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From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0328] 過去ログ、アップしました
Date: Wed, 24 Nov 1999 02:16:56 +0900

こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

過去ログ、アップしました
new→http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log278-327.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log229-277.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log172-228.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log117-171.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log66-117.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log14-65.htm


Date: Wed, 27 Oct 1999 02:30:15 +0900 (JST)
From: SmokymonkeyS <smokymonkeys@hanuman.co.jp>
Subject: [gs-club:0329] 主義主張と説得力

主義・主張と説得力についての話および山野氏への返答です。

もしこのMLで出されるいろいろな意見が、単なる投稿者の主義主張であり、そこ
には必ず他者による同意、合意がつくものである(そして、それが説得力に通ずる)
ならば、何とつまらんモノだろうとわたしは思います。わたしは、ヒトの考え方
は必ず異なるという考えを信じています。だから、哲学だろうが倫理学だろうが
社会学だろうが芸術論であろうが、どういう系統にせよ、結論として何か議題を
一部のヒトたちでまとめる、という行為には抵抗があります。なぜなら、それは
どこまで集約しても曖昧な主義主張留まりだろうし(これはまあ物理学であろうと
何であろうといっしょですが)、説得力がモノを云うからでもあります。

ヒトの在りかたを考えたり、またヒトがヒト自身を定義したがるのは、無論理解
できます。ただ、わたしはその結論に興味はありません。思考過程に興味がある。
何かを分別したときに何がそこから落ちるのか? それはヒト総体として考える
ことではなく、ヒト個人として考えるべきことだと思いますね。だから、議論に
おいて「きみはこれを落としたよ」と云うときに、わたしは「わたしは、きみが
これをこういうふうに落としたように見える」と解釈しています。だから、腹が
立つとか気に食わないという感想は出てきません。むしろ、違いは刺激を得る
ことが多いです。絵は特に、この部分が大きいですね。

ただ、生命倫理の話を含め、ある程度の社会的同意、またはML内の同意事項が
まったくなければ、それこそ話にならないという気はします。それに、わたしは
意見が違っていればそれだけで一応満足なのですが、中にはそうでないヒトが
大勢いるでしょう。そうすると、山野氏がおっしゃる強者とか、合意という概念
が出てきますね。すると、わたしには論理と説得力の区別がつかなくなる。

コミュニケーションに関する基本的な話ばかりで申し訳ないのですが、言葉だけ
だとこのへんが気になります。自分が「解っている」と思っていることを他者に
も「解らせたい」のが議論の目的なのですかね?

追伸:
わたしの文章が断定的に見えるならば、それはきっとそのとおりです。
しかし、持論を断定的以外に書く方法を知らないのですよ。




| S m o k y m o n k e y S | 烟猴 |
http://www.hanuman.co.jp/monkeys/
smokymonkeys@hanuman.co.jp

From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0330] そこそこのところで
Date: Wed, 27 Oct 1999 11:27:24 +0900

こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

>10/24から以降のMLが
>こちらに配信されていないのですが、まさかその間誰も投稿しなかったと
>いうことはないですよね? 

というご心配のダイレクトメールをあるメンバーの方からいただきました。

一部のメーラーで日付表示かずれるなど
コンピータの不調もあったようにも見受けられますが、
投稿がしばらくとぎれていたのかもしれません。

運営係のところにも配信はありませんででした。、
サーバーから異常をしらせるメッセージもありませんでした。

10/24の最後のメールが328で10/27のメールが329ですから、
その間にメールがなかったのが本当のところのようです。

このところ、みなさんものすごい勢いで投稿されていましたから、
息切れされたのではないかと、想像しています。

メーリングリストにお詳しい方は、誰でもご経験があると思いますが、
メーリングリストには、「政権交代」というのが、ありますよね。
メーリングリストに、帝王のように君臨して、大量の投稿をして、
大量のレスを返される方がいらっしゃいます。
メーリングリストにかんしては、どちらかというと、初心者に近い方が
そうなさいがちで、メーリングリストという新しい世界に興奮されて、
ハッスルしてしまうのではないでしょうか。
でも、やがて、燃え尽きてしまう・・・・
そしてまた、別の新人の方が帝王として君臨されますが、
なかなか、長期政権にはなりません。
そんなふうに短い周期で政権交代が続くのが
メーリングリストの特徴のにようも思います。

みなさんが、疲労を感じない程度に、適切な距離感覚で、
このメーリングリストとおつきあいくださるよう、願います。

あまりゴウゴウともえさかる様ですと、みなさん燃え尽きてしまいますし、
また、なにを投稿してもシーンとしずまりかえったままというのでも、
みなさんいやけがさしてしまうでしょうから、
メーリントが長続きするためには、
そこそこの雰囲気がたもたれるようしなければなりません。
どうか、そこそこ、運営にご協力ください。
よろしくお願いします。




Date: Wed, 27 Oct 1999 12:47:14 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0331] [gs-club:0297]について。

haです。最近配信されないので僕も「あれ?」と思っていたところでした。
管理人さんのおっしゃる「政権交代」などなどの考え方なども
面白く読ませていただきました。

僕自身は[gs-club:0297]に対する山形さんのお答えをジっと待っていたのですが
ひょっとしたら読み飛ばされたかな?と、ちょっと心配になったので
再度質問の最後の部分を投稿致します。
お教え下さい。宜しくお願い致します。

[gs-club:0297] Re:情報体より。ha-wrote:

ひとつだけ:
山形さんwrote:
*絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。Charles Sanders Peirce の
*言うような意味で
*人間は記号的存在だと考えます。

これが「人間は情報体的存在だ」
と解釈すると自分の中に入っていくのですが、間違いですか?
そして
パースさんの言う意味において絵画的思考を結局言語的思考に還元するという
事がもうひとつわからないのですが、例えば黒い四角形をみて
「赤く塗ったほうがいいな」と思った場合、「何故赤か」
という事はあまり考えずに塗っちゃうと思うんですね。
国民性で色に対する感覚が違うという事では無くて
「何故その形か?」「何故その色か?」ということを
思っていて、「これでよし!」と思うまでに至る思考は
論理的に還元しきれないと僕は考えますが、
「絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。」とおっしゃる
根拠をできれば具体例でお教え下さい。
また、舞踏やダンスなどで肉体を動かす表現者にたいしても
その言語的思考はあてはまりますか?




Date: Wed, 27 Oct 1999 13:18:37 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0332] Re:について。



mephistoです、こんちわ。

《引用はHさんの「[gs-club:0331] [gs-club:0297]について。」から》
>僕自身は[gs-club:0297]に対する山形さんのお答えをジっと待っていたのですが
>ひょっとしたら読み飛ばされたかな?と、ちょっと心配になったので
>再度質問の最後の部分を投稿致します。

マム山形さんて「アースワーク」ってのをお仕事にされているらしくって、時々
山籠もりをされて、ネットにアクセスできなくなるみたいですよ。

基本的に、親切なの方のようだから、見落としてなければ、そのうち返事くだ
さると、思います。

ちょっとお節介でした_(._.)_
では。

★mephisto★ mephisto@jwg.vip.co.jp

Date: Wed, 27 Oct 1999 13:26:59 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0333] Re:について。

haです。
あ、そうなんですか。
わかりました。
わざわざありがとうございます!




Date: Mon, 27 Aug 1956 20:51:39 +0000
From: hm3m-ktu@asahi-net.or.jp (佳嶋藤乃)
Subject: [gs-club:0334] 佳嶋です



*佳嶋です*

一段落。ようやく普通の日常、規則正しい時間で
生活できると思ったら〜
11月はなんだ・かんだで体が開かない
物事上手く、時間配分できないものか?と思う

朝一番で「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄著・文春新書)
を買いに行きました。雨でした…今日は。すぐ発見できて良かった
軽く流したら「面白しろそう!」確かに興味深いです
音楽関係の本はカストラートとかの本ぐらいしか
読んだ事ないので、山野さんに面白い本を教えていただいて嬉しいです

Haさん>
お気になさらず!(笑)
攻撃されたと思ってませんよ
ちょっと戸惑ったくらいです(笑)
私は思うのです
「知りたい」「理解したい」という気持ちでぶつかって来るのと
「知ろうとしない」「理解しようとしない」という気持ちで衝突する
のは違う。後者の場合の方が「ちょっと遠慮したい」と思いますが,
Haさんは違います
だから今回のようなのは、そんな気にする事ではないです
私ものほほんとしていたら、Haさんがちょっと気になさっていた
みたい?早くお返事せねば、と急いでメール書いたところです
お気になさらず!

しばらく離れていたら、皆さんでいろいろ語りがあったみたいで
今回のことも良い?結果という事で面白かったです
自分でも不条理に対する認識をもっと自分の中でまとめたい
というか、基板となる考え方について決めかねていた所も
あるので良い機会というか良い事態でした
まあ、ある事物に結論などないので、うやむやになる結果がやはり多いと
思います。今回もそういう結果で、その方が面白いです
またもやmephistoさんにフォローしていただいてしまった。
ありがとうございます
また山根さんにも心配させてしまったみたいですね
白翔さんにもさりげなく、気になってしまったみたいですね…
このMLの方は皆さん大人で会話しやすいと感じます
相手に対する反対の理論があっても、他の方のフォローや
また、上手くまとめる事のできる山根さんのような存在は貴重です
また他の話で皆と一緒に話しましょう!
で、私もHaさんの作品が気になります
よかったらURL教えていただけると嬉しいな

烟猴さん>
今度、「丸山眞男 音楽の対話」の話題が一段落したら
烟猴さんや他の方と、曲線の魅力について話がしてみたいな
と思ってます
私は4月で会社を辞めて、個人的に活動しようかと準備中?です
といってもまだ営業活動してないので不味いです
これ以上発展しない会社にいても自分が伸びないと思ったので
ちょっと思い切って辞めてみたんです
辞めたら、いろんな仕事がポロポロ運良く回ってきたので
それで凌いでいました(笑)
前の会社では立体でも2次元・3次元(3D.これはそんなにやってないんですが)
CGのイラストやタイトル関係、それを使用した広告デザイン(DTP)をやってました
写実系のCGやコラージュ・合成加工とか多かったです
日本航空(JAL)の仕事が多かったのでカタログメインの時は辛かった…(笑)
堅い仕事が多かったけど、変に派手な仕事もしてました
だから今描いてるイラストは会社ではあえてかきませんでした
昔は花meinの静物画が主体で写実ばかり描いてましたよアクリルで薄塗りの絵です
なごりで一枚アップしてます
今やってる仕事はイラスト以外の方が多いです
友人関係で若いので、CDレーベルやチラシ・広告
美術館関係の仕事や、ホームページ製作・キャラクター使用のデザイン
タオルやハンカチ・コップのデザインとか多方面です
最近はその仕事の関係で徹夜?続きでした…
なので知らない世界が見れて楽しいのですが、収入が安定しないので
来月末くらいからテクテク営業にでようと予定してます
烟猴さんのページをじっくり見ようと思ってますが、私は
旧式のPerforma5320で、またIEがかなり古くて見れないページや
字が一直線に重なっていたりする場所があるので、
時間もちょっとできたので、久しぶりにネット復活します!
今日の夜、弟のMacを借りてじっくり見ようと思います
(モデムも内蔵…カメみたいです)

追伸:
私も烟猴さんに似た答えです
結論は個人で持ってればいい
どっちが正しい・間違ってるはどうでもいいんです(でもどっちかに片寄りますがね)
ようは、「どれだけ違う考え方が出るか」という事が面白い
まえに、白翔さんも同じ事書いていた気がする…持論が覆されたり、別の情報が入って
くるかもしれないところが面白い、と(白翔さん間違ってたらごめんなさい)

山根さんのいう通り、何日か投稿のない日が続いたみたいですが
あまり気にしなくてもいいと思うのですが?
この時期何かと忙しいと思います。もう11月です
皆さんお仕事頑張ってくださいね!




Date: Thu, 28 Oct 1999 00:43:49 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0335] haさんの作品

mephistoです、こんばんわ。

《引用はHさんの「[gs-club:0323]どのような作品?」から》
>> 、どのような作品をお作りなのですか。
>> よければ、ご紹介ください。
>
>かしこまりました。すぐに御紹介できるのは
>僕の作ったものの中でweb上で公開されているもののみで、
>本来それ以外の現物もみて頂きたいのですが・・
>難しいですね。
>なので、アドレスを後程直接メール致します。

haさんからは、さっそくURLを教えていたただきました。
烟猴さんのとこも、すごいハイテクサイトでしたが、
haさんのところも、スゴイです。
ieでは見えないのでnetscapeを入れなくちゃならなかったぐらいハイテクなん
です。

作品は、プラスチックな感じなんですが、ポキリと手折ったら、じわーぼとぼ
とと真っ赤な血が出てきそうです。
おすすめです。かなりびっくりできるし、しみじみとした味もでてます。
「現物」というのも、見てみたい、というか、さわってみたいですね。

haさんが、ご自分のサイトのURLをMLに公開されないのは、どういうお気持ち
からかはわかりませんが、haさんにダイレクトメールでおねだりすれば、たぶ
ん教えてくれるかもしれないと、思います。



★mephisto★ mephisto@jwg.vip.co.jp

From: "Takeru Odani" <glob@l.office.ne.jp>
Subject: [gs-club:0336] はじめまして。入会させていただきました。
Date: Thu, 28 Oct 1999 03:15:04 +0900

芸術と思想クラブに入会させていただきました。

自己紹介させていただきます。
とりあえずMLで使わせていただく名前はネット上のハンドルネームに使っている'odn'と
させていただきます。

私は東京都内に住む大学学部生です。
専攻は物理ですが芸術・思想に興味があります。

芸術・思想は趣味として捉えており、さまざまのご意見を拝見することで知識の幅を広げ
たいと考えております。そのため私から実のある意見を発表することは難しいと思います
が、どうぞよろしくお願いいたします。

私が最後に自己紹介をしたのは高校の入学当時なのですが、自己紹介と言えば以下のよう
な項目が必須であったような記憶がございます。

好きなもの
 魚(刺身、焼き魚) 寿司 犬、猫などほ乳類
 パソコンなど機械 日本語 仏像
 日本酒 音楽(現在は主に邦楽) テレビゲーム
 雑誌 時代小説 煙草 辞書 文字 オタク
など

嫌いなもの
 数学 ラフォーレ原宿 肺ガン
 音楽(ほとんどの邦楽) 義妹
など

若輩者ですがよろしくお願いいたします。

'99 10/28
odn


From: "otyanomizu" <otyanomizu@post.expart.ne.jp>
Subject: [gs-club:0337] 有意義と無意味
Date: Thu, 28 Oct 1999 03:13:42 +0900

新規に参加させて頂きます、otyanomizuです。

人生は有意義と無意味の繰り返しでしょうか。

自分が人生というものを語れる程、
成熟した人間であるとは思わないのですが、
では成熟とは何かと問われると、それもまた分からぬ様であり、
成熟を考えた時点で、知っている様でもあります。

知っていると分からないの違いは何でしょうか。
知っていても分からない事があります。
分からなくとも、知っている事もあるのでしょう。

言葉は育ちながら、自分の知らない場所へ伸びて行きます。
元来自己紹介というものが苦手な私なのですが、
有意義と無意味の狭間で、どちらに傾く事も無く、
ただ、どちらであろうと考える人間です。

思考は私にとって、大切な趣味の一つです。
みなさんのメールを、生活の楽しみに出来れば幸いです。

それでは、失礼します。

otyanomizu@post.expart.ne.jp


From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0338] RE: [gs-club:0336] はじめ・期待の新人
Date: Thu, 28 Oct 1999 09:47:23 +0900



>芸術と思想クラブに入会させていただきました。
>自己紹介させていただきます。
>私は東京都内に住む大学学部生です。
>専攻は物理ですが芸術・思想に興味があります。

このMLの中で一番若そうです。期待の新人登場か?

>私が最後に自己紹介をしたのは高校の入学当時なのですが、自己紹介と言えば以下のよう
>な項目が必須であったような記憶がございます。

>好きなもの
> 魚(刺身、焼き魚) 寿司犬、猫などほ乳類
> パソコンなど機械 日本語 仏像
> 日本酒 音楽(現在は主に邦楽)テレビゲーム
> 雑誌 時代小説 煙草 辞書 文字 オタク
>など
>嫌いなもの
> 数学 ラフォーレ原宿 肺ガン
> 音楽(ほとんどの邦楽) 義妹
>など

これに習って皆さんもやりませんか?

好きなもの
 岩石 水 おいしい空気 お酒 星ぼし・・・・・
恐いもの
 今の女房 

                     マム・山形


From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0339] RE: [gs-club:0337] 無意味とソクラテス
Date: Thu, 28 Oct 1999 10:01:44 +0900

>新規に参加させて頂きます、otyanomizuです。
>人生は有意義と無意味の繰り返しでしょうか。
>自分が人生というものを語れる程、
>成熟した人間であるとは思わないのですが、
>では成熟とは何かと問われると、それもまた分からぬ様であり、
>成熟を考えた時点で、知っている様でもあります。
>知っていると分からないの違いは何でしょうか。
>知っていても分からない事があります。
>分からなくとも、知っている事もあるのでしょう。
>言葉は育ちながら、自分の知らない場所へ伸びて行きます。
>元来自己紹介というものが苦手な私なのですが、
>有意義と無意味の狭間で、どちらに傾く事も無く、
>ただ、どちらであろうと考える人間です。



ソクラテス登場です。古代ギリシャの同性愛について如何お考えですか?

 参考にエンカルタ
同性愛 どうせいあい同一の性に対する性的志向のことをいい、異性に対する性的
志向である異性愛と対照をなす。両性に対して性的志向がある人々は両性的、バイセ
クシュアルとよばれる。また、ホモセクシュアルは一般に男性の同性愛をさし、女性
の同性愛はしばしばレスビアンとよばれる。近年のゲイという言葉は、同性愛の男性
と女性の双方をさす。
同性愛に対する態度
同性愛行動に対する人々の態度は時間と場所によりことなっている。古代ギリシアで
は、同性愛関係は容認されており、男性間の友情をきわめるものとして、社会の一部
では期待される活動でもあった。その後のヨーロッパ社会では、同性愛を不道徳で罪
深いものとみなす当時有力だったユダヤ教とキリスト教の道徳律によって規定される
ことになった。しかし、他の多くの罪と同様に同性愛関係はあらゆる人間に固有の弱
点の表れとみなされ、精神疾患のある特定の人の行動とみなされることはなかった。
同性愛を病理現象とみる見方は19世紀後半にひろがった。20世紀の初頭、精神分析学
者は同性愛者をあやまった発達の犠牲者とみなし、フロイトは同性愛を逸脱状態と考
えた。近年、科学者は性的志向の生物学的な要因をさがしており、1993年に発表され
たある研究は性的な志向の遺伝学的マーカーをつきとめようとしたが、結論はでてい
ない。
欧米社会における同性愛者に対する偏見は、近年になってかわりはじめた。最初の大
きな変化は、アメリカの生物学者キンゼーによる2つの有名な調査、「男性における
性行動」(1948)と「女性における性行動」(1953)の発表後におこった。「キンゼー報
告」と総称されるこれらの研究は、同性愛者人口や同性愛行動の付随的な事件を誇張
してえがいているが、現実的な同性愛像を提供し、同性愛の神秘性をはぐことに役
だった。医療的心理的な援助をもとめてきた同性愛者に焦点をあてた従来の研究とは
ことなり、キンゼー報告は同性愛者を診療環境の外部でえがいた。キンゼーの発見に
よると同性愛者はあらゆる職業にみられるし、あらゆる家族にでてくるし、宗教を問
わない。
キンゼー報告につづく科学的な議論の結果、アメリカ精神病学会は1973年に同性愛を
精神疾患のリストから除外し、80年には「診断と統計マニュアル」から削除した。ま
た、WHOの「国際疾病分類」でも93年以降は同性愛の項目をもうけていない。
運動と直面する問題
最近、同性愛者の権利を支持する人々による権利拡大のための活動や示威行動が盛ん
になってきた。アメリカで同性愛運動の分岐点となった出来事は、1969年にニュー
ヨーク市でおきたゲイバーに対する警察の手入れに抗議するストーンウォール暴動で
あった。これは警察による嫌がらせに対する同性愛者の最初の社会的抗議行動で、こ
れ以降アメリカの同性愛社会は団結してゲイの権利をもとめ活動するようになった。
同性愛社会が直面する最大の危機の1つが1980年代初期のエイズの爆発的流行であっ
た。アメリカではこの疾病は最初、ゲイの男性の間で流行し、彼らに壊滅的な結果を
あたえながらひろがった。病気の実態や感染の経路がほとんど知られていなかったと
き、エイズ患者と同性愛者は住宅や健康保険などで大きな差別をうけた。
日本では伝統的に、同性愛に対してはヨーロッパ社会のような厳格な禁止を課してこ
なかった。もちろん、同性愛に対する差別がないとはいえないが、多分に趣味の問題
とかたづけられることが多い。
         "同性愛" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c)
1993-1997 Microsoft Corporation.




マム・山形


From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0340] RE: [gs-club:0331] [gs-club:0297]について。
Date: Thu, 28 Oct 1999 10:28:03 +0900



>僕自身は[gs-club:0297]に対する山形さんのお答えをジっと待っていたのですが
>ひょっとしたら読み飛ばされたかな?と、ちょっと心配になったので
>再度質問の最後の部分を投稿致します。
>お教え下さい。宜しくお願い致します。
>山形さんwrote:
>*絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。Charles Sanders Peirceの
>*言うような意味で
>*人間は記号的存在だと考えます。
>
>これが「人間は情報体的存在だ」
>と解釈すると自分の中に入っていくのですが、間違いですか?
>そして
>パースさんの言う意味において絵画的思考を結局言語的思考に還元するという
>事がもうひとつわからないのですが、例えば黒い四角形をみて
>「赤く塗ったほうがいいな」と思った場合、「何故赤か」
>という事はあまり考えずに塗っちゃうと思うんですね。
>国民性で色に対する感覚が違うという事では無くて
>「何故その形か?」「何故その色か?」ということを
>思っていて、「これでよし!」と思うまでに至る思考は
>論理的に還元しきれないと僕は考えますが、
>「絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。」とおっしゃる
>根拠をできれば具体例でお教え下さい。
>また、舞踏やダンスなどで肉体を動かす表現者にたいしても
>その言語的思考はあてはまりますか?

