マリオ鈴木情報満載コーナー

UFO

  マリオ氏は、「一笑にふされることでしょうが、私は2回UFOに遭遇しています。」と話しています。幼いころは音楽に特別強い関心は持っていなかったそうですが、「高校2年の3学期のある日、第一回目のUFOに遭遇して以来、何故かとつぜん音楽に目覚めた記憶があるんです。」と話しています。自分でない別の力が働き、音楽の勉強と練習に没頭したというのです。そして第1回目のリサイタルは全て自作品を自演するという画期的なものでした。普通は99%以上が他人の作曲したものを演奏します。
  第2回目のUFOに遭遇してからは、音楽活動をしていくにあたって素晴らしい人達との出会いが始まったといいます。


マリオ鈴木 30年の記録

1973年(26歳) ライブコンサート(レストラン等)の開始(26歳)
1974年 西洋膳所名門レストラン「ジョレカナヤ麻布」6本木のレギュラーソリストとなる
1975年 ”ポピュラーギター二重奏の夕べ”にゲスト出演(新宿安田生命ホール)
1976年 デビューリサイタル(新宿安田生命ホール)自作中心で演奏
ラテンフェスティバル(渋谷東邦生命ホール)出演(長谷川きよし,佐藤正美,大友正男氏らと共演)
1977年(30歳) 魅惑のラテンコンサート(銀座ガスホール)出演 (大友,佐藤氏らと共演)
1978年 中林淳真7人の会(池袋豊島区民センターホール)共演
1979年 新宿区民音楽祭(NHKプロモード)(新宿文化センターホール)に出演
ギター詩情・リサイタル」(安田生命ホール)自作品中心
中林淳真(日本ギター界の至宝)より「日本のフォクローレの新星がここに生まれ、やがて世界に光ることを信じる」とメッセージと専門家修了証を受く
スペインの名手・ホルへ・カルドーソと共演(東京杉並セゴビアホール)
1980年 魅惑のラテンフェスティバル(サンケイ新聞社主催 銀座センハホール)出演
1981年 師である中林淳真氏と各地でのコンサート共演始まる
へスス・ベニーテス(メキシコ、ギター協会会長)と共演(所沢・椿峰ホール)
箏曲界の巨匠坂本勉氏と共演(新宿モージアルト・サロン)
1982年(35歳) 日本ギター教授者協会の理事となる
LPレコード「ギターの詩情」(フォンラック)発売
1983年 ソンコ・マージュ氏(フォルクローレギターの名手)と共演(所沢)
尺八の名手・岡本樹憧氏と共演(所沢)
1984年 スペインの名手 ユウへニホ・ゴンサーロと共演(所沢)
1985年 スクールコンサートスタート(山口中学校、小手指中学校など)所沢市内
1986年 へスス・ベニーテス(メキシコ、ギター協会会長)と共演「異国の天才作曲家・友人ではない、兄弟だ!!」と絶賛のメッセージをもらう
「個性的ギター音楽の夕」コンサートでフラメンコギターの名手、瀬田彰氏と共演
1987年(40歳) 「守ろう緑」全国コンサートでは、テレビ朝日「気分はシャッフル」にゲスト出演他読売新聞を始め全紙に大きく紹介された
スペイン大使 カミーロ・バルシア氏より「世界のどこの国おいても心うつ作品」
ベネズエラ大使、フェルナンド・バエス・ドゥアルテ氏より「作品はわがラテン音楽の魂がある」と絶賛のメッセージ
ジャズピアノの巨匠、世良嬢(ゆずる)氏と共演(第一ホテル吉祥寺オープンイベント)
(財)埼玉・野鳥の会主催のコンサート(大宮そごう8F)にゲスト出演
作曲家、中田喜直氏と共演(グリーンコンサート・星陵会館)
クラシックギターの名手、渡辺範彦氏(パリコン優賞者)と共演(東医健保会館ホール)
1988年 朝日新聞主催「朝日の森ロッジオープンコンサート」(群馬県)にゲスト出演、女優の浜美枝さんと共演
FMラジオ放送に数多く出演する
1989年 真横須賀トンネル開通記念イベント(神奈川)にゲスト出演
親子ラジオコンサート・各メディアにて大きく紹介される
