が食い込む。
 痛い。
 やがて夜が来た。
 ロジエッタは歩き疲れて横になった。
 昼間はあんなに暑かったのに、夜は凍えるほどに冷えた。
 ふうとかじかむ手に吐き掛ける息が白い。
 堕ちた天使は空腹を抱えながら、丸くなってみじめに眠った。
 朝。
 日が昇り、体を温める。
 しかしすぐにそれは灼熱の地獄に変わる。
 
 やがてロジエッタは、大きな石積みに出会った。
 風雨にかすれかけてはいたが、黄色い塗料で同心円とその中心を貫いて上を指す矢印からなる異教の象徴が正面に描かれているのが認められる。  その石積みの天辺から、木が生えていた。
 ひょろっとした、それほど高くもない木。
 枝も少なく、葉もまばら。
 けれどそれでも、いくつかしなびた赤い実をつけていた。
 ロジエッタは迷った。
 これは異教の祭壇だ。
 それを踏みつけにしていいものだろうか。
 その実を取っていいものだろうか。
 しかし、選択の余地はない。
 このままだと弱って死んでしまう。
 ロジエッタは石積みを這い上がった。
 石積みは意外に安定していて崩れなかった。
 石積みの上に立ったロジエッタは、手を伸ばして実を取った。
 すべて。
 そして、祭壇から降りて、喰った。
 皮は堅かったが、中身には意外と汁気があった。
 よく熟していたので、糖分が多かった。
 空いた腹にしみわたった。
 天使は満腹した。
 手には、種が残った。
 黒い大粒の種。
 天使としてはたとえ堕ちていたとしても、そのままには出来ない。
 生命の貴重な次代につながるものなのだから。
 ロジエッタは種を手に、土を探した。
 黒く、柔らかい、水気を含んだよく肥えた土。
 でも、この赤茶けた荒野のどこにそんな土があるだろう。
 わずかな水たまりですらないのに。
 いや、ではこの木はどうして生えているんだろう。
 ロジエッタはそのことに気づき、祭壇に一礼するとその基部を形成する石を取り除き始めた。
 木の根が、細く石の隙間に入り込んでいた。
 その先を辿った。
 土は、石の間に僅かにあるに過ぎなかった。
 しかし、祭壇の底、大きな岩盤のくぼみに、水が湧いていた。
 白い根がびっしりと這っていた。
 「水……」
 
 村の今の子供達の世代は親たちと違って非常に活発だった。
 親の農作業の手伝いをし、暇な時間を村の中でかけっこ馬飛び鬼ごっこをし、それでも元気と好奇心があり余っていた。
 彼らはまず、森に目をつけた。
 天国に至る階段を見つけようとした。
 森は濃い霧につつまれていた。
 どこからともなく獣の咆吼が聞こえてきた。
 けれど、子供達の中では一番年長の、十一歳になるイエンディッタは幼いながら知恵者だった。
 大きな頭に大きな瞳、広いおでこを持つ少女はこっそり松ヤニを集めてたいまつを作ってそれを皆に持たせ、白い糸を道しるべに残しながら森の中を探検した。
 そしてついに彼らは森の奥で、天国と呼ばれる空中庭園とそこに至る門を見いだした。
 しかしながら門番であるウドガルド大蛇は彼らを通さず追い返した。
 いかに知恵のまわるイエンディッタといえど、村より古い獣相手ではどうすることもできなかった。
 白い糸を頼りに彼らが村に戻ると、親たちにこっぴどく叱られた。
 主に、不敬の罪で。
 けれども、子供達はくじけなかった。
 内がだめなら外と考えた。
 村を取り巻く山脈。
 その向こうには地獄があると聞かされている。
 地獄とは、天から堕ちた悪魔が住むところだ。
 一体、どんなところだろう。
 行ってみよう。
 安息日に子供達は家を抜け出した。
 イエンディッタを先頭に、険しい山を登った。
 そして、峠を越え、向こう側に降りた。
 そこにあったものは、彼らの想像と違っていた。
 てっきり、赤くぐつぐつと地面が煮えたぎっているか、あるいは岩と石だらけの赤茶けて荒涼とした土地を考えていたのに……。
 子供が見たのは、地平線まで続く縦横に走る水路と波打つ白い花畑、それに木立に囲まれた美しい水車小屋だった。
 あちこちで緑の人が働いていた。
 黒く小さくつぶらな一つ目だけが顔の真ん中についた、全身に苔むした緑の人。
 彼らはイエンディッタ達に何の反応も示さず、ただ水路を直し、丁寧に花の種を植えたり世話をしていた。
 「水車小屋に誰かすんでいるのかしら」
 イエンディッタを先頭に、子供達は水車小屋に近づいた。
 開いている窓から、そっと中を覗いた。
 整頓されて小ぎれいな部屋のなかには誰もいなかった。
 ただ机や椅子、寝台、壁にたてかけた農機具があった。
 「なにかご用」
 後ろから声を掛けられて、イエンディッタの小さな胸の心臓は跳ね上がった。  窓際に群がって押し合いへし合いしながら水車小屋を覗いていた子供達は一斉に振り返った。
 そこには、若い女性が立っていた。
 身なりは粗末だった。
 草の繊維で編んだとおぼしき粗末な衣をまとっていた。
 足は黒い土で汚れていた。
 けれど、美しかった。
 赤い瞳は吸い込まれるような深い光をたたえていた。
 白い肌は燐光をまとっているようだった。
 イエンディッタは、彼女が常世の者ではないことを悟っていた。
 神や天使でないとすれば魔物だ。
 若い女性は、子供達に微笑んだ。
 母より優しい慈愛の笑みに、特に男の子たちはくらくらときた。
 イエンディッタは必死にかぶりをふって、影響を振り払おうとした。
 けれどすでに手遅れだった。
 イエンディッタが気をつけてと言う前に、子供達は若い女性の周りに群がっていた。
 
