愛を剥ぐ

                                                        夜啼き鳥


 加山悟は四十の坂を目前に、担当課長としてこの施工管理にやってきた。課長といっても管理職には程遠く、他の課員と共に、施工管理の仕事をするだけだ。残業手当てが出ない分報われない。無論、誰もが通らなければならない道筋ではあるが、この部署からの出世は見通しが暗い。通例、方々の部署を回って役に立たなかった定年前の者が最後に安息を得る地なのだ。
 加山は名の通った私学の文学部を出た。就職は取りたてて熱心にやったわけではない。山のように送られてくるダイレクトメールを適当に読み、それなりの情報を蓄積したに過ぎない。この通信工事会社に入社したのは、特に理由はない。強いて言うなら、面接の際、四大の文系学生にやけに愛想がよく、内定が早かったことくらいだ。就職後は各工事現場に配属になる。もちろん、電気系の技術を完璧に習得するなど無理な話なので、おざなりに終わる。工事長も戦力とみなしてくれない。
 加山は運良くなのか、管理部門の内勤を数年続けた。電気工事会社として、官に寄り添って半世紀近く生きてきて、一部上場も果たしたが、天下ってくる老害の者をかわしての出世はままならない。しかも、工事会社であれば、現場と設計が出世の本道でありながら、加山はそのどちらとも関わりがなかった。後は海外事業部で砂漠や灼熱の大地の風に吹かれるしか道はないのに、それも決め兼ねてずるずると今の地位に甘んじてしまった。結局、関わったことのない部署同士を結ぶパイプ役だ。パイプの中に入ってする仕事は一つしかない。パイプ掃除の日々が過ぎていく。
 午前中、森山朝海に頼んでいた仕事は定時退社近くに受け取った。朝海は今日も一時間ほど遅刻し、働いている。今ごろ書類を貰っても仕事にならない。前任者の佐伯が抱いていた鬱屈が、今の加山にはわかる。加山は危険工程工事の立ち会いで、外出が多いため、勤怠を思うようにチェックできない。はっきりと管理職でいいのなら強いことも言えるのだが、今の立場では舌鋒はきわめて甘い。加えて、彼女が無能であるならなんとかできようにも、気まぐれではあるが、やる時は有能にやるのだった。ファイルの整理など見事だ。聞くところによると、正式な就職をしたことはなく、専門学校を卒業してしばらく遊んでいて、うちの会社に派遣社員として働き始めたらしい。入れ替わりが激しいここでは、彼女が一番の古株になってしまった。
 加山が帰宅すると、妻は義母、娘と夕食を終え、寛いでいた。横になってテレビを見ている。ジーパンのファスナーを半ばまで下げ、その間から白い肉がはみ出ている。お帰りなさい、とテレビを見ながら言った。しばらくして、食事の残りが炬燵テーブルに並べられた。皿が新聞チラシの上にのっている。そばに髪の毛のついたブラシや、濡れた台布巾、娘のリリアンなどもテーブルに出しっぱなしだ。注意をすれば片づけるが、改まることは決してない。加山はビールを飲み始めた。隣でまた妻は横になり、眼を閉じている。いつものことだ。片づけをせず、まどろみの消えぬうちに二階に上がり、そのまま朝まで眠ってしまうこともしばしばだ。
 義母は加山の帰宅後よほどのことがない限り、階下に降りてこない。こうなってから随分経つ。ここは義母の家だ。離婚の慰謝料として貰ったものらしい。妻との婚約を機に同居に応じたのだが、今は厄介者扱いだ。どの辺りが二人の関係の分水嶺だったのか、定かではないが、娘の育児が大きかったことは明らかだ。義母は半歩たりとも引くことを知らない。こちらが引けば引くほど、自らを主張してくる。
 ぶつかり合いが始まると義母の言葉はすべて捨て台詞となるのだった。議論の端緒において箍を外し、呪詛の言葉を吐き出す。出てって下さい。ここ、あたしの家だよ、もう、なんでそんなこと言われなくちゃならない。今すぐ出ていって下さい。土気色の眼窩の落ち窪んだ痩せた顔でそう言われると、怒りよりも暗澹とした気持ちになる。これまでにそれを二度やられた。
 妻は肘枕で眼を瞑っている。自分と同じ歳とは思えないほど童顔で皺もないのだが、それは多分に内側から押し返す脂肪の効用によるものだ。出会った頃の妻を思い出す。当時はやりのサーファーカットで、紺のスラックスがすっきりと似合っていた。あれから妻は少しづつではあるが絶え間なく肥っていった。義妹の話だと、痩せていたのはあの頃だけらしい。いまだに妻の高校時代の写真を見ていない。最近、あの白い肉の全貌も見ていない。もうすぐ起きて二階へ行くだろう。加山はじっと妻を見た。目の前の彼女が現実味を失って迫ってくる。ああ、よく寝た、と言って、十年来、纏いつづけた脂肪の襦袢を脱ぎ捨てて起き上がってくるような気がした。
「ああ、眠い。ごめん、先寝るね」
 妻が眠気を大事に抱えて二階へ上がった。
加山はビールの軽い酔いに包まれて、朝海のことを考えた。佐伯が言っていた、キャラクターという言葉が頭に浮かぶ。この無機質ですんなりと人の心に入り込む、その実なにを示しているかよくわからないカタカナ語を味わってみる。男が彼女に抱く錯綜した感情を背後に隠した言葉だった。加山はさらの状態から朝海に接して、そのキャラクターの付随物を間近に見てきた。
 彼女は本を読まず、映画を見ず、絵画を鑑賞せず、音楽を聴かず、少年アイドルにうつつを抜かさず、トレンディドラマに呆けず、しかしあるがままに存在していた。人は代替物なしで生きていけないというのに、彼女は現実に充ちている。
 現場、本社、客先で彼女の名の知れていないところはない。彼女が電話を取ると必ず雑談が始まる。ひとしきり彼女の笑いが事務所に響いた後、本来の相手の名が呼ばれる。携帯電話がいつも震えて、内線電話で内緒話を繰り返す。席が暖まる暇がなく、煙草を吸い、階下の設計の連中に軽口を叩きに行く。用事にかこつけてビル内の若い男がやって来て話をしていくが、特定の相手ではなさそうなのだ。
 朝海はしっかりした造作で女っぽくないと感じていたが、それは時を経る毎に印象が変わってくる。裡から女が滲んでくる。ラズベリー色の厚い唇は下品になる直前で、反り気味の角度が救っている。決して完全には閉じることのない唇が艶っぽさを醸している。上唇と皮膚の間の微妙なところに黒子がある。黒子は鼻の頭とその脇にもある。唇の横は締まっていて、信じられない角度で削がれ隙もない。大きな眼が見開かれ、眼下の肉の盛り上がりが、表情に奥深さを与えている。産毛の濃い額はひいいで、陰影のある顔に仕上げている。黒髪を茶に染め、そのグラデーションが見る者の眼を楽しませる。そして、その表情が破願によって一変する。横に引かれた唇から白い歯が見え、頬に丸みが加わると若さが弾け、気持ちが吸い込まれてしまいそうになる。しかし、そんなことより何より、彼女の魅力は人格のどこにも傷らしいものがないところだ。心が萎縮していない。それが表情に現れている。
 加山は二缶目のビールを飲みながら、ふっと笑いが洩れる。俺は朝海のキャラクターを知るのに一年も掛かってしまった。ちょっとずれているのかな。首にする気はなくなっている。どだい無理だ。誰かがどこからか反対する。
 今年のレクレーションには朝海を連れて行くことになりそうだった。工事会社の社員旅行は予算だけ貰う自主参加なので、この指止まれで集まった仲間が旅行を自由に企画して行く方式を取っている。それをレクと呼んでいるが、今回は派遣の女の子も連れていってやろうということになった。伊豆稲取らしい。朝海の普段の姿を見るのも一興か、と加山は思った。

 宿は温泉街を抜けて、海岸沿いに建てられた観光ホテルだった。社員旅行にうってつけだ。最上階の風呂で汗を流すと、すぐに宴会となった。加山はどうしても朝海に眼がいってしまう。カラフルなグリーンの浴衣に包まれた朝海は妙に柔らかく見えた。自在に仕切られる大広間で十二人の宴は少し寂しく細長だ。六人ずつ向き合い、上座に今時はカラオケセットが鎮座している。車中の酒が残って、箸は進まない。飲み放題なのに酒は減らず、酌のし合いも十二人では多寡がしれている。勢い女の子の一人がカラオケを歌い出すと、すんなりカラオケ大会となった。隣の歌声とどうしても張り合う形となり、予想外に盛り上がった。
 加山は酔いも手伝って、朝海とデュエットしたくなり、強引に曲を予約した。始まりから頑なに歌うのを拒んでいた朝海だが、仕方なくマイクを握った。加山は戸惑いの朝海をリードし、調子を取るため、彼女の肩に手を掛け、軽く叩いた。彼女はしきりに手の平の汗を気にしてマイクを持ち替えている。彼女の息遣いが直に伝わり、仕事中にない可愛らしさを加山は感じた。カメラのレンズが向いているので、顔を寄せた。鬢のほつれから女が沁みだし、加山の鼻腔を擽った。