1990年 ギターオーケストラ作品「組曲・アマゾン」を作曲・(芝浦工業大学ギター部より依頼される)
1991年 「新宿道路フェアー91”人と道と環境と”」イベントにゲスト出演
ギター製作家、西野春平氏とトーク&コンサートで共演
1992年(45歳) エドウアルト・ファルー(アルゼンチンの国宝、フォルクローレギターの巨匠)より「ラテンアメリカを熟知し、極めている」と絶賛のメッセージをもらう
1993年 「絵と音による二人展」(京王百貨店主催)に出演
CD「詩的弦模様」発売(エス・ツウ社)
1994年 第1回「あづまの森の音楽会」(所沢、吾妻公民館)に出演
奈良新堀ギタークリスマスコンサート(奈良)にゲスト出演
1995年 日本映像祭 IN なんよう(山形県)にて俳優の田中健(ケーナ奏者でもある)と共演
毎日新聞にて「心に響け、魂の風ギタリスト マリオ鈴木さん」で大きく紹介される
作曲「忘れ路のサムバ」を南陽市(山形県)に謹呈(ハイジア駅コンギターコンサートを記して)メディアにて紹介される
川越氏主催の「エイズ撲滅キャンペーンコンサート」にゲスト出演
五十嵐真二写真展「今・輝いている芸術家たち」で紹介される
語り部の熊澤南水さんと共演(千葉、ホテルミラドール)
1996年 CD「哀愁のプレリュード」発売(コンバック、コンポレーション)
狭山市市庁舎サロンコンサートに出演(狭山市役所・狭山市主催)
狭山警察署にてコンサート出演、感謝状を受く
作曲「玉原高原の思い出」(朝日新聞所有)朝日の森ロッジに謹呈
渋谷タワーレコード店イベント「世界のアーチストコンサート」に出演、大好評
スペインに渡る。マドリット(バルセロナ)を始め各地で出演
1997年(50歳) 詩集「独り言の余韻」(家庭新聞社)を出版・発売
メガネのパリーミキ主催のイベントコンサートにゲスト出演(東京プリンスホテル)
アメリカ「HIFI97世界オーディオフェアー」(サンフランシスコ)に特別ゲストで出演絶賛と博す。全米にテレビ放送された
1998年 狭山市広報誌「さやま」の”人”ページにて大きく紹介された
狭山市長町田潤一氏より「君は世界でNO1のギタリストだ」と絶賛のメッセージをもらう
大宮警察学校にてコンサート出演する。大好評を博す
「絵画・彫刻・音楽・舞踏・四・」の共演(狭山市民会館ホール)
1999年 作曲「川越・小江戸の印象」を川越市に謹呈。毎日新聞を始め各紙に大きく紹介された
狭山市民会館主催「マリオ鈴木ギターコンサート」(市民会館ホール)に出演。大好評を博す
所沢市消防職員成人式にゲスト出演する
2000年 直木賞作家・笹倉明氏「文学と音楽の旅」コンサートで各地を巡る
2001年 映画「新・雪国」(主演、奥田瑛二)の音楽担当に決まる。主題曲「萌子のテーマ」を作曲
CD「幻夢・浜洋館」を発売(エスツウ社)
狭山市立博物館サロンコンサートに出演。大好評を博す
ライブビデオ「40才の記憶」「ライブコンサート」を発売
ヨーロッパ(パリ)中心にコンサート出演「6ヶ所」
2002年(55歳) 映画「新・雪国」銀座にてロードショーされる。
狭山郵便局一日郵便局長の大役を受く。コンサート出演もする。各メディアで大きく紹介される
川越の伝説実行委員会主催「川越・むかしの小江戸のものがたり」(川越市民会館大ホール)にて特別ゲスト出演
「愛しの街・狭山」「川のある風景・狭山」を狭山市に謹呈
ステージ活動30周年記念コンサートを狭山市民会館大ホールにて、盛大に行われる
映画『新雪国』上映とマリオ鈴木・原作者笹倉明によるトークショー(姫路キャスパホール)
浜洋館ライブコンサート(多木浜洋館)
121回ムジカ・フィオーレ 立花弘子(歌)とマリオ鈴木(ソフィア・ザール)
狭山市立博物館 秋の企画展『弦の路』(狭山市立博物館)演奏&展示
中国上海楽器フェアー コンサート ギター製作者(西野春平氏と同行)
2003年(56歳)

