風魔小太郎について


 小田原北條家に使えた忍びの者。風魔党を率いて北條家を支えたとされる。
 その期間は、明応四年(1495)から天正十八年(1590)に及んだ。風魔の頭領は、代々、小太郎と称する。
 史料としては、「北條五代記」に記されているが、詳細がつまびらかでない。

○風魔一族の出自
 風魔一族は、その系統は、伊賀、甲賀などの系統と異にする異色の集団といわれている。おそらく山窩の系譜、またはきわめて古い時代に渡来気化した異民族の系譜ともいわれている。小田原の北方、現在の秦野市は、秦氏という渡来系の一族によって開拓されたという歴史もあることからも考えられるかもしれない
 その戦術は、ゲリラ戦法が主であり、諜報、奇襲。謀略、放火、流言をひろめる、偵察、掠奪などが得意であったといわれている
 風魔は、小田原の西の方、神奈川県足柄郡風祭のあたり、風間谷(風間村)に住みつき、風魔一族と呼ばれるようになったという。またその本拠地は箱根道の要衝であった。

○小田原北條と風魔一族
 風魔一族と小田原北條家の関わりあいの明確なつながりは、はっきりしないが、初代伊勢新九郎宗瑞(北條早雲)によって、その特殊な騎馬戦術の技術を評価され、北條軍団の系列に組み込まれたものと考えられる。

○五代目風魔小太郎
 
風魔の戦闘記録中最も華々しい戦闘を行ったのが、五代目の頭領、風魔小太郎である。
 その姿は、身の丈七尺二寸、筋骨荒々しく、むらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し・・・
 という大変な描写がされている男であった。

○風魔一族の活躍
 天正九年(1581)甲州の武田勝頼は、甲斐、信濃、駿河の大軍を率い、小田原北條の伊豆領への侵攻を企ててきた。
 武田軍は、黄瀬川をへだてて駿河三枚橋から浮島ヶ原に陣を構え、北條軍は、三島と伊豆初音ヶ原に布陣した。
 この時、風魔一党は、約二百名、四隊にわかれて、雨の夜も、晴の夜も、風の夜も、黄瀬川の激流を巧みに渡り、武田の陣に夜襲をかけた
 はじめの、二、三度は、馬に藁人形を乗せて武田の陣に追い込み、また藁人形かと思ったとき、本当に夜討ちをかける。
 乗馬を盗んでいくときは、馬の横腹に貼り付き、馬上に人が居なくて疾駆させる。鎧、武器、食糧、手当たり次第に掠奪し、あちこちに放火し、敵中にまぎれこんで鬨の声をあげて混乱させる。
 このようなことをされては武田軍は、夜もおちついて眠ることができず、ついには同士討ちをしたり、主人と家臣が斬り合ったり、子が親の首をとったりするようになってしまったという。
 引き上げる風魔にまじって尾行した武田の武士は、「立ちすぐり居すぐり」という敵味方識別法にかかって、皆殺されてしまったという。

 「怨めしの 風魔が忍びや、 あら辛の乱波が夜討ちや」と武田軍は詠じてなげいたという・・・・

○小田原北條家滅亡後の風魔一族
 小田原北條家が、天下人豊臣秀吉の大軍によって、滅亡した後、風魔一族はどのような運命をたどったであろうか
 小太郎は、残党をつれて江戸へやってきたという
 江戸は関東仕置ののち、徳川家康が入城して、江戸の町は、めざましい発展が進んでいた。
 小太郎は、この江戸の地において、盗賊となっていったという。徳川氏は、旧主北條氏にとって敵である。小太郎は遠慮なく掠奪の限りを尽くしたといわれる
 徳川家も対策に苦慮し、たんなる治安維持に方法では手に負えず、ついには特別警備隊を編成し制圧にかかるとともに、懸賞金をかけて密告を奨励したという
 同じ頃、甲州素波の残党も江戸に潜入していて、盗賊を働いていた。頭目を高坂甚内といった。この高坂党と風魔党が張り合うようになったのである。
 甚内も縄張り意識から、密告に及び、特別警備隊を小太郎の本拠地へ案内した。こうして小太郎は捕まり、たんなる盗賊として処刑されたといわれる。慶長八年(1603)のこととされる
 それから十年後、甚内もまた捕まり処刑されたという。