 宴会が終わり、そのままロビーの横にあるサパークラブに流れた。面倒がなくていい。若い頃はこういう流れを忌み嫌っていたが、この歳になると王道の趣に感謝したくなる。天井が高く、大きなステージがあった。他のグループがおらず貸切状態で、みんな次々とカラオケの曲を入れていく。加山も一つ入れた。遅れてきた、朝海と同じ派遣の吉田が、加山に耳打ちした。
「朝海ちゃんが隣の宴会のおじさんに掴まっちゃって大変なんですよ」
「え? それで」
「でも大丈夫、斎藤さんにたのんだから」
「そう」
 加山は今更ながら朝海も斎藤もいないことに気づいた。心配になってくる。
 加山が一曲歌い終わった頃、朝海がやってきた。そして安心する間もなく、そのおじさんと思しき人物が後を追ってきた。朝海と何か話している。するとあと二人、男が加わって朝海を隣のテーブルに連れて行ってしまった。女の子達が引き止めると「取って食うわけじゃないから」とかわした。加山は無礼に唖然とした。朝海は話にしきりに笑っている。三人の男の笑いが、暗い翳の中で、邪悪に光る。周りに重い空気も漂ったが、すぐに消えた。みんなはなにもなかったようにカラオケに興じている。加山は次第に息苦しくなっていった。自分自身不思議な感情だった。風のような喪失感が過ぎていった。
 ごま塩頭で、分別のある べき五十代の男である。今は二人の男もいなくなり二人で密やかに話し込んでいる。カラオケの音響がその意味をなくし、大きなうねりとなって加山の頭の中で反響した。
 宴会場の通路でほんの数秒見掛けただけで、女性をこんなにまで執念く付き纏うだろうか。朝海の表情を見る。隣の部長はどうやら動く気がないようだ。曲が終わり、ひときわ歓声が上がる。必死に手招きしても、朝海は笑っているだけだ。だんだん加山の中で感情が吹き上げてくる。
 加山は早めに動いた。このまま我慢を重ねれば、双方の会社を交えて、大変なことになる。「森山さんちょっと」と男を見ずに言った。朝海は少し躊躇ったが加山について店の外に出た。朝海は大丈夫を繰り返している。しばらくして男が悠然を気取って横を通り過ぎ、隣のスナックに消えた。加山は彼女を守る仕種で肩を抱いて引き寄せた。普段の印象と違って肩甲骨の辺りが華奢で、力を込めた腕にそのまま従う朝海の躯に加山はおののいた。
 二人並んで白木のベンチに座る。加山は少し、型通りの意見を言う。朝海は性格上どうしても親父を邪険に扱えないと言う。そんな朝海を加山はいとおしいと思った。単純にこうして二人きりで話せるのが嬉しかった。
 戻ってカラオケに加わった。大丈夫? と女の子達が朝海を迎える。
「うん、加山さんに肩抱かれちゃってゾクッとしちゃった」
 それを耳にして加山は、ほんの少しでも気持ちが通い合ったことに幸福を感じた。いい音響設備で今までにない心地よさで加山は何曲か歌った。ウイスキーの酔いが程よく回った頭で、思った。あの男は一人にさせられ、いたたまれず席を離れた。悠然を装った横顔にも大人のあるべき羞恥が見られた。初見の数秒で相手を魅了する森山朝海とはいったいなんなのだろう。その彼女の魅力に自分は今まで気付かずにいた。ステージの上で朝海は踊っている。浴衣の胸元が少し乱れて、焦点の定まらない潤んだ眼で上気した顔を宙に向けている。加山は何かを置き忘れたような焦燥感に包まれていた。
 宴が終わる頃、また朝海が動いた。加山はどうしても気になり席を立ってしまう。出口で誰かと話している。あの男かと思ったが違っていた。さっきまで夫婦でカラオケを歌っていた夫の方だ。加山は苦笑した。ふっと気が抜けた。
 朝海はロビーに煙草を買いに行ったようだ。加山はその後を追う。
「森山さんさあ、十一時頃さあ、話あるんだけど部屋から出てきてくれない?」
「え、いいけど、私時計持ってないからわからないかも………」
「じゃあ、今いい?」
「いいよ」
 そして二人は近くのゆったりし過ぎるソファに並んで座った。
「さっきは御免ね。余計なことしちゃって。俺さあ、なんか堪らなくなっちゃって」
「え、なに、そんなこと気にしてたの。全然、助かったよ」
「いやあ、なんかさあ、森山さんのことさあ、最初は憎たらしい女だと思っていたんだけど、最近好きになっちゃってさあ、参っちゃってるんだよ」
 朝海は加山の言葉の、後半より前半に強く反応したみたいで、しきりに、女の子との付き合いが苦手で、男とばかり付き合っていたこと。前の彼氏と別れて、その友達と遊んでいたことなど、早口で喋る。でも最近吉田さんと飲みに出かけたり、そこでも親父に酒を奢られたりすると言って、だからさっきみたいことは馴れてるからどうって事ないなどと、脈絡から外れて喋った。
「最近さあ、近くに寄るとさあ、ドキドキしちゃうんだよ。俺ばっかりさあ、ドキドキするのも癪にさわるからさあ、森山さんにも、一応、知らせといて……」
「ドキドキするってどういう……え、じゃあ、個人的に好きだってこと」
 以前印象悪かったけど今はなかなかいい、なんてことを改まって、二人っきりで言ったりするか、加山は歯噛みした。
 その後も朝海は、よく喋った。放っておけない感じとよく言われるとか、あんまりもの考えてないからなどと言って笑いを上げた。
 加山はもっとしっとりと話をして、肉薄したい気持ちなのに、朝海の饒舌に呑まれて気持ちが退く。みんながカラオケを終えて、一群で出てきた。満足感が漂っている。朝海は忘れ物を取りに戻る。加山も追う。誰かに捉まりそうでたまらないのだ。朝海は魚のように、加山のそばをすり抜けていく。
 部屋に戻って消灯しても独り眠れず、悶々とする。鼾が部屋中に唸っている。加山は部屋を出、非常階段の踊り場の囲いに肘を付き、暗い海を見ていた。荒れてはいないが、海岸が岩場で潮騒が大きかった。言葉足らずではあるが告白などしてしまい、昂ぶりが時間差を伴って今ごろ、心を占めている。きっかけはどうあれ、彼女への気持ちに嘘はなかった。もうすでに遠い彼方に置き忘れた感情を思い出してしまった。その点、朝海に感謝する気持ちがあるが、一方で心塞がれる思いもある。今のこの肉体に青春の熱い感情は毒であると予感が走る。
 翌日は見事な秋晴れだった。
 目の前の水槽の中でゆったりと倣岸に泳ぐアロアナを見つめ、加山は朝海と二人、並んでいた。アロアナはピンクに妖しく蛍光する鱗を翻らせ、巨大な躯で繰り返し水を掻き混ぜる。加山はアロアナのエロティックな姿態に刺激され、隣の彼女を盗み見る。半袖からでた二の腕に産毛がムラに生えている。薄い茶の染みのような模様があり、毛が渦を巻いている。真っ赤なTシャツの見事な胸のふくらみを見つめる。硬いブラジャーに覆われ、その微妙な起伏は掴み取れないが、豊かであることはどうにも隠しようがない。加山は気付かれないうちに視線を水面に戻し、蛍光ピンクの縁取りを眼で追った。
 彼女は携帯電話に出ながら、階段を上ってくる。昼休みの彼氏からの電話だ。笑顔で、旅の出来事を話している。彼女は今、まったくの外界と繋がっている。強い嫉妬が加山を包み込む。彼女の肩を引き寄せた時の感触を思い出す。思いの外、肉付きがなく、骨の硬さが直に伝わってきた。今日の帰り、待ち合わせをして部屋へ行くのだろう。あの年代の男が、彼女のように魅力的な肢体を黙って見逃せる筈もなく、濃密な行為へと展開して行くのだろう。加山は妄想に身悶えて、その思考が外に漏れるのを訝った。
 嫉妬は東京に戻ってからも続いた。他の男が彼女に近づくと気になって仕方ない。これまでなんでもなかったことが、我慢ならないのだ。朝海への電話に聞き耳を立てている自分にはっとする。仕事上の会話と、彼女への欲望の部分が明確に区分できるようになった。欲望の部分が膨らみ過ぎる会話を聞いていると、自分でも押さえ切れないほど切迫するのだった。
 朝海には彼氏がいる。それは明確だ。客先との飲み会で、二次会まで付き合った夜中、家まで帰れるかと訊いたら、渋谷で友達とゲームセンターに行くと言っていた。こんな酔っ払いとゲームをしにわざわざ来る友達はいない。その後、客先の派遣の子と一緒に井の頭線に乗ったと言っていた。彼女の家は新玉川線だから彼氏の家に泊まったのだ。最近割合、遅刻せずに会社へ来るのは通勤が近くなったからだ。着てくる服が三種類くらいしかない。スーツやコートなどのクリーニングを幾つも抱えてフロアを走っていた。
 会社では一人一人にノートパソコンが支給され、LANで繋がっているが、社内連絡用に付箋紙というソフトを使っている。電話回線を使わずにメールが送れるのだ。朝海の付箋紙送信用ファイルを開いてみる。似顔絵と愛称で送付先が登録されている。その中に社員番号だけの、味気ない送付先が一つだけあった。その番号を控え、社員名簿ROMで照会してみる。瞬時に検索が終わり、一人の名と顔写真、最低限の経歴が覗けた。
 新実俊也、二十七歳、首都圏第四エンジニアリング部所属、となっていた。加山はしばらくの間、自分達の世代にはない顔立ちの青年を見つめていた。負けたとか勝ったとかではなく、違うと思った。加山は自分のやっていることに歯止めが利かなくなるのではと惧れ始めた。