脳内におけるイメージ操作も記号行為として考えようという立場です。
言語活動そのものは必ずしも論理的なものではありません。むしろそれは特殊なもの
と考えます。
身体表現も記号操作に当然入ります。記号=言語はソシュールの「一般言語学」核心
部分だと思います。
またウンべルト・エーコの立場になりますか?またエンカルタですがとりあえず

エーコ Umberto Eco 1932〜 現代イタリアの美学者、記号学者、小説家。世界的な
ベストセラー小説「薔薇(ばら)の名前」の作者。イタリア北西部のアレッサンドリア
に生まれる。トリノ大学で美学をまなんだのち、RAI(イタリア放送協会)につとめて
文化番組を担当する。その後トリノ、ミラノ、フィレンツェの各大学で美学、コミュ
ニケーション論、記号論などをおしえ、アメリカの主要大学でもしばしば講義をおこ
なう。1975年にボローニャ大学の教授に就任、コミュニケーション・演劇研究所長と
なった。
中世美学と記号論研究
「トマス・アクィナスにおける美学的問題」(1956)で学位をとったエーコは、中世美
学の研究をつづけるかたわら、現代のアバンギャルド(前衛)芸術の理論的研究もおこ
ない、その成果を「開かれた作品」(1962)にまとめた。その後、アバンギャルドとは
対照的な大衆文化やマス・メディアの研究にもとりくみ、これら両者を包括する一般
的な記号論の研究にすすんで、「不在の構造」(1968)、「記号論」(1975)、「物語に
おける読者」(1979)などをあらわした。
「薔薇の名前」
1980年代に発表した小説「薔薇の名前」(1980)、「フーコーの振り子」(1988)など
で、エーコは小説家としても世界的な名声をえた。彼の小説にはその記号論研究の成
果が反映している。「薔薇の名前」は、86年にジャン・ジャック・アノー監督、
ショーン・コネリー主演で映画化されて話題をよんだ。
   "エーコ,U." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997
Microsoft Corporation. All rights

ソシュール Ferdinand de Saussure 1857〜1913 スイスの言語学者。その言語構造
についての思想は、構造主義言語理論の発展を基礎づけた。
ジュネーブに生まれ、ジュネーブ大学で1年間理科系の講義に出席したあと、1876年
からドイツのライプチヒ大学で言語学をまなんだ。79年、彼の唯一の著作である「イ
ンド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書」を出版した。これは、
インド・ヨーロッパ諸語のもとになったインド・ヨーロッパ祖語の母音体系について
の重要な業績である(→ インド・ヨーロッパ語族)。
ソシュールは、最初のころは言語の歴史研究である文献学を中心に研究していたが、
のちに、言語の一般的性質の研究である一般言語学に関心をうつした。1881〜91年ま
でパリの高等研究院でおしえたあと、ジュネーブ大学でサンスクリットと比較文法の
教授となった。
ソシュールは「覚書」以外の本は書かなかったが、その講義は学生たちに大きな影響
をあたえた。彼の死後、2人の弟子が講義のノートやそれ以外の資料をもとに、「一
般言語学講義」(1916)という講義録をだした。この本では、ソシュールの言語に対す
る構造的な考え方が説明されており、そこで提出されたさまざまな概念は、のちの言
語研究の基礎となった。ソシュールの業績は、言語学だけでなく、人類学、歴史学、
文芸批評などの分野にも影響をあたえた。→ 言語学
        "ソシュール" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c)
1993-1997 Microsoft Corporation.

言語学 げんごがく言語の科学的な研究をさし、分野としては、特定の言語の音・
単語・文法の研究、ことなる言語間の関係の研究、すべての言語に共通な特徴の研
究、などがある。また、コミュニケーションを社会学的・心理学的な側面から分析す
る分野もある。
通時研究と共時研究
言語を記述・分析するための、いくつかのことなった視点が存在する。まず、1980年
代のパリのフランス語といったように、ある特定の時代の状態を研究することができ
る。このような研究を共時言語学とよぶ。これに対し、ある言語の、長い期間にわた
る変化を対象とするのが通時言語学である。ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化
していく過程の研究は、通時的研究の一例である。20世紀の言語学は通時的視点と共
時的視点の双方から研究がおこなわれているが、19世紀の言語研究は、通常、通時的
視点からおこなわれた。
理論言語学
また言語学の研究は、理論言語学と応用言語学にもわけられる。理論言語学は、言語
を記述したり、言語の構造を説明したりするモデルや理論の構築をめざす。応用言語
学は、科学的な言語の研究の成果を言語教育、辞書の編纂、言語療法などにもちい
る。機械翻訳と機械による音声認識は、20世紀後半において応用言語学が成果をおさ
めた分野である。
言語学の様相
個々の言語やその変化をしらべ、記述する方法はいくつもあるが、たいてい次のよう
な研究によっておこなわれる。音声学と音韻論による言語の音の研究、形態論による
音の連続、つまり単語の構成の研究、そして構文論による文の中の単語どうしの関係
の研究である。そのほか、語彙(ごい)の研究や意味論による研究によってもおこなわ
れる。
音韻論
音韻論とは、特定の言語における意味をもつ音の研究と同定である。これに対して、
音声学とは、すべての言語の言語音と、それらがどのように発音されるかについての
研究である。
形態論
形態論は、特定の言語の中で意味をになう形態素とよばれる要素を対象とする。形態
素には、英語のcranberryにおけるcran-のような語根、英語のbirdや日本語の「鳥」
のような単語、英語のpreadmissionにおけるpre-や日本語の「お味噌汁」の「おセ」
のような接頭辞とopennessにおける-nessや「大きさ」の「セさ」のような接尾辞、さ
らには、英語のsing「歌う」とsang「歌った」、mouse「1匹のネズミ」とmice「複数
のネズミ」のような、語の内部において時制・数・格といった文法的範疇(はんちゅ
う)をあらわす音の交替がふくまれる。
構文論
構文論とは、文中での単語間の関係の研究である。例をあげると、英語でもっとも普
通の語順はMary baked pies.「メアリがパイを焼いた」にみられるように「主語セ動
詞セ目的語」であり、Pies baked Mary.は英語の文として意味をなさない。これに対
して、日本語の語順は「メアリがパイを焼いた」にみられるように基本的には主語セ
目的語セ動詞だが、日本語では文中の名詞の役割を「が」「を」のような助詞によっ
て明確にあらわしているため、「パイをメアリが焼いた」のように、語順の入れ替え
が可能である。
20世紀以前の言語学
古代より19世紀にいたるまで、言語学とはおもに書記言語の文献学的研究であった。
前5世紀というはやい時期に、インドの文法学者パーニニはサンスクリットの音と単
語を記述し分析した。さらにのちに、古代ギリシアとローマで文法的範疇という概念
が確立された。
何世紀もののち、印刷技術が発達し、聖書が何カ国語にも翻訳されて、さまざまな言
語の文献があらわれたため、ことなる言語どうしを比較することが可能になった。
18世紀初頭にはドイツの哲学者ライプニッツが、ヨーロッパ・アジア・エジプトの諸
言語が共通の源から発しているのではないかという仮説を提起し、比較文献学・比較
言語学の誕生をうながした。ライプニッツの推論は、一部ただしく一部あやまってい
ることがのちに証明された。
18世紀の終わりに、イギリスの学者ウィリアム・ジョーンズ卿(きょう)が、サンスク
リットがギリシア語やラテン語に似ていることを指摘し、共通の源から発生したのだ
ろうとのべた。19世紀初めの言語学者たちはこの仮説をさらに追求した。
ドイツの文献学者ヤーコプ・グリム(→ グリム兄弟)とデンマークの文献学者ラスク
は、ある言語の単語の音が、別の言語の関連のある単語の中の似た音と対応している
時には、その対応は規則的であることに気がついた。たとえば、ラテン語のpater
「父」とped-「足」という単語の最初の子音pは、英語のfatherやfootにおける子音f
に対応している。
19世紀後半までには、音の対応に関して多くの分析がなされた。ヨーロッパの青年文
法学派は、同族の言語間の音の対応が規則的であることだけでなく、そうした音の法
則には例外はなく、例外とみえるものは他の言語からの借用などによるものだという
仮説を提起した。たとえば、「歯」をあらわす単語がラテン語ではdentalis、英語で
はtoothとなるように、ラテン語のdは英語のtに対応するはずである。しかし、英語
のdental「歯の」という語はdという音をもっている。
青年文法学派は、これは、音の対応の規則から期待されるtをもつtoothがもとからの
英語の語であるのに対し、dentalはラテン語からの借用だからであると説明した。
ことなる言語の関連のある単語どうしを比較して規則的な音変化を発見するこの方法
は、比較言語学的方法とよばれ、これにより、語族、つまりおたがい関係がある言語
どうしのグループの設定がおこなわれるようになった。この方法により、語族の中の
より小さいグループである多くの語派をふくむインド・ヨーロッパ語族が想定され
た。英語は、この語族の中のゲルマン語派に属する言語である。
20世紀以降の動向
20世紀において、言語学はいくつかの方向にわかれた。
記述言語学
記述言語学においては言語学者は、もとから存在する文献ではなく、母語話者から
データをあつめ、そのデータを音韻論、形態論、構文論といったいくつかのレベルに
わけて、言語の要素を分析する。
こういった分析法は、それ以前にまったく記述されたことのないアメリカ先住民の諸
言語を記述する必要にせまられたアメリカの人類学者ボアズとサピアが確立したもの
である。
構造主義
アメリカの言語学者ブルームフィールドは、ボアズやサピアなどの仕事にのっとっ
て、意味をなるべく考慮しないで行動主義的に外的要素のみによって言語を分析する
ことを提唱し、記録のない言語の音と文法構造を発見する技術の重要性を強調した。
このような言語の分析方法を構造主義といい、言語学のみならず人類学や哲学思想に
も大きな影響をおよぼした。
アメリカの構造主義が実際の発話を重視したのに対し、ヨーロッパの構造主義は実際
の発話と区別して、その基底にある抽象的な言語の体系を重視した。この傾向は、ス
イスの言語学者ソシュールの講義録が彼の没後1916年に発行された時点にはじまる。
ソシュールはラング(フランス語で「言語」)とパロール(「話」)という概念を区別し
た。ラングとは、ある言語の話者がその言語で何が文法的かということについてもっ
ている知識であり、パロールとは、その言語での実際の発話である。
プラハ学派
1930年代にチェコスロバキアのプラハで盛んだったある学派は、言語の構造以上のも
のを問題にし、発話された言葉とその文脈との間の関係を説明することを目標とし
た。このプラハ学派の言語学者たちは言語内の要素の機能を重視し、言語の記述は、
ある内容がどうやって伝達されるかということをふくむべきだと主張した。音韻論の
分野では、音を調音上の、また聴覚上の要素へと分解する弁別素性の考え方が高く評
価され、他の学派にもとりいれられている。
生成文法
20世紀半ばに、アメリカの言語学者チョムスキーは、言語学は言語の構造を記述する
以上のことを、つまり言語において文がいかに理解されるかについての説明をすべき
だと主張した。彼によると、この過程は普遍文法という言語の知識、すなわち言語能
力の理論によって説明できる。
言語能力とは、話者が、今まで聞いたことのない文もふくめた文をつくりだし、また
理解することを可能にする、生まれながらの、ほとんど意識下の知識のことである。
そして、ある言語において文法的に認容可能なすべての文を生成し、非文法的な文を
すべて排除するようなシステムを生成文法とよぶ。
変形生成文法
チョムスキーによると普遍文法の規則と個々の言語の規則は別であり、個々の言語に
おいては普遍文法の規則とその言語に固有の規則の両方が適用される。これらの規則
により、文の構成要素はさまざまな構成の中にあらわれる。たとえば「メアリはポー
ルにキスした」という能動文と「ポールはメアリにキスされた」という受動文の両方
が生成可能である。
このように、基礎となる基底の意味的要素を、実際に発話され理解できる文へとかえ
る文法を変形文法とよぶ。つまり、変形生成文法とは、ある言語の認容可能な文をす
べて生成し、基底の要素を実際の発話へとかえる(変形させる)規則をもつ文法のこと
である。
現代比較言語学
20世紀における比較言語学は、南北アメリカ、ニューギニア、アフリカといった地域
において語族をうちたてることをめざし、また、言語における普遍的な原則を追求す
る。世界の言語を類型論的に特徴づけることが新たに関心をあつめており、性別をも
つ言語ともたない言語、主語を重要視する言語と主題を重要視する言語など、言語を
文法構造と文法範疇にもとづいて比較することがおこなわれている。
例をあげると、スタンフォード大学の言語普遍性プロジェクトにおいて、アメリカの
言語学者グリーンバーグと同僚たちは、「主語セ動詞セ目的語」といった基本的な語順
が同じ言語は、ほかの特徴についても共通部分をもつということをしめした。こうし
た比較研究は、世界の言語の音・構造・意味の体系がどのような形をとる可能性を
もっているかをさぐる試みである。
社会学・心理学的分析
心理言語学は、心理学と言語学の両方の分野の重なる部分の研究であり、子供による
言語の習得、音声認識、失語症、言語と脳の関係を研究する神経言語学などを対象と
する。社会言語学は、言語が社会の中でどのように機能するかを研究し、ことなった
状況で人間が適切な言語行動をとるためにもちいる規則を記述することが目的であ
る。どのような状況で人を「ミズ」「ミセス」「メアリ」「先生」、またはたんに
「あなた」とよぶか、などが1例である。
           "言語学" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c)
1993-1997 Microsoft Corporation.

記号論 きごうろん Semiotics 記号の本質や機能について研究する学問分野。記号
学ともいう。
記号
記号とは、人間が知覚することができるもの(音や形や色など)が、なんらかの対象や
概念をあらわしているものをいう。
人間の言語は、音が概念(意味)をあらわしているので記号であるし、交通信号は、
赤、青、黄という色が「とまれ」、「すすめ」、「注意」という概念をあらわすので
やはり記号である。男性用、女性用のトイレをあらわす男女の身体の形も記号であ
り、葬式のときに着る黒い色の喪服も、死者への追悼の気持ちと同時に葬儀という儀
式に参加する意思をあらわすという意味で、やはり記号であると考えられる。
このように、社会の中で人間が活動するときに使用するさまざまの手段は、広い意味
で記号とみなすことができる場合が多い。
ソシュールの記号論
スイスの言語学者ソシュールは、いろいろな言語でもちいられている単語は、たとえ
ば日本語の「やま」ならば[yama]という音に「山」という意味がむすびついている事
実から、言語は記号の一種であると考えた。したがって彼によれば、言語の研究をす
る言語学は、記号を研究する学問である記号論の1分野であるということになる。そ
して言語という記号についての重要な性質は次のようなものであると主張した。
言語記号の恣意性と体系性
まず、「山」という意味を[yama]という音であらわす必然性はどこにもないことから
もわかるように、言語記号の意味(シニフィエまたは所記)と音(シニフィアンまたは
能記)との間にある関係は恣意的である(→ シニフィアンとシニフィエ)。そして、
「やま」という単語の意味は、「おか」(丘)や「みね」(峰)などのほかの類似した意
味をもつ単語の意味との関係ではじめて明確に規定されるという性質をもっているこ
と、つまり言語記号には体系性(構造性)があることを指摘した。
ソシュールによって言語記号の体系性が明らかにされたことは、それ以後の構造主義
的言語学を発展させる契機となった。
パースの記号論
アメリカの哲学者パースは、記号を表示部(ソシュールのシニフィアンにあたる)とそ
の対象、そして解釈項という3つの部分からなるものとしてとらえた。
表示部と対象
彼は、表示部と対象との関係の性質にもとづいて、記号を「図像」、「指標」、「象
徴」の3種類に分類している。
図像(アイコン)とは、表示部と対象とが物理的に類似しているものであり、先にあげ
たトイレのしるしや、高速道路のパーキングエリアにあるレストランをあらわす、ナ
イフとフォークが交差した図形などがふくまれる。
指標(インデクス)とは、表示部と対象の間に空間的、時間的あるいは物理的に密接な
関係があるものをいう。テレビの天気予報で翌日は晴れだということをあらわすのに
もちいられる、太陽をかたどった図形が指標のひとつである。
象徴(シンボル)とは、言語記号のように表示部と対象との関係がたんなる約束にもと
づいているもので、平和をあらわすハトや愛情をあらわすハート形のマークも象徴で
ある。
解釈項
またパースは、あらゆる記号には、その表示部と対象の関係をしめす他の記号が対応
していると考え、このような性質をもつ記号を解釈項とした。彼は、記号の意味を、
その記号の解釈によってみちびかれる人間の行為様式の全体としてとらえていたた
め、解釈項という要素を記号にふくめることが必要だったのである。
記号の体系性批判
ソシュールのような、記号の価値がその体系によって規定されるという見方から、文
学作品や衣服、建築などを、それだけで完結した体系とみなして分析する研究が、と
くに1960年代以後のフランスでおこなわれた。その代表者がロラン・バルトである。
一方ロシアの記号学者バフチンは、記号の価値が日常生活での実際の記号使用から生
じてくるものと考えて、記号の体系性を批判した。したがって彼によれば、文学作品
はそれがおかれた具体的な状況によって理解されなければならないことになる。フラ
ンスではクリステバが、バフチンやフロイトなどの影響のもと、詩的言語理論を展開
している。
           "記号論" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c)
1993-1997 Microsoft Corporation.


From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0341] 議論について。
Date: Thu, 28 Oct 1999 10:49:23 +0900



読書会聞き役に。ごめん。時間が無い。皆さん本を読むのに忙しい?
その間、私の所信表明でもやっときますか?白翔ですが・・・。
幕間つなぎにやっときます。
私はこのMLの投稿では議論で打ち負かしたいとも説得したいとも実は思って
いない。まあ、どうでもいいとは思ってる。うっそう!いやホント。ただ性分という
ものがある。それに我らが世代の議論の作法てなものもある。詰まるまでやる。
昔ですが手紙の頃、往復書簡がどれだけ溜まったものか。議論というものは
引っくり返し引っくり返し合って詰めて行くことに意義がある。
と思っているのは私ぐらいなものかな?
マムさんは同じだと思うけど。ちょっとタイプは違うか?まあ世代によっては作法
が違う。最も僅かな差異を詰めようとゲバ棒を握って殴り合った世代でもある。
あの神経はとうとう私には解らずじまいだった。いつの時代も熱き血潮のお方は
いるものだ。私は冷めた方の一人だった。でも今の20代30代に比べると熱い方
になるのでしょうねえ?とことん議論を尽くすというのは若い世代ではやらないの
かも知れないねえ。直ぐに分かり合った振りをして。それとも開き直って詰めること
をうざったいと思っている。結局、最後のところは溶け合うことはありませんから、
まあそこそこで打ちきれ。
まあ「特に言語で思考する記号的人間である我々は自己と他者の間の線引きは
困難になり、両者は融合する。」
という訳には絶対いかないのが自他の差別化を何よりも求める個人のなせる技である。
やはり同じでは我慢が出来ぬが又離れ過ぎても不安で落ち着かないといった厄介な
存在でもある。少なくとも違いの核心を浮き上がらせて論点をクリアーにして、
それに立てた命題が時代に照らし合わせても、理論的にも正しいのか間違っている
のかということを確かめたいというのは皆さんあるでしょう。

私はここで考えたことをいずれ何らかの形で使おうと思っていますから、まあ
どういう文体がいいのか書きなぐりながら試して作っていきたいとは考えて
いるわけです。ちんちん話は論文用語の中どこまで許されるか?とかね。
例えば「甲斐の庄」のときなんかヤマネさんやマムさんにしてもとんとんトン
トン物語が切れないうちに資料や謎を出してくるからついつい熱くなる訳です。
一人でぼーっとなかなか考えられないもんです。能率のいいこと。多分、皆さん
も同様だと思う訳です。でも本気で考えると時間は取られる。仕事がおろそか
になる。それで頻繁には出せないから一週間に一遍位になる。それで他の人
にからんだメールもなかなか出せない。質問してもとんとんとはいかないから、
自ずからまあ自分の考えを纏める感じになってしまう。それでも考えが纏まる
うちはいいけど、いずれは冷めてどうでもよくなってくるのだろう。
どうしてもそうなるね。そうなればどっぷり聞き役に回ることになる。
それはそれで読むだけでも面白いかと思う。

