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序 司書である狐目のおねえさんが、その細い手に不似合いな、ごつい鋼鉄製のハンドルを両手で廻す。 ぎいっ。ぎいっ。 潜水艦のハッチの様な、分厚い、やはり鋼鉄製の扉が開かれてゆく。 ぎいいいい。 いいい。 鉄のこすれあう軋み。 吸い込まれるような空気の流れ。 開かれたのは、牢獄よりももっと完璧に内部を閉じこめる場所。 それが、特別閲覧室。 柔らかい色合いの電灯に照らされた、三メートル四方の空間。 窓一つ装飾一つない、鈍く光る鼠色の壁。 装飾など何もなく、平坦な面の唯一のアクセントは職員を呼ぶための壁に埋め込まれたボタン。 置かれているのは一脚の古びた木の椅子に、向かいの壁に付けた古びた木の机のみ。 そこは無人の筈だった。 無人だからこそ、僕達は案内されたのだ。 アンジェが持つ、「核兵器」並に危険な書を読むために。 しかし、先客がいた。 椅子に座り机にうつ伏せになった男が。 紺色のスーツの背中には黒い柄の大きなナイフが突き刺さり、そこから流れ出た血が辺り一面を濡らしている。 非日常的で、しかし世も末の監獄的情景には妙にしっくりとする光景。 むわりと漂う、錆に似た血の臭い。 思わず覚える嘔吐感。 狐目の司書は「あら」と、ごく軽い響きの声を発した。 「私、部屋を間違えちゃったかしら」 アンジェことアンセスジェリカ=フィン=依神は、いつもの微笑みを絶やささないまま進み出て、華奢な容姿に似合わない古めかしくごつい本を机の血で汚れていない場所に置くと、うつ伏せの男の腕の脈を取った。 「死んでるわ」 振り返り、僕の方を見てアンジェは言う。 つい見とれてしまいそうな微笑みを浮かべたまま。 僕はというと、どうしたらいいか、全く分からなかった。 アンジェのおかげで、随分と危険な目に会い不思議な体験をした僕だけれども、死体を見るのは生まれて初めてだ。 あまりに唐突すぎて、それに司書のお姉さんもアンジェも平静すぎて、殺人現場にいるという実感がない。 かといって冷静でもなくて、思考が腰を抜かした状態になってしまっている。 ぐるぐると廻る言葉に思考が手を伸ばそうとするけどなかなか捉えられず、それでもなんとか一つを捕まえた。 「警察……警察を呼ばなくちゃ」 「そうね、警察を呼ばないと」 狐目の司書が、軽い口調で言う。 まるでコピー機が故障した程度の軽さだ。 言いながら、うつぶせになった死体の右脇から手を差し込んで、少し起こす。 現場は保存しなくちゃ。 ドラマや推理小説の場面を思い起こしながら僕がそう言いかけた時、司書のお姉さんの表情が変わった。 どんな怪異にもたじろがず、いたずらっぽい笑顔を絶やさない顔が、今は真剣になっている。 「ない」 司書のお姉さんは、よく見えるようにか、死体を更に、持ち上げた。 すでに赤黒く乾いている血で汚れた机、紺の背広や同じ色のズボンのポケットを、もう片方の手で探る。 「無くなってる」 僕も死体をのぞき込んだ。 気味悪くなかっといえば嘘になるけど、体が引き寄せられるように勝手に動いた。 持ち上げられたその顔に見覚えがあった。 軽くパーマのかかった髪に、虚ろに開いた細い目と高い鼻梁、その割には全体に低く短い鼻。痩せても肥えてもいない顔の輪郭。まだ、若い。二十代後半。 隣のクラスの担任だった。 顔見知りの人間の死。 衝撃は、まだこない。 まだ、非日常的すぎる。 僕は、事実を事実として確かめるべく、アンジェに告げた。 「二組の先生だよ。片山先生だよ!」 そういわれてもアンジェはほんの少し、きょとんとした表情を浮かべるだけ。 