 森山朝海は二十四歳になる。世田谷の食料品店に生まれた。短大まで続く女子校に通い、短大にも行けたが、なんだか面倒くさくて専門学校に行った。趣味は走り屋の隣に乗ることだった。車は爽快だった。朝海はどんなにスピードをあげられても怖くなかった。仲間は別に暴走族ではない。飛ばし屋のドライブ仲間だ。朝海はリーダー格のマスコット的存在としてあり、だれも手を出してはこなかった。というより、仲間内でくっついたりするのは恰好悪い雰囲気ができあがっていた。精一杯おしゃれをして出かけたが、どこかに不備があると必ず誰かが、身につけるものを買ってくれた。
 女が大嫌いだ。じめじめした関係を思っただけでうんざりする。だから朝海はいつも男と遊んでいた。それをひどく言う奴もいたけどそんなことはかまっていられない。私の人生なのだから。仲間の部屋にも何度も泊まった。でも私を大事にしろというお触れが出ていて、なにも起こらなかった。よく私が男のベッドで眠り、男が床で眠っていた。私は別にそうなってもよかったんだけどそうはならなかった。
 学校を出ても就職はしなかった。しばらく店の手伝いをしていたが、退屈なので派遣社員として通信工事会社で働いた。そこは定年前の親父ばかりだったけど下の階の設計に同年代の男の子がいてすぐ遊ぶようになった。車を持っている子もいたし、飲み会も愉しかったから別に不満はない。飲み会で女の子は私一人なんてこともあったけど関係なかった。そこに課長として加山がきた。加山は冴えない男だったが、長身で猫背の躯を揺すって歩く姿に好感が持てた。社員旅行の夜だった。よくあることだけれど、隣で宴会をしていた親父がじっと私を見ていた。私は知らない振りをしていたが、若い男が声を掛けてきた。添乗員だという。一緒に飲もうと誘ってくる。会社の旅行ですからと断ってもしつこい。親父も近づいてきてにやにや笑っている。若い方が浴衣の袖を掴んで離さない。怪しいものではない、と名刺を差し出す。こんなもの貰っても仕方ないけど、袖の中に入れた。
 女の子達も先に行ってしまった。ここまでされると逆に可哀相になってくる。別に酒の席に座るくらいならいいかと思い始めてしまう。でもやっぱり今日はまずいだろう。後でまた、と言って強引に振り切った。
 クラブで合流すると、すぐにあの三人が来て隣の席に連れていかれた。加山が私をじっと見ている。親父はしきりにこっちの会社名を気にしている。自分の会社との格を気にしているのだろうか。電話番号を聞いてくる。長野の会社だというのにそんなものを知ってどうするというのか。私はこういうことで嘘が吐けない。さすがに携帯は教えなかったが会社の番号を教えた。
 ふと見ると加山が目の前に立っている。呼んでいるらしい。手を引かれて店の外に出た。助けてくれたのだ。強く肩を抱かれて引き寄せられた。振り向くとさっきの親父がいた。加山は背が高いけれど、か弱く感じていたが、意外と逞しく、包み込まれる感覚があった。

 安田が朝海の携帯に電話した。どうやら狭山工事長が、朝海をレクに連れて行こうと言ってるらしかった。
「躯一つで行けばいいんだから。全部面倒見てくれるって。誘われているんだから素直に行くんだよ。……じゃあ、行くって言うことで一応話をしとくよ。うん、帰ってくるんでしょ。はい、じゃあね」
 躯一つでという言葉が加山の腹に響く。話は決まってしまった。安田は都合で今回の旅行には行けなかった。四十二年会社に奉公し、平社員のまま、半年後に定年退職する男だ。反応が短絡的で、中学生くらいの精神構造で成長が止まっている。粗野で単純な男だ。朝海を連れていったのが面白くないらしい。私に意趣返しをしようというのだ。
 朝海は意外と早く客先から帰ってきた。朝海の表情を伺うと、私の視線に無表情で答えている。
 旅行へは行く方向で話をしている。朝海に纏いつく視線が加山の脳裏を過る。加山も同様の黒いものを持っている者として必要以上に鋭敏に感じ取れる。
 残業などしたくないのに、加山は朝海が帰るまでは椅子から動けなかった。やっと朝海が腰を上げた。職場の女王様のご帰還だ。女の子たちにも旅行のことを言って、にこにこ笑いながら、「お先に失礼しまあす」と弾んだ声で加山の前を通りすぎた。思い入れを込めて、「気をつけて」と言ったが、なんだかそれは、腑抜けた男の響きをもって自分の耳に聞こえた。
 当然、朝海は無事で帰ってきた。旅行の話を楽しそうに話す。加山はまたそれが悔しい。自分の気も知らないではしゃいでいる朝海が憎らしいのだった。嫉妬に憎しみが加わり、加山の心情を複雑にした。そしてそれが加山を朝海に深く関わらせた。
 残業で加山は朝海と二人きりになった。軽く旅行のことなどを話し掛けていた。話の中で、加山の「この前のことは置いといて」という表現に朝海が、少し過剰に反応し、口調が変わった。
「奥さんとお子さんのことどう考えているんですか」
 課長が根掘り葉掘り旅行でのことを訊いてきた。私は好意を告げられたことも宙ぶらりんになっていたし、自分だって妻子がありながら言い寄っていることが癪に障って、つい言ってしまったのだった。
 課長は最初黙っていたが、しばらくして話し始めた。
「森山さん、きっかけはどうあれ、自分の言ったことには男として責任を持つぞ。私の覚悟を訊いてしまった後、ああそうですかだけでは済まされないんだぞ」
「どういう意味、ちょっと違くない?」そうは言ったものの、私の声は微かに震えていた。課長がゆっくりと近づいてくる。
「立てよ」そう課長はぶっきらぼうに言った。
 この誰もいない夜のオフィスで、立てよという言葉は脱げよという言葉に聞こえた。いいなりにゆっくり立ち上がると、寒気のような電気が背中を走った。課長は私の二の腕を両側から強く掴み、すぐに抱き寄せると耳元で「君のためならなんでも捨てる。好きだ」と囁き、素早く唇を奪った。強く吸われる唇。私は、脱げよ、と聞こえたのと同じに意識の中で裸になっている自分を感じた。
 朝海は帰り道、電車の乗り換え駅で迷っていた。久し振りに実家に帰ろうか、と思っていたのだが、その気も失せた。彼の家に今日も帰ろうと思う。自分の中で、彼の前に出た時にどんな態度を取るか、興味があるのだ。あのなんだか訳のわからないくちづけには不思議なものが秘められている気がする。あの加山が、あんなことをするなんて、なにか鬼気迫るものがある。どうしてしまったのだろう。朝海は漠然と引き戻せない領域に入ろうとしているのを感じた。
 自分がさっき中年に差し掛かった男にくちづけされたことなどまったく知らず、彼はいつものように仕事を終え、寛いでいる。そのいつもの光景が不思議に映った。
 日曜の夜、朝海は彼氏に別れを告げた。突然、テレビ番組のコマーシャル中にだった。冗談とは思わなかったようだ。朝海の言葉がじっくり彼の躯に染みていくのが見て取れた。眼が見開かれ、顔が歪んだ。どうしてを繰り返した。彼が無様に見えた。終始、許しを請う態度だ。彼はなにも私に悪いことをしていない。なのになぜ私に謝るのか。私は憮然と返事をしていた。殴られるだろうと思った。それでもいいと思った。月曜と火曜を二人は休み、部屋に閉じこもっていた。触れあわなかったし、食事もしなかった。私は逃げずに最後の時を彼と過ごしたかった。ただそれだけだった。
 朝海は二日間無断欠勤をした。水曜日何食わぬ顔で会社に出てきた。加山には一言もなく、溜まった仕事をてきぱきと片づけていた。やはりあんなことをしなければよかったか。でもあの実直な行動は自分でも心地よかった。どうなるだろう。セクハラで訴えられるのか。
 廊下ですれ違う際に、朝海は、加山の前で立ち止まると、きっぱりと言った。「彼氏と別れてきました」。その怒ったような口調に、最初なんのことかわからなかったが、じわりとその意味が躯に広がり、悦びが湧いてきた。
 加山はどうしていいかわからなかった。唯一の拠り所は、これまでに学んだ、スープは冷めないうちに飲め、ということだった。この会社で十五年も続けたへまを繰り返してはいけない。目の前にある現実に対応するのだ。理由は後から考えればいい。最寄り駅のラブホテル近くまでタクシーで行き、二人で蘇鉄の鉢植えがある玄関を通り過ぎた。
 欲望が滴って堆積しているような部屋で二人向かい合った。ベッドは壁にぴったりと付き、その横でお互いが服を脱ぎ終えたら、後は倒れこむしか術がないような狭さだった。
 シャワーを浴びた二人は腕を差し伸べ近づいた。裸の朝海はいつもと印象が違っていた。一回り小さくなり凝縮したように見える。自然に広げた髪が豊かで、顎を引いて見つめる朝海の表情が妖しかった。ゆっくりと朝海を抱きしめた。他愛もなく縮んでいく彼女の躯を感じながら、豊かな胸が裡から若い力で押し返すのを、加山は心地よく思っていた。腕の中のそれが、物体としての存在を超え、なにものかになってしまっていた。