 夜闇が濃くなる頃、親たちは戻らない子供達を心配し始めた。
 彼らは村中を探した。
 村の外を探した。
 けれど、子供達は見つからない。
 あと探していないのは、森の中と山だけ。
 さすがに大人達は、そこまでは踏み込めなかった。
 森は神の領域、山は悪魔の領域、しかも今は夜だ。
 残された方法は、ただ神にすがることだけ。
 村人達は礼拝堂に集まって、一心不乱に祈った。
 その時、子供達が帰ってきた。
 大人達は神のお導きだと喜んだ。
 やがて、子供達が手に手になにか持っているのに気づいた。
 白い花を編んだ冠や月の光にきらきら輝く青い石、甘い匂いが中から香ってくる素焼きの壷などである。
 それはどうしたのだと親たちがきくと、子供達は答えた。
 「ロジエッタにもらった」
 村長は、子供達の中でもまとめ役で受け答えがしっかりしているイエンディッタにきいた。
 ロジエッタとは何者なのか。
 イエンディッタは答えた。
 「山の向こうの花園にすんでいる女の人です。昔、天国に住んでいた人です」
 それを聞いた親たちは思いだした。
 昔自分達が子供の頃、親が石を投げて追い払った堕天使の事を。
 彼らは蒼くなった。
 そして子供達の手から石や花を取り上げた。
 「消えてなくなれ地獄の石」
 「呪われて散れ悪魔の花」
 「地の底にもどれ黒い壷」
 大人達は青い石を肥溜めに投げ込み、白い花を靴底で踏みにじり、壷を割って中に入っていた花の蜜を地面にぶちまけた。
 子供達は泣き叫んだが、一切構わなかった。
 むしろ、堕天使とつきあう不信心をなじった。
 イエンディッタは他の子供を引き連れていったということで最も責められた。
 一晩中彼女は泣いた。
 
 しかしイエンディッタは強い子だった。
 見かけはひょろひょろで頭ばかり大きな子だったけれど、気も強ければ好奇心も強かった。
 彼女は家の手伝いが忙しくないときに、またこっそり山を越えた。
 やはり山の向こうは花園で、水路が張り巡らされていた。
 イエンディッタは跪き、匂いを嗅いだ。
 確かに花のいい匂いがする。
 水路を流れる水に手を差し入れてみた。
 ひんやりと冷たい感触は本物に思える。
 決して、大人達が言うような幻覚ではなさそうだ。
 どうみても、ここは地獄ではない。
 緑の人も、ゆったりと植物と水路の世話をしているだけで、何の害もなさそうだし。
 そもそもその頭に小鳥達がとまりさえずるような魔物がいるだろうか。
 いや、むしろ天国とはこういう場所のことをいうのだろう。
 イエンディッタは水車小屋に向かった。
 