むしろ司書のお姉さんの方が冷静さを失っていた。 お姉さんは叫んだ。 「本が無くなってる!」 糸のように細いつり上がった目を見開いて。 アンジェは微笑みをたたえ、すこし小首を傾けて、僕と司書のお姉さんに向かって言った。 「それは大変ね」 第一幕 小学校の隣に聳える(そう、聳えるという形容詞がふさわしいほどに大きな)図書館に、終業のチャイムと共にいそいそと向かうのは僕の日課だ。 といっても、僕はそれまで、それほど、というか、全く、漫画以外の本なんて読まなかった。 余所の図書館では漫画なんかも置いてあるらしいけど、ここの図書館は全然違う。漫画どころか、挿し絵のある本すら珍しい。元々隣にあった大学の図書館で、二百年以上前の文庫の流れを引き継いでいるので、蔵書も専門的で高度なものが多い。どれ位専門的で高度なのかは分からないけど、すごく難しそうなのは確かだ。字だって英語や外国語や、それどころか人間が書いたのかすら怪しいように思われる文字で書かれた本が、奥がかすんで見えるほどに林立した巨大な書架にぎっしりと積まれている。 児童・学生用の本などは、入り口付近にほんの付け足し程度にあるだけにすぎない。 そんな図書館になぜ通うのかというと、アンジェがいるからだ。 アンセスジェリカ=フィン=依神。 名前の通り、ハーフの女の子。 白く肌理の細かい肌。銀色の長い髪。緑色の透き通るような瞳。華奢な体つき。黒い、リボンやらフリルのついたドレスの様な服をいつも着ている。 妖精めいた、すごく綺麗な子だ。 (そう、アンジェを表現するには「可愛い」より「綺麗」の方が全然似合う)。 五年生の冬に転校してきたアンジェに、僕は夢中になった。 自分で夢中になってるというのが自覚できるほど夢中で、かなり重傷だ。 なにしろ「お前依神の事が好きなんだろう」とからかわれて「うん」と真面目に答え相手を沈黙させてしまったくらい好きだ。 そのアンジェは、本が好きだ。 いつも本を読んでいる。 そして放課後になるころには、いつの間にか教室にいない。 図書館に行って本を読んでいるのだ。 本といっても、その辺りの小中学生が読む本じゃない。 頭のいい高校生や大学生が読む本でもない。 もっと難しい、白髪の博士なんかが読むような、外国語で書かれた本だ。 新しい本の時もあるけど大抵は、古めかしい本を読んでいる。 中には革装を鉄枠で補強して錠前まで付けたような、ものすごい本もある。 僕の日課というのは、そんなアンジェの隣に座って、彼女の姿を時々眺めながら、本を読むことだ。 もちろん僕が読むのは、この図書館に申し訳程度に置かれている、なんとか僕にも分かる小説なんかだ。 最初は、本当に眺めるだけだった。 アンジェのあまりの可憐さにうっとりとするだけだった。 そのうち、少し話したりもするようになった。 そしていくつかの体験をして、アンジェもこの図書館も普通じゃないというのが分かってきた。 分かってきてなおさら僕は、アンジェに惹かれている。 体験の中には、一歩間違えれば死ぬようなこともあったのに。 いや、それだから好きなのかもしれない。 よく分からない。 (精神分析の入門書は途中で挫折した)。 とにかく僕は、アンジェに夢中だった。 その日もアンジェは綺麗だった。 どう考えても六時限目の授業をさぼったとしか思えないほど早く図書館にいて、いつもの奥まった場所で本を読んでいた。 まるで西洋の大聖堂の様な、天井の高い古めかしい建物。年期の入った黒壇の本棚に、木目の美しい、優美な机と椅子。アンジェがそこにいると、ものすごくしっくりしていた。まさに図書館の住人にふさわしい。 アンジェは、隣に座った僕に気づいた。 