

幼少の頃よりピアニストとして、ずばぬけた才能を持っていたフランツ.リスト。 彼は、ピアノの実技をチェルニーから、音楽理論をサリエリから学んだ。12才、
2度めのウィーンでの演奏会を開いたとき、聴衆のなかに、あこがれのベートーヴェンの姿があった。そのことは、後々までリストの語り草であった。
演奏会の後、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)への入学を希望するが、リストが フランス人ではなく、ハンガリー人だったことで、入学を拒否される。
失意のリストに2つのチャンスがめぐってくる。ピアノ製造業者エラールが、最新型のピアノをリストに贈ると申し出たことと、王家の血筋に近いオルレアン家のサロンに
招かれたこと。サロンとは、芸術家、文化人が集う華やかな社交の場で、リストは、集まった人々の前でピアノを演奏した。 ひとつの課題により、即興演奏することもあり顔立ちのかわいいリストは「ル.プティ.リツ」の愛称でサロンの寵児になっていった。
翌年には、ロンドンでもデビューし、大喝采をあびた。
チェルニーによるフランツ少年の印象
「1819年のある朝、見知らぬ人が、8歳くらいの少年を連れて訪ねてきて、この子のピアノを一度聴いてくれという。
それは青白い、見るからに弱々しい子だったが、ピアノを弾きだしたら、酔っぱらったように大きく身体を揺り動かしながら、まるで椅子から転げ落ちぬばかりだった。その演奏は、粗雑で乱暴で指使いも正しく習ったものではなかった。しかし私は、彼のテンペラメントと素晴らしい天分を認めて驚かざるを得なかった。彼は、また私が与えた譜面を初見で弾き、即興演奏もしたが、確かに才能があることを否定できなかった。」
その後チェルニーは、リストを秘蔵弟子として、わが子のように可愛がり、それから1年半厳しいレッスンを施したが、報酬はとらず、そのうえ楽譜を与え、日用品まで支給して生活を助けた。リストは、その恩を生涯忘れなかった。一方チェルニーは、後年に「彼のように才能に恵まれて、しかも勤勉で進みの早い弟子をもったことがない。」と賞賛した。
パガニーニを聴いて
1831年、5月に、ヴァイオリンの鬼才ニコロ.パガニーニ(1782〜1840)が初めてパリを訪れた。パガニーニの演奏は、シューベルト、シューマン、ショパン等、全ヨーロッパの演奏家、評論家、作曲家を魅了した類を絶する巨匠であった。彼は、ありふれた曲でも心に染みる深い感動を与えて、高い名声を博したが、特に自作の演奏と即興演奏は、比類を絶するものだった。リストは、二回続けて彼を聴いたが、深い感銘を受け、「ピアノ界のパガニーニになる」決心をする。それ以来彼は、毎日4、5時間以上の猛練習を始めて、ある種類のテクニックを磨き直した。
ショパンについて
リストは1831年2月26日、プレイエルホールにおけるショパンのデビュー演奏会で、ショパンの演奏を聴いた。
ショパンは、自作のノクターン、マズルカ、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。リストはショパン特有のポエジー、夢見るような繊細な美しさ、ハーモニーの大胆な転調、自由自在な音色の切替え、特にノクターンとマズルカにおけるデリカシーなテンポ.ルバートには、類を絶する深い感銘を受けた。
リストは、ショパンの死後も、ずっと彼の作品を愛し、演奏会にもショパンの作品を好んで加えたり、弟子たちにも教えてショパンの曲をドイツに広めていったのである。音楽に関する評論や著書においても、最高の評価を惜しまなかった。
晩年のリストが書いた手紙には、ショパンを次のように回想している。
「ショパンは、まさに魔術的な天才でした。誰とても彼に比肩する者はありません。芸術の空には、ただ一人彼のみが光り輝いています。彼は繊細な優美さをもって、彼の涙、彼の力強さ、彼の情熱の全てをあますところなく表現し尽くしているのです。彼は虹色の天使の群れに囲まれて空飛ぶ、貴族的、女性的天使の一人だったのです。」
当時のパリのピアニストたち