 肌を合わせ、あらゆる個所を辷っているうちに、加山のものはしっかりと充実してくるのだった。唇が心地よい場所を過ぎ、潤んだ個所に至る頃、朝海は初めて声をあげた。電話で相手のジョークにあげる掠れた甲高い声だ。しかしこの状況で聞く者は数少ない。朝海の中は素敵だった。動きを敏感に感じ取り、すぐに全身で反応するのだった。背中を反らせたまま、呼吸をしばらく止めて、何かが通り過ぎるのを待っていた。
 課長は最初の夜、興奮していた。いつまでも私を舐めまわして放さなかった。そして挿入し激しく動くのだが、どうしても私には物足りなかった。課長はその夜三度果てた。
 行為の余韻は過去の睦み合いを呼び寄せた。走り屋に嵌ってしばらくした頃、いっしょに走りに行くのにいつも気がつくと一人になっている男がいた。それが泰志だ。そのどこを見ているかわからないさびしげな瞳を見つけてはみんなの方へ引っ張ってきた。私にはやはり奢りのようなものがあったのかもしれない。いつも座の中心で、私の口にした遊びにみんなが従っていた感じだったから、泰志の気のない態度が気に入らなかったのかもしれない。
 そのうち私は自分が喋った後、泰志の反応を気にしている自分を発見するようになった。泰志は十九で予備校に席を置いていたが、行ってなかった。原宿で中古車販売のブローカーの手伝いをしていた。在庫を置かずに個人売買の仲介をする仕事だ。しばらくして高校をサボり、昼間原宿でお茶するようになった時、一度そのオフィスビルに寄ったことがある。小さなオフィスの寄り集まりで、受付のきれいなお姉さんが、各オフィスに内線を掛けていた。大人の世界を垣間見た気がした。泰志とは走りの時以外にも二人でドライブするようになり、私はその頃から彼に夢中になりつつあった。彼は無口であまり喋らなかったが、話をする時は言葉が唇から零れるようで私はうっとりと見つめていた。彼の口にいつもあるのがマルボロライトで、私もそれを吸うようになった。私は彼の言葉を待っていたけど、本当を言うと二人が車の中で言葉を見失った瞬間が一番幸せだった。渋谷のゲーセンでよく待ち合わせをした。そして空いている高速を飛ばすのだ。嫌なことがあっても彼に合うとすべて消えてしまうのだった。
 ある時、私が飛び込むようにして彼に抱きしめられた時、体中が熱くなって息ができなくなった。そんな私を感じても彼は一線を超えようとはせず、私に追従するのでもなく、本当のことを言ってくれた。時には強く叱りもしてくれた。私はなんでもよかった。私の体だけが目的でもよかった。彼が必要だと思った。
 随分後になって、彼と湘南のホテルで一つになった時、女の体とはこんなにも甘く溶けることができるのかと変な感心をした。痛みや彼の動きも忘れて、目の前の彼の顔を見つめていた。手で触れて、頬を撫でた。吐息が交じり合い、眼を瞑ってもきらきら輝く光の粒がとまらなかった。
 加山芳子はこの日が来るのを予測はしていた。夫には女がいるのだ。夫は飲食以外の目的で、夜の街に出歩くタイプではないから、会社の女の子だろうか。夫は私に本気で隠そうとはしていないようだ。遅く帰宅して、飲んできたと言う割には酔っていないことが度々ある。夫の酒は同じペースで最後まで進む酒だから、時間から逆算して、飲んでいる量が少ないのだ。疑いの思いで酒の席の様子を訊くと、話の中身とそれを語るテンションにずれがある。いろんな話を寄せ集めた印象だ。髪に残る香料の匂いは、今朝つけた整髪料とは思えない。
 家計簿に挟んでいたチラシを抜く。沿線のアルバイト情報のチラシだ。その中に場違いな探偵社の広告が載っていた。浮気調査の文字だけが大きい。需要が多いのだろう。私もそれで眼に留めたのだから。もう一つ眼を引くことがあった。見積り無料と書いてある。リフォーム専門の建築会社みたいだ。今朝から何度か電話に手が伸びているのだが、ダイヤルを押すまでには至らない。家計簿に眼がいって、今月は結婚記念の月だった事に気づく。十二年になるのだ。思えばこれまで一度も女関係の揉め事がなかったことの方が不思議なのかもしれない。恵が生まれてから夫の求めに満足に応じたことがなかったような気がする。最初のきっかけは子供を産んで以来、肥満に歯止めが掛からなくなったのを夫に詰られたのが原因だったろうか。肥満か、芳子は自分のこれまでを一言で言うなら肥満という言葉以外ないような気がするのだった。
 東京中野で二人姉妹の長女として生まれた。物心つく頃は、すでに父親が事業を始めていて、けっこう裕福だった。中野で一軒家に住んでいたし、車も持っていた。いつも新しい電化製品があり、休みになると綺麗な洋服でどこかへ出掛けていた。
 しかし、両親は喧嘩が絶えなかった。小さな私達二人には、その原因はわからなかったが、今思えば、父の浮気と、生活全般に渡る意見の不一致であった。実際、二人は何から何まで似ておらず、どうして二人が結婚したか不思議だった。
 その理由の一端なりを知ったのは、長じて叔母に話を聞いた際であった。父は岩手の片田舎で妾の子として生まれた。長く母子が保護されることはなく、貧窮の底にあえいでいた。そこでどういう経緯なのかわからないが、母の実家が、父の面倒を見ることとなった。父はその家の長女である母と同い年だった。父は頭が抜群に良かった。田舎の学校とはいえ、学年で彼にかなう者は皆無で、二番目に大きく水を開けていた。生活を共にしていた者同士に愛情が生まれてなんの不思議もないが、父の心に、生活の引け目がまったくなかったとは言えないであろう。
 父はあまりある才を持ちながら、高校へは行かなかった。母は半ば当然、高校へは行かなかった。二人の人生の行く末に、田舎は呪縛以外のなにものでもなかった。二人は駆け落ち同然に上京した。父は小さな電気工事会社に勤め、東京での生活が始まった。
 父は、瞬く間に、仕事の概要を覚え、より効率のよい仕事の進め方を習得した。そして、同様の電気工事会社を立ちあげたのだった。思うにそれが小学校の低学年だったのだろう。妹がまだ保育園で、とても可愛かったことを覚えている。生活がすぐに派手になっていった。家。車。電化製品。外食。父の遅い帰宅。絶え間ない口論。
 しかしそれも長くは続かなかった。父には、小さなことですべてを放棄する癖があった。会社も少し梃入れすれば父の力をすればどうとでも立て直せるものを、プライドが許さないのか身を引いてしまうのだ。そして生活が元に戻ってしまう。いや、贅沢の癖はすっかりは抜けず、どうやらどこかからお金を借りて暮らしを立てるため、すさんだ気持ちが私たち姉妹にも影響を及ぼす。このまま私達は駄目になるのか、と思った。そうなればよかったのかも知れない。そうはならなかった。父はまた同様の会社を起こし、まんまと成功してしまうのだ。派手な生活が戻ったが、生活の底に重奏低音のように、憎しみが横たわっていた。
 中学に入った頃、両親は別居し、母とともに女三人で暮らした。母は、赤坂でホステスをやり、私達を育てた。母は料理というものがまったく駄目で、インスタントラーメンひとつ作れない。私達は毎朝、決まった額の金を貰って二人暮らしていた。転校があって、新宿の真ん中の中学へ編入した。そこで軽い苛めにあい、不登校となった。朝、母が出ていくと、一旦、外へ出、学校へは行かず、街をうろつくのだ。母が外出した後部屋へ戻り、マンガを読み、マンションの下のコンビニで買い物をし、空腹を充たしていた。私はじきに、絶え間なく太ってきた。他人との接触をほとんど断っていたから、あまり意識されなかったが、たまに鏡を見る際、はっとする程、頬に肉が付いていたりした。でも私はもうどうでもよかった。太るなら太ればいい。そう思った。
 妹は私と同じ道を歩んだ。私がなんとかしてやれればよかったのだが、私も自分のことが精一杯で、妹を見てはやれなかった。ただ、妹が私と違っていたのは、私が街へ出た後、家へ戻ったのと違って、妹は戻らなかったということだ。妹は車を乗り回すグループに入り、髪をパーマにし、髪を染め、きついメイクをし始めた。中三で妊娠し、二度堕胎した。
 私は何とか都立の商業高校に入学し、今度はまじめに通った。妹は私立の高校に入学したが二週間で辞めてしまった。でも妹は私と違ってみんなに好かれるタイプで友達に恵まれ、マックスファクターの美容部員として活躍した。
 私は高校を卒業し、中古車販売の会社に入った。数年後、そこのお客さんと恋仲になり、結婚を前提に付き合っていたが、それは破綻した。今もって何が原因かわからない。
 妹は二十歳であっけなく結婚した。