議論と言うことで言えば例えば栗田の次の言説を取り上げるとする。
「しかし、同性愛にあっては精神的な渇望は肉の欲望によって、完全に
満たされることはない。あるいは肉欲が、不自然なために、つねに精神は
渇きつづけている。」
ん?不自然だって?馬鹿馬鹿しい。自然はもっと多様です。今さっき雄だったの
が瞬間雌に変貌っていう生物だって珍しくないし、もっと不思議な奴がウヨウヨいる。
ここで栗田は「同性愛の肉欲が不自然なため」と言うが明らかにこの論理は
間違いで、正しくないわけです。と私は思う訳です。
当然だが同性愛を変態と呼ぶ人はそう主張してもいいし、病気であると言っても
狂っていると言ってもいいわけです。もしかするとそれが正しいということになる
やもしれん。それはそれ、その理論で解釈して行けばいいこと。
でもそれは理論的に考えて正しくはないでしょうと。性欲(リピドー)の対象が
羊に向かおうがお人形に向かおうがそれをもって変態と呼ぶこと無かれ。個人の
成長段階ではいろんなことが起こり得る。何故なら人間の本能は壊れているわけ
だから。人間は本能が壊れてしまった。ということがキーワードではありません。
先ほど言ったように本能に順じている生物だって多様だと言うことが有る訳ですから。
そして尚かつ人間は本能に似せて文化というものを作り出した時点から人間になった
と言っていいから、後は文化の中での同性愛の位置付けを見ればよい。
同時に人間は文化を作った途端に、今まで大いなる愛に包まれていた自然からは
引き裂かれて文化の名のもとに打ち立てた記念碑のそびえる高さの分、地下帝国
は深く乖離となって沈潜してゆく回路をも併せ持った。
性欲(リビドー)の行方は(食欲とか性欲にかんしてはまだまだ本能の名残りがある
訳で)概ね男女の結びつきを志向するのがまあ多数派だということ。
同性愛てなもんは時代の差こそあれ古くから脈々と流れている堂々たる文化の
一つではないですか。ある時代においては政策として奨励されたこともある。
ある時代においては迫害され異端視されたこともある。第三の性と珍重され持ては
やされた時代もある。脈々と男娼(男に春を売る男)の切れた時代と言うのは東西
において一度もないでしょう。
(書いてる途中で同性愛に関してのマムさんの投稿、よろしく参照。)

ただこの見解が皆さんの納得を得られるかどうかはわかりませんから、そこで又
討論になる訳です。栗田は私の論を多分そっくりきれいに反論して引っくり返すだろ
うし、そして又私が挑むと。議論は煮詰まれば煮詰まるほど明解になってゆきます。

議論においては感情的なものもないからね。ましてや遺恨などあるものか。
たかだか言葉の遊びだからね。脳みそをそっくり否定されたように思わん方が良い。
議論して追い詰め合うとひょんな風に名文が生まれてくることにもなる。
それに皆さん何らかの形で作家活動に手を染めている方々が多いような気がします
が、
作家たるもの自分の脳みそさえ机上に乗せて、ああでもないこうでもないと弄繰り回す
遊びが欲しいと思うのです。皆さん、恐らくナルシシストで無い筈が無い。
自分自身をどう動かして行くかと言う遊びが一番のお気に入りの遊びで有る筈。
どうぞご自分の身をぽんと投げ出しそこから何が起こるのかを物陰からじっとご覧遊
ばせ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 mailto:copper@par.allnet.ne.jp
 WebSite http://user2.allnet.ne.jp/hakushou/


From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0342] odnさん、otyanomizuさんはじめまして。運営係です
Date: Thu, 28 Oct 1999 11:53:59 +0900

こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com


----- Original Message -----
送信者 : Takeru Odani <glob@l.office.ne.jp>
件名 : [gs-club:0336] はじめまして。入会させていただきました。
> 芸術と思想クラブに入会させていただきました。
> 自己紹介させていただきます。
> とりあえずMLで使わせていただく名前はネット上のハンドルネームに使っている'odn'と
> させていただきます。

----- Original Message -----
送信者 : otyanomizu <otyanomizu@post.expart.ne.jp>
件名 : [gs-club:0337] 有意義と無意味
> 新規に参加させて頂きます、otyanomizuです。
>
> 人生は有意義と無意味の繰り返しでしょうか。



odnさん、otyanomizuさんはじめまして。
わたくしは、ヤマネともうします、MLの裏方運営係です。

自己紹介の掲示板があります。
http://bbs.towax.ne.jp/a22/yamane.cgi?
なにかお書き込みください。

過去ログもあります。ご参照ください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log278-327.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log229-277.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log172-228.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log117-171.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log66-117.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log14-65.htm
この過去ログには、メールアドレスなど、個人情報がふくれまれておりますのでむやみ
に外の人に見せないでください。それだけ、お願いいたします。

では、ご活躍を期待します。




From: Masanobu Aihara <n9702376@kokugakuin.ac.jp>
Subject: [gs-club:0343] はじめまして。
Date: Thu, 28 Oct 1999 12:12:23 +0900

あいはらです。
東京で学生している、22才です。
なんかおもしろそうだったので、入会してみました。
むずかしそうなテーマなので、少しずつ慣れていけたらと思っています。
では、よろしくお願いします。




From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0344] RE: [gs-club:0313] ノモスからカオスへ・ソラリスの海
Date: Thu, 28 Oct 1999 13:05:06 +0900



この白翔さんのメール全体がすばらしいエッセイというか小説というかとてもいいバ
ラスがあります。
そして改めて白翔さんの銅版画のページに行き全部の作品を見なおしました。
それから過去ログも半分ぐらいあたりました。それでなんとなく白翔さんおぼろげな
がらの全体像が浮かんできそうです。無論まだ落ち着いた訳でもなく、進行中の興味
と関心なわけですが・・・・

「鉄男」のことを佳嶋さんが言及していましたが機械と人間の融合という視点からい
うとそれもあたっています。白翔さんの作品の中にもこれにちかいイメージがいくつ
かあるように思えます。諸星大二郎でいえば「イオ」という小品がありました。メ
ジャーでは「アキラ」があります。サイボ−グもこれに近いのでしょうか。システム
と人間の一体化という視点では「甲殻機動隊」や「マトリックス」があると思いま
す。
それで新しい集合的智のあり方としてタルコフスキー「ソラリスの海」があります。
他人と自己との境界線は「言語の海」が超えることに成るのでしょうか?ラブロック
のガイア仮説とグローバル・ブーレンの融合したイメージです。

舌足らずですがとりあえず。       マム・山形





From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0345] 新入会の方々へ【読書会】があります
Date: Thu, 28 Oct 1999 16:31:34 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

新入会の方々へ
11/6(土)から「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄著・文春新書)で読書会を予
定しています。11/6前夜に運営係が「始まりますよ」と声をかけさせていただ
きますから、その後、みなさんは感想や批評を投稿してください。そして議論
を始めてください。投稿と議論の期間は3週間ほどの予定です。

もちろん、強制参加ではありません。興味のある方だけどうぞ。





From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0346] 代理投稿「皆さんこんにちは、、サキと申します」
Date: Thu, 28 Oct 1999 16:44:04 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

サキさんはsaki_5@hotmail.comでこのメーリングリストに登録されていますが、
xxxxx@olive.ocn.ne.jpというアドレスで投稿されたので、メーリングリストにメールが
流れませんでした。それを運営係が代理投稿します。

> From: "KOSUGE Sakiko" <xxxxx@olive.ocn.ne.jp>
> To: <gs-club@freeml.com>
> Subject: =?iso-2022-jp?B?GyRCJE8kOCRhJF4kNyRGISobKEI=?=
> Date: Thu, 28 Oct 1999 12:46:41 +0900
>
>
> 皆さんこんにちは、今日から参加することになりました、サキと申します。
> 学生です。
> 直前の投稿を拝見するとかなり熱そうなMLでとても楽しみです。
> 是非私も考えを出せるようして行きたいのでどうぞよろしくお願い致します。
> まずはご挨拶まで。
>




From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0347] サキさん、あいはらさんはじめまして。運営係です。
Date: Thu, 28 Oct 1999 16:58:49 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com


----- Original Message -----
送信者 : Eiji Yamane <eiji_yamane@hotmail.com>
件名 : [gs-club:0346] 代理投稿「皆さんこんにちは、、サキと申します」
> 運営係が代理投稿します。
>
> > From: "KOSUGE Sakiko"
> > 皆さんこんにちは、今日から参加することになりました、サキと申します。

----- Original Message -----
送信者 : Masanobu Aihara <n9702376@kokugakuin.ac.jp>
件名 : [gs-club:0343] はじめまして。
> あいはらです。
> 東京で学生している、22才です。



サキさん、あいはらさんはじめまして。
わたくしは、ヤマネともうします、MLの裏方運営係です。

過去ログがあります。ご参照ください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log278-327.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log229-277.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log172-228.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log117-171.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log66-117.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log14-65.htm
この過去ログには、メールアドレスなど、個人情報がふくれまれておりますのでむやみ
に外の人に見せないでください。それだけ、お願いいたします。

では、ご活躍を期待します。




Date: Thu, 28 Oct 1999 20:16:00 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0348] 「岩石」といえば

mephistoです、こんちわ。

《引用はMasao Kohmuraさんの「[gs-club:0338]RE: [gs-club:0336] はじめ・期待の新人」から》
>好きなもの
> 岩石 水 おいしい空気 お酒 星ぼし・・・・・
>恐いもの
> 今の女房 

「岩石」といえばヤマネさんのリンク集に
「加藤の鉱物コレクション」とかいうのがありましたね。
http://www.asahi-net.or.jp/~ug7s-ktu/index.htm

マムさんや、みなさんは、どんな岩石に美を見いだされますか。

★mephisto★ mephisto@jwg.vip.co.jp




From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0349] RE: ソラリスの海
Date: Fri, 29 Oct 1999 07:09:03 +0900

-----Original Message-----
差出人 : Masao Kohmura <komura@cg.tuad.ac.jp>
宛先 : gs-club@freeml.com <gs-club@freeml.com>
日時 : 1999年10月28日 13:06
件名 : [gs-club:0344] RE: [gs-club:0313] ノモスからカオスへ・ソラリスの海

>この白翔さんのメール全体がすばらしいエッセイというか小説というかとてもいいバ
>ラスがあります。
>そして改めて白翔さんの銅版画のページに行き全部の作品を見なおしました。
>それから過去ログも半分ぐらいあたりました。それでなんとなく白翔さんおぼろげな
>がらの全体像が浮かんできそうです。無論まだ落ち着いた訳でもなく、進行中の興味
>と関心なわけですが・・・・
>
>「鉄男」のことを佳嶋さんが言及していましたが機械と人間の融合という視点からい
>うとそれもあたっています。白翔さんの作品の中にもこれにちかいイメージがいくつ
>かあるように思えます。諸星大二郎でいえば「イオ」という小品がありました。メ
>ジャーでは「アキラ」があります。サイボ−グもこれに近いのでしょうか。システム
>と人間の一体化という視点では「甲殻機動隊」や「マトリックス」があると思いま
>す。
>それで新しい集合的智のあり方としてタルコフスキー「ソラリスの海」があります。
>他人と自己との境界線は「言語の海」が超えることに成るのでしょうか?ラブロック
>のガイア仮説とグローバル・ブーレンの融合したイメージです。
>
>舌足らずですがとりあえず。       マム・山形




白翔です。
やっと仕事が一段落。またもや昼夜大逆転。
マムさんへ感謝。「ソラリスの海」もう一度見なおします。
お友達の高橋史郎さんはデザイン科ですね。するとマムさんもそうですか?
最先端のお仕事をなさっているようで羨ましく思います。史郎さんのサイト、
シャルル・アズナブールの「ラ・ボエーム」の歌声と共に懐かしく拝見しました。
遠き日の夢、帰り来ぬ青春。
あの時代、私もどこぞの片隅でデザインの勉強をしておった。ゲバ棒こそ
持たなかったが同じようにデモに参加しシュプレヒコールをあげたこともあった。
先日久しぶりにその道を歩いてみたが町並みはそう変わってはいなかった。
当時行き付けの喫茶店は店こそあったものの人の住んでいる気配はなかった。
若い女店主はどこぞの愛しき人の元へと嫁いだのだろう。
懐かしいとは言え私にとっては苦しい時代だった。夭折の天才を夢見た訳では
ないが、とてもとても40を過ぎて尚生き延びていることなど想像だに出来なかっ
た。
何を思ったか私は30の声を聞くか聞かないうちに銅版画の世界へ飛びこんだ。
しかも、中世のヨーロッパの真っ只中へ。アナクロニズムもいいとこだった。
時代を遡ることで時代の先端へとひょいと顔を覗かせたような気分に襲われた
ものだ。何と言うことだ。若さゆえの勘違いだった。それが大間違いであると
気付いたのは近年のことである。

私のサイトの文章に次のように書いた。

1960年代、アメリカの作家アンディ・ウォーホルは大量消費社会、情報化社会
のもたらす感性の画一化の予感をモンローの顔の反復やキャンベル・スープの
反復に託して、近代芸術の謳歌していた様々な個性の表現の死を予言した。
いかに個性や自由を標榜しようとも一方的な情報の押し付けに管理された複製
人間の社会は到来する。それは、今にして思えば電脳社会の幕開けの予感で
あった。微細に観察すれぱ無限の多様性に見えたそれぞれの人間の個性の瞬き
は俯瞰して見れば大河の流れに似て、たかだか幾種類かの分類ファイルに収め
られ管理され、そっとデジタルな記号に置き変えられてゆく。

いかにして自己を表現するのか?
いつの頃からか現代人全ての課題となりました。そこが旨くいかなくなるといろんな
精神疾患を引き起す。犯罪者も又しかりだと言ってよい。
近代美術の謳歌したテーゼと言えば一言で言えばかけがえのない個性です。
作品はその作家達の醸し出す人間的ドラマの結晶のようなものであり、むしろ関心
の焦点は表現する主体の自我のドラマそのものにあったといっていい。一つだに同じ
ものとてない個性。自由を求めてさ迷える魂の軌跡。いかに生きるべきか?
さまよえる魂はいかにして救われるのか?

そんな甘酸っぱいナルシシストの蒸かし饅頭の頭をこえてハードボイルドどころか
カリカリのスクランブルエッグのごときサイバーチック・シンドロームが一挙に
襲いかかろうとしている。にも増して彼らのため息は募るばかり。憂さの捨て所は
どこにあるのか?一体全体、私の出番は無くなってしまったのだろうか?
お礼に代えて。甘酸っぱいお話で失礼。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 mailto:copper@par.allnet.ne.jp
 WebSite http://user2.allnet.ne.jp/hakushou/






Date: Mon, 1 Nov 1999 15:12:23 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0350] [gs-club:0340]について。



haです。
[gs-club:0340]にて、山形さんの御返答を頂きました。
ありがとうございました。

大変長い引用があり、勉強になったのですが、
山形さんのおっしゃった御返答の

***[gs-club:0340]より
脳内におけるイメージ操作も記号行為として考えようという
立場です。
言語活動そのものは必ずしも論理的なものではありません。
むしろそれは特殊なものと考えます。
身体表現も記号操作に当然入ります。記号=言語はソシュールの
「一般言語学」核心部分だと思います。
***

が、それ以前に山形さんのおっしゃった考え。

*** [gs-club:0295]より
絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。
Charles Sanders Peirceの言うような意味で
人間は記号的存在だと考えます。
***

と、どうしてもつながりません。
[gs-club:0340]の山形さんの返信を、危険ですが
簡単にまとめると、
絵画的思考=記号に還元可能
言語的思考=記号に還元可能
思考や表現は全て記号に還元可能。
すなわち、人間は記号的存在である。という事ですね。
でも、「絵画的思考も結局言語的思考に還元できる」
部分が今、まだ答えてもらってない気がするのです。
「絵画的思考も結局記号に還元できる」
という事ならすんなり納得できるのですが・・・

つまり、絵画的思考と言語的思考を
共通言語である記号を通して、翻訳する事ができると
いう事でしょうか?
それがもしそうなら、具体的にどう行われるかを
聴きたいのです。

僕の考えを再三申しあげますと、
絵画的思考は結局言語的思考に還元不可能である。
という立場ですので、何故可能であるかをお教え頂けます
でしょうか。
(出来ましたら山形さんの言葉だけで結構ですので)




Date: Mon, 1 Nov 1999 21:54:13 +0900
From: sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp (Shiro SADO)
Subject: [gs-club:0351] Message for gs-club



はじめまして

さどといいます。

男(24)で、工学系の大学で学生をやっています。

たまたまWWWで見つけて、おそるおそる入会させて頂きました。

レムとか、いいですね。
あと、ギブソン&スターリングのディファレンス・エンジンのラストが
気に入ってます。

一時期、澁澤龍彦の、観念のアラベスクといった風なエッセイを愛読してました。
で、翻訳ものの方も、少し、という訳で、さどだけに、サドもちょっとだけ読ん
だのですが、今、漠然と残ってる印象としては、キリスト教というか当時のフラ
ンスのモラルを、奇麗に裏返したような印象が強過ぎるような気がして、議論の
シーンとかは、あんまり好きじゃありません。

ただ、好きなのは、どちらかといえば理屈っぽさよりは雰囲気で、ベルトランの
夜のガスパールがめちゃくちゃ良かったです。あと、雰囲気の点で、ポオの「メ
ルツェルの将棋指し」や、「ユリイカ」が良かったです。

この会も、どことなく錬金術的な雰囲気があるので、なにか、期待しております。

それでは、よろしくおねがいします。

---
豊橋技術科学大学大学院工学研究科修士課程知識情報工学専攻 1年
佐渡詩郎 (さど しろう) / e-mail : sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp




From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0352] さどさんはじめまして。運営係です。
Date: Mon, 1 Nov 1999 22:15:44 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com


----- Original Message -----
送信者 : Shiro SADO <sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp>
件名 : [gs-club:0351] Message for gs-club
> はじめまして
> さどといいます。

サドさん、はじめまして。
わたくしは、ヤマネともうします、MLの裏方運営係です。

過去ログがあります。ご参照ください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log278-327.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log229-277.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log172-228.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log117-171.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log66-117.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log14-65.htm
この過去ログには、メールアドレスなど、個人情報がふくれまれておりますの
でむやみに外の人に見せないでください。

11/6(土)から「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄著・文春新書)で読書会を予
定しています。11/6前夜に運営係が「始まりますよ」と声をかけさせていただ
きますから、その後、みなさんは感想や批評を投稿してください。そして議論
を始めてください。投稿と議論の期間は3週間ほどの予定です。
もちろん、強制参加ではありません。興味のある方だけどうぞ。

では、ご活躍を期待します。





From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0353] 自己紹介掲示板から
Date: Tue, 2 Nov 1999 02:01:57 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com
http://bbs.towax.ne.jp/a22/yamane.cgi?の自己紹介掲示板に
ずいぶんたくさんの方が書き込んでくださいましたので、MLに紹介します。



はじめまして  投稿者:無為(ムイ) 投稿日:99/11/01(月) 23:54

こちらに書き込むのは遅くなりましたが、つい数週間前から参加させて
いただいてる
無為(ムイ)と申します。デザイナーのアシストをやっています。
春に大学卒業したばっかりです。

感覚と思考はどうつながるのか、それが私の中の目下のテーマであります。
このMLは、このテーマにぴったりだと思い、おもしろそーなMLだと思い、
参加させていただきます。

心理学(夢分析他)・哲学などに関心があります。実技専門でしたので、
最近は図像学にめざめつつあります。よろしくお願いします。



はじめまして  投稿者:さど  投稿日:99/11/01(月) 21:52

男(24)で、工学系の大学で学生をやっています。

たまたまWWWで見つけて、おそるおそる入会させて頂きました。

レムとか、いいですね。
あと、ギブソン&スターリングのディファレンス・エンジンのラストが気に
入ってます。

一時期、澁澤龍彦の、観念のアラベスクといった風なエッセイを愛読してました。
で、翻訳ものの方も、少し、という訳で、さどだけに、サドもちょっとだけ読ん
だのですが、今、漠然と残ってる印象としては、キリスト
教というか当時のフランスのモラルを、奇麗に裏返したような印象が強過ぎるよ
うな気がして、議論のシーンとかは、あんまり好き
じゃありません。

ただ、好きなのは、どちらかといえば理屈っぽさよりは雰囲気で、ベルトランの
夜のガスパールがめちゃくちゃ良かったです。
あと、雰囲気の点で、ポオの「メルツェルの将棋指し」や、「ユリイカ」が良か
ったです。

この会も、どことなく錬金術的な雰囲気があるので、なにか、期待しております。

それでは、よろしくおねがいします。

http://www.smlab.tutkie.tut.ac.jp/~sado/



ニアミスはじめまして。  投稿者:サキ 投稿日:99/10/28(木) 12:19

今日は、私も今日から参加させて頂くことにあいなりました、
サキと申します。学生です。一応哲学科に籍を置いてるには置いてますが
サボってばかりで知識はないです。
皆さんの胸を借りるつもりで参加していきたいと思っていますのでどうぞ
よろしくお願いします。



はじめまして。  投稿者:あいはら。 投稿日:99/10/28(木) 12:03

んー、難しそうなMLです。
そこに惹かれて入会希望しました。
22才で学生しています。
将来不安定です。
よろしくお願いします。



初めまして  投稿者:山野  投稿日:99/10/21(木) 19:03

山野といいます。
初めまして。

しばらくロムっておりましたが、
ご挨拶をしていないことに気づき、あわててご挨拶申し上げます。
30才を超えたおっさんですが、
どうか宜しくお願いします。



hajimemashite  投稿者:ha  投稿日:99/10/21(木) 18:08

はじめまして。
今日から参加させていただきます
haと申します。
28才です。
どのようなディスカッションがあるのか
楽しみです。



はじめまして  投稿者:からあげ丸 投稿日:99/10/19(火) 20:47

皆さんはじめまして。
憂鬱同盟のゲストブック
の書き込みから、
こちらに来ました。
とても興味深い話題なので、参加したいと思いました。

私は、芸術とは疎遠な人間ですが、「人間とは何か?」という事を
ずっと一人で考えていました。
皆さんの興味深い発言が聞ければ幸いです。

それでは失礼します。

http://yokohama.cool.ne.jp/karaagemaru/



はじめまして  投稿者:イマタケ  投稿日:99/10/12(火) 15:17

はじめまして。イマタケと申します。
MLに参加するのは初めてなのですが、せっかくお誘い頂いたので参加することに
しました。
「人間の感性的側面と、理性的側面の接触、合一」というのに興味を引かれまし
た。
私はイラストを描くことを生業としています。仕事とは別に油絵なども描いてい
ます。
とりあえずよろしくお願いします。

http://www02.u-page.so-net.ne.jp/sb3/s-ima/



初めまして  投稿者:佳嶋  投稿日:99/10/09(土) 01:14

皆様始めまして。佳嶋と申します
イラストなど描いてる人間です
この度山根さんkらお誘いいただき、興味を惹かれて入会いたしました
面白い話や、興味深い話など楽しみに参加させていただきます
よろしくお願いいたします!

http://www.ne.jp/asahi/kashima/echo/




From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0354] RE: 言語の定義が狭い
Date: Thu, 4 Nov 1999 12:42:15 +0900



>[gs-club:0340]の山形さんの返信を、危険ですが
>簡単にまとめると、
>絵画的思考=記号に還元可能
>言語的思考=記号に還元可能
>思考や表現は全て記号に還元可能。
>すなわち、人間は記号的存在である。という事ですね。
>でも、「絵画的思考も結局言語的思考に還元できる」
>部分が今、まだ答えてもらってない気がするのです。
>「絵画的思考も結局記号に還元できる」
>という事ならすんなり納得できるのですが・・・

それで構いません。

>つまり、絵画的思考と言語的思考を
>共通言語である記号を通して、翻訳する事ができると
>いう事でしょうか?