○『北條五代記』所収「三十九 関東の乱波智路の事 [雑ノ六] 原文

見しは昔、関東諸国みだれ、弓箭を取てやむ事なし。然ば其比、らつぱと云くせ者おほく有し。これらの者、盗人にて、又盗人にもあらざる、心かしこくけなげにて、横道なる者共也。或文に乱波と記せり。但正字おぼつかなし。俗にらつぱといふ。
 され共此者を国大名衆扶持し給ひぬ。是はいかなる子細ぞといへば、此乱波、我国に有盗人をよく穿鑿し、尋出して首を切、をのれは他国へ忍び入、山賊・海賊・夜討・強盗して物取事が上手也。才智に有て、某計調略をめぐらす事、凡慮に及ばず。古語に、偽ても賢きをまなばんを賢とすといへり。されば智略と盗人の相おなじ事也。舎利弗も智恵をもつてぬすみをよくせられけると、古き文に見えたり。乱波と号す、道の品こそかはれ、武士の智謀計策をめぐらし、他国を切て取も又おなじ。
 扨又戴淵と云者盗人也。陸機と云者舟に乗、長安へ参る時、淵はかりごとをめぐらし、陸機が舟のうちを盗みとらんとす。
 陸がいはく
「汝が器用才覚にては、高位にもすゝむべき人なり。何とて盗みするや」
と云時、淵つるぎをなげすて、盗の心をあらためける。帝聞めし
「志をひるがへす事切也」
と、ほうび有て、めしあげて将軍になし給ひぬ。
 是をおもふに、誠に関東のらつぱが智恵にては、神仏とならんも安かるべし。大人にもならず、財宝をもたくはへず、盗人業をえたるこそ、をろかなれ。
 然に、北條左京太夫平氏直は、関八州に威をふるひ、隣国皆敵たるによて、たゝかひやん事なし。
 武田四郎源勝頼・同太郎信勝父子、天正九年の秋、信濃・甲斐・駿河三ヶ国の勢をもよほし、駿河三枚ばしへ打出、黄瀬川の難所をへだて、諸勢は浮嶋が原に陣どる。氏直も関八州の軍兵を卒し、伊豆のはつねが原・三嶋に陣をはる。
 氏直乱波二百人扶持し給ふ中に、一の悪者有。かれが名を風摩と云。たとへば西天竺九十六人の中、一のくせ者を外道といへるがごとし。此風摩が同類の中、四頭あり。山海の両賊、強竊の二盗是なり。山海の両賊は山川に達し、強盗はかたき所を押破て入、竊盗はほそる盗人と名付、忍びが上手。此四盗ら、夜討をもて第一とす。
 此二百人の徒党、四手に分て、雨の降夜もふらぬ夜も、風の吹よも吹ぬ夜も、黄瀬川の大河を物共せず打渡て、勝頼の陣場へ夜々に忍び入て、人を生捕、つなぎ馬の綱を切、はだせにて乗、かたはらへ夜討して分捕・乱捕し、あまつさへ爰かしこへ火をかけ、四方八方へ味方にまなんで紛れ入て鬨音をあぐれば、惣陣さはぎ動揺し、ものゝぐ一りやうに二三人取付、わがよ人よと引あひ、あはてふためきはしり出るといへ共、前後にまよひ、味方のむかふを敵ぞとおもひ、討つうたれつ、火をちらし、算を乱して、半死半生にたゝかひ、夜明て首を実検すれば、皆同士軍して、被官が主をうち、子が親の首を取、あまりの面目なさに、髻をきり、さまをかへ、高野の嶺にのぼる人こそおほかりけれ。
 扨又其外に、もとゆい切、十人計かたはらにかくれ、こぞり居たりしが
「かくても生がひ有べからず。腹を切らん」
といふ所に、一人すゝみて云けるは
「我々死たり共、主を討親を殺す其むくひを謝せずんば、五逆八逆の罪のがるべからず。
 二百人の悪盗を、いずれを分て、かたきせんや。風摩は乱波の大将也。命を捨ば、かれを討共安かるべし。
 今宵も夜討に集るべし。
 それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、長七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。声を高く出せば、五十町聞え、ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり。見まがふ事はなきぞとよ。其時風摩を見出し、むずとくんでさしちがへ、今生の本望を達し、会稽の恥辱をすゝぎ、亡君亡親へ黄泉のうつたいにせん」
と、かれらが来る道筋に、十人心ざしを一つにして、草にふして待にける。
 風摩例の夜討して、散々に成てにぐる時、十人の者共其中へまぎれ入、行末は二百人みな一所に集たり。
 然ば、夜討強盗して帰る時、立すぐり・居すぐりといふ事あり。明松をともし、約束の声を出し、諸人同時にざつと立、颯と居る。是は敵まぎれ入たるをえり出さんための謀なり。
 然に件の立すぐり・居すぐりをしける所に、紛れ入たる十人の者、あえて此義をしらず、えり出され、みなうたれけるこそふびんなれ。
 夜々の事なれば、勝頼の諸勢是にくたびれ、夜明ければ、よろひをぬぎすて昼ねしける所に、なま才覚なるものいひけるは
「いかにや人々、兵野にふせば、とぶ鴈の飛みだるゝをば見給はぬか。風摩が忍び、乱波が草にふしたるよ」
とよびめぐれば、
「すはや心得たり。遁すな討とれ」
とて、惣陣騒ぎ動乱しける。馳向て是を見るに、人一人もなし。くるれば馬にくらをきひかへ、弓に矢をはげ、鉄炮に火縄をはさみ、干戈を枕とし、甲冑をしとねとし、秋三月長夜をあかしかね
「うらめしの風摩が忍びや。あらつらの、らつぱが夜討や」
といひし事、天正十八寅の年まで有つるが、今は国おさまり目出度御代なれば、風摩がうはさ、乱波が名さへ、関東にうせはてたり。

【語注】
○おぼつかなし=はっきりしない
○我国=自分の国
○舎利弗(しゃりほつ)=釈迦十大弟子の一人、智慧第一といわれた。原文「弗」に「ぶつ」とふりがなするが採らず
○載淵=載淵と陸機の話、中国南北朝の『世説新語』自新章に出る
○悪者=この二字に「あくもの」とふりがなす
○風摩(かざま)=原文のふりがなのまま付けた

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