僕をみて微笑む。 心がきゅっと掴まれる。 「ねえ」 銀の鈴を転がしたような、きれいに澄んだ声。 「お願いがあるの」 僕はアンジェの頼みなら何でも聞くよ。 「あのね」 アンジェのお願いというのは、ある本を特別閲覧室で読むのにつき合ってほしいということだった。 その本は読むだけでとても危険で、だから特別に隔離した部屋でしか閲覧を許可されていないらしい。 「いいよ」 僕はそう答えた。 アンジェが読んでいた本を、梯子を登って書架の上の方に戻すと、一緒にカウンターに向かう。 狐目の司書のお姉さんがそこにはいる。 僕達をみてにやりと笑う。 邪悪な笑みだ。 このお姉さんは、本当に邪悪なのだ。 「『無名祭祀書』ね。そうね、五番が空いてたかしら」 そこだけ妙に現代的な端末を慣れた手つきでぱちぱちとやる。 「ちょっと待ってて、鍵を取ってくるから」 五分後、僕とアンジェとお姉さんは、一階の片隅にある、太い柱の陰で目立たない螺旋階段で地下におり、監獄かあるいはゲームの迷宮のような、扉が両側に延々続く廊下にいた。 扉はどれも異様にごついもの立ったけど、実は二重になっていて、外側の扉を開けたその中はもっと頑丈な扉がついていた。 それを開けた瞬間、死体が目に飛び込んできたのだ。 第二幕 警察は、なにやら揉めていた。最初に来た刑事さん達と、後から来た人達が掴みかからんばかりの勢いで言い争っている。薄汚れた茶色いコートの人達が最初に来た方で、黒いスーツに銀縁眼鏡、オールバックに髪をなで付けてる方が後からきた人達。 ドラマでは服がしわくちゃで見た目が冴えない方が「イイモノ」なんだけど、どうやら先に来た人たちの方が言いまかされているようだ。よくは聞こえないけど捨て台詞らしきモノを吐いて出ていく。 カウンター内に置かれた椅子に座ったアンジェは、そんな警察の様子は目に入らないようだった。膝に置いた本を読みながら、ぽつりという。 「不思議ねえ」 「そうだね、不思議だね」 僕は相づちを打った。 「密室なの」 どうやらアンジェが言っているのは本の中身ではなく殺人現場の様だった。 そう、あの部屋は密室だった。 窓もない部屋だ。 出入り口はあの頑丈な扉のみ。 あとは、換気口くらいだろうけど、それは天井の隅に一センチの孔が間隔を開けて二ダースほど空いていたに過ぎない。 でも、実のところ、アンジェと一緒にいるようになってから不思議(というか怪奇)な目によく会うので、不思議な事が起きても、どうも不思議だという感じがあまりしない。 この「密室」も、密室だとは思えなかった。 「やっぱり魔法?」 アンジェは本から顔を上げて僕をみて、首を横に振った。 「魔法は万能ではないの。むしろ、準備や天候、天体の位置、地磁気、霊脈、残留思念、そういった条件に左右されやすい、繊細で不便なものなの。ドラえもんのポケットのようにはいかないの」 その答えを聞いても、アンジェも正しい喩えが出来るようになったなあと感心するだけだった。 (アンジェは転入当初から流暢な日本語を話したけれども、喩え文法的には完全でもそれだけではうまく会話が出来ないことをその時初めて知った)。 アンジェが呼び出す無貌の大男、あれは自在に呼び出しているように見える。 とても星の位置に左右されてるなんて思えない。 ああいうのを使えばなんでも出来るような気がする。 閉じた部屋に忍び込んで人を殺して本を奪ってくるなんてたやすい事のように思える。 「それはないわね」 狐目の司書が、そう断言する。 「特別閲覧室は、魔術を封じる部屋なの。例え上位の悪魔や旧支配者を存在を召還されてもびくともしないし、ガス状生物や精神寄生体でも絶対にあそこからは逃れられない。