●19世紀後期のドイツ以外の音楽●


フランス
フランス後期ロマン派の影響
19
C




国民音楽協会その他の作曲家印 象 派
 フランク フランク門下シャブリエドビュッシー
サン=サーンスデュボアデュカラヴェル
 フォーレ デュパルクシヤルパンティエサティー
 ダンディ ショーソン 六 人 組


その他の国
 (イタリア)イギリス(その他)


後期ロマン派の影響ロマン派の影響


以外国民楽派





【19世紀概要】

 1 バッハ以後のドイツ音楽は、パロック時代の惰性から解放されて、
  つねに新らしい建設を続けてきた。これらドイツにおける音芸術
 (Tonkunst)の理論と、その技法は19世紀において、他の国々の娯楽
  音楽の域を遥かに引き離してしまったので、ドイツ以外の国は、
  まったく音楽の後進国に追いやられた。

 2 ドイツでは、明かにブラームスの後期古典派と、ブルックナー、
  ヴォルフの後期ロマン派は対立して見えたが、ドイツ音楽を遅く
  入れた他の国々では、多くは、ドイツ古典派と、ロマン派とを
  同時に受入れ、しかも矛盾を感じなかった。

 
 3 イギリス、アメリカも、音楽演奏家をヨーロッパ大陸にもとめて、
   好楽心を満たしていたが、ようやく、西ヨーロッパの楽風を消化
  して、自国の音楽家を養成するようになった。



1)後期ロマン派音楽の影響

 フランスすらも、新らしい音楽理念の追及と、新しい器楽の技法は
 ドイツに学ばなければならなかった。しかし、すぐれた文化的感受
 性は、これを消化した上に、フランス独得の音楽を創作することに
 成功した。それはフランキストと称ばれる
国民音楽協会の人たちの
 功績によるものである。

 たとえば、当時フランスにおいては、歌劇やバレーに、前世紀の
 王宮音楽の伝統をそのまま承けついで、楽んでいた時代で、重厚な、
 思索的な純音楽の創作は、ほとんど顧みられておらず、活動の停滞
 していたオペラ座は「音楽の博物館」と呼ばれていた(1852〜70年
 の間に上演された新作はわずか5作のみ)


  先覚者であったセザール・フランクの作品なども、正当に鑑賞さ
 れる素地が作られていなかった。人々はただ、リスト、バガニーニ
 のような神技的演奏に、音楽の評価を求めていたに過ぎなかった。

  こうした中でも、フランスには、フランクについで、サン・サー
 ンス
フォーレダンデイのような純音楽 の作曲家を出した。
  この人たちは、ロマンティストではあったが、一面、ドイツ古典
 の合理主義にもあこがれをもっていた。

 特にフランクは、バッハを尊敬していて、しかもフランス独得の正
 統派の「近代フランス音楽」を築いた。

  又、ビュシーヌとサン・サーンスは、ドイツに遅れている純音楽
 (歌劇以外の)を育成する目的で「国民音楽協会」Societe Nationale
  de Musiqueを創立した(1871年2月25日)。

  同時に、フランクの一派のほかにも、自由な立場で作曲運動をし
 ていたシヤブリエデュカなどの人々もでて、フランスの作曲界は、
 にわかに活気を呈してきた。

  フランス以外の国々でも、これと同じ経過をたどって、ドイツで
 構成された音芸術(Tonkunst)を吸収し、各国が競って、これの発
 展につとめた。



2フランス国民音楽協会Societe Nationale de Musique)の人々
 
セザール・フランクカミーユ・サン=サーンスガプリエル・フォーレヴァンサン・ダンデイ


1 セザール・フランク
 


(Cesar Auguste Franck,1882〜90)

「彼は生きているかぎり、また、しばらく後になっても、
不朽であろう。前もって代価が支払われているのだから 」
(ハイネ)


 彼の音楽は、画家フラ・アンジュリコFra Angelicoの音楽だと評され、
一種の神秘観をもっていた。当時のブルジョア的な、サン・サーンス
風のパリー楽壇からは白眼視され、その真価の認められたのは、彼の
晩年、むしろ彼の死後のことであった。その傑作は晩年のものに多く、
いずれも超然として気品の高いもので、しかも現代への多くの示唆を
示した点で注意されている。