言語的思考も絵画的思考も身体的思考もすべて記号プロセスだ。というのが僕の立場
です。

>僕の考えを再三申しあげますと、
>絵画的思考は結局言語的思考に還元不可能である。
>という立場ですので、何故可能であるかをお教え頂けます
>でしょうか。

「言語」を狭く捉えすぎていると思います。

          マム・山形


From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0355] 男色物など
Date: Thu, 4 Nov 1999 12:54:48 +0900

陰間 かげま
江戸で用いた男娼(だんしよう)の通称。1652年(承応1)に若衆(わかしゆ)歌舞伎が禁
止されたのは,その役者が男色の対象とされ,売色が盛んに行われたためであった。
とくに年少者が求められたため,まだ舞台には立てぬ養成中の少年役者の売色が多
く,それを専業とするものが少なくなかった。こうして〈陰の間〉の役者,つまり舞
台に出ぬ役者の意の陰間は,そのまま男娼の通称となった。陰間に対して,舞台に出
演するもので売色するものは舞台子,色子,旅かせぎをするものは飛子(とびこ)とも
いった。また,関西では後年まで若衆と呼んだ。彼らの年齢は10〜17歳が中心で,は
じめは小姓風の扮装であったが,のちには髪を島田髷(しまだまげ)に結い,大振袖を
着,言語や動作も女性的にした。その売色の場を提供する家を陰間茶屋と呼び,陰間
を抱えている家を子供屋といった。江戸の陰間茶屋は,芳町,木恐町,湯島,芝神明
などに集中していたが,前2者は芝居町に近く,後2者は寛永寺,増上寺に近く僧侶た
ちを客にしたからだといわれる。なお,ときには女性客もあり,また,男女の密会に
利用されることもあった。⇒男色        原島陽一
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

男色物  なんしょくもの
狭義には,江戸初期の仮名草子やそれを受けた浮世草子好色物(好色本)の一型を指
す。広義には,時間と空間を問わず,また文学上のジャンルにとらわれず男色を扱っ
た文学の総称である。もともと日本にはなく大陸からの渡来者,とりわけ仏教者の風
俗が浸透したというのは俗説にすぎない。ただし〈男色は弘法に始まる〉といわれる
ごとく,日中交流の盛んであった奈良時代に入唐僧によって唐からもたらされた男色
は,一種の先進風俗として迎えられ,記紀をはじめとして《万葉集》《古今和歌
集》《伊勢物語》《今昔物語集》《古今著聞集》などにうかがうことができるが,断
片的なものが多い。また,平安時代末となると,公家の日記《台記》《玉葉》などに
も,その記事が散見する。鎌倉から室町時代以降になると,どちらかといえば公家僧
房に限定されていた男色が新興武士階級にも広がって,正面から男色を文学のテーマ
として取りあげるようになる。《秋夜長物語》《あしひき》《嵯峨物語》《鳥辺山物
語》《弁の草紙》など従来の中世物語の形式に,仏道とからんだ形で稚児との性愛=
男色が織り込まれた物語が流行し,文字どおりジャンルとして稚児物語が成立した。
稚児愛の経済的有効性から,田楽等の芸能者集団は花形としての稚児を抱え,稚児の
人気が集団の人気を左右するようになった。能や幸若でも同様で,作品からいっても
《鞍馬天狗》《花月》《谷行》など,テーマ自体すでにかなり濃厚な男色=稚児愛の
風が見られる。下って江戸時代になると,一般庶民の間にまで広まり,女色と五分に
対応するまでに盛行し,いろいろな形で(知的に男色を論じ男色を賛美するもの,男
色の技術を解説するもの等々)男色を扱った書物が相次いで刊行されるようになっ
た。
 仮名草子には,男色女色優劣論をテーマにした《田夫物語》,実話を素材にした
《藻漢物語》,稚児若衆に衆道の心得を説く《心友記》《催情記(さいせいき)》《よ
だれかけ》《犬つれづれ》などがある。また文学そのものとはいえないが,田楽,能
楽等の伝統を受けついで少年俳優を売物にすることによって男色を広める一翼を担っ
た歌舞伎の世界では,遊女評判記に倣って《野郎虫》《影野老(むきところ)》《赤烏
帽子》などの野郎評判記が刊行され,のちには《三の朝》なる男色細見というべきも
のまで発行された。1687年(貞享4)に刊行された西鶴の《男色大鑑》は,前半4巻には
武士僧侶間に盛行した念友関係,その緊張感から生まれる意気地,義理の損藤,その
涯(はて)は敵討や決闘に至るという血なまぐさい男色譚を収め,さらに,金銭を媒介
とするという意味で職業的な少年俳優との同性愛譚を集めた後半4巻で成り立ってい
る。浮世草子男色物の決定版といわれる。以後はこれら2種のテーマを扱う長編の続
き物《男色木芽漬(きのめつけ)》《男色比翼鳥》《男色義理物語》《好色江戸
紫》《好色俗むらさき》,断章集である端物《男色子鑑》《色の染衣(そめぎぬ)》な
どの浮世草子が次々と刊行された。    松田修  (c) 1998 Hitachi Digital
Heibonsha, All rights reserved.

異常性欲 いじょうせいよく abnormal sexuality
異常性欲,すなわち性欲の異常な発現は質的異常と量的異常とに一応大別することが
できる。しかしそのうち質的異常についてはっきりした定義を下すことは困難であ
る。性という現象は,歴史的・社会的・地理的・文化的影響を間断なく受けており,そ
れゆえにその正常・異常の基準はつねに変動するからである。正常と異常との境界は
あいまいというほかはない。異性間の合意に基づく通常の性交を至上究極のものとみ
る立場をとれば,それ以外のさまざまな手段が性交を凌駕する性的快感をもたらすゆ
えをもって重視されたり習慣化している状態は,異常とみなすことができる。昔とは
ことなり今日あらゆる種類の性的前戯は異常とはふつうみなされないが,それらが性
感獲得のための最上の手段となっている場合は,それが個人のもつ心理的困難のなん
らかの反映である可能性は否定できず,フェティシズム,服装倒錯,動物性愛,小児
愛,露出症,窃視症,性的マゾヒズム,性的サディズムなどがふつうその質的異常と
みなされる。同性愛もこの範疇に入るが,同性愛にもこの傾向にみずから悩まない自
我親和的な同性愛と,この傾向に悩み異性愛への転向をつねに望む自我違和的なもの
とがある。今日のアメリカの精神医学界は,後者のみを治療の対象になるものと考
え,前者は精神障害とはみなさない立場をとっている。これはアメリカをはじめとす
る欧米先進国における同性愛サブカルチャーの興隆と主張とに対応した動きでもあ
る。性はもともと2人での現象なのだから,当事者どうしの相互の納得と満足とがあ
れば,たとえ定義上は異常性欲とされるものでも社会的には問題を起こしてこない。
気の合った同性愛者が共同生活をしている分には問題がないが,同性愛者が異性愛者
と結婚生活を送れば,早晩,問題を起こしてくる道理である。
 フロイトは人間の幼児時代は多形倒錯的であると主張した。のぞく,露出する,大
小便に興味をもつ,サド・マゾヒズム的傾向などが幼児期に明瞭にみられる。幼児期
はまた性感帯としての口唇部,肛門部の活動の旺盛な時期でもある。前者は成人の性
的前戯に,後者は同性愛の場合に意味をもってくる。異性愛に移行する前にはなんぴ
とにも一時的に多少なりとも同性愛的傾向が生じることは精神分析ならびに発達心理
学の教えるところでもある。フロイトの見方に立てば,性の質的異常を呈する者は,
幼児性欲の段階に固着している者であるといえよう。
 性欲の量的異常としては,性欲の減退と性欲の亢進とがある。しかし双方ともに一
時的・一過性(例えば,気分の変動を伴う性欲の減退と亢進)のものは,異常性欲とは
いえない。理論的には,体質的,内分泌的要因による性欲の量的異常が考えられない
わけではないが,現実にはそのような現象はほとんど存在しないとみてよい。現実に
存在するのは,外見上の減退と亢進とである。すなわち減退は感情発達の未熟や持続
的な心的損藤に基づく性欲発現の抑制である場合が多い。また性不能症(インポテン
ツ)や冷感症のごとき性機能障害は,性欲の減退とイコールではない。自慰の激しい
性不能者もいれば,性交回数の多い冷感症者もいるわけである。性欲の亢進も真性の
ものはまれである。これも心的損藤の結果,性的満足を得たいためにつぎつぎと性交
を反復する場合が一見亢進にみえることが多い。ドン・フアン風の漁色家は固着が強
く自己愛的であるといわれているし,漁色が内実は権勢欲の表現であることもある。
女性の場合も,無意識的にはペニス羨望と口唇愛の強い自己愛者に異性遍歴が多いと
される。要するに男のサチリアジス satyriasis と女のニンフォマニア nymphomania
と称せられる性欲亢進行動は,内実は神経症的なふるまいと解釈できることが多いと
いうことである。老人に性欲亢進がみられることがあるが,これは脳の老化に基づく
自己抑制の減弱の表れであることが多い。⇒性倒錯               
   下坂 幸三 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
幼児性欲 infantile sexuality
S. フロイトの性欲についての中心理論の一つ。フロイトは人間の性の欲求の発達
は,乳幼児期からすでにはじまると考えた。乳児の吸乳行為は,本来は栄養衝動に根
ざしているが,この本能としての食欲に依存しながらも,これに伴う口唇・口腔器官
の快感が二次的にも独立してくる。すなわち乳児は空腹でないときでもおしゃぶりで
栄養をとるさいの動作を反復して,深い満足を味わう。おしゃぶりはやがて指しゃぶ
りに発展し,また自慰と結合することすらある(口唇期)。また大便の通過による肛門
部への粘膜刺激も快感となる。この快感獲得をめざす幼児は,便をぎりぎりまでため
こみ一挙に排出するので,親のトイレット・トレーニングの意のままにはならない(肛
門期)。3,4歳から5,6歳になると男女ともに性器への興味をはっきり示すようにな
るが,それは性交を表象する興味ではなく,積極性や格別の快感をもたらすものとし
ての男女に共通する男根(ペニス)への関心である(男根期)。なお吸乳時において乳首
を貨むこと,ならびに排便時における貯留と排泄とには,サディスティックな満足が
からむ。
 これら口唇,肛門,男根に集中する幼児の快感は,やがては成人の異性との結合を
めざす性器性欲(性器期)に連続し統合される〈部分欲動〉である。したがって幼児性
欲は〈前性器的〉である。〈性器的〉と〈性的〉とは明確に区別されるべきものであ
り,幼児性欲は〈性的〉ではあっても〈性器的〉ではない。また快感獲得の対象が主
として自己自身の身体部分であるという意味で〈自体愛的〉(オートエロティズム)で
ある。また,性器以外の身体部位がエロティックな満足をもたらすのだから〈多形倒
錯的〉でもある。実際さまざまな性倒錯者は,フロイトによって幼児性欲の段階に固
着したものとみなされている。また神経症は,エディプス・コンプレクスの克服に失
敗して,性器性欲の段階から,幼児性欲の段階に退行したものと解釈される。
 フロイトの幼児性欲説は,これまで精神分析学派内で全面的な否定を蒙ったことは
ないが,イギリスの対象関係学派のフェアベアン W. R. D.Fairbain は,1952年に,
幼児は快楽を求める存在ではなく,対象(母親)をはじめから求める存在であると明言
した。この見方からすれば,フロイトのいう幼児の自体愛は一次的なものではなく,
幼児の自慰や指しゃぶりのような自体愛的行動は,他者の愛情獲得の象徴的な等価物
であり,対象が得られないための代償的な行為であるということになる。⇒性欲  
            下坂 幸三
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

性欲 sexual desire
一般に男女または雌雄両性間に生じる性交への欲求をいい,日常的には肉欲ともい
う。類語として性衝動,セクシャリティがあり,それらの関係は次のとおりである。
性衝動 sexual drive は性的満足あるいは究極的には生殖に向けられた身体的基盤を
もつ一次的衝動であり,性欲の原動力となるべきものである。セクシャリティ
sexuality は性欲に関するいっさいの事象を意味し,心理学的な用語として,好んで
用いられている。
 性欲は体験,学習,外的刺激に依存する面が大きく,単なる性衝動の発現ではな
く,個人の生育史,社会,文化の影響を著しく受けるものである。
[性欲発生のメカニズム] 性欲は性行動の動機的役割をなすもので,摂食行動にお
ける食欲に相当する。しかし性欲は食欲や飲水欲とは次の点で大きく異なる。すなわ
ち,後者は個体の生命を維持するのに必須な物質不足から,視床下部にある中枢の生
理的反応として発生するのに対し,性欲はそのような不足状態による中枢刺激反応と
して出現するものではないということである。食欲や飲水欲がホメオスタティックな
動因であるのに対し,性欲はホメオスタティックでない動因である。ところが,性欲
も含め,これらの動因に関する中枢はすべて視床下部および大脳辺縁系にあって,同
じような生理的機序で作動していると考えられている。視床下部の中枢はなんらかの
刺激によってインパルスを出し,それを大脳辺縁系が受けて,性欲や食欲,飲水欲な
どそれぞれの動因を形成するのである。
 性欲の場合,中枢を刺激する最大の因子はいうまでもなく,性ホルモンである。こ
のことは,性ホルモン分泌上昇の著しい思春期や,睾丸(こうがん)機能が低下する類
宦官症(るいかんがんしよう)に男性ホルモンを投与したとき,性欲亢進がみられるこ
とでも明らかである。一方,性欲の形成,亢進に対する大脳新皮質の影響も小さくな
い。心因性インポテンツの鑑別検査法に,ポルノグラフィーを見せて,性欲亢進―勃
起発来をチェックする方法があるほどである。食欲や飲水欲にも大脳新皮質の影響が
あることは事実であるが,ホメオスタティックな動因でないだけに,性欲のほうが大
脳新皮質の支配が強い。動物のように,ホルモン支配の強い周期的発情期のほとんど
ない人間の場合,それだけ大脳新皮質との関連が強まっているといえよう。
[性欲の発達] 性欲への大脳新皮質の関与という点では,性欲をより発展させ深め
た心理学的概念にリビドー libido の概念がある。S. フロイトは性的エネルギーを
リビドーとよび,その段階的展開として,幼小児期から,口唇期,肛門期,男根期と
進み,成人になると性器期として成熟すると説いている。この間,対象愛としてのリ
ビドーは男児のエディプス・コンプレクスや女児のエレクトラ・コンプレクスをつくり
ながら,異性愛へと展開していくと解釈されている。生理的な性行動に直接的に結び
つく性欲の基礎に,最小の群集本能としての男女の結合本能における潜在的な心理的
衝動の存在を想定しているのである。また A. キンゼーの研究によっても,比較的年
少の幼小児期から,性的満足感や自慰感覚が発達していることが報告されている
(1948)。人間の性欲形成,発達の背景には心理的なエロスの発達,性的感覚の発達そ
して性的能力の成熟の3者が一体となった展開があるといえる。         
  熊本 悦明
[性欲と人格の発達] 精神分析学は成人の性行動に前駆する幼児性欲の存在を主張
した。そこでは口唇,肛門,尿道,皮膚,筋肉などの活動に伴う満足は,一種の性的
快感とみなされる。この中ではとりわけ口唇と肛門の活動が重視されている。幼児性
欲の発達は,単に成人の性器主導の性生活に連なるばかりでなく,人格全体の発達に
も密接な関係があると考えられている。また創作活動のような,一見,非性的な活動
も,しばしば広義の性欲の昇華や象徴化とみなされる。
 性欲は正常な性生活においてはもちろんのこと,空想上も他者(たとえば自慰),あ
るいは他者の象徴的代理物(たとえばフェティッシュ)を必要とするが,正常の性生活
が営まれるためには,哺乳類においては,同種の親に生後一定期間愛育されること
が,ぜひ必要である。生後直ちに親ザルから隔離されて飼育されたサルは,成長して
も,身体的には健康であるにもかかわらず,性交を行うことができないことを,ハー
ロー夫妻 H. T.Harlow,M. K. Harlow が実験的に確認した。インポテンツに代表さ
れる性的機能障害を示す者に,しばしばゆがんだ母子関係のなかで成長した者が多い
ことは,ハーローらの実験を想起させる臨床的事実である。また生後直ちに異種の代
理親に育てられると,しばしばこれにのみ性的愛着行動を示すようになる,誤った刷
込み現象が起こることも,K. ローレンツらによって確認されている。 なお,性欲
の量的・質的な異常についてはそれぞれ〈異常性欲〉〈性倒錯〉の項を参照された
い。⇒性‖性交                 下坂幸三 (c) 1998
Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.






Date: Thu, 4 Nov 1999 14:04:52 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0356] Re: 言語の定義が狭い



haです。
はなしになりませんね。
論点ズラシをするのはやめてください。卑怯だと思います。
説明しきれないならしきれないと正直に言えばいいのに・・・

**
>つまり、絵画的思考と言語的思考を
>共通言語である記号を通して、翻訳する事ができると
>いう事でしょうか?

言語的思考も絵画的思考も身体的思考もすべて記号プロセスだ。
というのが僕の立場です。
**

それは前の段階でききました。その上、答えになってません。

***
>絵画的思考は結局言語的思考に還元不可能である。
>という立場ですので、何故可能であるかをお教え頂けます
>でしょうか。

「言語」を狭く捉えすぎていると思います。
***

なんの説明にもなってません。
お茶を濁しているとしか思えません。
では、広義の「言語」とは何ですか?
「絵画的思考は結局言語的思考に還元可能である。」
と最初におっしゃったのは山形さんですが
そこで語られる「言語的思考」の言語も
広義の意味でおっしゃってるのなら対比する絵画的思考
の「絵画」の広義はなんでしょう?

・・などと質問しても論点ズラシや膨大な引用で
ごまかされるのはイヤなので結構です。
「論理的感性と芸術的感性の合一を目的とする」という
主旨の、このMLには大変な興味をもって入会しましたが、
「議論を拒否するごまかし言葉ゲーム」は
何の前進もありません。
身になっていないのなら「・・という事がかかれてあった」
ぐらいにとどめておいたらどうですか?
「還元可能である。」とおっしゃったと言うことは、
その根拠が山形さん自身の中に
説明可能な論理が出来てると言う事ではありませんか?
・・疑問形で終わるのはやめます...

失礼します。

※管理人さまへ
この投稿における僕の発言が本MLにおいて不適切であれば
僕を除名してください。





From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0357] 切れるなっちゅうねん。
Date: Thu, 4 Nov 1999 16:48:32 +0900



白翔です。
ははは・・・。切れやすい二十代か?
でもいいのいいの、全然大丈夫。除名なんてもっ〜と先。
除名は君が犯罪に近い行為を行ったとき。ん?違うか?
ああ、これはヤマネさんの領分だ。ごめん。ごめん。
マムさん。ぶっきらぼうだからねえ。それにすぐ山ごもり。
口うるさい奥さんから逃げているんだと私はふんでる。私もいつも
逃げたいと思っているからねえ。
で?ああ、そうだ。
haさんはご自分の論理展開をしてみるといいけどね。そうするとお互いが
煮詰まってくるけどねえ。切れるだけでは駄目駄目。
mephistoさんみたいに名文出さなくちゃ。[gs-club:0243]呼んでご覧。
わたしゃアレ呼んで唸ったぞい。
次は何かの手助けになったら?