 水車は前に見たときのように、溢れる清水を水路に流していた。
 イエンディッタは、窓からそっと中をのぞき見た。
 女の人がいるのが見えた。
 机で何か作業をしている。
 黒曜石のナイフで木を削っているようだ。
 イエンディッタは、深呼吸をした。
 そして、小屋の扉をとんとんと叩いた。
 外開きの扉から離れてすこし待った。
 きいっと、扉が開いた。
 美しい女の人、ロジエッタが出てきた。
 「まあ、あなたはこの前の」
 「あ、あの、お久しぶりです。いいお天気ですね。それで、その……」
 天気は曇りだった。
 ロジエッタは微笑んで、手招きした。
 
 イエンディッタは、花の蜜を煮詰めた褐色のソースがかかったパイと、変わった香りのお茶を振る舞われた。
 どちらも村では食べたことのない飲んだこともないものばかり。
 「どう、お口にあうかしら」
 そう言われて、イエンディッタは口にいっぱい頬ばりながら夢中でうなづいた。
 イエンディッタには、聞きたいことがたくさんあった。
 まず、ロジエッタはどうして天界から堕とされたのか。
 緑色の人は何か。
 この花畑の向こうにはなにがあるのか。
 でも、まず食べてから。
 パイを食べ終わり、お茶を飲んでふうっと一息つくと、イエンディッタの口はまた忙しく動き出した。
 矢継ぎ早の質問に、ロジエッタは微笑みながら答えていった。
 堕ちたのは罪を犯したから
。  緑の人は人ではなく魔術で土に息を吹き込んだ人形であること。
 花畑の向こうには、砂漠の国、石造りの巨大な都、草原の国、雪を頂く高い山脈があること。
 その向こうには塩辛い水をたたえた海というものがあることを。
 そして、それらの土地でロジエッタが体験した不思議な話。
 イエンディッタは時の経つのも忘れてロジエッタの話に聞き入った。
 夕焼けの色に白い花弁が染まる頃、イエンディッタはロジエッタの家を辞した。
 その手にはおみやげの、タリクカハンの輝く砂を詰めた瓶が握られていた。
 
 イエンディッタは絶対に親や大人には言わなかった。
 友達にも、信用の出来る口の固い子にしか言わなかった。
 ロジエッタの話を信じられない子も、輝く砂に映る異境の幻影をみるとたちまち虜になった。
 そんな彼らと連れだって、イエンディッタはその後なんどもロジエッタの花園へ遊びに行った。
 時々ロジエッタの姿は見えなかったが、いれば甘いソースのかかった菓子と強い香りのするお茶、それに異郷のお話でもてなしてくれた。
 イエンディッタの憧れは募った。
 
 数年の年月が流れた。
 頭ばっかり大きかったひょろひょろの少女イエンディッタは、農作業に耐えうる筋張った腕と足を持つ、腰つきも胸も豊かな年頃の娘になっていた。
 いや、村の基準で言えば盛りも過ぎようという年頃だった。
 結婚適齢期を過ぎようとしているのに、まだ誰にも嫁ぐことなく、また婿を迎え入れる事もしていなかった。
 縁談や、艶めいた話がなかったわけではない
。  むしろ、顔立ちがきりっと整っていて賢く話も上手でさっぱりした性格のイエンディッタは若い男達のなかでは人気があった。
 農家の嫁としても、頑丈な手足と豊かな腰と胸、細やかな気配りと手の仕草をもつ彼女は気難しい姑候補の目からみても上々の娘だった。
 なのに、彼女は見合いの申し入れがある度に首を横に振った。
 村人達は、何か良からぬ欠陥か病でも持っているのではないかと噂しあった。
 それでも、数人のまだ結婚していない若い男達は、イエンディッタに言い寄り続けた。
 (そのうちの何人かは、容姿も農作業の真面目さも非の打ち所のない若者だった)。
 