サロン「松田」大宮市
カフェサロン「ジュリエット」蓮田市
パインズホテル さいたま市(浦和)
東武サロン 狭山市
カサ・デ・ギターラ発表会 小手指公民館分館ホール(所沢市)
ギャラリー「響(ひびき)」(長野市)
喫茶サロン「明日香」長野県・塩尻市
直木賞作家「笹倉明」氏と イタリアレストラン「GATTO」狭山市
ディナーコンサート 「パテラータ」(川越市)
おしゃれトーク&ギター演奏 笹倉明と  アンティークホテル 「ら・みらどーる」(千葉県鴨川市)
さやま路地裏物語フェスタ2003 チャレンジショップ「マヤーサ」狭山市入間川
ニ胡とギターの夕べ二胡奏者(武楽群)イタリアレストラン「GATTO」狭山市
最新作品アルバム「CD&詩集」発売記念パーティー イタリアレストラン「GATTO」狭山市
長青寺(所沢市)講話と演奏 演奏に出演
お魚ギターコンサート 県営さいたま水族館(羽生市)
ピアノコンサートに特別出演 ジョイフル川越
カサ・デ・ギターラ サロンコンサート 花水木(所沢) 
クリスマス・ディナーコンサート 坂井宏行(料理の哲人)シェフのお店ラ・ロシェル本店(渋谷)ラ・ロシェル南青山店 

2004年 2月4日 人権講演会前のミニ・コンサート 狭山市民会館
2月14日五十嵐文彦講演会ゲスト演奏 狭山東武サロン
2月27日ギターラ富士見ふれあいコンサート 富士見集会所(狭山市)
2月29日一葉の世界とギター3重奏 アンティークホテル ら・みらどーる(千葉県鴨川市)
3月27日ギターラ奥富ふれあいコンサート サンパーク奥富(狭山市)
4月24日 山形・赤湯駅舎コンサート(山形県 赤湯)
5月15日 サロンコンサート喫茶「ルイズ」(狭山市)
5月21.22日浜洋館コンサート(兵庫県加古川)
5月23日 GATTO 3周年記念パーティー(狭山市) 
6月6日笹倉明&コンサート 粋(狭山市)
6月19日「主婦会館」コンサート(東京都四ツ谷)
6月20日まちかどコンサート 中央公園文化センター(東京都北区)
7月22日准看護学校コンサート 東武サロン(狭山市)
9月5日ギタークラブ川越発表会(川越市)


コンサート、司会 芸達者なギタリスト平成3年1月の新聞より
  芸名は「マリオ鈴木」。師事したメキシコ・ギター界の巨匠、へスス・ペニーテスがつけてくれた。「ペニーテス先生は、私の音楽からはインディオの心の叫びが聞こえてくると評価化してくれましたね。私のことを、現地のポピユラーな名前のマリオと呼ぶようになったんです」これまで師とジョイントでレコードを吹き込んだり、オリジナルLPを発売したりした。フォルクローレ・ギターを始めたのは、県立神奈川工業高校を卒業、京王百貨店に入社してまもない昭和40年代の初め。ユパンキのコンサートで、フォルクローレの哀切な響きに魅了されたのがきっかけだった。
  「何事も打ち込む正確なので、依頼フォルクローレに夢中になりましてね」
  当時は仕事を終えてから夜間のデザイン専門学校でインテリアデザインの勉強もしていたので、練習は朝6時に起きて出勤するまでの1時間と決めた。睡眠時間は平均5時間。
  「夜の練習は身につかない。朝のほうが集中できる。作曲は、片道1時間半の通勤電車内で。わざわざ各駅停車を利用して、曲想を練ったり、浮かんだメロディーをメモ程度に採譜したり…
  仕事の方は、インテリアデザインをスタートに、家具、楽譜売り場、そして現在レストランを担当。イベントや宴会などの際にはミニコンサートを開いたり、司会役もこなしたりなど芸達者ぶりを発揮する。また、自宅のある埼玉・所沢市を中心に公民館などでコンサートを開いており、地元でもちょっとした有名人。「これからは仕事以外の趣味をもって、居住地城とのかかわりも大切にしなければいけない時代ですよね
  高1の真里央(まりお)君との親子ジョイントコンサートは、真里央君が空手に夢中な為しばらくお休み。「私よりも才能豊かなので楽しみです」と目を細めると父親の顔になった。