欲望というものを考えて見る。人間存在の最深部。
カオスにして何かざわざわしているもの。ブヨブヨしてまだ形の無いもの。
まあ、マグマと考えてもいいしとにかく変幻自在なゼリー状のものだね。
普通はダラーとしてるんだが、お腹がすくと一点集中食欲という形で
先鋭化して行動を命令してくる。又は何らかの刺激で性欲へと変わる。
又何かの刺激で先鋭化してといったことを繰り返す。

脳に視床下部という部位がある。主に食欲や性欲などの欲求を作り出
している脳であるが、性中枢の中心は視索前野と呼ばれる性欲の情報を
発信する脳である。ところがこの脳が自発的に性欲動を発動しているので
はなく、サルの実験においても対象からの刺激を受けないと発動しない
そうである。つまり、性欲の発動の鍵はやはり大脳の認識いかんでもある
そうな。(マムさんの「男色物など」も参照してね。マムさんが力説している
通り引用はその人の意見だからね。それを選び出すわけだから。つまり
人間存在において記号化できる部分は自他不二であるというのは、そもそも
この論のマムさんの出発点ですよね。)

ん?欲望はカオスの海だと言う風にいえるのだろうか?多分いいよね。
もしも、その欲望が限定して先鋭化して例えば、「アレをしたい。」という
ことになればサインとしての記号化(イメージ化)したといっていいかも知
れない。ただここまで記号に加えると本能によって動かされている動物
一般にも当てはまるから?ん?ん?そう言えるのかな??ん?
動物の食欲とか性欲もイメージ化されているのかなあ?ウ〜ン?
どうだろう?本能によるイメージ化という風にいえるか?ややこしい。
蚕はだからクワの葉しか食べない。本能で決められているから。

人間は本能が壊れたから擬似本能である文化(例えば記号)を創ったと。
逆に言えば言葉を発明したと同時に本能図式がこわれてしまって、動物
にとっては完全であるはずの欲望の本能図式が破綻しているために、
生のエネルギーがもはやいろんな方向に無限定に混乱し、生物学的に
分節(先の話の先鋭化)しきれずにカオスとなって登場し、これが私達の
欲動となっていると。人間はこの欲動を言葉化(イメージ化)する能力
(言分け)で意味化せねば動きが取れないし生きていけない。

食べられるものと食べられないものと言分けしなければ恐らく食べる
ことが出来なくなる?ん?まあ本能の名残りがあるから味覚に応じて
何か食べることは食べるんだろうけど。それとも食べること不可能
なのかなあ?そんなことはないね。本能とは連動はしているから。
例えば、狼少年は本能のまま生きられるわけだから、そのレベルでは
いけると。しかし、人間としては無理やりにでもイメージ化し言葉化してゆか
ざるを得ないと。でないと混沌として不安でしょうがないということは言えるの
かなあ。しかし、当然にも表層意識の言語の特性であるデジタルな信号性は
私達の潜在的欲望とは常にズレを生じ、いつ綴じ目がほころびマグマが吹き
上げてくるか危うい状態にある。その為に自我はもろもろの欲望を抑圧し、
不安な兆しをいち早く察知して防衛規制を働かせなければならない。
この現実原則というのは社会の掟みたいなもので常にストレスとして働くと。
例えば、何かモヤモヤした性に関した欲望がある。とても普通の大人の
恋愛とか性関係には向かわないで、何故か相手の首締めないと射精し
ないとか強姦とか逸脱した方向にしかいかない人がいるとします。
でもそれをやることで取りあえずは満足できると。
でもその「何かモヤモヤした性に関した欲望」というのがもっとマグマに
近いところまで降りて行ったときにはもっと激しい破壊衝動かもしれない。
だから欲望が限定した時点(分節化)でイメージ化(記号化)といえるの
かもしれん。近似値のイメージ化。ウ〜ン?もう一歩やね。

それで言語化(イメージ化)したときに手の隙間から抜け落ちた部分と
いうのがある。だからズレた部分。いずれにしても言語化やイメージ化は
近似値ですから。まあ、ため息の部分と言って良い。真の欲望といっても
いいし無意識の欲望と言っても良いし快感原則と言っても良い。
この部分で人間は他者と線を引くんだと私は思っている。だってお互いの
快感原則は確実にぶつかるからねえ。戦争をするんだ。必ずね。
あなたを食べてしまいたいほど好き。前半部分に真意があるとすると明らか
にぶつかる。まあ、溶け合うことはない。
この論争までも繋がるちゅうわけやね。

人間の使うサインとシンボルこの総てを記号的言語という訳でしょう。
サインというのは反射、信号みたいなものだね。シンボルは抽象化の
能力というわけですね。余談だが絵画でいう抽象画というのは全くの
具体画で具象画というのが例えば樹を抽象したものを描いているとか
空を抽象したものを描いているということは知っていますよね?
余談過ぎるっちゅうねん。
例えば、失語症及びそれに類した病があります。左脳の言語中枢が
やられると重症の場合、言葉というものを失いますね。でも結局、
大脳皮質の一部を失うということでしょう?人間になって始めて発達した
部分。イメージ化を司る部分も含めても脳の一部。
大脳辺縁系の海馬をやられると記憶を失うとか、扁桃核を刺激
すると攻撃し続けるとか、側坐核を刺激すると死ぬまで走りつづける。
仮に総ての人間が失語症になったとする。だとしても人間存在は続いて
いくわけで類人猿のレベルで存在すると。そうなると人間存在ではなくなる?

例えば遺伝子というものを考える。ここに書きこまれている情報は
アメーバから始まって人間までの進化の過程が書きこまれているわけで、
人間となった期間はどのくらいでしょうか?数十万年?
北京原人で数万年前かなあ?
記号的存在になってからの期間はアメーバからで一万分の一くらいか?
いい加減に書いているから、それぞれ直して下さい。
では一万分の9999は非記号的存在であったときの記録でしょう?
だとすると作り上げた文化・文明というものは総て記号に置きかえられると
いうことには同意できるとしても、まだまだ人間存在を記号的存在とイコール
に置きかえると言う訳にはいかんと思いますがねえ。

ん?迷ったかなあ?
あわてて考えたからね。後は誰か付け足して。
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Date: Thu, 04 Nov 1999 18:43:50 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0358] 言語と絵画の共通性



mephistoです、こんちわ。

《引用はHさんの「[gs-club:0297] Re:情報体」から》
>*絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。
>
>絵画的思考を結局言語的思考に還元するという
>事がもうひとつわからないのですが、例えば黒い四角形をみて
>「赤く塗ったほうがいいな」と思った場合、「何故赤か」
>という事はあまり考えずに塗っちゃうと思うんですね。
>国民性で色に対する感覚が違うという事では無くて
>「何故その形か?」「何故その色か?」ということを
>思っていて、「これでよし!」と思うまでに至る思考は
>論理的に還元しきれないと僕は考えますが、
>「絵画的思考も結局言語的思考に還元できると思います。」とおっしゃる
>根拠をできれば具体例でお教え下さい。

haさんの質問を読んでみると、
「論理的に還元しきれない」という言葉があります。
つまりhaさんは、「言語=論理的」そして「絵画=非論理的」
という前提をお持ちのようです。
しかしこれは正しいでしょうか。

四角を描いていて、それを赤に塗る。
その場合は、「何故赤か」ということはあまり考えない、とhaさんは言われる。
言語の場合はどうでしょうか。
四角い箱が目の前にあった。「車だ」と言う。
その場合も「何故車か」ということはあまり考えないので気楽に発言している
のではないでしょうか。
ここだけ見ると、両方とも【無意識的】であり、【非論理的】です。

そして「それは何故か」と問いつめられたら、
言語の場合は、定義という物がありますから、「車輪が四つあって、エンジン
の音がする物は、車である」という論理によって、「車だ」と僕は言ったので
ある、と言うことができるでしょう。
これは、言語の【論理的】部分ですね。

でも、絵画活動に対しても、「何故か」と問うことができると思います。たと
えば、・・・・「人間は、いらいらしているときは、破壊の衝動が生ずる。破
壊を端的に表すのは殺戮である。つまり血だ。ここから、『人間が、いらいら
しているときは、赤を好む』という命題をつくることができる」・・・こんな
感じで、絵画の場合でも、論理的追求に応ずることができるのではないでしょ
うか。「このような【法則】があるから、僕は「赤」を塗ることになったのだ」
と言うことができるでしょう。
絵画活動においても、【法則】つまり、【論理的】部分が、あるのではないで
いょうか。

このように考えてくると、
言語活動も、絵画活動も、表面的には【無意識的、非論理的】である。
しかしそのどちらも、【論理的背景】をもっている。
と、言えるのではないでしょうか。
つまり、この考察によれば、
言語活動と絵画活動を、別のものだ、とは言えない。
両者には【共通の部分】がある。
と、言えるでしょう。
ですから、
言語活動と絵画活動をひっくるめて、記号的活動である。
と言ったとしてもいいのでないでしょうか。
「記号的」という言葉は、
絵画と言語との共通部分を意味している
と考えればよいのです。

★mephisto★ mephisto@jwg.vip.co.jp




Date: Thu, 4 Nov 1999 19:04:43 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0359] Re: 切れるなっちゅうねん。2



haです。

そうですね。確かに自分が
「絵画的思考を言語的思考に還元するのは不可能だと思う」
根拠を述べる必要がありますね。
それは確かです。いたらなかったかなと反省してます。
ただしこれは山形さんからのリアクションを
期待するものでは無く、「述べずにキレルのはよくない」
という反省において表す発表です。

**

えーと、まずその「言語的思考」の「言語」を
山形さんのおっしゃる狭義の言語「ことば?」
論理のような物と受け取りました。
(そういう対比で出されると普通そのように
受け取るんじゃないかなあ・・・)
絵画的思考・感覚的思考は
僕が思う、言葉にならない知覚やそれに
元づく行為ですね。
例えば記号という僕の受け止め方でおおざっぱに
いうと、人間は
「視覚的思考」「聴覚的思考」「触覚的思考」
「味覚的思考」「嗅覚的思考」「言語的思考」
「超感覚的思考」「時間的思考」などなど・・

ダンスだけが僕には不明です。
「肉体的思考」なのか上のいくつかの「思考」
の結果の「行為」にあたるのか・・

・・で、それらの思考それぞれは他の思考に
還元するのは不可能と考えているのです。
唯一他者と共有できる思考が言語的思考ですから
他の感覚的思考と言語を分けて考えるのが普通かも
しれませんし、あらゆる事の説明・共有の為
言語的思考が他の感覚を翻訳する役割をになって
発達してきたのは確かでしょう。
でも「大きい」「小さい」「臭い」「赤い」
「うるさい」などと言語で表すことがある程度
可能だとしても、いくつかが還元できたとしても
全ては還元は出来ないと思うのです。

絵画的思考が言語的思考に還元できない
というよりは
ある感覚的思考は、それのみでしか持ち得ない
ある領域を持っている。
という考えですね。
ひょっとしてここですでに論点がズレてたのかな?

かまわず続けますと、ある本を読んで
「言語的に」その考えを実感したのですが、
共有できる部分、たとえば時間的思考「その速度」
は音に表す事ができる。「その速度」が
時間的思考と聴覚的思考で還元できる。
その速度のなにかが目の前をバーッと過ぎれば
視覚的思考も「その速度」を思考できる。

でも「100度の熱さ」は音にするのは難しい
でしょうね。「三角形」も音にするのは難しい。
つまり触覚と聴覚の還元不可な部分がある(仮に)。
視覚と聴覚の還元不可な部分がある(仮に)。

色「赤い音」等はただでさえ不可能っぽいし、
民族が変わるともう無理だろうと書かれてました。
そう思います。

言語的思考はどこまでいっても「定義や説明」で
それは還元ではないと思ったのですね・・

上記の例も、説明でしかありません。

(もし議論が進んだら、詩人の表現はどうなるのか
是非伺いたかった・・)

メールは言語的思考でやりとりされますね。
ですから
言語であらわせない他の諸思考の還元不可の部分と
言語的思考の還元不可の証明は言語では
今の僕にはできません。
ですから「不可能だと思う」のです。
「還元可能」であれば、それは言語に置き換えられるの
ですから言語で説明してもらえたら
すごく面白い事だなあ、教えて欲しいなあと思ったわけです。

以上でした。

むちゃくちゃな文章だと受け取られた方、
申し訳ありません。





From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0360] 十分だね。
Date: Thu, 4 Nov 1999 20:34:56 +0900

白翔です。
haさんの論理展開は十分ですね。なるほどね。
こういう迫り方もあるんだね。なるほどね。面白いね。
だったら切れないで押してゆけばいい。

ことほどさように言葉というものはあいまいなんです。いろんな位相で
展開するんだ。例えば、私が投稿した[gs-club:0313]「ノモスからカオス」
という中で美術教師と老人らしき人との会話を書きましたが、あれでは
老人らしき人を分裂病と少し判る風に描きましたが、実はあれを書くとき
位相がずれたままでずっと会話し続けるっていうのも考えたんです。
老人らしき人の言葉をちょっと変えると、そうなります。どちらが狂っている
のか?それとも、どちらも狂っていないのか?それとも両方狂っているのか?
そんな風にはなるのです。

私の「記号化」「イメージ化」「言語化」は少し広げ過ぎたようだね。
ちょっとソシュールに引きずられたか?
それにmephistoさんの言う通り「言語」が論理的、「イメージ」が感覚的
という前提はおけないかもしれないね。ん?これもズレたかな?
いいんだ。いいんだ。ズレたままで話を進めていくのも面白いんだよ。



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From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0361] そろそろ読書会をはじめましょう。
Date: Fri, 5 Nov 1999 22:34:13 +0900

こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

そろそろ読書会をはじめましょう。
今夜12:00から「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄著・文春新書)についての
投稿をお願いします。

読書会は三週間を予定しています。
三週間にうちに、できるだけ多くの方が投稿をしてくださるよう
お願いします。


From: Osamu Mizusaki <ku7o-mzsk@asahi-net.or.jp>
Subject: [gs-club:0362] 自己紹介
Date: Sat, 6 Nov 1999 20:40:27 +0900

はじめまして
水崎です。49歳のサラリーマンです。
大学では哲学を専攻しました。卒業後も趣味で哲学をやってきました。
どのような話が展開されるのか楽しみにしています。


Date: Sun, 07 Nov 1999 00:05:28 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0363] ちょっとお聞きしますが



山野です。
こんばんは。

読書会はいつからでしたっけ?
もう良いんですか?

何もメールが来ないので、まだなのかな、と思ってしまいましたが、
ちょっと確認のためメールを出しました。

MLは他にも入っていますが、
読書会のようなことは初めてなので勝手が分かりません。

では。




Date: Sun, 07 Nov 1999 02:15:14 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0364] 言い出しっぺなので



山野です。
こんばんは。

読書会の話が全然出てきませんが、
言い出しっぺが責任取って口火を切りたいと思います。

まず二つの点について問題提起を。
一つ目は、政治と芸術の二元論がそもそも成立し得るのか、と言うことです。
この点に付随して、いくつか問題が出てきます。
たとえば、芸術が政治的意味合いを持ったときに芸術家はどう行動すべきなのか、
その指針として何を持ち出すべきか、
また、芸術を守るために政治に反対の意を示さないのは、消極的な賛成なのか、
芸術家を科学者と言い換えたときに、
科学者が戦争中に取った行動はどう評価されるのか、
と言ったところですか。
二つ目は、丸山眞男のような音楽観が、21世紀を目前にし、
ポストモダン思想がどうこう、いやポストモダンはもう古い、とか言われ、
音楽聴く人の意識も違っているように見受けられる、
そのような時代に、普遍性を訴えることが出来るのか、という点ですね。
すなわち、音楽という芸術において、
作曲家→楽譜→演奏家→演奏→聴衆、という流れの中で、
普遍的な価値、というのがあり得るのか、という言い方もできます。
言いたいことはたくさんありますが、最初なのでこの辺で。

追伸:
槍玉に挙がりそうですが(^_^;)




Date: Sun, 7 Nov 1999 16:15:58 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0365] 音と哲学に関する本



haです。
残念ながら僕は
ちょうど同じ時期に別の、音と哲学に関する本を
読んでいた真っ際中で
その本を読む事ができなかったので
何の意見も出せませんが、
とても興味深そうな本ですね。
時間を見つけてみてみようと思います。

※ついでなのでその本の紹介をさせて頂きます。
坂本龍一&大森荘蔵の
「音を視る・時を聴く(哲学講議)」
つい先日読み終えたばっかなので
自分の中でまだ十分に咀嚼できてませんが
ものすごくエキサイティングな本だと思います。
音という感覚器官を足場に、諸感覚と
時間とのつながりから意識の問題を貫通し
哲学の分野まで、自在なダイアローグで
どんどんどんどん横断していくいくつかの講議
は、前回僕が述べました、
[gs-club:0359] Re: 切れるなっちゅうねん。2
での考えを補強してくれた、
棒にとってとても興味深いものでした。

直線の音?曲線の音?とか・・・
時間がありましたら是非。オススメです。




Date: Sun, 7 Nov 1999 17:51:26 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0366] 読んでいないので恐縮なんですが



haです。
読んでいないので恐縮なんですが、
もしこの読書会で読んでない者が質問する事が
許されるなら教えていただけますでしょうか?

山野さんの問題提起中の
「芸術が政治的意味合いを持ったとき」
「芸術を守るために政治に反対の意を示さない」
というのはどんな状態を指すのでしょうか?
過去に起こったある事実が書かれていたのですか?
(例えばロシア・アヴァンギャルドとか・・)

それと、
「芸術家を科学者と言い換えたとき」
ですが、言い換える事ができるのは何故でしょう?

「読んだら問題提起の意味がわかるんだ!」
といわれればそれまでですが・・・





Date: Sun, 07 Nov 1999 20:17:03 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0367] Re: 読んでいないので恐縮なんですが

山野です。
こんばんは。

坂本龍一の本というと、
ここで名前が挙がっていた奴ですか、
ちょっとそっちに回る余裕がないです(^_^;)

「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄著・文春新書)

出来れば読んで欲しいですが(^_^;)
文藝春秋社の回し者ではありません(^_^;)

ここで挙がっているのは、フルトベングラーのことです。
彼の戦時中の姿勢が問題になっています。
戦争責任の問題ですね。
ドイツでは戦後うるさかったですから。
ムッソリーニに反対したトスカニーニや、
フランコに反対したカザルスなどと対比されているようです。
彼自身の存在の政治的意味合いについてが論議の対象です。
一番簡単なのは、自分をフルトベングラーのところに身を置いてみることですね。
自分の芸術がドイツから離れられないと思った人間が、
当のドイツがナチスの支配下に入っても、
ドイツにいられるのか、ということでしょう。
haさんならどう行動しますか?
私は、芸術と政治が、自分という存在の中で分離できるとは思っていませんから、
出ていきますね。
たとえ、バルトークのように異境の地で死ぬようなことがあっても
多分残らないでしょうね。
これは芸術の問題ではなく、明確に自分自身の思想信条の問題ですから。
たとえ私が科学者でも、残らないと思います。
確かドイツに残った有名な物理学者いたですね。
何て言いましたっけ(?_?)



H <h617@tkc.att.ne.jp> wrote:

>
> haです。
> 読んでいないので恐縮なんですが、
> もしこの読書会で読んでない者が質問する事が
> 許されるなら教えていただけますでしょうか?
>
> 山野さんの問題提起中の
> 「芸術が政治的意味合いを持ったとき」
> 「芸術を守るために政治に反対の意を示さない」
> というのはどんな状態を指すのでしょうか?
> 過去に起こったある事実が書かれていたのですか?
> (例えばロシア・アヴァンギャルドとか・・)
>
> それと、
> 「芸術家を科学者と言い換えたとき」
> ですが、言い換える事ができるのは何故でしょう?
>
> 「読んだら問題提起の意味がわかるんだ!」
> といわれればそれまでですが・・・
>

Date: Sun, 7 Nov 1999 21:03:17 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0368] 読んでみます。



haです。
お答えありがとうございます!
なるほどー。
そういう状況下においてどこまで
貫けるか・・
宗教も自由、戦争も最近なし、
裕福(餓死者がほとんど出ない、といったいみで)
といった国で「好きだから・・」
位の気持ちでやってる僕には
シビアな問題です。

ちょっと読んでみないと
なんとも答えられないと思うので
読んでみます。
では。
ありがとうございました!




Date: Sun, 7 Nov 1999 21:42:29 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0369] 読んでみます。2



まだ読んでいないのですが・・・
昨日ヴィム・ベンダースの
「都市とモードのビデオノート」
という、当時の山本耀次(字が違うか?)
Yoji Yamamotoを追い掛けたものを観たのですが
その中でYojiが
「僕は何度もフランス人に、
(お前の服は日本のモードの代表だ)と言われたのですが
僕は自分が日本人として生まれただけの事で、
国というものがそこにあらわれるのがとても嫌だった。
自分の服が日本を表す代表だとは思っていない。」
と語っていました。
彼のような人は多分自分の国が政治的に表現を
許さなくなった場合、出ていっちゃんでしょうか・・
・・概に出ちゃったんだ。スミマセン
自分の表現を日本で止めないために・・
全く言ってる事の軸がズレてましたね。
でも、ファッションや、僕のようにグラフィクデザイン
みたいに、どこでも出来るものと違って、
能とか、文楽とか、歌舞伎とか・・
その国でやる事に意味があるような表現をしている方
こそ、切実に考えられるのでしょうね・・・
詩人の方はその時どうするのか、が凄く興味あります。
伝統や国民性と関係なくても
使うツールがその国の言葉ですからねぇ・・。

まだ読んでないのでスミマセン。
引っこんで、読んでから又この事に関しては
発言します!