前列左からヴォルフ、ヘンゼルト、リスト、後列左からローゼンハイム、デーラー、ショパン、ドライショク、タールベルク


サロンの雰囲気を理想化して描かれた当時の絵画。中央椅子にはジョルジュ.サンド、ピアノにはリスト、後列右端に立っているのは、作家のデュマ、サンド左後ろに立っているのは、ヴァイオリンの巨匠パガニーニ、リスト右の女性は、マリー.ダグー夫人
作曲家として
若い頃のリストは、「ハンガリアン.ラプソディ」「オペラ.ファンタジー」アリアのパラフレーズ等、放胆な作風と奔放自在な演奏をもって聴衆の血を湧かせ興奮をさそっていた。その後、交響曲に熱中した時代を経て、修道院生活を始めたローマ時代から以後の創作は、ほとんどがカトリック的な聖書の伝説や、物語を題材にしたものに限られている。それは同時に神への信仰をより深めていった。彼の代表的なオラトリオの大作「聖エリザベスの伝説」「エステ荘の噴水」「アッシジの聖フランシスの二つの伝説」の「鳥の説教」「波を渡る聖フランシス」など、その内容は、秘蹟の伝説や聖書、詩編歌などから取材したものである。
リストとワーグナー
1848年、リストはドイツのワイマールに留まりワイマール大公の宮廷楽長に就任、宮廷楽団の復興と隆盛をはかっていた。リストのもとには、彼の人徳を慕って多くの若い人材が集まってきた。1849年のワイマール大公妃の誕生日祝いの出し物にワーグナーの「タンホイザー」の上演をする運びとなった。ワーグナーは、この上演を聴きにワイマールまで来たがったが、ドレスデンの劇場から休暇が得られず、参加はできなかった。翌年、リストは、ワーグナーの大作「ローエングリン」に挑むことになった。ワーグナーは、この大作を完成後、ドレスデンでは初演にこぎつけず、2年も放置されていただけに、その知らせを受けて狂喜した。リストは、ワイマールをワーグナー音楽のメッカの地にしたかったのである。
リストとワーグナーは、極めて緊密な友情関係を保ってきた無二の親友であったが、リストにショックを与え、悩ませた頭の痛い問題が起こった。
それはリストの娘コジマが、夫のハンス.フォン.ビューローを捨てて、ワーグナーのもとにはしり、一緒になったことである。1865年ミュンヘンで生まれたコジマの第三児イゾルデ、1867年に生まれたエーヴァも、ビューロの子として出生届けが出されているが、実際はワーグナーの子であるという。1869年にはジークフリートを出産するが、こちらは、ワーグナーの子として届けられている。コジマとビューローは、同年に離婚が成立し、翌1870年ワーグナーとコジマは、正式に結婚式をあげることができた。


リストの娘コジマ 1880年、リスト、ワーグナー夫妻を訪問
長い間絶交状態だったリストとワーグナー夫妻だったが、1872年再三にわたる要請に応じてバイロイトを訪問したリスト。これによって親子の和解が成立した。
リストは、このときの心境をローマのカロリーネにあてて綴っている。
「ワーグナーの天才は、高い所にあるのです。それを遂行するためにはコジマの愛が必要だったのでしょう。それ以上は私にもわかりません。」
1882年、私宅における日曜コンサート
ワイマールのリストの私宅では、時折、日曜コンサートが開かれた。宮廷関係者、貴族、弟子たちが集まり、リストのピアノ独奏は始まった。
その音色を聴いた人々の感想は、次のようなものだった。
「私自身もピアニストのひとりだが、リストの音は、決して大きな音ではないが、彼が弾きだすと、これが同じピアノの音色かと思う。同じピアノでありながら、今まで聴いたことのない音になってしまうのである。」
「彼の前にも後にも彼に例えられる演奏はあり得ないであろう。私がまだ子供の頃、ある晩ローマで彼のショパンのノクターンや、彼自身のエチュードを数時間にわたって聴いた事があるが、彼のタッチの柔らかさと繊細さには、ただ驚くのみであった。」
「リストが若い時のあの絢爛たる演奏は誰もが知っているだろうが、彼が36歳の時以来のピアノの演奏は慈善の目的以外は全く辞めたあとも、彼のテクニックは少しも衰えていなかった。」
1882年のリストの印象
「リストの風貌や性格は、簡単には説明できないが、彼は背が高く、やせ型で、眼がくぼんで眉毛が濃く、白い長髪は、彼の口元まで届いていた。笑う時の口許はメフィストフェレスを思わせるところがあった。手の幅が狭く、指が長く普通の人の倍ほどにも見える。それが、柔軟でいつもよく動いていて、神経質にもみえた。
彼の態度は常に丁寧で、劇場などで立ちあがる時などは相手がレディ等の場合、別れに際して手を胸に当て、軽くお辞儀をする。それは、気取りではなく、本当に敬意を表しているのである。彼の表情の変化は、形容しようもない。夢想的だったり、瞑想的だったり、悲劇的にみえたかと思うと愛想よくもなったりする。外で人に会ったときには、相手が誰であっても、君主に対するように礼をつくすのであった。......彼は、常時足まで届く裾の長い神父服を着ていて、彼の魔法の杖によって、われらをほしいままに変えさせるような力を持っているようだった。」
リストと日本
1883年1月1日伊藤博文はワイマールに着いた。憲法の研究の旅である。 伊藤は、ワイマール大公と知り合いだったため、2日間滞在し、大公から夕食と夜会に招かれた。
42才の伊藤は、当時73才のリストとその演奏に強い印象を受け、「あの者をわが国に連れて帰って西洋音楽の指導をさせたい」と言ったらしい。
それを聞いた西園寺公望が「とんでもない。あの方は、高齢だし国宝級の偉い音楽家だから無理だ。」とあわてた。
「それなら、四国のひとつくらい与えて、四国の守にすればいい。」 この話は、リストに伝えることなく立消えになったが、明治時代の日本は、それからやっと、奇妙な西洋文化を取り入れた鹿鳴館時代に突入するのである。
バイロイトでの最期
1886年、リストはバイロイト音楽祭、7月23日の「トリスタン」25日の「パルジファル」を観るためにバイロイトに向かう。25日のパルジファルを観たその夜から体調が悪化。26日から起き上がることができなくなり昏睡状態に落ち入っていった。肺炎をおこしていたのだった。夜を徹してコジマは看病するが、31日の夜リストは帰らぬ人となる。
1883年の手紙でリストは次のように書いている。
「死は生きることよりもはるかにやさしい。その死がたとえ激しい苦痛を伴っても病気が長引いても、死んでしまえば、苦痛も生存からも解放されるからだ。ただし、宗教はわれらの心の血を流しながらもそれを和らげてくれる。」