 すなわち彼は、ヴァーグナーの半音階による和声技法の発展、神秘
的な幽遠霊妙な旋律をもって、ドイツ音楽とは全くちがった音楽を画
きだした、いわゆるフランス近代音楽の生みの親である。彼の新しい
器楽的功献が、リムスキー・コルサコフを生み、ストラヴィンスキー
を生むにいたったのである。

A フランクの生涯

彼は1822年12月10日、ペルギ−、リエージュの銀行家の子として生れた。
彼の家は画家の家系があり、かつてフランス宮廷画家をだしたほどで、
彼の血の中にも、その遺産が伝えられていたらしい。
 父は子の楽才を認め、幼年時代から厳格な教育をはじめ、11歳、ピア
ニストとして、父に伴われて国内旅行をしたほどである。翌年、リェー
ジュの音楽学校を卒業し、13歳、一家をあげてパリーに移住。ライハに
ついて和声、対位法を学ばせたが、翌年、師の死亡にあい、パリー国立
音楽院入学を準備し、15歳、入学を許可された。ここで作曲をルボルヌ
(Leborne)、ピアノをツィンメルマン(Zimmermann)、オルガンをブ
ノア(Benoi)に学び、在学中は各科に優秀な成績をしめた。

 1842年、父は、演奏家を希望して、学校を退学させたが、彼は作曲を
希望し、44年、パリーに帰って作曲生活にはいった。しかし、彼の作曲
はまだ注意をひかれるにいたらなかった。
 1848年2月、父の反対を退けて、女優デムッソー(Mme Demousseaux)
の娘と結婚した。
 当時、普仏戦争や、最初の歌劇「農夫の下男」(1853)の完成への
過労で、神経衰弱になって、数年間静養しなけれぱならなかった。この
間、一、二の教会のオルガニストや合唱長となったこともある。

 1858年(36歳)、聖クロチルド教会のオルガニストとなり、再び作曲
をはじめた。 ここでは即興演奏で人々を驚かしたという。たまたま、
リストがここに招かれて、彼の演奏を聴き、バッハ以来の第一人者と、
絶賛したという話もある。
 この約10年間に、多くのオルガン曲や、宗教音楽が書かれた。キリス
トの山上訓によった聖譚曲「至福」(Les Beatitude)つぎに「贖罪」
(Redemption)など。これは当時、いずれも不評であったが、彼の死後
三年に上演された時には、大好評を博している。

 その後ピアノ三重奏(ロ短)op.2、ピアノ五重奏(ヘ短)、1882年に
は交響詩「呪われた猟人」、1884年には「鬼神」を作曲したが、これも
不評に終った。この頃からピアノ音楽に興味をもち、「前奏曲、「コラ
ールとフーガ」(1885)「交響的変奏曲」(1885)を書いた。

 1886年には、名曲「ヴァイオリン・ソナタ」(イ長)が、当時の名手
イザイ(Eugene Ysaye,1858〜1931)に捧げられ、これが大好評を得た。
のちイザイは、これを世界各都市で演奏して、フランクの名声を高めた。
 この頃からフランクの声価が、ようやくパリー人士の間に認められ、
シュヴァリエ・レジョン・ドヌール勲章が授けられた。

 つづいてピアノ曲「前奏曲、アリアと終曲」(1887)、交響詩「ブシ
シェ」(1887)、「交響曲」(二短)(1888)が書かれた。この交響曲
は、グノーなどによって酷評されたが、作曲者は平然としていた。
 1890年4月19日、最後の大作、「弦楽四重奏曲」(ニ長)が初演されて、
はじめて待望の大喝采が起った。

 同27日、イザイ弦楽四重奏団によって、再びこの曲を上演して大成功
したが、それから以後健康がすぐれず、その年の2月8日、枕辺に絶筆の
オルガン曲「コラール」三曲を残して永眠した。

B フランクの作風と作品 

 彼の作品には、当時パリーを風靡していた、官能的色彩美に欠けてい
たことや、寺院のオルガニストとして、超然として孤高を楽しんでいた
ことなどで、パリー市民の歓心を得ることができなかった。それゆえ、
残された晩年の作は、宗教的理念の上に築かれ、バッハ、ベートーヴェ
ンの古典派の技法のささえによって、複雑な近代様式に一致させた名曲
ぞろいであることは注目に価する。
 人はフランクを「正教徒的ロマン派」といい、当時、ドイツのヴァグ
ネリアンの第一人者であったリヒァルト・シュトラウスを「異教徒的
ロマン派」といっていた。このようにして、ドイツ音楽の主流は、彼に
よってフランスに、大きな支流が作られたとみなされるにいたった。
 彼の作曲技法で注目されるのは「循環形式」Zyklischeform の使用で
ある。 これは多楽章のソナタ形式などで、ある楽想を、全楽章にわた
って使用するもので、彼のヴァイオリン・ソナタは、その適例である。