 「ロジエッタの具合はどうだった」
 「良くないわ。だんだん弱っていってる」
 イエンディッタとディエトは、村はずれの林の中で樹にもたれつつ腕を組んでため息をついた。
 ロジエッタの病気。
 いや、病気なのだろうか。
 崖の斜面から採ってきた薬草を煎じた飲み薬もまるで効き目がない。
 花畑の一角で栽培した薬草の実を煮て作った薬も、ただ息をする痛みを和らげるだけ。
 ロジエッタは、寿命が来ているのだと言った。
 本来なら半永久的に生きることの出来る天使も、堕ちてまた真の地獄にもいかないとなると、寿命が尽きてしまうのだと言った。
 地上にあるものは、いずれ死を迎える。
 それが神を越えた摂理だと。
 イエンディッタには、それが信じられなかった。
 ロジエッタはまだ若く美しいように見えた。
 少なくとも、初めて会ったときからほとんど変わっていない。
 歳をとっていないように見える。
 今やイエンディッタの方が年上に見えるくらいだ。
 床に臥せて弱々しいとさらに幼く見えた。
 「ディエト、あなた奥さんの所に戻らなくて大丈夫?こんなところを見つかったら私、あの子に殺されてしまうわ」
 イエンディッタの言葉に、ディエトはにこりともせずに答えた。
 「ロジエッタが心配だ」
 ディエトは寡黙な若者だ。
 長身で、優男風の顔立ちなのに、いつも深刻なひたむきさを表情にたたえている。
 幼いころからのイエンディッタの遊び友達で、一緒にロジエッタの所にも何度も遊びに行っていた。
 一時はイエンディエッタと結ばれるのではないかと言われていたが、大方の予想を裏切って去年、美しく騒がしい村長補佐の一人娘と結婚した。
 ちなみに彼女は、堕天使ロジエッタと会ったことはない。
 口が軽いので、イエンディッタたちは一度も彼女を連れていかなかったのだ。
 「俺は家を離れることは出来ないが……」
 「大丈夫よ。私達が交替で看にいってるし、日常の用事や花畑の世話は緑の人がこなしてくれるし」
 「しかし……何か……」
 「どうしようもないわ。私達は見守ることしかできない」
 「俺は……見守ることも……」
 「そういう時は、祈りなさい。ロジエッタが言っていたでしょう」
 「……そうだな」
 ディエトは両手を胸の前で組んで、空を仰ぎ、目を閉じて、聖句を唱えた。
 イエンディッタも、祈った。
 彼女は、いつかロジエッタの地平線まで広がる花園を越えて、かつてロジエッタが語った砂漠の国、石造りの巨大な都、草原の国、雪を頂く高い山脈、そして海を自分の目でみたかった。
 自分の手で触れ、自分の足で踏みしめたかった。
 いつか。
 そう、大人になったら。
 だから、結婚しなかった。
 家庭を持ち、子供を持ったらもうどこへも行けない。
 そして今、ロジエッタが倒れた。
 まだ、どこにもいくことが出来ない。

 イエンディッタは出来上がった薬湯を冷まして、そっとロジエッタに含ませた。
 ロジエッタの喉が、こくりと動く。
 やがてロジエッタの唇が動いた。
 「……ありがとう」
 イエンディッタは悲しかった。
 今飲ませた薬も、痛みを麻痺させる効果しかない。
 しかも強い習慣性があり、長期的にみれば毒だ。
 それを用いているという事は……。
 「そんな悲しい顔をしないで」
 「……」
 「何かお話をしましょう。そうね、今日は天のさそりの話をしましょうか」
 「無理しちゃだめよ、ロジエッタ」
 「大丈夫よ。それに、なにか話でもしていないと気が休まらないわ」
 「そう……。ねえ、ロジエッタ。天国には帰りたいと思う?」
 「私は天国から堕ちた身よ」
 「でも生まれた所なんでしょう」
 「そうね……帰りたいとは思わない。けれど、会いたい人はいるわ」
 「どんな人?」
 「生まれたとき、私を取り上げてくれた天使よ」
 