From: "正しい探求人" <tankyu@gc4.so-net.ne.jp>
Subject: [gs-club:0370] しかたなく投稿
Date: Mon, 8 Nov 1999 08:18:49 +0900



開設当初からのメンバーだったのですが、一回も投稿したことがありませんでした。
これ以上放っておくと配信が停止されるのでしかたなく投稿することにします。自己
紹介しろというこ
とですが、僕自身他人の自己紹介を読むことに興味が湧きませんし、当メーリングリ
ストの運営に支障をきたすものでもないので省略します。




代わりにウイスキーの広告に掲載された一句を。



人食えば 鐘がなるなり 法隆寺



インドでは人の死が日常に溶け込んでいる。死体を川岸で焼き、その周りで子供が遊
び、人々が行き交い、犬や鴉が人肉を食う。人間とはそれほど尊大なものでも、特別
な存在でもない。あくまで自然の一部である。よってインドでは墓というものはな
い。死体は川に流されることによって自然に帰るのだ。それにひきかえ日本ではどう
か。墓を作り、人間と他の生物との間に境界線を設け、人間を特別に扱い、尊大視し
すぎている。シルクロードの終着点である法隆寺で
ウイスキーを飲んで、そんなことを考えていると鐘がなった・・・・

詳細を知りたい人は藤原新也「東京漂流」を読んでください
同書にはもう一句、このような句がある



血飛沫を 集めてはやし 最上川



八十年代に神奈川川崎で起こった金属バット両親殺害事件をえがいたもの。最上川と
は川崎を流れる川のこと。




From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0371] 水崎さん、はじめまして。運営係です。
Date: Mon, 8 Nov 1999 00:21:45 +0900



こんにちは。ヤマネ(ML運営係)です。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com


----- Original Message -----
送信者 : Osamu Mizusaki <ku7o-mzsk@asahi-net.or.jp>
件名 : [gs-club:0362] 自己紹介
> はじめまして
> 水崎です。49歳のサラリーマンです。
> 大学では哲学を専攻しました。卒業後も趣味で哲学をやってきました。
> どのような話が展開されるのか楽しみにしています。

水崎さん、はじめまして。
わたくしは、ヤマネともうします、MLの裏方運営係です。

過去ログがあります。ご参照ください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log278-327.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log229-277.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log172-228.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log117-171.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log66-117.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4464/gs-log/log14-65.htm
この過去ログには、メールアドレスなど、個人情報がふくれまれておりますの
でむやみに外の人に見せないでください。
では、ご活躍を期待します。


From: Osamu Mizusaki <ku7o-mzsk@asahi-net.or.jp>
Subject: [gs-club:0372] Re: [gs-club:0371] ありがとうございます。
Date: Tue, 9 Nov 1999 21:42:42 +0900



Mizusakiです。
過去ログありがとうございます。
さっと目を通しただけですが、面白そうなことが書かれてますね。

> この過去ログには、メールアドレスなど、個人情報がふくれまれておりますの
> でむやみに外の人に見せないでください。

問題が起こらないように注意します。


From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0373] ん?
Date: Thu, 11 Nov 1999 00:06:01 +0900



白翔です。こんばんわ。
ん?ん?皆さん忙しいんですね?
「追伸: 槍玉に挙がりそうですが(^_^;)」
山野さんは「槍玉に挙げてねっ。」とおっしゃってるのに
寂しいやね。お相手したのはhaさんだけかい?
ウ〜ン?確かずいぶん入会者が増えたと思ったけど?
どうして何も発信しないのでしょうか?
別に「丸山眞男 音楽の対話」の投稿じゃあなくてもいいしさ。
別のテーマでもいいんですから。誰かがヘゲモニーを握って
喋ってて欲しいけどねえ。山野さんももっと展開すればいいのに。

かく言う私も本は読んでない。ごめん。これからも読書会勘弁して。
本読むの嫌いなんだ。もう読まないことにしている。
それに「丸山眞男」興味を持ったことが一度も無い。

でも山野さんに突っ込みますよ。反論して下さいね。
「政治と芸術」「戦争責任」論自体もう無効だとおもいますね。とにかく
日本人の指導者達は言うに及ばずどなたもが責任というものを取っ
たためしがありません。今現在でもそうです。特にエスタブリッシュメント
と称する人達は酷いねえ。バブルを崩壊させた責任は誰か取りまし
たかねえ?それに切羽詰った極限状況での生き様と生ぬるい平和の
状況での仮定の話とを比べて云々するのは意味がありません。

「私は、芸術と政治が、自分という存在の中で分離できるとは思っ
ていませんから、出ていきますね。
たとえ、バルトークのように異境の地で死ぬようなことがあっても
多分残らないでしょうね。
これは芸術の問題ではなく、明確に自分自身の思想信条の問題
ですから。たとえ私が科学者でも、残らないと思います。」
そのような言葉が次のように反転したとしてもいっこうに不思議では
ありません。
「私は、芸術と政治が、自分という存在の中で分離できるとは思っ
ていませんから、祖国のために戦いますね。
たとえ前線において死ぬようなことがあって祖国を守る礎となるなら
命を捧げることに何の疑問もありません。
これは芸術の問題ではなく、明確に自分自身の思想信条の問題
ですから。たとえ私が科学者でも、銃を握ったっていい。」
さてどちらの生き方が崇高であるのか?
ナチスが悪になったのは負けたからなんですよ。
取りあえずここまで。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 mailto:copper@par.allnet.ne.jp
 WebSite http://user2.allnet.ne.jp/hakushou/


Date: Thu, 11 Nov 1999 01:17:11 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0374] Re: ん?



山野です。
かなりしばらくぶりにメールが来たような気がしますが、気のせいですね(^_^)
ちょっとだけ反応します。
やっぱり対話がないとつまらない、それとも単に皆さん忙しすぎるのでしょうか?
まあ反論と言うほどのものではありませんが、
絶対的な価値観を想定しなければ、
やっぱりお互いの価値観のどちらが正当性があるか戦うしかないでしょう。
いわゆる「神々の闘い」って奴ですか。
マックス・ウェーバーですね、確か。
「悪」とは何か、と聞いて人々の合意である、という答を聞いたことありますが、
ならそういう人に、自分の存在を非とする考え方が人々の合意を得たら、
それでもあなたは従いますか、と聞いたところ、
あまりはっきりとした答を聞きませんでした。
相対主義で通すならここまで通して欲しいです。
(ここまで人々の合意に従って欲しい。
何かソクラテスの死を連想させる、というのは独り言ですが。)
私の発言には自分なりの思想・信条に基づく根拠があるわけです。
それを相対化して、ナチスと比較するのは、相対主義の悪い点です。
(自分も相対主義のきらいがあるので、
このような論理展開自体は理解は出来ますが・・)
いわゆる、それを言っちゃあお終いよ、とは私が生まれる以前のギャグかな・・
寒かった?
やっぱり寒かったか(^_^)


Date: Thu, 11 Nov 1999 01:47:29 +0900
Subject: [gs-club:0375] Re: ん?
From: sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp (Shiro SADO)



佐渡です。

本読んでないですけど、コメントさせて下さい。

前記事の引用が多過ぎる思われるようでしたら、言って下さい。



記事[gs-club:0373] ん?において
copper@par.allnet.ne.jp氏、曰く……
>> でも山野さんに突っ込みますよ。反論して下さいね。
>> 「政治と芸術」「戦争責任」論自体もう無効だとおもいますね。とにかく
>> 日本人の指導者達は言うに及ばずどなたもが責任というものを取っ
>> たためしがありません。今現在でもそうです。特にエスタブリッシュメント

コテコテのファシスト勢ぞろいといった旧帝国の軍人たちが、
今の言葉でいう「戦争責任」という概念を理解可能であるの
かどうか、やや気になるところです。
# 大東亜戦争に負けた責任を感じて切腹をした軍人はおられ
# たようですが……。

特に昭和天皇が在位されていた頃、天皇の問題を日本は抱え
ていた訳ですが、敗戦に応じて天皇陛下が戦争責任を取られ
(天皇制廃止または退位)るかというと、そういうわけにも
いかない。かつての帝国から、天皇制という枠組を取り外し
た後に、連合軍が統治できるような「国」が残ったか?

極めてデリケートな問題を扱わなければならない訳で、かつ
て共産党さんが主張されたような「単に天皇が戦争責任を問
われなかった」という問題ではないとは思うのです。

自分は、軍人は除去して、天皇は政治的理由により残した、
と思っていて、まぁ、それなりの責任を*とらされた*人たち
は、いたんじゃないかと思っています。

帝国は一応解体された訳ですし、これはどでもいいんですが。
# 曖昧な認識で申し訳ありません。



それで、

個人的には、単に聴く分には音楽は美しければそれで良いのです
が、トスカニーニなり、フルトヴェングラーなりの人間性が、
音楽に全く反映されていないかと言うと、これは否でないはず
がないと感じますし、じゃあ、それをどこで論じるかというと、
ドイツを離れるか否か、という風な話も出てくるのだろうと思っ
ております。

いまさらフルトヴェングラーのナチ協力疑惑をそれ自体論ずる
としたら、ナンセンスな話ですが、丸山眞男というテクストを
通して、フルヴェンについて考えて、その上で、例の疑惑が通
り道として避けられないなら、論じるのは仕方ないとは思いま
すが。

テキストを読む意味と言うのは、丸山眞男の目を通して、フル
ヴェンを見ることにあるように感じます。
# ごめんなさい、フルヴェン自体はぜんぜん聴いたことないです。
# なんていうか、「やわらかい感じ」がし過ぎてあんまり好きにな
# れないのです。
## 個人的には「ゴリゴリした奴」の方が……。

というわけで、機会がありましたら本の方読んでおきます。
# 買うとか読むとかで、少し時間がかかりそうですが。

ところで、

>> そのような言葉が次のように反転したとしてもいっこうに不思議では
>> ありません。

(a)
>> 「私は、芸術と政治が、自分という存在の中で分離できるとは思っ
>> ていませんから、出ていきますね。
>> たとえ、バルトークのように異境の地で死ぬようなことがあっても
>> 多分残らないでしょうね。
>> これは芸術の問題ではなく、明確に自分自身の思想信条の問題
>> ですから。たとえ私が科学者でも、残らないと思います。」

(b)
>> 「私は、芸術と政治が、自分という存在の中で分離できるとは思っ
>> ていませんから、祖国のために戦いますね。
>> たとえ前線において死ぬようなことがあって祖国を守る礎となるなら
>> 命を捧げることに何の疑問もありません。
>> これは芸術の問題ではなく、明確に自分自身の思想信条の問題
>> ですから。たとえ私が科学者でも、銃を握ったっていい。」

なんですけど、これって同一の人間が、

・祖国のイデオロギーに疑問を抱いた場合(a)

・祖国のイデオロギーに共感を抱いた場合(b)

にも思えるのですが・・・・。

---
佐渡詩郎 (さど しろう) / e-mail : sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp




Date: Thu, 11 Nov 1999 08:57:20 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0376] すいませーん。

mephistoです、こんちわ。

《引用はyamano kouichiさんの「[gs-club:0374] Re: ん?」から》
>かなりしばらくぶりにメールが来たような気がしますが、気のせいですね(^_^)
>ちょっとだけ反応します。
>やっぱり対話がないとつまらない、それとも単に皆さん忙しすぎるのでしょうか?

すいませーん。いま僕けっこういそがしいです。読書会三週間ってことでした
から、なんとか締め切りまでになにか投稿したいです(=_=)

では。

★mephisto★ mephisto@jwg.vip.co.jp




From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0377] 芸術家ヒットラー?
Date: Thu, 11 Nov 1999 09:24:08 +0900



>かなりしばらくぶりにメールが来たような気がしますが、気のせいですね(^_^)
>ちょっとだけ反応します。

一週間ぶりのレスですが、私はまじめにテキストを読みました。丸山全集にも少しで
すが目をとうしました。
丸山真男はほとんど初体験ですが、面白かった。
いくつかの問題提起が思いつきますが、一番エキセントリックなものは

1.芸術家ヒットラーをどうとらえるかです。飯島洋一の「建築のアポカリプス」の
中でヒットラーは自分の建築プランを実現するために政権を奪取したという指摘があ
りますが、ある傾向の芸術を実現するためには権力は必須というのは真実だと思いま
す。自己実現のための芸術はその作品すべてに対して支配し完璧さを要求する。

2.「ワーグナーを聴く」といえることの重さ。

3.シェーンベルグやジョンケージ、メシアンの愛好家は如何するの?Etc


Date: Thu, 11 Nov 1999 17:26:52 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0378] Re: 芸術家ヒットラー?



山野です。
こんばんは。

私も、政治思想自体にはあまり興味はなかったのですが、
この本で少しだけ興味を持ちました。

さて本題に。

"Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp> wrote:

>
> >かなりしばらくぶりにメールが来たような気がしますが、気のせいですね(^_^)
> >ちょっとだけ反応します。
> 一週間ぶりのレスですが、私はまじめにテキストを読みました。丸山全集にも少しで
> すが目をとうしました。
> 丸山真男はほとんど初体験ですが、面白かった。
> いくつかの問題提起が思いつきますが、一番エキセントリックなものは
> 1.芸術家ヒットラーをどうとらえるかです。飯島洋一の「建築のアポカリプス」の
> 中でヒットラーは自分の建築プランを実現するために政権を奪取したという指摘があ
> りますが、ある傾向の芸術を実現するためには権力は必須というのは真実だと思いま
> す。自己実現のための芸術はその作品すべてに対して支配し完璧さを要求する。
>

ジークフリート=ワーグナー=ヒトラー、と並べると、
何だかヒトラーがロマン主義者の代表みたいにみえるのは気のせいでしょうか?
ロマンチックな感じは受けないのですが・・

> 2.「ワーグナーを聴く」といえることの重さ。

ワーグナーを聴かない、と言うのは簡単なのですか(^_^)
と茶々を入れつつ、
私はベートーベンの音楽を、凄いとは思いますが、好きだとは言い切れません。
あの押しつけがましさは、人類への呼びかけなのでしょうが、
音楽は気楽に聴きたいので、どうもああいう大仰なのはどうも・・
ワーグナーを聴くのは、彼の世界に入れない以上無理だという判断で聴きません。
そういうニュアンス露骨ですから・・

> 3.シェーンベルグやジョンケージ、メシアンの愛好家は如何するの?Etc
>

私も聞きたいですね(^_^)
先に言ったように音楽は気楽に聴きたいので、
聴きたいようにしか聴けなくても、
肩肘張って聴きたくはありませんね。
考えすぎるのも、手段が目的化するようで嫌いですし、
また、単なるBGMとして聴くのもちょっと違うかな。
BGMなら、何も大作曲家持ってこなくても良いわけで、
第一、その音楽の中身では無くなってしまうでしょうね。
あ、現代人って物事の意味をほとんど考えないんでしたね、
なら、ますます、クラシック音楽、という芸術は人々が理解できなくなるね。
あ、理解しようとも思っていないのか?
処置なしだね。
音楽を単にヒーリングの延長として聴くなら、
芸術として成り立っているクラシック音楽の存在理由がないかな。
今の時代、芸術とは何だろうね。
意味も理解も想定できなくて成り立つものなのかな。
ポストモダンやら相対主義やら言われているときに、
芸術の存在理由は、考え直さなければならないかな?
単なる技術でよいのなら、そこに思想性は要らず、音楽も単なる道具、
自然科学も、同じように考えれば、単なる技術となるのでしょうから、
芸術も同じ運命になるのかな?
私はあらためて美学系の本を読み直そうかな、と思っています。
音楽の存在理由を考え始めてしまったのでね(^_^;)
皆さんは何だと思いますか?



追伸(独白):
哲学と芸術としての音楽の両方に興味があると、
自ずと解釈学的になります。誰がって、私がですが。
この分野での一番の大物は、ハイデガーでしょうか?
私は直にハイデガーで、というより、
私の考え方に合うのが彼の流れを汲む人だっただけで、
それほど資料は読んでないですが、
でも当たる資料に特定の名前ばかりなのはどういうことでしょうか?

では。




From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0379] ゲーテ論
Date: Thu, 11 Nov 1999 18:08:32 +0900



芸術と政治というテーマになると、やはりゲーテですね。
mephistoさんのゲーテ論かファウスト論が聴きたいですね。
ワーグナー、マーラー、ヒトラー、の系譜先頭打者でしょうか?

マム・山形


From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0380] 芸術の発生
Date: Fri, 12 Nov 1999 12:37:33 +0900



何と心地よい日だ。こんな日は庭に出て音楽でもかけて。
楽チン楽チン。気持ち良い、快感、快楽。などなど。
人間のみならず生物はすべからく快を目指している。向日性、向快性
というのが生物の基本形である。あえて不快なぞ欲しいものか。
快に触れると活きる意欲が沸いてこようというもんだ。快に触れると
神経系統が喜びで小躍りする。それこそドーパミンという覚醒剤が
ドバーっと踊り狂うそうな。それはそれは忘我の快感。
余談だがこのドーパミンという神経伝達物質という奴は脳の覚醒、快感
をもたらだけではなく創造性を発揮させるのに関係しているのだそうです。
予感だが「予感」に関係している。つまり予知能力という意味でがす。

もしも、この世が不快ばかりだとしたならば進化の過程のどこか
で頓挫したに違いない。人間なぞ生まれてはいまい。
やんぬるかな不快より快の方が少し勝っていた。
「快感原則は現実原則を凌駕する。」というのが総ての論の私の出発
点でもある。もっとも不快なかりせば快なども無いが少なくとも常に
「不快の解消」へと生物の欲求は向かうように出来あがっている。
そのことが常に進化のトリガーを引いてきた。神はそう造り給うたのよ。
まあ、偶然にそうなったのが幸いしたのだろう。

で?目の快楽。耳への快楽。感覚への快楽こそ純粋に生物の
求める所以でもある。原初的な芸術の姿はそうである筈である。
その源泉はすべからく自然の中にある。小鳥のさえずりを聞き、風の
歌声を聞く。狼の遠吠えを聞き、小枝のささやきを聞く。雷の響きを聞き、
そして、霊魂の過ぎ去る気配を聞き、神の声を聞く。音楽はやはりそこ
から始まるといっていいんじゃあないですか?

アルタミラの洞窟には非常にリアリスチックに牛の絵が描かれている。
おそらく彼らは血の滴るビフテキに見えたのか?狩猟採集時代の絵に
しては、あまりのリアリティさに驚く。遊びで描いたものではないだろう?
もしくは現在の芸術という概念はないから、恐らく呪術に使ったものと
予想されている。呪術・占いといったものは希望や現実の先取りとして
の一種の仮想現実による達成ということがあるんだと思う。
要するに呪術師が憑依した状態で描かれた牛に3回触ったことが今日の
狩には牛3頭の収穫の約束でもあったのだろう。いつもは2頭で帰ってくる
のだが、日が暮れてまでも3頭獲れるまでは皆が頑張ると。
ウン、やっぱりあの呪術師のお告げは正しかった。喜び勇んで村へと
帰る。彼らの命である牛の絵だけが突出して見たままの姿でリアリス
ティックに描かれる理由はやはり彼らの命そのものである牛の姿に突出
して欲望や関心があった為だと思われる。

芸術の起源というのはまあ呪術・占いあたりのバーチャル・リアリティー
であろうと想像されている。考えられる限りの感覚へのアプローチは
総動員される。それが宗教となり芸術となりいろいろと枝分かれしてくる。
科学もしかり。

人間の欲望の歴史というのは欲深くて複雑怪奇、際限が無い。当たり前か?
原初的な快を長引かせ深い喜びへと導こうとしていろいろ仕掛けをする訳です。
不快をちりばめた綴れ織りにしたり、あらゆる感情をちりばめたアラベスクに
したりと脳の全体を振るわせようと工夫をする。その結果が今の芸術と言われ
るしろもの。時々、原初帰りをしたところで不思議ではない。脳の総てを振動さ
せるのはしんどいしんどい。作品の中にこむつかしい理屈や思想や哲学を込
めるのは何も理由が無いわけではない。
「我こそが一番の表現者なり。」
そんな思いがあればゴミでもくっつけたがるのが表現者ってもんだ。
俺のくっつけた鼻くそをありがたがって神の声のように聞く大衆とは一体全体
何という奴らだ!!鼻くそめ!ワグナーがそうせせら笑ったという記録はあり
やなしや?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 mailto:copper@par.allnet.ne.jp
 WebSite http://user2.allnet.ne.jp/hakushou/


From: "odn" <glob@l.office.ne.jp>
Subject: [gs-club:0381] 時間が無くて読むのがやっと・・・
Date: Sat, 13 Nov 1999 05:36:11 +0900



odnと申します。以前自己紹介をしたきりでした。

随分長い間傍観しておりましたが、皆さんの投稿を楽しみに読ませていただいております。
ずっと発言しないのもよくないらしいので、存在の証明のために発言することにします。

とはいえ非常に忙しく、日々過ごすために読む本がたんまり待っておりますので、まだ読
書会の本は読めておりません。ほとんどMLを読んでいて出てきた感想・連想でして論の発
展にはなりそうもないですから、聞き流して下さい。どんな風に書いたらよいのかもまだ
よくわからないのです。

実際、ここ一年ほど「思想」からは遠ざかっていて、5年ぶりに野球をするような感じです。
というよりも野球できませんでした。ベンチに座って野球を見ながら思ったことを書きます。
だいたい野球は専門じゃないので、素人の言い分です。

[gs-club:0378] において、山野さんは書きました。
>先に言ったように音楽は気楽に聴きたいので、
>聴きたいようにしか聴けなくても、
>肩肘張って聴きたくはありませんね。
>考えすぎるのも、手段が目的化するようで嫌いですし、
>また、単なるBGMとして聴くのもちょっと違うかな。

 同感です。
 音楽がとても好きです。これは作曲法が云々とか平均律音階やら純正律音階云々といっ
たレベルの話ではなく、日々過ごす上で私にとって不可欠のものになっています。酒、煙
草以上に。音楽とは、音とはなにかということを論じた高橋悠治の『高橋悠治リアルタイ
ム7:音楽の教え』(fontec)に度肝を抜かれたりもしましたが、まずそれ以前の問題と
して、なぜ人は音楽を好むのかがわかりません。

 のっけから思想から遠く離れてしまって申し訳ありませんが、先日松本隆氏の30周年記
念ライブというものに行って参りました。10代から40、50代くらいまでの幅広い年齢層の
方々が集まっておられましたが、そこで思ったことがいくつかあります。
 私は今21歳ですのでもちろん「はっぴぃえんど」時代やソロをやっていたころの松本隆
さんはリアルタイムで経験したのではなく、後々になって作詞のお仕事を通して知ったわ
けです。
 リアルタイムで得られなかった体験を、今このときになって初めて知るということもす
ばらしい体験ではありましたが、周囲の方を見ているとやはり40代より上の方々は別の感
慨を持って音楽を聴いていらっしゃるようでした。
 今、普段我々が音楽と接するとき、まず"Right here,Right now"で聴くということが第
一段階としてあり、深い感動はそれより後に、音という引き金が当時その曲を聴いた当時
の時代背景、環境、感慨などを呼び起こすという第二段階においてやってくるような気が
します。これは実感としてです。
 しかしこの感動が決して音楽だけによってもたらされるものでないことは確かです。
 月に何度かレコード店に足を運ぶのも、いずれもたらされるであろう第二段階の感動の
ためにさせられていることだとはどうしても考えられません。