 母は赤坂の大きなキャバレーにいたが、不況で閉店になり、辞めた。歳も歳なので、祖母が長年やっていた、病院の付き添い婦を始めた。母はなんの楽しみもなく五十も半ばまで生きてきたが、考えてみれば可哀相な人だ。頭の出来の違う男と一緒になり、何を話していいかわからなかったのかもしれない。無能を詰られ、相手に馬鹿にされないようにという思いか、勢い話す言葉が相手の欠点を追求する言葉や、話を総括する口調になるのだった。傍目に母の言葉は、いつも捨て台詞の印象だ。私は慣れているから平気だけれど、世間の人はいい印象を持つ筈がない。祖母がやっているからなどと理由づけているが、人と関わる仕事は無理なのだ。幼い頃から愛情をうまく受け止めていないのだ。相手に食って掛かるのは愛情の飢餓を埋める、彼女なりの精一杯の反抗なのだろう。夫との愛のすれ違いに始まり、世間に蹴飛ばされ、自らも拒絶し息も絶え絶えに生活してきた母を守ってやれるのは私だけだ。理屈ではどちらかといえば父の味方なのだが、生理的に父を許せずにいる。
 ある日、今の奥さんから、父の死亡が知らされた。事務所で一人、事切れていたのだという。ついては、財産分与の件だが、財産どころではなく、借金があるので、相続権を放棄した方がいいという、こころ優しい手紙だった。私達はいわれるまま、委任状にサインをして返送した。
 その頃、夫に会った。思えばあの頃が一番痩せていた。それまで幾多のダイエットに失敗したが、唯一あの時だけうまくいった。今まで女だけで生活していたせいか、彼はとても頼もしく見えた。それに父の影響か、名の通った大学を出た彼が知的に見えたのだった。彼は程なく私にプロポーズしてくれた。そして二人は結婚した。
 陽が陰り、夕飯の支度を考える段になって芳子は思案のダイヤルを押した。もうすぐ娘も学童クラブから帰ってくる。見積もりだけと何度も強調して電話を切った。
 加山はかねての計画である一人暮らしを具体的に進めた。妻に言うと、お金は? とだけ訊いてきた。素っ気ない程だった。ワンルームタイプのアパートが六万円であった。細長い部屋は鶏舎のようだったが、自分に似合いかと思った。街道沿いでビルの最上階に住んでいる大家は、はじめ、不審の表情を見せていたが、結婚していることと、会社の名刺を見せ、課長だとわかると途端に相好を崩し、その場で契約を済ませた。そして、誰にでも言うのであろう決まり文句を吐いた。
「夜は音楽やなんか掛けて近所迷惑にならないように。それと知り合いを泊めたりしないで下さいね」
「ええ、もう私はいい歳ですよ。そんな学生みたいな真似はしませんよ」
「まあ私も心配はしていませんが、一応ね、言っとかなきゃならない決めですから」
「わかります。仕事に疲れて眠りに来るだけですよ」
 芳子は夫がちょっと酔っているのが気になったが、子供が眠った今しかないと思い、話を切り出した。
「あなた、浮気しているの?」
「ああ、そうだ」
「そうだって、そんな。誰なの、会社の子?」
「言ったってしょうがないだろ」
「どうする気」
「とりあえずこの家を出る」
「その女と一緒に住むの?」
「いや、それはしない。本当だ。お義母さんから言われたことだ」
「なによ、ママにこじつけないでよ。卑怯だわ」
「こじつけてなんかいない。お前にわかるか。居候の身で、行くところがない者に、今すぐ出て行け、と言うことの意味が……。剥き身の刀を差し出してこの場で死ねということだ。その甲斐性なしがやっと出て行くことができるんだ。むしろ喜んでくれ」
「居候って、そんな……じゃあ、どうしても出て行くの?」
「ああ、一応お前とのことはこれから考える。週末には必ず帰ってくる」
「いつ行くの?」
「俺にも恰好つけさせてくれよ。明日出る」
「女のことはどうなのよ。随分自分勝手じゃない」
「それもお前は言えるのか。俺は別に睦みごとを迫ったわけでもないのに、お前はいつも邪険に、触らないでと言うじゃないか。そんな触れられたくもない奴の浮気がどうして気になるんだ。餌を与えない犬が誰かに施しを受けたのを詰るのか」
「なによ、あなたは犬なの。女に施しを受けているの」
 加山は心臓に冷や水を浴びせられた思いだった。
「なんだ、たとえだ。お前はだいたい目先しか見ていない。俺達の関係だって、予兆は幾らもあった。その機会を無視し続けたのは間違いなくお前だぞ。それを認めろよ、どうなんだ」
 芳子は沈黙した。怒りの出口を見失って、暗く沈んでいる。と同時に夫の言葉を考えてもいる。鈍感で天邪鬼だと度々言われる。母にそっくりだとも言われる。認めたくはないが、そうなのかもしれない。夫は予告通り家を出るだろう。なにもかも嫌になってくる。自分の太った躯も嫌だ。とりあえず眠ろう。眠りだけが、蓄積した脂肪や、現実を忘れさせてくれる。
 金曜日の夜、加山は寝酒を飲んでいた。早めに寝て、たっぷりと睡眠をとってから家へ帰ろうと思う。ガランとした部屋に持ち込んだ蒲団が寒々しい。朝海のことを考えてしまう。朝海とこの場にいたらどんなに楽しいかと思うが、自分のこだわりで、その事とは一線を画したいと思っている。彼女とのことは加山にとって最後の恋情だ。彼女のことを考えると、妻のことはもちろん、過去のどの女性の面影も、きれいさっぱり消えてなくなるのだった。それは見事で、加山本人も吃驚している。義母との蟠りを整理し、妻子との距離をとって、一人きりのこの緩衝地帯で様々考えてみたい。そう思っている。
 愛し合うことは時を共有することだ。お互いの人生を生きることだ。今私は彼女の人生を生きている。時の流れを超えて、彼女の瑞々しく輝きに充ちた生を享受しているのだ。しかしその思いが高まれば高まる程、苦しくなる。自分の歳が切なくなる。日本酒の皮膚に纏いつく酔いに、眠りに落ちる予感を感じ始めた頃、ドアホーンが鳴った。
 レンズを覗くと長い髪だけが見えた。加山の思考は動かなかったが、長い髪が動いた。魚眼のレンズに強調されて普段より大きくはっきりとした眼は、朝海のものだった。ドアを開けると大き目のバッグを前に下げた朝海が立っていた。ジーパンと腕にぴったりと張り付いたピンクのセーターを着ていた。乱れ気味の髪が家出少女のようだった。
「来ちゃった」
 加山は言葉が出なかった。彼女を引き入れ、ドアを閉めると、抱き寄せて唇を吸った。描いた脳裡の映像が、より研ぎ澄まされた形で眼前に広げられたため、加山は自分を失っていた。朝海の躯が、さっきまで寂しさの極みだった蒲団に広げられ、加山は豆電球の僅かな光に翳さす躯に狂った。朝海のすすり泣くような声が、硬直して止まり、深い溜め息となって洩れてきた。
 火曜日、芳子のパートは休みだった。週に三日、近所の食品加工会社で豆腐のパック詰めをしている。収入の足しというより、娘を学童クラブに送るための方便に近い。お昼になったので乾麺でも茹でようかという時、電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、奥さんでいらっしゃいますか、加山芳子さん」
「はい、そうですか」
「わたくし、先日見積もりのほうを送らさせて頂きました○○探偵社の青地と申します。ありがとうございます。今、よろしいですか?」
「ええ、はい」
「どうです。ご主人のほうは」
「どうって……あやしいとは今も思っていますけど」
 芳子は嘘を吐いた。
「じゃあですね、奥さん、やってみた方がいいと思いますよ。期間を限定して。一週間ですね、ええ、やってる人は一週間で必ず動きますから、間違いありません」
「でも……あのお値段では、当然、主人に内緒のお金ですから」
「確かにね、ええ、でもね、なにか行動を起こさない限り解決しませんよ。今ならですね、あのお値段から多少なりとも引きますけどね。……自然消滅で元に戻ればいいですけど、なかなかね、現実は難しいですよ。深みに嵌まると大変なことになります」
 男の台詞が顧客獲得のためのセールストークと知っていても、やはり不安は募る芳子であった。それが声の調子となって強く出てしまう。
「私は別に、相手の素性なんかどうでもいいんですよ。その女と別れてくれさえすれば」
 沈黙があった。
「あ、はい、そうですよね。じゃあ話はもっと簡単かもしれません。もしよろしければ、うちの事務所に直接来ていただくのが一番なんですけど」
 飯島祐司は公園通りを駅方向に下っていた。西武ハビタの横を通ってセンター街へ抜ける。ちょっとなにか腹に入れてから事務所へ行こう。相変わらずキャッチセールスの男達が獲物を狙って待ち構えている。これだけ外見で見分けがつくというのに減ることはないし、喰いっぱくれてもいない。今考えると不思議だ。
 外が見えるガラス張りの席で、チリにオニオンとチーズをたっぷりかけて食べる。持ち込んだエビアンを飲む。絶え間ない人の流れを見詰める。思えば、この人込みが俺の学校だった。都立の高校に入学はしたが勉強をする気などまったくなかった。別に馬鹿だったわけではないけど、そんなのは自分がやる事ではないと思っていた。唯一夢中になりかけたのはバスケだった。ファール寸前でディフェンスを抜くのが快感だった。夏休みのある日、OGだという女がやってきて練習をつけてくれた。みんなをへとへとにすることが目的みたいな練習だった。練習が終わった後、一人一人呼んで、個別指導をした。最後が俺で、バスケの話から彼女がいるかとか、どこで遊んでいるんだという話に変わっていった。終いに俺の躯を触りだし、自分も触っていいと言った。軽く押し倒したら、すぐに力を抜いた。俺とやりてえんじゃねえか。お互い汗臭く、女はさらに魚臭かったけど、初めての体験を部室で済ませた。俺はもう一度やってもよかったけど、女は一度目が終わると急に冷たい表情になってすぐに帰ってしまった。