 朝早くイエンディッタは一人、作物の穂を刈っていた。
 農地は広かった。
 両親はもう足腰が効かなくなって、重労働が出来ない。
 お前が婿をとっていてくれたらと愚痴をこぼし続けている。
 けれど、仕方がない。
 女一人で黙々と刈っている。
 そこに、一人の若者が息せき切って駆け込んできた。
 「大変だイエンディッタ!」
 
 イエンディッタと皆が水車小屋に着いたとき、ロジエッタはすでに息を引き取っていた。
 若く美しい姿のまま。
 ああ。
 そこに集まった誰もが言葉を失った。
 
 やがて悲しみが暮れ果てた頃、ロジエッタの葬儀の話が出てきた。
 彼女はどこに葬るべきか。
 どのような葬式をあげればいいのか。
 葬る場所については、天国に戻しに行くという意見も出たが、ロジエッタ自身がそれを望んでいなかったことから、彼女の花園がいいということで最終的に皆意見が一致した。
 葬式については、神に祈るべきかどうか議論になった。
 これも一応祈るべきだということに落ち着いた。
 天国を追われた身とはいえ、最後は神の御元にゆくはずだから。
 祈りの指揮は誰がとるのか。
 普通は村の長老がとるのだが、まさか彼を呼んでくる訳にはいかない。
 これも話し合いの末、指揮役はイエンディッタに決まった。
 すべてが決まってから、皆は水車小屋の隣を掘り始めた。
 すでに陽は傾きかけていた。
 土は軟らかく、すぐに掘ることが出来た。
 その間に一人が村まで走って、使ったことのない真っ新の布を持ってきた。
 それでロジエッタを包み、穴の底に横たえ、そして土をかけた。
 イエンディッタが輪を描くように手を動かしながら歌うように祈りを唱えた。  皆は胸の前に手を合わせ祈った。
 
 祈りは天国に届いた。
 
 村人の一部が、騒ぎ始めていた。
 若者が何人もいなくなったからだ。
 農作業の途中で消えてしまった者もいる。
 村長補佐の娘など半狂乱だ。
 「どこにいったんだ、どうするんだ」
 「村中どこにもいない」
 「探しにゆくか」
 「夜中に、山や森の中にか、とんでもない」
 「何いってるの小作人の分際で!さっさと私のディエトを探しにいきなさいよ!」
 そんな村人の前に、光り輝く影が現れた。
 
 ロジエッタが死んだ。
 この花畑はどうなるのか。
 美しい水車小屋は。
 緑の人は魔術に縛られているからずっと働き続けるだろう。
 制御の魔術程度ならイエンディッタも教わっている。
 でも所詮土人形だから、単純な作業は出来ても、臨機応変な管理はできない。
 たとえば農機具が壊れても、それを修理することが出来ない。
 誰も管理する者がいなければ、花園はいずれ荒れ果てて行くだろう。
 ロジエッタが眠る場所。
 それが荒れ果ててゆく。
 イエンディッタには耐えられそうになかった。
 やはり私は、外の世界には行けない。
 
 「帰ろう」
 無言のままに落ちてくる闇の中、誰かがそう言った。
 「そうだね」
 誰かが答えた。
 皆、ロジエッタの墓から立ち去ろうとした。
 その時、花畑の向こうから、村の方角から、光るものが近づいてくるのがみえた。
 「あれは何?」