わが社のギネス人間(京王百貨店)より


日本映画際 IN なんよう  ‘95

1995年11月 山形県南陽市 において 俳優田中健と交流パーティー。田中健はケーナでジョイントコンサートを行いました。


全米あげての世界オーディオフェアー『HI・FI・97』のイベントコンサート出演

1997(平成9年)5月

シスコで一番伝統と誇りをもつホテル「Westin st francis」(ウェスティン・セント・フランシス)の客室を120ほど借り切っての催し。世界各国から120社程のオーディオ製品が出品され、その最先端の技術や性能を披露、PRするもの。日本の大手メーカーも数多く参加していました。日本では幕張メッセ級の感じです。後半の3日間でイベントのコンサートが開催。数多くの世界中のアーチスト(音楽家)の中から10人選ばれその中に入り出演することになりました。その10人とは、M・ファーガソン(トランペット)/D・チェスキー(ピアノ)/A・デルモーニ(バイオリン)/N・ブライアン(フォークロック歌手)/N・ラセン(チェロ)/マリオ鈴木(ギター)他

ということで、私も招待出演の依頼を受けた次第です。主催の方々から、『このショーの出演者は、真の実力者でないと招待されません。知名度、有名度などのある無しの問題ではなく、芸術的に高い評価を得られた方のみですから、すばらしいですよね。』と称賛された次第です。ホールは毎回400名が満席でした。
さて、この催しが開催された、サンフランシスコという街ですが、
一言で言うならアメリカの良き時代の印象がそのまま残る、レトロ風の街であり、なんと言っても坂の街、そして、夜になると霧が降りる幻想的な街でもあります。サンフランシスコは、飛行機で9時間の旅です。ぜひ1度訪ねてみてください。

1997(H9)年6月18日 家庭新聞より要約


フランス・イタリアにてコンサート  2001年1月6日〜15日

パリ(フランス)10年ほど在住の友人の招きによるコンサート出演で2001年は幕を開けました。パリでのコンサートは4ヶ所、ホールが2ヶ所の計6ヶ所で行いました。専門誌による取材も受け、無事大成功、大好評で終了しました。


マリオ鈴木と音楽について

アルゼンチンの国宝といわれ、フォルクローレギターの世界的巨匠・エドゥアルド・ファルウが日本に来たときのことです。最後の集まりのとき「誰かエドゥアルド・ファルウの前で演奏する人はいませんか」という話になった時、ただ1人手を上げたのが鈴木さんでした。名だたる日本のギタリストも気後れしたのでしょうか、巨匠の前で演奏する勇気はなかったようです。

スペイン大使のカミーロ・バルシア「マリオ鈴木の持つ音楽(自作曲)は、世界のどこの国においても心を打つと確信する」と。

ベネズエラ大使のフェルナンド・バエス・ドゥアルテ「マリオ鈴木の音楽(自作曲)には、わがラテン音楽(中南米音楽)の魂がある」と。

メキシコギター協会会長のヘスス・ペニーテス「マリオ鈴木はインディオ(中南米音楽)の精神及び魂を完璧に持ち合わせたケチュア族の再来である。そして私の友人ではない、私の兄弟なのだ!!」と。先に紹介したエドゥアルド・ファルゥ賛辞も極め付きといえるでしょう。