 それ以来、バスケに興味をなくし、ついでに学校も中退してしまった。
 それからは渋谷がすべての場所で、友達とたむろって、飯を喰い、女をナンパし、酒を飲んだ。友達の紹介でエステティックサロンのキャッチセールスを始めた。やけに尖がったスーツを着て、髪を染め、PHSを持ち歩いた。別に太っている女を狙う必要はない。むしろ太っている女は無視していい。思いの外自信過剰だし、口説くのに時間が掛かる。それよりなにより、気が滅入ってくる。
 この仕事のコツはやる気がなさそうに振舞うことだ。仕事なんだけど、ちょっとサボりたいなあ、と見せて、相手を誉めるのだ。相手を気持ちよくさせたら、こっちのもの。俺は成績がよく、いい実入りになった。平行して、当時流行っていたPHSの勧誘もしていたから金回りはよかった。渋谷の雑踏がいやになると、多摩の田舎へ行って、大学周辺の学生アパートへ行った。頭がいいんだかなんだかわからないが、どいつもぬめっとした田舎顔をしていた。ドアを開けさせたらこっちのものだった。世間話の端々に、ただであること、現物を見せてカッコイイと確認させること、持っていないと流行から遅れていると感じさせること、それによって楽しいことが具体的にこんなにあること、を織り交ぜていく。そして最後に、音を確認してと言って、実際に電話する。声がきれいで明るくおしゃべりな女と予め口裏を合わせて、その男に興味がありそうに話させるのだ。男の顔がどんどん間延びしていく。そうすると大概はサインをした。とにかく一軒七千円の収入で少なくとも三件、多い時は七件取ったから、遠くの山並みを見て、いい骨休めができた。そしてまた渋谷でエステの勧誘を続けた。そんな繰り返しを続けている時、多摩で午前中に雨に降り込まれた。雨になるとなぜかみんな手の平を返したように冷たくなるので、早々に引き上げた。帰りの中央線で、むすっとした中年達がスポーツ新聞に見入っている光景を見た。どうやら競馬らしい。まわりでも、競馬に夢中で、ノミ屋に電話をしている奴もいたけど、俺はまったく興味を持たなかった。でもその日は、つり革に掴まり、折った新聞に神経を集中している男たちが微笑ましくさえあり、競馬場に行ってみる気になった。男たちに付いて行き、電車を乗り換えると、見るからに目的を一つとした恰好の連中一色となった。通路に店を出しているおばちゃんから競馬新聞とサインペンを買って、雨の煙る府中競馬場に出た。緑の芝生が高原の朝のように霧に包まれ、眼に鮮やかだった。馬券の買い方もわからず、気のよさそうな若者に訊いた。三階の高みから見るレースはゲームセンターの競馬ゲームみたいで気持ちが通わず、ゴール板の前に移動した。馬は喘いでいた。騎手は鞭をふるい、容赦なく御し、馬は肉を軋ませている。そこには他者の立ち入る隙のない、騎手と馬とのあやうい緊張があった。そのレースで飯島は、堅い軸から無知ゆえに流した四十三倍の馬券を獲った。何気なく上積みした一万円でである。 
 友達にホストがいて、年上のババアと別れたいから誘惑しろ、と言われた。PHSが売れなくなった頃だ。そいつとの遊びが面白いから、承知し、その中年の女を誘った。すぐに関係を持ち、小遣いを貰った。そんな金はすぐに遣ってしまったが、その時、女の気持ちが、そのホストからゆっくり、かさぶたでも剥がすように離れていく様に異常な快感を覚えてしまった。女が、自分の性技で変わっていく様をつぶさに眺めた。なにか、わし掴みにした心が、手の中で溶けていくような気がした。性技に磨きがかかった。よくしなる彼自身と強い腹筋が、相手の可能性をくまなく引出した。 
 そんな時、探偵社に雇われた。同じ事をやってその時貰った額の五倍の金をくれると言う。ホストの友達が推薦してくれたのだ。飯島はやってみることにした。ターゲットの女の資料やプロフィールがあり、実行計画を立てる打ち合わせは、今までにない、知的な感じがして心地よかった。一番いいのは趣味で釣ることだ。きれいな顔して、親父に引っかかるような女なんだから、他愛もない。ファッション、音楽、ダンス、車。二人でストーリーを作って嵌めることもある。もうこの仕事も三年になる。切れ目もなく仕事の依頼が来る。この街はどうなっているんだろう、と馬鹿ばっかりやっている俺でも思う。
 飯島は打ち合わせで、探偵社へ行った。あまり気乗りがしない。探偵の中川がいるからだ。奴はいっぱしの探偵気取りで、浮気調査を軽蔑し、それ以上に飯島を嫌悪していた。しかし、この日本で浮気調査以外にどんな調査があるというのだ、産業スパイか、北朝鮮の工作員でも捕まえるのか。笑わせるな、お前には浮気調査がお似合いだ。
 今日の中川は、これまでにない程、絡んできた。
「お前はいいよなあ。俺達が車の中で一晩明かし、餡パンかじりながら必死に集めた情報読んで、チャラチャラ女に近づき、やりまくるんだからなあ。それで俺達よりいい金持っていくってんだから、世の中間違っているよ。今回はどうだい、俺も参加させてくれよ。こんないい女、お前に誑し込まれると思うと眠れないぜ」
 中川は数枚のスナップ写真をテーブルに叩きつけた。吠えたいだけ吠えろ。お前に俺の真似ができるか。飯島は写真を見た。そんなにいい女だろうか。飯島はファイルにある情報と、口頭で伝えられる話をうまく馴染ませるのに集中した。
「酒も煙草もやらず、水ばっか飲みやがって、なんだてめえは。それで余った力を全部女のあそこにぶち込むってんだからな、わからねえよ、お前って奴は皆目わからねえよ」
「中川さん、仕事の話を進めませんか」
「おう、すげえ冷静なお言葉じゃんか。わかってるよそんなこと、お前に言われなくても」
 相方の新藤さんが中川を宥めてくれている。中川の怒るのもまったくわからないわけでもない。でも、誓って彼には真似のできないことなのだ。
 渋谷へ行くとまずゲームセンターへ行く。別にゲームが好きなわけではない。朝海が行くゲームセンターはいくつかあるが、一番気に入っているのはセンター街の終りのテナントビル地下だ。清潔で質の悪そうな連中がいないのがいい。ここで夜の街に気圧を合わせるのだ。夜の街は喧騒と粗暴さに充ちてはいるが、深海の静けさで横たわっている。濃密な闇に鼓膜すら破れそうだけれど、私たちは憂いをのんで、渇望の眼差しでさまよい歩くのだ。
 朝海は画面上、自分が乗っている筈の真っ赤なセダンに集中していた。リアルに再現された首都高を一周するゲームだ。
「駄目だよ、シフトダウンしてからハンドル切らないと」
 主のわからない声が頭上から降ってくる。
「その直線で三台ぐらい抜いとかないと、後がきついぜ」
 画面が夜から明け方に変わる。街燈の灯が小さな星になり、ビルの合間の地平線に紅紫色の雲がたなびいている。朝海はこれが見たかったのだ。ゲームが終った。立ち上がって声の主を見る。背の高い髪の短い男だった。
 ゲームでも車に乗っているらしい。普通、ターゲットに接触する場合、一人ではあからさまなので、街の後輩に頼み、グループで近づく。でも今回は一人でやりたかった。自分の庭のような渋谷で同様に遊んでいるこの女には、一人でやるのが義務のように感じていた。それにしても一人でゲーセンに来るとは意外だった。
「車が好きなんだ」
「まあ」
「もっとやんなよ。ほら」飯島は百円玉ののった手を差し出した。「三周するとさ、虹が出るんだぜ、箱崎の辺りで、きれいなやつが。そこまで俺が教えてやるよ」
「ほんと? 虹なんか出るの」
「出るわけねえだろ、君に近づくための大嘘」そうぞんざいに言って飯島は笑った。
 朝海は飯島の眼を真っ直ぐ見つめた。切れ長の瞳の奥から、彼も私を見ている。欲望にたぎってはいない、どこか空虚さをたたえた眼だ。思う存分にスピードを出した後、泰志はこんな眼をしていた。
 朝海という女はどこか不可解だ。軽くはないし、さりとて自分だけの世界で満足している風でもない。警戒して当然なのに、じっと俺を見ている。やりたくてしょうがない女の眼ではない。
「慎二に言って、裏モードでやらせてもらおうか。夜の場面で流星群が乱れ飛ぶんだ。奇麗だぜ。これは本当、保証する」
 飯島はにっこりと少年の笑いを投げかけた。
「慎二を知ってるの?」
「知ってるもなにも、高校の後輩。この辺は後輩だらけだよ。君も東京だろ」
 飯島は周知のことを訊く。
「世田谷の外れ」
「そうなんだ、俺も高校の頃、世田谷だったぜ。走り屋に嵌まって中退しちゃったけどよ」
「走り屋って、族なの?」
「違うよ、そんなの興味なかった。走り専門、健全なもんさ」
「じゃあ、佐山さん知ってる?」