(1)管弦楽曲 

  交響曲「二短」(1888) 交響詩「エオリード」(1876)
 「呪われた猟人」(1882)「鬼神」(1884)「プシシェ」(1888)
 「交響変奏曲」(1885)

(2)室内楽曲

 「ピアノ三重奏」3曲「弦楽四重奏)(1889)「ピアノ五重奏」
  (1879)「ヴァイオリン・ソナタ」(1886)など8曲

(3)ピアノ曲

 「ギュリスタンの主題による幻想曲」(1844)
 「幻想曲」op13(1844)
 「ポーランドの歌による幻想曲」op15(1845)
 「前奏曲とコラールとフーガ」(1884)
 「前奏曲とアリアと終曲」(1887)
  その他

(4)オルガン曲 

 「大オルガンのための六つの曲」(1860)
 「前奏曲とシヤルル五世の祈り」(1889)
  など15曲

(5)宗教音楽

 聖譚曲「至福」(1876)「贖罪」(1874)

(6)その他

 合唱17曲のほかに、歌曲が多数ある。





2 カミーユ・サン=サーンス



(Charles Camilles Saint-Saens,1835〜1921)


 彼の作風は、後期ロマン派の色彩的音感を身につけながらも、古典派の
合理主義を基調とした、いわゆる国際的折衷主義であった。たとえば、ロ
シアにおけるチヤイコフスキー、イギリスにおけるエルガーなどと、その
軌を同じくしている。

 彼の作曲は国際的でわかりよく、たちまち外国にまで知られた。同時に
彼はピアニスト、オルガニストとしても、当代の第一人者で、ヨーロッパ
はもちろん、アメリカへも二度も演奏旅行をした。(マルセル・モイーズ
も同行)

A サン・サーンスの生涯 

父は農村出の一市民で、母は教養のゆたかな上流出であった。彼は1835年
10月9日、パリーに生れ、モーツァルトにも劣らない神童ぶりを示した。
 2歳半からピアノを学び、5歳では、オペラスコアをピアノで演奏したと
いう。7歳頃から組識的に作曲、ピアノを学び、11歳、ピアノ公演をした。

 1848年(13歳)、パリー国立音楽院に入学、オルガンをブノア、作曲を
アレヴィーHalevyに学んだ。1853年から5年間、サンメリー教会のオルガニ
スト、58年には、最も格式の高いマドレーヌ寺院のオルガニストとなり、
即興演奏などで人気を博した。この頃、交響曲「第一」、「第ニ」が作曲
されている。

 1877年(42歳)、十年間奉職したマドレーヌ寺院を去り、以後公職につ
かないで作曲、演奏、指揮に専念した。
 しかし、マドレーヌ時代(1861〜64)に、ニ−デルメイエ音楽学校(Ecole
Niedermeyer)のピアノ科教授となり、メッサージェ(Andre Messager,18
53〜1929)
、ジグー(Eugene Gigout,1844〜1925)、フォーレ(Gabriel
Faure,1845〜1924)などの門下生を出した。

 1871年、ロメン・ビュシーヌ(Romain Bussine)、セザール・フランクら
と、若い作曲家を育成する目的で「国民音楽協会」Societe Nationale de Musique
を設立し、これに主力を尽くした。
 これからの約10年間は、作曲と演奏旅行のために多忙であった。1881年
にはアカデミー会員に推され、この間、最も好評をえた歌劇「サムソンと
ダリラ」Samson et Dalila が完成、1877年にはヴァイマルで、92年にはパ
リーに上演されて、フランス歌劇のために花をそえた。

 1892年にはケンブリッジ大学から音楽博士を贈られ、1907年、父の郷里
ディェブでは寿像除幕式があり、1913年には最高勲章グラン・クロワが贈
られるなど、まことに大音楽家の功労をたたえるに適わしいプログラムが、
相ついで続いたが、1921年、アルジェリア旅行中客死し、パリーで国葬を
もって葬られた。