作曲家として生きる 2002年1月3日

  今までに私は500曲ほど色々なジャンルの曲を作ってきました。最近の大きな仕事として、映画「新・雪国」の音楽担当をし、全編を通し流れる主題曲を作曲しました。こうしたメジャーな仕事ばかり人生あればいうことはありませんよね。お金になる仕事以外は手をつけないという考えで歩いていると、自分を磨くことは不可能です。いつでも、どこでもたえず曲作りを日々頭から離しては、作曲に必要なインスピレーションがどんどん消えていってしまいます。いつも作るという行為はしていなくてはいけません。
  私は、所沢で3ヶ所 狭山市内で4ヶ所 川越で1ヶ所 指導中です。その各サークルのテーマ曲を私が作曲しています。全くギャラには結びつくものではありませんし、一般で言うボランティアとでもいう形となるのでしょうか。その他おこなってきた仕事として「川越・小江戸の印象」(川越市に献呈)、「忘れ路のサムバ」(山形県南陽市に献呈)、「川のある風景・狭山」(狭山市に献呈)らを作曲。CD化にもなっています。また今年の10月には、浜洋館(兵庫県加古川市にある重要文化財申請中)のイメージ曲「幻夢・浜洋館」「浜風の館」の2曲を所有者である多木学園に献呈致しました。そして学園からの強い要望でCD化が出来ることになりました。人間、損得は考えず、ひたすら自分の決めた道をコツコツ歩んでゆけば、歩いていれば必ず大きくなくても、日の目を見ることが出来るものだと、つくづく思っています。そして「マリオさんが作られた曲のいくつかを、まとめてCD化しましょう」と言ってくださる人達、協力者も出てきています。
  私の作曲、作品が少しずつですが、皆さんに認められつつあるのかなぁーと幸福な気分を味わうことも出来るようになりました。作曲を志し、演奏者としてもスタートを切ったばかりの時は、全くの自費でLPレコード、テープ等作成し、販売していたものです。その頃がなつかしく思えます。初心忘れることなく、これからも自分の思う道を歩いてゆきたいものです。数多くの曲を作っても収入に結びついている作品などは30曲程と言ってよいでしょう。ほとんどが自己満足のために作っているようなものです。自分の心の叫び、感情をぶつけるところが私の場合、作曲という世界であったと言うことになるでしょう。
  これからも死ぬまで作曲活動が続けられれば、こんな幸福(しあわせ)はありません。現在54歳になりますが、70歳くらいまでは、現役でいたいものだと願ってやみません。