「知ってるよ。メタルピンクのシルビア乗ってた人だろう。四つぐらい上かなあ。あの人は絶対、族と付き合わなかった。あの人がいたから、世田谷の走り屋は安全だったのかもしれない」
「加藤泰志って知ってる?」
「おう、泰志さん、知ってる。ちょっと気難しい人だったけど、俺は好きだったな。なんだよ、意外と近くをすれ違っていた? じゃあ、ゲームよりさ、俺、車で来てるから首都高をゲーム通り走ろうか、もう少ししたら空いてくるしさ」
 朝海はじっとしていた。
「ですよねえ、そんな初対面の男の車になんか乗りませんよねえ。私が馬鹿でした。反省します。さっき言ったさあ、裏モードやろうよ。慎二呼んでさ」
 飯島は慎二を呼んだ。慎二が気付いてこちらに向かってくる。
「いいよ、乗っても」
「え?」
「車に乗ってもいいよ」
 朝海は歩きながら携帯電話を掛けた。
「もしもし、てっちゃん。私、うん。……渋谷には来てるんだけど、今日ごめん、行けなくなっちゃった。昔の友達に会っちゃって。……違うって。だから、迎えに来なくていい、悪いけど、みんなによろしく言っといて、またあそぼ、うん、じゃあ」
 携帯を切ると、男の車に辿りついていた。夜走りだす車は特別の意味を孕んでいる。車体の曲線に光が絡んで、ねっとりと私を誘う。助手席のドアが開かれるくぐもった音。シートに辷りこむ時、昔の感覚が甦る。車の匂いが朝海の鼻腔を刺激した。
 飯島はペットボトルの水を飲んだ。首都高にあがってアクセルを一度大きく踏む。中川の言う通り、確かに俺は水が好きだ。酒は付き合いで飲むことはあるし、飲んでもどうって事ないけど、基本的には嫌いだ。酒に酔うというのは自分を侮辱することだと思う。次の日だるいし、仕事をしたくなくなる。いいことなんてなにもない。やはり水が好きだ。水ってどう言うんだろ、体がきれいになるような気がして飲んでいるんだけど、駄目なのだろうか。体をいつもきれいにしていたい気がする。水を飲むと人間が抱えている色々な問題が解決するような気になる。血管の中をコロコロと透明な水が転がっていくのが俺にはわかる。
 朝海は飯島の横顔を見た。嘘はすぐに見抜いたが、この男は走り屋の眼をしている。私の言う通りにスピードをあげ、自在に車を操ってくれる男だ。眼がここではない彼岸を向いている。
 首都高を何度回っただろう。フェンスの向こうに紅紫色の朝焼けが広がっている。昔見た胸が締めつけられる朝焼けの光景だ。猛スピードで向かうのに、それはまったく微動もせず、そこにある。見つめると、微妙に変化し、ゆっくりと左に流れていく。スピードが上がり、エンジンの振動が直に下半身に響く。さらにスピードが上がると、振動や騒音を置き去りにして、まったく違う音も時もない世界に陥る。その瞬間が私は好きだ。
「直線は目一杯走って」朝海は叫ぶ。
 飯島は、この女が、ほしいと言うまで、アクセルを離すつもりはなかった。感覚が跳ぶほどスピードを出し切り、恐怖と隣り合わせになった時、この女と深いところで通じ合うのだ。

 細身で長身の体躯に薄い筋肉が万遍なく貼りついている。スポーツで鍛えたわけでもないのに強く疲れを知らない躯だった。飯島は朝海の横に座り、手を回した。くちづけて、胸に触れる。これから彼女は自分の中にある未知なものに出会うのだ。俺はそれを導き出すきっかけに過ぎない。女は自ら完結した装置だから、どんなものにでもなれる。だから俺はなるべくその邪魔をしたくない。肌をべったり合わせたりしない。躯のほんの一部で繋がり、女が螺旋のうねりで高みに登っていくのをじっと見ているのだ。こんな真似が中川にできるか。朝海の褐色の肌をなぞって中心の茂みに達する。女は花だから、匂い立つ花だから……。硬く舌を遣い、装置のスウィッチを入れる。
 朝海は躯を投げ出したまま考えた。男は何気ない仕種にも慣れが見られた。そうとうの数の女と関係しているのだろう。でもそんなことは私には関係ない。男のセックスは正直さに充ちていた。徒に舌を這わせるでもなく、焦らして女の反応を弄ぶわけでもない。私の躯を大事に扱って、肌に触れる際は、おののきすら感じた。私の中で一杯に充ちた男のものは、乱暴に動かず、感情の波を子細に汲み取るように、あらゆる角度で動いた。それが私の中で次々と積み重なり、堪えきれない吐息となって洩れるのだった。早く終えてほしいと思う反面、さらに求めるもう一人の自分が顔を出すのだ。反転させられた私は、腰を抱かれた。頬をシーツに押し付けられ、内臓をすべて晒したように錯覚した。彼のものが一層長く感じられ、私の中でしなる度、頭の中で白い光が弾けた。何度も意識をすくわれそうになる。私の中で魚が躍っている。体表にぬめりを残し、掴んだ手の中からするりと抜ける、命に溢れた小魚がいる。もっと私の中に入って、衝動を突き動かして。男は私の震えを何度か確かめ、昂ぶりを噛み潰すように果てた。
 加山が目覚めても朝海はいなかった。朝まで帰らないのは初めてだ。無論、実家に帰っている可能性はあるが、週日の中ばでは考えづらい。会社へ行かなくてはならない。気が重い。会社に朝海がいたらどうしよう。顔を見るのが億劫だ。彼女はいつものように何があろうとマイペースで働くだろう。今日は休んでほしい。無断で電話も入れず、どこかにいてほしい。
 朝海は会社にいた。制服をきちんと着て、寝不足の風もなく、てきぱき働いている。その姿はいつ見ても素敵だ。淫らさを封じて、細く引き締まった顔を見た。もちろん私は問い質すなどということはできずにいる。もう二度とあの部屋には来ないつもりか。そんな予感が走る。
 ビデオはベッドの真横に据えられていた。女に悟られないようにリモコンでスイッチを入れる。視点の動かないビデオのレンズが、蛍光灯の明かりを受けて、インクブルーの光を放った。最新の小型デジタルビデオで、隠しやすく後の編集が楽だ。今はカットされるであろう二人の意味もない雑談が続いている。男はなるべくビデオの視界から外れないように振舞っている。声がなくなり、二人の肌があらわになっていく。
 行為は佳境にあり、女の息を呑む音が多くなる。屈曲された背中が理不尽な角度で映し出されている。突き出た尻が滑らかな弧をつくりだしている。そこに屹立した異質のものが姿を現し、そして消えた。丸みは僅かに震えるだけでさしたる変化はない。異質なものは動きを止めない。男はそっと女のくびれに手を添えるだけですべてを御している。女の顔が変わっていく。広い額や、閉じた眼や、開かれた唇で元から細い顔がより細く見える。何度も官能の波に掬われそうになっている朝海がそこにいた。男は大きな動きで単調に突いた。変化をつけず執拗に続けた。肉のぶつかり合う音が響いた。女の愛がゆっくりと剥がれていく。
 飯島は余韻に浸る暇がなかった。女の忘我の時こそ、強い言葉で詰らなければならない。 朝海は煙草を吸っている。
「たまたま携帯のメモリー見ちゃった。男友達たくさんいるんだ」
「うん、私、男友達としか遊ばないから。昔っからそう。……そんなんじゃないけど、別に誤解しても構わないよ」
「誤解なんかしないよ。でも、彼氏はいるんだろ。男がほっとくわけないもの」
 朝海は言葉をためらっていた。
「そういうこと気にするんだ」煙草の煙を払って、朝海は掠れた笑いをあげた。
「気にするようになった。君のせいで」飯島はうつむいた。
 ビデオが下着姿でベッドに腰掛けた男女をうつしている。
「別れてくれよ、なあ、俺お前のこと真剣に考えてんだよ。お前の言う通りにするよ。まじめに働けっていうならそうする。渋谷を出てもいい。なあ、別れてくれよ」
 朝海は三本目の煙草に火を点けた。
「知ってるぜ。彼氏って、会社の上司だろ」
「なんで、そんなことわかるの?」
「会社関係の番号で、一番最後に登録されている。その課長は一年以上も前に上司になったと言っていた。おかしいよ。仕事で掛けなきゃならないなら、とっくに登録している。最近付き合いはじめたんだ」
「でも……」朝海の言葉を飯島が遮った。
「いいんだ。お前の携帯からそこに着信だけ残して切ったら、しばらくして掛かってきた。とても仕事とは思えない甘ったるい声出してたぞ」
 飯島は朝海を抱いて、唇を寄せた。朝海は顔を背けた。
「俺とその親父と、どっちが好きなんだよ、なあ。どうせ不倫だろ。なんでそんなことするんだよ。たまらないよ、俺。別れろよ。どうせ遊びだぜ。絶対、かみさんのとこに戻るんだからよ」
 朝海はじっと飯島を見た。今度は唇を受け入れた。ビデオは単調な映像をうつし続けた。ついに朝海は飯島が差し出した携帯電話を受け取り、すばやくプッシュし、耳に当てた。
 携帯が鳴った。嫌な鳴り方だった。朝海の携帯から掛かった着信を思い出す。案の定、朝海だった。今日は帰らないと言う。歯切れの悪い口調だ。なにか言い切れずに躊躇している。
「私、好きな人できたから、別れる。私の荷物、バッグにまとめて、私の席に置いといてくれる? もし面倒臭かったら全部捨ててもいい。お願いできる?」