 それは、宙に浮いていた。
 人の形をしていた。
 翼の生えた裸の少年と少女。
 その後ろには、村人達が松明をもって続いていた。
 「お前達」
 宙に浮かぶ少年が発した言葉は頭の中に韻々と響いた。
 天使だ。
 「お前達は何故悪魔を祀るのだ」
 小膨れした白い腹を揺らしながら少年の姿の天使が問う。
 ロジエッタを葬ったばかりの若者達は脅えた。
 天使が直々に降臨して、責めているのだ。
 蒼い顔でかたまっている。
 その中で、イエンディッタが進み出て答えた。
 「ロジエッタは悪魔ではありません。かつてのあなたの仲間ではありませんか」
 「馬鹿者が。悪魔とは堕ちた天使のことを言うのだ。堕ちて、妖しげな呪いと囁きで人を惑わし信仰の道を踏み外させる、それが悪魔なのだ」
 「ロジエッタはよい人でした」
 「しかし、現に魔術を使っておろう。お前達を惑わしておろうが!」
 天の一角が光った。
 暗闇の中に稲妻が光った。
 村人も若者達も一斉にひれ伏した。
 立っているのは、イエンディッタ唯一人。
 「あくまでも我に逆らうのか!」
 村人達の中から、二人の老人が飛び出した。
 イエンディッタの父母だった。
 彼らはイエンディッタの腰にすがりついた。
 「ね、お前、神様に逆らってはいけないよ」
 「さあ、許しを乞うのじゃ。神は慈悲深いお方、今なら許してもらえる」
 少女の姿をしたきつい目の天使が言う。
 「そう、神は限りなく慈悲深いお方、一度目は必ず許し給う。直ちにひれ伏して改心するがよいぞ娘!」
 天使の放つ光が強くなる。
 目を開けて見ていられないほどに。
 それでも、イエンディッタは言った。
 「なぜあなた達はロジエッタを許さなかった!」
 「あれは勝手に堕ちたのだ」
 「では、今何故許さない!」
 「悪魔は許されないのだ!」
 娘の姿をした天使は叫んだ。
 「お前達、神に対する信仰心を見せよ。悪魔の墓を暴き、肢体をむち打ち、八つ裂きにして野にさらせ!」
 村人達が立ち上がり、花を踏み散らし水路を崩しながらロジエッタの墓に迫った。
 その時頭を抱えてうずくまっていたディエトが立ち上がって、両手を広げて叫んだ。
 「やめろ!」
 「な、なによディエト、あなたまで淫売の悪魔に魂を売ったの!」
 「汚れたる者よ!神に従わぬ者の魂は死しても天国には入れず、地獄に堕ちて永遠の苦悶を味わう事になるのだぞ!」
 イエンディッタは、ディエトや彼に同調する者が突き飛ばされ、殴り蹴られるのを見た。
 ロジエッタの花園が荒らされるのを見た。
 美しい水車小屋が壊されるのを見た。
 墓が暴かれようとするのをみた。
 彼女の中で何かが弾けた。
 「地獄に堕ちる、それがどうしたというの!」
 イエンディッタは叫んだ。
 「お前達の天国など、私は信じない!天国なら、私は、ロジエッタが地獄に作った今ここにある天国を選ぶ。私はお前達の神など信じない。信じるなら、優しい堕ちた天使を信じる!」
 「なんと言うことを……」
 天使達が宙で、頭を押さえてよろめいた。
 地面にはいつくばった若者達が血を吐きつつ叫んだ。
 「俺もだ!」
 「私も!」
 いくつもの叫びが上がった。
 その時、大地が揺れた。
 激しく、とても激しく。
 村の方角から、何かが崩れる大きな音がした。
 皆立ってはいられなかった。
 大地にはいつくばり、しがみついていた。
 
 揺れが収まった時には、辺りは真っ暗だった。
 松明はどれも水路に落ち、消えてしまっていた。
 そして天使の姿は無かった。
 
 それから天使の姿は絶えて見られることもなかった。
 数年後、冒険好きの子供が森の中で、天国のある空中庭園が崩れているのを見つけた。
 門も倒れており、門番ウドガルド大蛇は瓦礫の下敷きになっていた。
 頂上に至る階段だけが奇跡的に崩れ残っており、それを登った者は皆、天辺に神を見いだした。
 やせこけた体で頬杖をつきながら世界を虚ろに見る神を。
 付き従う者は誰もいなかった。
 
 イエンディッタは、ロジエッタの残した花園の管理人となった。
 父母の畑は先に嫁いでいた従姉妹や姉妹達に分け与えた。
 そして、若い娘たちにロジエッタから授かった知識や緑の魔術を教えて暮らした。
 やがて彼女の後継者となる娘が現れた。
 イエンディッタは二十九歳になっていた。
 彼女は後継者にすべてを引き継がせると、自身は旅に出た。
 ロジエッタが語った、砂漠の国、石造りの巨大な都、草原の国、雪を頂く高い山脈、そして海を目指して。
 


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