B. サン・サーンスの作風と作品 

 彼のドイツ古典、ロマン派への理解力の旺盛と、豊富な音楽性とから、
典雅な構成美を作ることに成功し、かつ、歌劇、交響詩などに、ロマン的
な自由な技法を用いた。しかし、フランクや、フォーレのような、民族的
特性を欠いている恨みがあり、彼の傑作といわれるものは、極めてドイツ
的、オーソドックスな作品である。


1 歌劇

 「東洋の女王」op30(1877)「サムソンとダリラ」op47(1877)
 「ヘンリー八世」(1882)など10曲

2 管弦楽曲

 交響曲
「No.1(Mi♭)」op2(1851)「No.2(la)」op55(1856)「No.3(do)」op78(1886)
 交響詩
 「オンファルの紡車」op31(1871)「死の舞踏」op40(1874)
 その他組曲
 「動物の謝肉祭」op - (1886)「運命序曲」op63(1881)
 「ホタ・アラゴネーズ」op64(1881)など。

3 協奏曲

 ピアノ   「No.1(Re)」op17(1858)「No.2(sol)」op22(1868)
       「No.3(Si)」op21(1829)「No.4(do)」op44(1875)
       「No.5エジプト(Fa)」op103(1895)
 ヴァイオリン「No.1(la)」op20「No.2(Do)」op58(1880)
       「No.3(si)」op61
 チェロ   「No.1(La)」op33(1872)「No.2(re)」op119(1902)
 その他   「序奏とロンド・カプリチオーゾ」op28(1870)など。

4 室内楽曲

 「チェロ・ソナタ」「オーボエ・ソナタ」「クラリネット・ソナタ」
  ほか三重奏、四重奏曲など


5 その他

 ピアノ曲、ヴァイオリン曲、オルガン曲
 聖譚曲「大洪水」op45(1875)ほか宗教合唱曲、歌曲など、
 各種類にわたっている。




3 ガプリエル・フォーレ


(Gabriel Urbain Faure1845〜1924)



 南仏ピレネーのパミエルに生れ、楽才を認められ、9歳、パリ、の宗教音楽
学校ニ−デルメイエに給費生として遊学、サン・サーンスの教をも受けた。
サン・サーンス、デュボワの後を受けて、マドレーヌ寺院のオルガニストと
なり、また国民音楽協会の会員として、地味な活動をしていた。

 1896年、マスネーのあとをついで国立音楽院の作曲法、対位法教授となり、
ラヴエル、シュミット、エネスコなどの英才をだした。

 1905年、デュボワ引退後、国立音楽院長に就任し、清貧に甘んじていたが、
1924年11月4日死亡、国葬をって葬られた。

 彼の芸術は、静寂の中に情趣をこめた、格調の高いものであり、ヴェルレ
ーヌの歌曲集はじめ、繊艶優雅な歌曲や、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ曲
などが、世界的に好評をえている。

  彼の作曲は宗教音楽では「鎮魂曲」op48(1888)「アベ・マリア」op93
(1906)ほか数曲、楽劇「ブロメテ」op82(1900)、歌劇「ペネロープ」(1913)、
ピアノ曲では「ノクチュルヌ」「バルカロール」と題する曲が各13曲、「即
興曲」五曲、「前奏曲」九曲などあり、「ヴァイオリン・ソナタ」にはop13、
op108の二曲、「チェロ・ソナタ」はop109、op117の二曲
  その他の器楽曲、そして多くの歌曲集と歌曲があり、フランスにおける
シューマンといわれている。


4 ヴァンサン・ダンデイ
 (Paul Marie Theodore Vincent d'Indy, 1851〜1931)

 南フランスの貴族を父系にもち、気品の高い作品を残した。
 彼はフランス古典に出発し、フランス民謡の研究にも熱心であった。のち
にドイツ・ロマン派の影響を受けたが、セザール・フランクの精神をついで
フランス音楽の中に創作をつづけた。

 彼は1851年3月27日、パリーに生れたが、母は間もなく死亡、祖母の手で
育てられ、 11歳、ディエメにピアノ、ラヴィニャックに作曲、後にピアノ
をマルモンテルに師事した。