「………もうここへは戻らないの?」
「うん、たぶん」
 加山は予感が現実となったことに安堵を感じていた。これで軽い荷物を始終背負っているような倦怠の気持ちから逃れられる。それと同時に、暗く底のない悲しみに囚われたことを悟った。もう二度と我が身に起こる筈のない恋の煌きが過ぎたことを嘆いた。電話を切り、自分自身に、見苦しくはすまい、という独白だけが残った。恋が終っただけだ。恋をすることは、永遠を感じることだ。その永遠が動きだしただけではないか。
 ビデオに若い女が映っている。明らかに房事の後と見受けられる乱れた髪と下着姿で小さな携帯電話を耳に当てている。豊かな張りのある胸をブラジャーからはみ出させている。このいやらしい男に弄ばれる前に、夫も存分に触れたものだ。女が私の夫と話している。夫の情けない声がマイクに拾われている。急に夫が哀れに思えてきた。思い出した。胸の大きい、勤怠の不真面目な派遣の子がいると夫が言っていた。こんな小娘に狂った挙げ句の果て、若者二人にいいように馬鹿にされている。生き方が卑しいだけじゃないか。女を売って仕事しているだけじゃないか。出会った頃の夫は輝いていた。なんでもよく知っていて、喋る言葉に品があった。あの頃の夫には限りない可能性があったのに。そう思っているうち、涙が溢れた。流れるままに放っておくと、いやらしい男が、ご同情申し上げますとハンカチを差し出した。都合よく勘違いした男の、どんな女が遣ったかもしれないハンカチなど使えるか。軽く頭を下げて拒絶し、自分のハンカチで涙を拭った。この女の躯がそんなにいいのなら、思う存分抱かせてやってもよかったと思った。結局わりをくうのは私たちなのだ。請求された費用をその場で払い、事務所を後にした。
 女とはもう一度だけ会う。別にそうしなければならない理由はないが、これは俺自身の決め事だ。誰がなんと言おうとこれだけは絶対に譲れない。一度だけ、本当に愛し合い、将来を誓い合った恋人として抱き合うのだ。そして、その後、遣った携帯も、仮の名も、偽の経歴も、すべて捨て去るのだ。
 シティホテルのツインルームへ朝海が後から入ってきた。飯島が歩み寄り、抱き合う。ゆっくりと深く口づけする。二人の大きく開いた口の合間から熱い息が洩れる。飯島は離れると朝海の髪を何度も撫でた。長い髪で、染めた茶が絶妙の比率で絡んでいる。額の産毛に唇を当てた。今日の彼女は唇を引き結んで、大人びていた。飯島はあらためて朝海の顔を見た。顎を引いてまっすぐに見つめる眼は憂いを帯びている。肌を焼いたわけでもないのに、褐色の日本人離れした吸いつく皮膚だ。水の抵抗が少なそうな、整っているという言葉では表せない、情熱的な顔の造りをしている。お前は透明な水の似合う女だ。ひょっとしてお前はとんでもない美人なのか。まあいい、とにかくお前は今日この時間、俺のいとしい恋人なのだ。
 服を脱がす。ありきたりのチェックのシャツだ。唇を合わせながら、ブラジャーのホックを外す前に、腕を背中に回し、首筋を挟んで豊かな髪を持ち上げる。朝海は震える吐息を漏らした。首が性感帯なのだ。背中をまさぐり、今日は肌を愉しむ。ヴォリュームがある躯なのに、力を入れるとそれに屈する躯だった。抱き応えのある肉体だ。ブラが床に落ち、豊満な胸があらわになる。手の平で包み、また口づけする。スラックスのファスナーをゆるめ、手を辷らす。形の知れた陰毛に指を絡ませ、潤んだそれを思う。朝海は対抗するように動かない。ベッドに倒れこみ、二人は裸になる。脱ぎ散らした衣類をベッドの下に落とし、肌を合わせる。指が辿った後を舌が追った。深くいつくしむ。正対して結ばれ、彼女の表情をよく見て、それが変わる瞬間を待つ。朝海の鼓動が飯島の胸に伝わる。深い吐息が交じりあう。お前の躯にも透明な水が流れているかい。二人は地下を巡る水脈で繋がっているんだ。敏感な部分が脈動を伝え合う。もうどうにも制御のきかない高まりを静かに迎える。自分の賭けた馬が、ゴールへ吸いこまれる際に感じる居場所のなさが去来する。最後の夜は長い。テイッシュで始末をした後、飯島のものは覚悟を決めた者の強さか、また屹立した。
 シャワーをもう一度浴びた二人は、最後に軽くキスをして、また電話するとお互いに告げ、渋谷のホテル街で別れた。二人の携帯電話が繋がる事は二度とない。
 加山はしんとした部屋で蒲団に横になっていた。家電量販店で買ったテレビに自分の顔が歪んで映っている。朝海と一緒に行って買い求めたものだ。一緒に小さなテーブル、炊飯器、CDラジカセ、電動ポット、蒲団なども買った。蒲団は家から持ち込んだものを捨てて買った。上京したての頃を思い出して、楽しかった。朝海とそれをしたことがなお一層の悦びだった。店員が二人をどう見ているかを想像するのも楽しかった。しかしそれらは二ヶ月も使われずに機能を失ってしまったようだ。どれも新品同様で、なんの不備もないのに、なんだかすべて色褪せて見える。朝海の痕跡は細部に至るまで拭い去ったのに、まだなにか、念のような形で残っていた。
 朝海の若さを愛したならなんら問題はない。街中で愉しそうにはしゃいでいる若者を見ても心は動かないのに、朝海と朝海が繋がる人との相関には狂おしいほどの憧憬を感じる。これまでの生き方を根底から悔いてしまうのだ。君は何にでもなれるのに、すべてに開かれた未来があるというのに、こんなところでそうしているのかい。君には陽のあたる道を歩んでほしい。あれからも朝海は遅刻をしたり、真面目に働いたりしてこれまでと変わらず働いている。部屋が本当に鶏舎に感じられる。
 夫は何をしているだろう。女はもういない。それは確かだ。傷の深さはあの電話からも充分伺える。夫はあの二人のビデオも見せられたのだろうか。だとしたら当分立ち直れないだろう。夫は私が仕組んだとも知らず、週末にはきちんと帰ってくる。母も最近は週末、家を空けるようにしているので、親子三人水入らずで、二日間を楽しく過ごせる。これで良かったのかな、とも思うが、月曜日に夫を送り出す時、不憫にも思う。
 府中競馬場は人でごった返していた。新聞の馬柱を丹念に見る。力があるのに前走までの走りで過小評価の馬を捜す。クラス変わり。道中で不利だったもの。仕掛けが早すぎて退行したもの。放牧帰り。九レースの九百万下で打ってつけの一頭を見つけた。新馬戦を五馬身ぶっちぎった後、鳴かず飛ばずだ。芝に替ってから一度だけ、連対し、その後、距離が定まらずリフレッシュ放牧されて今回でてきた。連対時は四コーナーまで一番で走っていた。専門紙で十二番人気だ。五番人気と絡めば八万馬券だ。一番人気との絡み以外、すべて万馬券。強弱をつけて五通り買う。どれが来ても五百万以上だ。その馬だけが浮いて見える。誰にもマークされず、悠然と中段を進んでいる。最終コーナーを最良の位置取りで回って先行馬と並んだ。足が残っているこの馬が必ず来る。ゴール前、平走馬の足が鈍って抜けたと思った瞬間、大外からの一団が猛然と追い込んだ。写真判定までは至らない明確さで首差、差されてしまった。吸った息が肺で固まり、息が出来ない。一度昂ぶり切った血が、一瞬に凝固する。頭の中が痺れて思考の道が弾けている。朝海と関係して得た金がすべてふっ飛んだ。愛する者同士の仲を裂かれた二人の気持ちはこんなものだろうか、ふとそんな考えが浮かんだ。
 携帯が繋がらない。呼出しはしているのに、出る気配がない。なくしてそのままなのか。朝海はここのところの忙しさを思い返していた。人が変わったように生き生きとした課長も、今は元に戻っている。関係を結んだことをうだうだ言わないだけでもありがたい。自分の世界に入り込み、時折熱い眼差しで私を見つめて、一人煮詰まっているが、そんな事は関係ない。あのセックスの上手な男の眼も素敵だったけれど、連絡がつかないのであればそれはそれでいい。これからだっていくらでもあることだ。男はどうして急に変わってしまうのだろう。自分からいきり立ち、そして自分で壊れていくのだ。いつも私を特別の濃密な空気で包み込んでしまうけれど、そして挑むように私の躯を抱くのだけれど、何が彼らをそうさせるのだろう。随分迷惑も掛けられたが、性格でどうしても無碍な態度が取れない。人は優しさだけで繋がっているのだから。もう私も馬鹿ができる程、若くもないしその気もないけれど、いつかの朝見た紅紫色の地平線を求めて生きていこうと思う。
 加山はすっかり暮れた冬の夜に会社を出た。しばし立ち止まり、躊躇した。右へ行けばアパートで左の駅からは自宅への道が通じている。アパートの闇と温度を思って、足が前へ進まなかった。
 星の冴えた寒い夜道、自宅への道のりは、次の街燈まで息を詰めて歩くことの繰り返しだった。土曜の朝帰るのとは勝手が違っていた。娘へのケーキもあざといようでやめた。小さいながらも都内の一軒家だ。チャイムを鳴らそうと出した指を引っ込めて加山はドアノブに手を掛けた。
                                     <了>