 では、なぜ人は第一段階において音楽を好むのかという謎は私にとって謎のままです。

 個人的には最近、歌詞のついた邦楽を好んで聴いておりますがしばらく前までは「テク
ノ」と呼ばれるインストゥルメンタル(楽器ではなく、音ソースのみをここでは指しま
す)を聴いておりました。音楽のジャンルによる区別・差別は意味を為しませんのでどち
らでも同じということになりましょう。

 野菜に特定の周波数帯の音を多く含んだ曲を聴かせると、異常に巨大化するそうです。
 純正律音階を好む音楽家の中には、周波数を以て音楽を読み解こうとする風潮があるよ
うですが、今こんなにも一曲の中に高低の差の激しい周波数が混在していることを考える
と、どうもそれは乱暴のような気がします。確かに我々が生きる世界は高低強弱さまざま
の波に満ちておりますが、植物だって同じ環境に生きています。感覚器官の違いでしょう
か…。わかりません。わかりませんけど、この観点には私は立ちたくないという気分だけ
あります。ドラムのキックは胎児の聴く母親の心音だ、なんて言われると、ドラムンベー
スやゴアトランスをちょっと聴いてみてくださいと言いたくなります。

 コンテンポラリーの部類に属するライヒやケージの音楽は、思想としての一面を併せ持
ち、その点で非常におもしろいものであることは確かですが、じゃあブーレーズがIRCAM
で作曲した作品をCDウォークマンで学校の行き帰りに聴いてろと言われたら、もちろん拒
否します。高橋悠治もおもしろいですが、一度にCDを3周以上聴く気にはなれません。で
もブーレーズのマーラーは聴けます。ですから、明らかにライヒやケージは音楽として思
想から少し離れた点で人々に好まれる要素を持っており、だからこそ売れちゃってるんで
しょう。

 ある時点で、万人に共通する何かの琴線に触れないといけない。小室哲哉みたいに。

 それを、山野さんは「ヒーリングの延長」と呼ぶのでしょうか。

 小室哲哉の曲は嫌いですが、その理由はここ10年の間にできた新しい「快楽の琴線」
にのみ触れ、その奥にあるはずの「日本人の快楽琴線」や「人間の快楽琴線」にあまり触
れてくれないからです。不器用でも懸命にそれをしようとしている曲のほうが、聴いてい
て喜びがあります。

 私は、今好んで聴いている日本のポップス・ロックが───中村一義、サニーデイサー
ビスといった人たちなのですが───芸術だと感じているわけではありません。でも、音
楽だとは思います。

 芸術ってなんです?絵画や音楽、詩歌などは芸術だと言われますが、創作して何かを表
現してればそれでいいんでしょうか?なんかそれは大雑把過ぎて受け入れがたいです。

 では芸術とは知識欲を満たすもののことを言うのでしょうか。これも否ですよね、当然。

 人の知識欲を満たすものを思想といい、哲学と言えるならばクラッシックにも哲学・思
想要素はあると思いますが、作曲の時点でそれが意識されたかと言えばどうなのでしょう
か。その点では明らかに思想書などとは異質のものだと思います。

 芸術って後付けのものじゃあないんですか?
 芸術家たりえようとして芸術やる人もいるでしょうが、人間の内にこもって怨念にも近
くなったドロドロとした感情を吐き出された作品を、評価する人が芸術とよぶだけなん
じゃないかと思うんですが…。

 そういう風に強い意志と時代の要請(ある程度の必然)によって出てきたものを、もし
芸術と言って良いならば、さっき「芸術だとは感じてない」って書きましたけど今私が好
きで聴いている音楽は芸術だと思います。でも芸術だから聴くんじゃなくて「今、ここ
で」我々の一部がそこに強く吐き出されているから聴くんだという実感が強く存在しま
す。

 芸術の存在意義を考える、ではなくて、今この時代の芸術とは何なのか何処にあるのか
の方が、まずは重要なんじゃないでしょうか。と思いました。

歌詞の引用なのであまり長くしたくないのですが…

--ここより引用--
そ う 、 君 ん 中 に 溢 れ 出 す 世 界 に 、
 決 し て 消 え な い 場 所 が 。
それに 光あて、 赤く 染め返せ! 君に 出会いたい から。
あ い つ ら の 言う正論は凍り付いて。さぁ、流れ変えてやれ。
一 生 ど ん 臭 い 理 屈 掘 り よ り か 、
まぁ、 サイズ 合った服、 着よう って。
日々。(祝え! 祝え! おぉ、 祝え!)
--ここまで引用--(中村一義『Jubilee』より、一部。空白など原文ママ)

 これはちょうど大学生の年齢層に主に受けているのですが、もはや私たちの世代に
「詩」は生きていないんです。 そういうものは歌詞に求めるしかない状況があります。
 そして求められて歌われる内容がこんな卑近な、と言っていいのか自分の周囲3m以内の
ことだったりすると、思想が一時期大局へ大局へと向かっていったツケが回ってきてるん
じゃないのかなと思ったりもします。しっかりと勉強した訳じゃありませんけど構造主義
だとかポストモダニズムだとか、あれも面白いんでしょうけどその分ぽっかり開いちゃっ
た穴を埋める部分に現代の芸術が現れてるんじゃないでしょうか。絵だったら村上隆なん
かがそうかもしれません。
「サイズが合った服が着られるかどうか」っていうのは自分の「分」をわきまえられるか
どうかという以前なら当然とされたアイデンティファイの問題です。その辺が足りないん
です、僕たちには。

 大学生に宮台真治とか宮崎哲弥が受けるのもそんな感じじゃないでしょうか。




 ところで音楽の発祥ですが、通信手段や動物を威嚇するためなど、必要に駆られて作り
出された「楽器」はありそうですよね。それをいたずら心などから遊んでみたりすること
によって興る音楽というものも、考えられませんか?
 最も古い楽器・・・は、確か曖昧な記憶ですけどメジン村という何処の国だか忘れまし
たけどそういう村の旧石器時代の地層から発掘されたんだそうで、骨を改造したものらし
いですね。
「うわあ、面白い音が鳴るよ!」とメジン村のかつての住人は思ったのではないでしょう
か。
「細くすると音が変わるよ!」とか。
 音楽が人を楽しませるという「発見」があり、その後祭りなどを通してアミニズムなど
宗教に取り入れられていったと考える方が自然そうですね。音よりも物=神が先に来るの
がアミニズムでしょうから。
ああ、これがhakushouさんの仰る「耳の快楽」ってことなのかな…?

 なんだか長いだけで読みにくい文章で申し訳ありません。
 配信停止になっちゃうと困るので、発言させていただきました。
 拙い文章と思考力でお目汚しでした。

 またしばらく読むことにします…。

odn
http://www.alles.or.jp/~odn/
http://www2u.biglobe.ne.jp/~bungaku/




Date: Sat, 13 Nov 1999 08:39:33 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0382] Re: 時間が無くて読むのがやっと・・・



haです。
僕はどちらかというと音楽では
歌詞重視の日本のものか、でなければテクノやインストものの
どちらかで、クラシックはあまり聴いていないので
odnさんの文章、とても面白く読みました。

> odnと申します。以前自己紹介をしたきりでした。
>  芸術って後付けのものじゃあないんですか?
>  芸術家たりえようとして芸術やる人もいるでしょうが、人間の内にこもって怨念にも近
> くなったドロドロとした感情を吐き出された作品を、評価する人が芸術とよぶだけなん
> じゃないかと思うんですが…。



パチパチパチ・・・・拍手。




Date: Mon, 15 Nov 1999 01:31:47 +0900
From: 禰子 <harupoo@geocities.co.jp>
Subject: [gs-club:0383] 詩と歌詞と音



こんばんは。お久しぶりです。禰子です。



【odnさんの‘[gs-club:0381]時間が無くて読むのがやっと・・・’から】

> もはや私たちの世代に
>「詩」は生きていないんです。 そういうものは歌詞に求めるしかない状況があります。
> そして求められて歌われる内容がこんな卑近な、と言っていいのか自分の周囲3m以内の
>ことだったりすると、思想が一時期大局へ大局へと向かっていったツケが回ってきてるん
>じゃないのかなと思ったりもします。

「詩」も「歌詞」も伝える、現す、届ける、という風に考えると同じですよね。
そして「大局へと向かっていった”ツケ”」と言うより、自分の周囲3m以内
のことをうたう、というのは、それ自体はあんまり賢くないかもしれないけど、
大局に向かう、より、進化してるんじゃないかな、と思う。
昔(?)は「詩」でみんながある程度ひとつのことを考えられた(のかな?)。
今は周囲3m以内の事を誰かがうたって、それをみんなが自分の出来事に置き換
えて「それなりに」ひとつのことを想起している。自分が何を大切にすればい
いか(決して”自己ちゅ−”な意味じゃ無く)が、ほんの少しずつ、うっすら
とわかりかけてきている(人たちばかりでもないけどね)んじゃないかな、と
楽観的に見れば思えないことも無いです。

「詩」よりも「クラシック」や「周囲3m以内のこと」の方が、ひとつの言葉に
縛られず、個人個人の生の問題に還元されやすいんじゃないかな、と思います。
「詩」自体はいろいろなものを作者が自分でこなした後に固定させた言葉だと
思うから。それをまた各読者が自分でこなして解釈すればいいんだけど、その
作業分、直接的でない感じがします。

この生活の中で、目的を達成してもしなくても、芸術表現をしてもしなくても、
何かが報われた、と思っても思わなくても、”それでも自身は死んでいく”、
ということに向き合うのが最終点ですから(大局に向かうことがほんとに自分
の最終点、という人も本当におられるでしょうから、それはそれでちっとも構
わないんですけど)、
「それでも自分は死んでいく」というところに触れているものを、芸術とか思
想とかって名づけてもいいかな、と私的には思います。

今はまだ、通過点的な時代に過ぎないような気がします。

> 音楽が人を楽しませるという「発見」があり、その後祭りなどを通してアミニズムなど
>宗教に取り入れられていったと考える方が自然そうですね。音よりも物=神が先に来るの
>がアミニズムでしょうから。

「訪れる」と言う言葉は、「音連れる」から来た、という説もあります。真っ
暗な時間の多かった昔々、神は音としてやってきたんではないでしょうか?人
がやってくるときも、獲物がやってくるときも、津波がやってくるときも、雪
崩がやってくるときも、人が死ぬるときも、朝が明けるときも。モノよりも、
まず音ありき。という感じがします。まぁ、モノが無いと音もしないんでしょ
うけど。人がまず感じるものとしては音なんじゃないか、と。音楽が人を楽し
ませるだけではなく、人の過去現在未来を想起させてしまうのは、そういう辺
で理解できるのではないかと思います。
…といっても、書きながら思いついたんだけど(+_+)。
頭でっかちな女子高生みたいな文章になっちゃった。すみません。



  
禰子 --neko--
mailto:harupoo@geocities.co.jp 



Date: Tue, 16 Nov 1999 18:41:16 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0384] アキ・カウリスマキ



haです。
どなたか、アキ・カウリスマキについて
ご存じの方いらっしゃいましたら、
どんな人なのか教えてもらえませんでしょうか?




From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0385] 忙しいねえ!
Date: Tue, 16 Nov 1999 18:44:57 +0900



白翔です。こんばんわ。
odnさん「そして求められて歌われる内容がこんな卑近な、と言って
いいのか自分の周囲3m以内のことだったりすると、思想が一時期
大局へ大局へと向かっていったツケが回ってきてるんじゃないのかな
と思ったりもします。」
今にも社会革命が起きそうな気分の学生運動華やかかりし頃、
井上陽水は今、自分に一番大事なことは恋人に会いに行くための傘が
無いことだと言いきった。以後、陽水は時代の行く末を予言しつづける。
一度お聞きになられたら?

それから、山野さんへの返事と言う訳ではありませんが取りあえず続き
です。あっ、その前に佐渡さんへのコメントです。
「はい、そうです。」
右に行くか左へ行くか私には絶対的判断の根拠は持ち合わせていない。
恐らく、忸怩たる気分によって右に行ったり左へ行ったり。

<「悪」とは何か、と聞いて人々の合意である、という答を聞いた
ことありますが、ならそういう人に、自分の存在を非とする考え方
が人々の合意を得たら、それでもあなたは従いますか、と聞いた
ところ、あまりはっきりとした答を聞きませんでした。>
なかなか心地よい文体だと思いますが・・・。
私は死ぬ前に一つの奇妙な小説を書きたいとは願っている。
哲学的といってもいいし、訳のわからん小説といってもいい。書いて
いることはどうも良く呑みこめないが読んでいると何とも奇妙な心地に
さしてくれるというものやね。無理だって?いいのいいの。
少なくともこのMLの投稿が下敷きになる。そういう想定でなんとなく
投稿しているんだが皆さんもどう?
題名はなんとなく頭に浮かんでるんだけどね。
「五重人格者の夢」支離滅裂になるほどすっごいややこしいんだよ。
ジョークみたいな小説になるのかなあ?はは・・・。この話もジョークです。
ああそうそう、ヤマネさんも「味」に関する小説を書きたいと言ってました
よね。ヤマネさんは人間の入り口と出口辺りに何故かご興味があるらしい。
口唇期と肛門期への固着。甲斐の庄やマムさんの投稿の陰間や男色物
を引き継いで17歳の美少年、男に春を売って下の口で相手の男の正体
がなんとなく分かるっていうのはいかが?ん?これはウノコウイチロウの
男色版に過ぎないのか??こりゃあ失敗か?

雑談はいいちゅうねん。先のつづきだね。
もし、私が無実であろうとも皆さんの合意で「死刑」の判決が出たら
それを逃れる術を私は知りません。それだけではなく私が私である
ことの証明たる「自我」とは他我によって支えられる砂上の楼閣。
他人がつっかい棒を一斉にはずせば「自我」は脆くも崩れ去る。
私のことを窺い知るに他人の私に対する意識を探らねばならない。
何と馬鹿馬鹿しいことだ。
一番訳知りの私のことを知るために・・・他人の答えが必要とは!
haさんの言葉を引用します。
「以前アニメ映画ですが「甲殻機動隊」の中で、
主人公がサイボーグである自己について語る一抹で
*自分が自分であるためには自分以外の、驚く程たくさんのものに
よって位置づけられる必要がある(位置づけられる事で、自己という
ものがポジションを得る?)」
しかり。とすると多感な中学生の一人や二人、クラスの全員が結託でも
すれば精神病院へ送りこむことぐらいお茶の子さいさいではないかい?
しかと。さように恐いことではあります。

芸術の発生[gs-club:0380]で生物は「不快の解消」へと動くのが出発
点であり運命づけられているということを書いたが、もし仮に、私が私
であるというあたりまえの自動律に不快を生じたとすると、さて、その
人間はいかに生きて行けばいいと言うのか?
人間には純粋に自らの手で始末をつけられることがあって、そのことも
含めて逃げ出す事だって出来る。最近の研究では私が私であることの
自動律に不快を生じた者で衣を着替えるように幾重もの私を持ち得る
ことが報告されている。この人まだ二十歳だというのに100も自分を
持っているんですよ。何と欲張りな。でも人一倍苦しんでいるんですよ。
何と欲張りな。
しかし、まともに受けとめるなら、常に私が新しい私であるような絶え間
無い存在の革命を引きうけなければならない。狂気であること以上に
この上も無いような辛い試練が待ち受けている。

実に途方も無いことだ。一体全体、彼は自殺を試みることなく生き長らえる
ことが出来るのか?私が私であることの自動律の不快はいつも彼の
存在を脅かす。一旦存在の革命を始めたなら絶え間無い告発が待って
いる。まず、宇宙の、創造主の責任を問わなければならない。
宇宙の、創造主の責任とは何か?
汝殺すべからず。他の命を侵さなければ命を保持できないのは何故か?
この命題に直面するなら、まず、食物連鎖の中で食される者達は
明らかに告発する。
何故、殺してたべるのか?と。
何も動物だけではない。植物だって同じく告発するのである。
何故、殺すのか?と。私の存在理由はあなたに食される為か?と。

ある光のさし来ぬ洞窟の中の清らかな水の中では、すっかり目が
退化した魚の群れが生きている。以前はあったという痕跡を残して
眼球というものが無い。行春や問い無き魚の目は泪
果たしてこの魚の存在理由を問うてもいかにせん。
自然は多様だ。生き延びることができるものなら、どんな辱めを受け
てもいきのびよ。それが総てを生み出した母なる大地。
総てを受け入れる命の源というものだ。
それだけに寛容なる神の試練は過酷でもある。
総てを造り給うた神に我が存在理由を問うたなら、みるみるうちに我が
足元から己が姿がさらさらと消えて行くのである。

一体全体、この世に存在理由などというものがあったためしがあった
ろうか?たまさか生まれて、そして死んで行くだけのことだ。この世とは
それだけのことだ。だからこそ束の間の幻影のように煌く魂の表出をと
いう話をするだけ野暮というものよ。恐らく、言葉よりも何よりも早く人間
の精神文化と呼べるものが生まれていた。そのことによって人間は生きる
ことの意味を考えるようになる。旧石器時代よりず〜と以前、ある洞窟の
近くの窪みから大量の人骨と共に花びらの痕跡が、それも大量に種と共
に見つかるのである。
歴史とはそれぞれの命の灯の瞬きなのであって、ましてやその一つの灯
でさえ無限の関係性をもって海黒く深海の暗闇で漂う微生物とも繋がって
いるのである。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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 WebSite http://user2.allnet.ne.jp/hakushou/


Date: Thu, 18 Nov 1999 00:24:10 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0386] 皆さん忙しいようなので

山野です。
皆さん忙しいようで、メールが止まっていますが、
チョットだけ、読書会関係で書かせていただきます。

今、エドウィン・フィッシャーの演奏する平均律を聴いたところです。
他の平均律と比較しながらですが、
(私の持っているのは、
フィッシャー、ニコラーエワの最後の奴、グールド、リヒテルの4種類です。)
205頁に、
「人間が出す音には『思想』がある、『人格』がある」
と書いていましたが、聴き比べて実感しましたね。
特にエドウィン・フィッシャーの演奏には、真摯さが満ちていますね、
今から60年以上前の演奏ですが、まるで古さを感じませんね、凄いです。
ニコラーエワの精緻な演奏も捨てがたいですが、
やっぱりバッハに対する敬意という点で負けているのでしょうか?
こういう演奏を聴くと、芸術の普遍性というものを改めて確認します。
ちょっと感情的でしょうか?
芸術に対する感動を言葉にすると、言語自体の限界を痛感します。
単なるテクストの解釈の問題ではないのですが、
これを解釈の、ちょっとした差異に還元してしまうのは、
芸術を矮小化しているような気がします。
もろに芸術と思想の関係の問題であると思いますが・・




From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0387] 芸術と政治
Date: Thu, 18 Nov 1999 00:34:08 +0900



山野が[gs-club:0364] 言い出しっぺなので・で
>まず二つの点について問題提起を。
>一つ目は、政治と芸術の二元論がそもそも成立し得るのか、と言うことです。
>この点に付随して、いくつか問題が出てきます。
>たとえば、芸術が政治的意味合いを持ったときに芸術家はどう行動すべきなのか、
>その指針として何を持ち出すべきか、
>また、芸術を守るために政治に反対の意を示さないのは、消極的な賛成なのか、
>芸術家を科学者と言い換えたときに、
>科学者が戦争中に取った行動はどう評価されるのか、
>と言ったところですか。
芸術は個人のものであると同時に時代の表現でもあるわけだから当然その時の「支
配」の表現であると考えます。
そうした場合は政治と芸術の二元論には否定的であり、芸術は体制の表現であるし、
偉大な芸術は体制を指導する.ともいえるしまた芸術と政治は一体化するともいえま
す。

とりあえず.もっといいたいことがありますがなお時間が長くなりますので
マム・山形


Date: Thu, 18 Nov 1999 01:50:54 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0388] Re: 時間が無くて読むのがやっと・・・



山野です。
レスつけるの忘れていましたが、
これにも少しレスつけておきます。



"odn" <glob@l.office.ne.jp> wrote:

>  今、普段我々が音楽と接するとき、まず"Right here,Right now"で聴くということが第
> 一段階としてあり、深い感動はそれより後に、音という引き金が当時その曲を聴いた当時
> の時代背景、環境、感慨などを呼び起こすという第二段階においてやってくるような気が
> します。これは実感としてです。
>  しかしこの感動が決して音楽だけによってもたらされるものでないことは確かです。
>  月に何度かレコード店に足を運ぶのも、いずれもたらされるであろう第二段階の感動の
> ためにさせられていることだとはどうしても考えられません。
>
>  では、なぜ人は第一段階において音楽を好むのかという謎は私にとって謎のままです。

多分、永遠に謎のままのような気がしますね(^_^)
心理学あたりに還元されても、多分納得しはしないでしょう。
多分理由づけして納得しているだけでしょうから(^_^)