日刊 新民報 より


10年ぶりの上海を訪ねて 2003年1月3日

 1992年初めて上海に渡ったときの印象は、今も私の心に感動的に色濃く残っています。たそがれがとても似合うファンタジーな町並みが広がっていました。当時は高層ビルは1〜2本程でした。昔ながらの建物が全体を包んでいて、タイムスリップしたかのような美しい街でした。二日間程で上海組曲として、「雨の上海」「夜の南京橋」「霧の南京路」の3曲を作曲し、ホテル上海ヒルトンで初演した記憶があります。(この3曲は幻夢・浜洋館のCDにあります
 その時のイメージで今回降り立ったのでが、あまりにもイメージが違い、10年前の上海の面影は崩れていました。文明の力といいますか、高層ビルが百本を越す数が、街にそびえ立っていました。昔ながらの建物は80%以上壊され、ビル化となってゆくのが残念です。街の活気も以前とは違い、すごいパワーを感じました。なににつけてもこの国全体の力はすごいの一言ですね。
 10年前とはほとんど変わらないと思ったのは交通事情でしょうか。車の走り方、道路を渡る人々の姿、ルールなどあってないようなものです。車の量もぐっと増加していました。上海港も岸に並んでいた昔ながらの建物は、ごく一部しか残っていませんでした。どんどんコンクリートの街と化してきています。便利で生活しやすくはなってきているのでしょうが、それとともに人間の心までどこかコンクリートとなってゆくのではないかと、日本も含め、心配になりつつあります。ですから今回は、約1週間でしたが、曲つくりの感覚には自分をおく事が出来ませんでした。「ビルの上海」となっていたからです。
 それでも上海の中心から車で2時間程行くとまだまだ昔の姿をした風景がそこにあり、なんだかほっとする思いでした。どこか日本の古里を思わせる郷愁も感じる事が出来ました。今回の上海を訪ねた印象もいずれ曲として残したく思っています。
 今回も色々な方々と知り合う機会がありました。仕事を通じ知り合った方々、プライベートで知り合う事が出来た人たち。皆素敵な方々でした。言葉の壁は少々ありましたが心という感覚が、うちとけることが出来て、最高でした。国は全く違っても人間の根本的な感情は同じなのだと、今回もつくづく思った次第です。
 「ビルの上海」になってしまいましたが、私は上海が大好きです。知り合う事が出来た上海の人達の素晴らしい温かい心があるからです。
 今回、私が上海に渡ったのは、上海国際楽器フェアーでの演奏と楽器工場の見学が目的でした。スケールの大きい世界の楽器商の参加です。中国の楽器事情がひと目でつかめる貴重な日々でした。皆さんも機会がありましたら是非一度、上海を訪ねてみてほしいと願っています。

                                                                                      日刊 新民報より

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大衆が決める一流と二流            2004年7月25日日刊新民報より

 どの職業の世界にでも言えることですが、世に名前が出てるものが一流で、真の実力があっても無名であればそれは二流と世間は決めてしまっているものです。
 大衆に心眼を求める事は不可能に近い事ですよね。なぜかと言うと、皆がそれぞれの職業・世界について専門に知っているわけではないからです。
 私のギター音楽の世界一つとっても言えることです。今でも全国を仕事でまわっていると、ギターといえばクロード・チアイさん、アントニオ古賀さんとなってしまいます。
 それ以外のギタリストの名前は殆どといってよいほど、一般の方々の口から出る事がありません。それが現実の所でしょうか?コンサートが開かれても、知名度のある奏者には人がどっと集まりますが、ない人には内容の問題ではなく人が集まりません。それも現実なのです。「大勢の人が集まるのだから良い音楽なのよ。人が集まらないコンサートは、きっと演奏内容が良くないのよ・・・・」となってしまいます。客寄せパンダ的要素も、コンサート活動で食べていくには必須条件になってしまいます。確かに永く活動していれば、それなりのファンはつきますが・・・・。
 本質的に三流奏者であっても、音楽事務所の経済力とPRによって知名度が上がっていく人も多々います。作られたスターとでもいいますか。いつの世も、本物と言われる真の一流はなかなか一般には受け入れられないのが現状でしょうし、知られる事もなく、この世を去っていく音楽家も多いのだろうと想像します。どの世界もそれのくりかえしなのかも知れません。
 世の中、人間が全てですから、その中でどんな形であれ、認められたものが人生の勝者と言えてしまうのかも知れませんね。コネクションもなく、経済力もない場合は、どんなすばらしい者を持っていたとしても、世に出ず命を終えていくことがあるわけで、それはとても哀しい事でもあります。死後何十年、何百年後に認められてしまうケースもあるわけですし。
 音楽家の世界でも、我々が知る昔の楽聖達の存在した時代でさえ、未だ知られていない隠れた巨星が埋もれている可能性も多々あると言うことでしょうね。少々プライドを捨てて、存命中に少しでも知名度をあげるのも、一考かも知れません。またそうしたくても、チャンスがない場合もありますし、でもひとつ言えることは、財力があればある程度は可能になるのが資本主義の世界なのです。
 現代は、経済力がある人の極楽世界なのでしょうか。それも昔から変わらない人間の世界なのかもしれません。そう考えてしまうと夢もなくなってしまうし、むなしすぎる。やはり運命が左右するのかも知れないと考えれば・・・・なんかホットするのです。そう思いましょう。

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