 1872年、音楽院でフランクに学ぴ、その精神を強く伝え、国民音楽協会に
も協力して、フランクの死後、その会長となった。
 1896年、フランクの楽風を伝えるために、ボルド(Charles Borde)ギルマン
(Guilmant)と協力して、スコラ・カントルム(Schola Cantorum)を創立して校長
の職につき、生涯を後進者の養成に尽した。その間、各国を旅行し、ドイツ
ではリスト、ブラームス、ヴァーグナーなどと会い、特に1876年には、バイ
ロイトで「指環」の初演を聴いて、強い感動を受け、のちパリーで「ローエ
ングリン」を指揮したほどである。

  作品には

  交響曲 「No.1」(山地民謡による)op25(1886)
    「No.2(美しきフランス)op70(1918)

  交響詩 「ヴァレンシュタイン三部作」
       (ヴァレンシュタインの陣営、ピコロミニ、ヴァレンシュタインの死)
      「山の夏の日」op61(1904)「海辺の詩」op77(1921)など。

  その他室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、歌劇も数曲作られた。



5 フランク門下の作曲家

 フランクの純音楽の系統をついだ人々には、次の名があげられる。


 1 テォドル・デュボワ(Theodore Dubois,1837〜1924) 

   トーマに作曲を学び、ローマ大賞を得た。
   のちオルガニストとして、また1896年、トーマのあと、パリー国立
   音楽院長に就任した。
   作曲も各種にわたっている。また和声学教科書は有名である。

 2 アンリ・デュパルク(Merie Eugene Henri Duparc,1848〜1933) 

   宗教学校を出てフランクに学び、彼の音楽運動に協力した。作品の
   大部分は歌曲(16曲)で、交響詩「レノール」(1875)、ピアノ曲集
   「風に舞う木の葉」などが知られ、後期のものはドビュッシーの
   印象派の影響をも受けている。

 3 エルネスト・ショーソン(Ernest Chauson,1855〜99) 

   法律から転向して晩学であったが、パリー国立音楽院でフランク
   から強い影響を受け、国民音楽協会の組織者であったが、交通事故
   で惜くも44歳で死亡した。

   彼の作品は、高雅典麗で、今日、ヴァイオリンと管弦楽のための
  「詩曲」op25(1896)交響曲「Si♭」op20(1890)交響詩「ヴィヴィアーヌ」
   op5(1882)「祭の夜」op32(1898)などが演奏されている。



(3) フランスのその他の作曲家

 フランクの国民音楽協会派でなかった人々にも、
 次のような異色の作曲家がいる。

1 エマニュエル・シャプリエ(Alexis Emanuel Chabrier,1841〜94) 

はじめ法律を学び、役人生活をしたが、素人作曲が人気をえて、本格的な
作曲家に転向した。19世紀の最も創意に富んだ作曲家の一人であり、当時の
一般聴衆よりも芸術家仲間に高く評価された。友人のデュパルクはヴァーグ
ナー傾倒に決定的な影響を与えた。
色彩豊かなオーケストラを駆使したラプソディ「スペイン」(1883)の作曲家
として最も良く知られている。
 作品の中ではピアノ曲が重要で、彼以降のフランスの作曲家たち、とりわけ
ラヴェルに霊感を与えた。

2 ポール・デュカ(Paul Dukas,1865〜1935) 

デュボワに和声学を学び、ドイツ・ロマン派の影響を強く受け、ゲーテによる
「魔法使の弟子」(1897)の上演以来、その管弦楽法がかわれて、一躍人気作曲
家となった。
 歌劇「アリアーヌと青髯(1907)は、20世紀初頭の大ヒット曲であり、バレー
「ラ・ペリ」(1912)も絶賛をあびた。その作品は少なかったが、いずれも洗練
されたもので、ドビュッシー出現の予言者でもある。

3 ギュスターヴ・シャルパンティーエ(Gustave Charpentier,1860〜1956)

 マスネーに作曲を学び、ローマ大賞を得ている。
代表作は四幕の音楽物語「ルイーズ」(1900)で、初演以来20年で、500回上演の
記録をもっている。このほか交響組曲「イタリアの印象」(1890)も知られている。
1912年、マスネーのあとをついでアカデミー会員に推された。

 その他、オペラ作曲者、または指揮者として有名だったメッサージェ、写実主

義的なオペラ作曲家、 評論家として有名なブリュノー(Luois Brunneau,1873

〜1934)などがあげられる。