これは設計上そうなってるってだけじゃなくて、実績からも確かめられているわ」 蔵書が失われたせいか、お姉さんにはいつもの余裕がないようだ。 「ねえ、あなただってあそこに閉じこめられて出れはしないでしょう?」 アンジェは微笑みながら「ええ」という。 「でも、確かに誰かが入って、人を殺し、本を盗んで出ていった」 「そうね、その通りだわ」 悔しそうに司書のお姉さんは言う。 こういうお姉さんの様子をみるのは初めてで、愉快でない、とは言えなかった。 目の前で死体をみたという衝撃はあっても、別に自分の物を盗られたり損害を受けた訳でもないので、僕はどこか気楽だった。 不意にアンジェが言った。 「本当は本は持ち出されていなくて、殺人も行われていなかったのかも」 「幻覚ってこと?記憶操作?まさか」 アンジェが首を横に振る。 「そうよね。司書がそんなもので誤魔化されるようだったら、この図書館からは一冊残らず本は盗まれてるわね。ああ、もう、夢でもみてるのかしら」 僕だって、本当にあったことだとはどうも信じられない。 まさか、こんな作りごとめいた密室殺人に出くわすなんて。 ただ、ドラマや小説なんかと違って、僕は探偵じゃない。 警察の人達が確実な証拠を元に犯人を突き止めるだろうし、もし超自然が関わってるとしても、僕とアンジェにはなんのかかわり合いもない。 やがて刑事の人が二人、僕たちの方にやってきた。 そして証言を取り始める。 三人とも、特になにも隠し事なく見たままを話す。 刑事さん達は黙って話を聞いた後、僕にこう告げた。 「タケシ君だっけ?君は帰っていいよ」 アンジェもすぐ解放されるだろう。 今日はもう本どころではないから一緒に帰ろう。 そう思った時、刑事の一人が内懐から手錠を取り出し、アンジェにかけた。 第三幕 「『疑わしきは捕らえよ』だから。あの人達は」 狐目の司書のお姉さんはそう言った。 僕は、アンジェを取り返そうとして殴られた頬を押さえた。 「それでもおかしいよ、確かに第一発見者を疑えっていっても……」 「おかしいのは分かってるけどね。でも、あの子は特別だし、それに何か起こる位なら無実の存在が獄につながれる方がましだろう。一人の人生が破滅するだけで人類を救えるのだから。そう考えるのが普通なのよ、この業界では」 どの業界の話なだろう。 全く納得がいかない。 「アンジェはいつ戻ってこられると思う?」 「まあ、事件が解決するまでは無理ね。あの子は疑いをかけられるほどの存在だからねえ、そうねえ、四肢を拘束され、アイマスクに耳栓つけて、あとポールギャグもかまされて、さらに薬物で朦朧状態に置かれることになるわね」 「詳しいね」 「まあね」 「もし事件が迷宮入りになったら?」 「永遠に、死ぬまで、あるいは世界が滅びるまでそのまま。でも参ったわ」 「お姉さん、わざと人が入っている部屋にアンジェを連れていったでしょ」 司書のお姉さんの細い目が、わずかの間見開かれた。 にやりと、口の端がつり上がる。 「片山先生、だっけ。ずっと出てこないから、怪しいと思ってたんだよね。まあ、あの子がいれば大抵の超自然的厄介ごとには対処できるから。しっかしねえ、あの子自身が公安に連れてかれるはめになるとはねえ、これは参った。ほんと参った参った」 「どうするのさ」 「どうしようもないわよ」 「ひどい」 「そう言われてもねえ」 全くひどい話だった。 「つまり、僕が事件の謎をとかなきゃならない訳だね。そうしないとアンジェを助けられない」 司書のお姉さんは、狐目で僕をじっと見た。 「……そうね、その通りだわ」 (第四幕へ続く……) |