>  芸術ってなんです?絵画や音楽、詩歌などは芸術だと言われますが、創作して何かを表
> 現してればそれでいいんでしょうか?なんかそれは大雑把過ぎて受け入れがたいです。
>
>  では芸術とは知識欲を満たすもののことを言うのでしょうか。これも否ですよね、当
> 然。
>  人の知識欲を満たすものを思想といい、哲学と言えるならばクラッシックにも哲学・思
> 想要素はあると思いますが、作曲の時点でそれが意識されたかと言えばどうなのでしょう
> か。その点では明らかに思想書などとは異質のものだと思います。
>
>  芸術って後付けのものじゃあないんですか?
>  芸術家たりえようとして芸術やる人もいるでしょうが、人間の内にこもって怨念にも近
> くなったドロドロとした感情を吐き出された作品を、評価する人が芸術とよぶだけなん
> じゃないかと思うんですが…。
>
>  そういう風に強い意志と時代の要請(ある程度の必然)によって出てきたものを、もし
> 芸術と言って良いならば、さっき「芸術だとは感じてない」って書きましたけど今私が好
> きで聴いている音楽は芸術だと思います。でも芸術だから聴くんじゃなくて「今、ここ
> で」我々の一部がそこに強く吐き出されているから聴くんだという実感が強く存在しま
> す。
>
>  芸術の存在意義を考える、ではなくて、今この時代の芸術とは何なのか何処にあるのか
> の方が、まずは重要なんじゃないでしょうか。と思いました。
>
> 歌詞の引用なのであまり長くしたくないのですが…
>
> --ここより引用--
> そ う 、 君 ん 中 に 溢 れ 出 す 世 界 に 、
>  決 し て 消 え な い 場 所 が 。
> それに 光あて、 赤く 染め返せ! 君に 出会いたい から。
> あ い つ ら の 言う正論は凍り付いて。さぁ、流れ変えてやれ。
> 一 生 ど ん 臭 い 理 屈 掘 り よ り か 、
> まぁ、 サイズ 合った服、 着よう って。
> 日々。(祝え! 祝え! おぉ、 祝え!)
> --ここまで引用--(中村一義『Jubilee』より、一部。空白など原文ママ)
>
>  これはちょうど大学生の年齢層に主に受けているのですが、もはや私たちの世代に
> 「詩」は生きていないんです。 そういうものは歌詞に求めるしかない状況があります。
>  そして求められて歌われる内容がこんな卑近な、と言っていいのか自分の周囲3m以内の
> ことだったりすると、思想が一時期大局へ大局へと向かっていったツケが回ってきてるん
> じゃないのかなと思ったりもします。しっかりと勉強した訳じゃありませんけど構造主義
> だとかポストモダニズムだとか、あれも面白いんでしょうけどその分ぽっかり開いちゃっ
> た穴を埋める部分に現代の芸術が現れてるんじゃないでしょうか。絵だったら村上隆なん
> かがそうかもしれません。
> 「サイズが合った服が着られるかどうか」っていうのは自分の「分」をわきまえられるか
> どうかという以前なら当然とされたアイデンティファイの問題です。その辺が足りないん
> です、僕たちには。
>
>  大学生に宮台真治とか宮崎哲弥が受けるのもそんな感じじゃないでしょうか。
>

私が先のメールで([gs-club:0386] 皆さん忙しいようなので)言っていた、
60年前の演奏に感じる、ある種の普遍性は、何と説明したらよいのでしょうか?
もはや、大きな物語でなければ普遍性を主張できない、
と言うわけでもないでしょうから、
個人的なレベルでの普遍性で良いのでしょうが、
ある程度、他人にも納得してもらえないと、
個人の趣味、単なる時代の風潮、で終わってしまいます。
多少時代が経っても、分かってもらえる部分があるのであれば、
あるべきでない芸術の形は無いとも思えます。
個人の趣味、単なる時代の風潮、では終わらないものがあるのであれば、
それは芸術と読んで良いのでしょうね。





Date: Thu, 18 Nov 1999 01:50:58 +0900
From: yamano kouichi <yamano@asia.interq.or.jp>
Subject: [gs-club:0389] Re: 芸術と政治



山野です。
このような返答では突っ込まれるかな(^_^;)

私は、この二つ(政治と芸術)は分けられないというニュアンスで
問題提起をしたわけで、
分けていたと思われるフルトベングラーには多少疑問を持ちますが、
これも時代の制約なのか?
といった問題はまた別個に論議しなければなりません。
まあ時代の問題である、と言って、ばっさり切ってしまえれば簡単ですが・・



"Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp> wrote:

> 芸術は個人のものであると同時に時代の表現でもあるわけだから当然その時の「支
> 配」の表現であると考えます。
> そうした場合は政治と芸術の二元論には否定的であり、芸術は体制の表現であるし、
> 偉大な芸術は体制を指導する.ともいえるしまた芸術と政治は一体化するともいえま
> す。






From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Date: Thu, 18 Nov 1999 21:43:53 +0900
Subject: [gs-club:0390] とくに意味のない引用



haです。
読むといっておきながら
いまだ時間がとれず読んでいないので
内容がもうひとつ理解できないのが残念です。

4〜5年前に読んだ太宰治の散文の中の一節が
まだ自分の中に強く残っています。
記憶が確かでは無いので原文と違ってると思いますが・・

甲「芸術とはなんだろう?」
乙「スミレの花のようなものです。」
甲「それは素晴らしい。では、芸術家とはなんだろう?」
乙「豚の鼻のようなものです。」
甲「それはひどい!」
乙「でも、その鼻はスミレの匂いを知っています。」

・・意味なくてスミマセン。




Date: Fri, 19 Nov 1999 01:16:36 +0900
From: イシダ <>
Subject: [gs-club:0391] デザイン人間の質問



はじめまして。
イシダと申します。
mephistさんがたまたまウチのMLに参加してくれたのがきっかけで、ずっと傍観者で
しかありませんでしたが、少し見つめ直したいことがありまして、初参加させてもら
います。恐縮ながらみなさんの意見を聞かせていただけないでしょうか?

僕はとあるデザイン事務所でアシスタントをしながら、日々デザインの現場に浸って
いる人間です。そんな僕は友人と飲みに行って語りが入りだすと、いつも話題にあが
りがちなのが『アートとデザインの違い』についてです。友人と僕は「商売がデザイ
ンで自己満足でもいいのが芸術だ」と一応は結論に至るのですが・・・

実は、僕はさほど違いはないと思っているのですが、皆さんの意見を聞かせていただ
けないでしょうか?
僕は文系型芸術思考の人間ですが、マルクスやレーニンの本は読んだことがありませ
ん。申しあけありませんが、深みに入るところがあるようでしたら、注釈や説明が欲
しいです。できれば、噛み砕いてください。
いきなりレベルの低い人間をばらして、みなさんのプレシャスな考えに水をさしてし
まったら、陳謝するしかありませんが、よろしくお願いします。




Date: Fri, 19 Nov 1999 01:55:51 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0392] Re: デザイン人間の質問



haです。
イシダさんのかかれた、
***
友人と僕は「商売がデザインで自己満足でもいいのが芸術だ」
と一応は結論に至るのですが・・・
***
ですが、僕はそれは短絡的だと感じました。
実は僕も事務所であるADのアシストをしていますが、
(今現在もその仕事中です・・・)
うーんと、ちょっと長くなるかもなので後日にします。
その後にかかれた
***
実は、僕はさほど違いはないと思っているのですが
***
に僕の意見も近いですがまた少しちがいます。
僕自身も「商売がデザインで自己満足でもいいのが芸術だ」
と強く信じてた時期がありました。
えー、すいません。仕事に戻ります。また送ります。




Date: Fri, 19 Nov 1999 13:16:46 +0900
Subject: [gs-club:0393] Re: デザイン人間の質問
From: sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp (Shiro SADO)

佐渡です。

イシダさん、はじめまして。
自分も新参ものです。

記事[gs-club:0391] デザイン人間の質問において
氏、曰く……
>> 僕はとあるデザイン事務所でアシスタントをしながら、日々デザインの現場に浸って
>> いる人間です。そんな僕は友人と飲みに行って語りが入りだすと、いつも話題にあが
>> りがちなのが『アートとデザインの違い』についてです。友人と僕は「商売がデザイ
>> ンで自己満足でもいいのが芸術だ」と一応は結論に至るのですが・・・

 自分は、全然、デザインとかそういうなのには無縁な、少なくとも周りの環境
が工学系(または、工学を僭称する人々の集まり)なのですが、人間ですが、違
いといわれて、パッと思いつくのは、

デザイン≒設計
機能が豊富(?)で使い勝手のよい、なおかつ、見ためが醜悪でないものを設計する

アート≒芸術
技巧を凝らした細工や見ための美しさを連想します。

というふうな感じです。

 通産省がグッドデザイン賞とかいうのをやってますが、あれは、デザインとい
う言葉を単に見ための善し悪しという風な狭過ぎる意味でとらえたものに思えます。
授賞している製品をみても、単に見ための善し悪しにとらわれ過ぎた製品(たと
えば、素敵なデザインの高速充電器。単3電池が2本同時に入り、「同時に充電で
きます」と書いてあるのですが、充電時間は1本50分で、2本なら100分(!))
が多いように感じます。

 アートは、見ためや手触りが人を感心させれば良く、デザインは機能も(orが)
吟味されるように思います。以下、「たとえばなし」です。あまり適切なたとえで
ないかも知れないですが、

 一昔も二昔も昔のパソコン(9800とか)は、デザインなんてものは、カケラ
も感じられない代物で、ただ、機能を実現するために箱に詰め込みました、という
雰囲気の漂う代物(← 極論をすれば、です)のような印象もあります。

 最近、デザインがどうこうということで、パソコンを選ぶ人も増えていますが、
(← これは、嘘といえば嘘です。おそらく常に微小な増加傾向にあります。)
最近の傾向として、デザインがしっかりしたパソコンもあり、それがi Mac だと
します。すると、なぜか、そのウワッツラをコピーしたような代物も、世の中に
出回ります。

 コピー商品みたいな代物を作る企業というのは、うわべが良いと人気が高い、
と分析して(分析が錯覚であるかも知れません)、コピー品というか、バッタモ
ンというか、外見の良く似た中身のことなる製品を作るのかも知れません。
(「うわべ→人気」なら「コピー商品を作る」という発想がなにか間違ってますが)

 i Macとそれのコピーであるe-oneの違いの一つに、見ため/うわっつらのもの真
似はできても、使い勝手はコピーできてないのではないか、というのが、たとえば、
あるかもしれません(あくまでも、例えです。どっちも使ったことないです/
この流れていくと、日本国内で「左ハンドルの外国自動車」に乗ってる人、つまり、
外国自動車を購入する際に、わざわざ「左ハンドル仕様」を選びたがる種類の人も、
「アートとデザインの混同」をしているのかもしれません。)。

 いや、i Macのうわべをコピーしてe-oneを作ろうという発想が、デザインと
アートを混同しているのかも知れません。



 くどくどと漠然と、自分の中のアートとデザインの違いをいいましたが、なんか、
違うこといってたらすみません。

---
佐渡詩郎 (さど しろう) / e-mail : sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp




Date: Fri, 19 Nov 1999 14:41:30 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0394] Re2: デザイン人間の質問



haです。
遅ればせながらイシダさんの問題のレスです。
まず、『アートとデザインの違い』についてですが、
僕の考えでは、「実は、僕はさほど違いはないと」という
イシダさんの考えに近いのですが、ちゃんと言うと、
「アートとデザインは並列で比較できない」
というのが前提としてありまして、つまり
「違いようが無い。というのはデザインもアートのひとつで
あり得る」又、「アートもデザイン的行為であり得る」
つまり、分離不可だとおもうんですね。
デザイン的な行為からアート性を純粋排除できないですし、
アーティスティックな行為から「伝える」意識が
全く無かった場合、受け止められる人がいなかったら、
それはアートになり得るのか?
以前このMLで「芸術は排泄だ」というコメントがありました
が、その排泄が伝えられるものとして表現されてなかったら
スカトロ愛好者以外それは迷惑なものです。

変な方向にエスカレートしそうなので止めまして、
ファッションやインダストリアルの部分まで含めると
包括的になりすぎて、焦点がぼやける恐れがあるので
とりあえず「グラフィックデザイン」と
「グラフィックアート」に絞ってみると
「発注者が外部にある」のか「発注者が内部にある」
のか?の違いだと思います。
商売として成り立つかどうかは、社会的な話に
なっていって論点がズレますので避けたいですね。
どちらでも商売できますし。

ただ、工業系デザインの場合、必然性が最優先されなければ
ならない厳しい束縛があるのでしょう(医療機器とか・・)
身体が大前提としてあるファッションや建築に比べると
2次元の画は命にかかわる危険にそんなに抵触しないので
上述の考えが成り立つのかもしれませんが・・・




Date: Fri, 19 Nov 1999 15:26:38 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0395] 少し疑問?



haです。
いつも少し疑問に思っていて、
なぜかわからない事があるのですが、

ある事柄を表現する時、また、されているものを
受け止めるとき、
それそのものがそのまま提示されるのでは無く、
なにか別の形の比喩や連関であらわされているものを
受け止める事が出来たとき、何故感動できるのでしょう?
たとえば「地球」が
「地球の写真がドーンとそこにある」のもパワーがあれば
もちろん感動しますが、
「青い丸」がそこに描かれているだけで、絵の中でそれが
「地球」を表現されていた事が自分に伝わったとき
「おお」と感動するのは何故なんでしょうか。

自分がつくる時も
「それそのものから限り無く離れる事によって
それそのものの内部に近付く」
事を稚拙ながら意識していますし、上手くいったかな?
と思った時は自分でもとても嬉しい。

のですが、「何故、謎解きのように乖離されたものを
認知したとき感動するのかな?」
という自分のやっている事の動機が理解できない所が
あるのです。
心理学的に説明がつくことなのでしょうか?
お分かりになる方がいらっしゃったら教えてください。




Date: Fri, 19 Nov 1999 15:41:02 +0900
From: tm6n-kmr@asahi-net.or.jp (Natsuki Kimura)
Subject: [gs-club:0396] Re: デザイン人間の質問



>実は、僕はさほど違いはないと思っているのですが、皆さんの意見を聞かせていただ
>けないでしょうか?

作品だけを考えれば、違いはあまりないと思います。
ニューヨーク現代美術館にはデザインのフロアがあり、
セザンヌやポラックの絵を見た後にメトロポリスのポスターや
ライトの建物(模型)を見ても違和感はなかったです。

ただし、アートとデザインの文脈(理論)は完全にわかれているので、
両方を同時に語るのは難しいのではないでしょうか。
このあたりは、見る(語る)側の身勝手かもしれませんね。

木村夏樹
tm6n-kmr@asahi-net.or.jp
http://www.asahi-net.or.jp/~tm6n-kmr/






Date: Fri, 19 Nov 1999 15:47:34 +0900
Subject: [gs-club:0397] Re: Re2: デザイン人間の質問
From: sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp (Shiro SADO)



佐渡です。

すこし興味深いお話のように感じます。

記事[gs-club:0394] Re2: デザイン人間の質問において
h617@tkc.att.ne.jp氏、曰く……
>> ただ、工業系デザインの場合、必然性が最優先されなければ
>> ならない厳しい束縛があるのでしょう(医療機器とか・・)
>> 身体が大前提としてあるファッションや建築に比べると
>> 2次元の画は命にかかわる危険にそんなに抵触しないので
>> 上述の考えが成り立つのかもしれませんが・・・

工業系とそれほど限定しなくても、漆芸や陶芸によって作られた
生産物(=作品?)の場合、

1.実用的/機能性を欠く漆器・陶器がデザインと言えるか?

2.実用的/機能性を欠く漆器・陶器がアートたり得るか?

というクエスチョンに対して、前者はNO、後者はYESといえる
ように思うのです。

では、デザインとは実用性のみか、といえば、NOですし、アートたる条件が
実用性を欠くことかといえば、haさんがおっしゃられるように、NOですよね。

>> デザイン的な行為からアート性を純粋排除できないですし、
>> アーティスティックな行為から「伝える」意識が
>> 全く無かった場合、受け止められる人がいなかったら、
>> それはアートになり得るのか?

ところで、いろいろ考えていくと、「アートは、なぜ、存在するの
か?」という疑問が浮かび上がってくるような気がします。

デザインであれば、使うために必要だから存在しているということも
できますが、アートが存在する理由というのは、アートを存在させる
ことに意義があり、また、あるアートが存在し得るか否かという命題
について、存在し得るということを証明するために、芸術家はアート
をつくり出しているような気もします。

自らの観念を相手に伝えるということは、なにかしらのかたちで言語
が必要になりますが、芸術の場合、言語に相当するものはなにか?

ということを考えると、比較的古典的な芸術(クラシック音楽・近代
以前の絵画や彫刻)では、ある程度は、ことばや文法が確立されている
に近い状況であるように思うのですが、現代芸術の芸術家というのは、
言葉を探している、なにが言語たりえるかを探しているのではないか、
という節があるような気がします。

ところで、

>> 以前このMLで「芸術は排泄だ」というコメントがありました
>> が、その排泄が伝えられるものとして表現されてなかったら
>> スカトロ愛好者以外それは迷惑なものです。

これは、人間Aによってつくり出された「芸術」が、伝えられるものか
どうかは、それを見る/聴くなどする人間B(あるいは、「神に捧げる」
ばあいも、近似的にそれを人間だとして)が存在し、Aによりつくり出さ
れた「芸術」が「人間Bによって受理され得る言語」であるかどうか、
という問題ですよね。

そして、どんな人間を持ってきても受理されようがないものが「その排
泄が伝えられるものとして表現されてなかったら」という状態になる訳
ですよね。

>> 「アートとデザインは並列で比較できない」
>> というのが前提としてありまして、つまり
>> 「違いようが無い。というのはデザインもアートのひとつで
>> あり得る」又、「アートもデザイン的行為であり得る」
>> つまり、分離不可だとおもうんですね。

「デザインもアートのひとつであり得る」というのは、たとえば、
実用的な民芸品のひとつにしても、芸術的要素を含んでいるという
ことですよね。

「アートもデザイン的行為であり得る」というのは、
・デザインという行為は、アートという作業を含む
ことを指すのか、それとも
・「デザイン的行為」という概念は「アート」という概念を含む
ということでしょうか。

言葉は概念にそれなりに対応しますし、別々の言葉がついているのです
から、本質的に同一の部分を含んでいるにはしても、それなりに違うも
のであることを認識することは、おそらく可能であるような気がします。

---
佐渡詩郎 (さど しろう) / e-mail : sado@smlab.tutkie.tut.ac.jp




Date: Fri, 19 Nov 1999 16:35:17 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0398] Re:アートとデザインの文脈



haです。
まず、アートとデザインの文脈が完全に別れているのは
歴史的にそれを伝える場合においての便宜であり、
教科書の世界観だと思います。
かつて肖像画が美術と呼ばれていた
近代まで・・バウハウスやロシア構成主義なんかが現れる
前だとその理論は分けて考えられたのでしょうが、
今現在、行為そのものを完全に分けて考えるのは不可能だと
思いますね。
MOMAにデザインのフロアが存在するのは
もう完全に分けて考えられない証拠ではないでしょうか?
ロンドンの国立博物館(だったかな?)も
人がつくってきたものとして、昔の絵画美術や
現代の作家の家具などが陳列されています。
その時代時代であらわされる美の形を陳列しているという
パースで捉えると、アートとデザインの境界を見定めるのは
非常に難しいと思います。
当時実用品だったものが時代を経ると美術品とされるのは
なぜでしょう。




Date: Fri, 19 Nov 1999 16:54:22 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0399] Re: アートとデザインの^スミマセン



すみません。haです。
先程送ったものを読み返してみると
木村夏樹さんの投稿を攻撃しているように
見えますね。全然違います。
言葉が足りずに申し訳ありませんでした、




Date: Fri, 19 Nov 1999 19:19:30 +0900
From: H <h617@tkc.att.ne.jp>
Subject: [gs-club:0400] Re: Re3: デザイン人間の質問



佐渡さんの御意見とても興味深いです。

佐渡さんWrote:
********************************
1.実用的/機能性を欠く漆器・陶器がデザインと言えるか?
2.実用的/機能性を欠く漆器・陶器がアートたり得るか?
というクエスチョンに対して、前者はNO、後者はYESといえる
ように思うのです。
では、デザインとは実用性のみか、といえば、
NOですし、アートたる条件が実用性を欠くことかといえば、
haさんがおっしゃられるように、NOですよね。
********************************

僕がさき程申しました、アートとデザインの違いは
***「発注者が外部にある」のか「発注者が内部にある」
のか?の違い。***
という意見はとりあえず根本のものとしてこっちにおいといて、
「アート的」か「デザイン的」かという言葉になおして
解釈すると
佐渡さんの上述のご意見にはとても共感できます。
ただ、
2.実用的/機能性を欠く漆器・陶器がアートたり得るか?
がYesである為には、その前に「感じるものがある」事が
条件になってのYesですね。

佐渡さんWrote:
********************************
デザインであれば、使うために必要だから存在しているということも
できますが、アートが存在する理由というのは、アートを存在させる
ことに意義があり、また、あるアートが存在し得るか否かという命題
について、存在し得るということを証明するために、芸術家はアート
をつくり出しているような気もします。
********************************
については微妙に考え方が違うのですが、
実用的にデザインされているものは必要性から生じているわけですから
文字通り、必要だから存在する意義がありますね。
アートの場合は、他者にとって切実な必然性は希薄です。
実用性も希薄なものが多い。
だからそれ自身に意義があるのでは無く、
なぜか人々はアートによる刺激を求めている、刺激を必要としているから
存在しているのではないか?だからこれも必然性に基ずいて存在している
のでは無いでしょうか。必要なければとっくに無くなってますよね。
アートなんか。
だから、芸術家は芸術の存在証明の為に作品をつくるのではなく、
あくまで自分の創作の欲望にもとずき、作りつづけ、
そこにうまれる刺激の享受を求めているひとも沢山いるから
存在しつづけている、と思うのです。
アート自体の存在に意義を求めるのは、
その業界が存在する事で利益を得る人々の行為だと感じます。

ながったらしくなってスミマセン。
一度ここで止めます。
又残りの文については後程反応しようと思います。