この論文は、刀剣美術の平成十年十月号の巻頭に掲載されたものです。

会津兼定の観音寺打ちと侠客観音寺久左衛門

                                            外山登
兼定と越後加茂打ち

会津十一代兼定の経歴については、既に『刀剣美術』一第五二号、昭和三十三年七月号一に「会津刀匠和泉守兼定について」と題して、米山雲外氏が詳しく発表されています。
そこには、戊辰戦争の戦況と兼定の活躍を述べられた後、越後の加茂町に駐鎚したことについて次のように書かれています。
「(明治元年)九月二十二日城中死屍山をなし、傷者満ち溢れるに及んで終に開城したのであるが、(略)兼定も城を出て猪苗代に謹慎したのである。
明けて明治二年二月(三十三才)(略)九月十日父近江七十六才にて没す。同日越後に罷り越し居るよう仰せ付けられ、明治七年九月迄の五年間加茂町で生活す。この期の作品は多く新潟県下に散在する如くであるが(略)」(傍線筆者)
実際、加茂では盛んに鍛刀したようで、新潟県には兼定の加茂打ちがたくさん残っており、県内の愛刀家に人気があって、郷土刀と同じ扱いを受けているようです。

押形一、脇指
銘 表 於鴨漢三川亭兼定
   裏 明治四未年八月日
造り込み 平造り
寸法 長さ一尺一寸六厘(三三・五センチ)反り一分三厘(四センチ)元幅八分六厘(二・六センチ)
地鉄 小杢目に細かい地景入り、一部に杢目交じる。
刃文 三本杉にのたれを交え、匂口締まりごこに足・葉入り、砂流し入り、所々むら沸付くが、刃明るい。

この脇指は加茂打ちの一本で、兼定は加茂では青海神社正門前の角にあった資産家、志田家に滞在したといわれますが、志田家の屋号が三川屋だったことから、この脇指には「於三川亭」と銘し、志田家で造ったことを表しています。

兼定は戊辰戦争で会津敗戦後、地元では刀が打てないために志田家の招請で加茂へ駐鎚したと思っていましたが、先に引用した傍線部の「越後に罷り越し居るよう仰せ付けられ」とあることから判断すると、志田家の招請もあったかも知れませんが、殿の命令でもあったことが判ります。

そして、加茂での兼定の作品がたくさん残っていることから、注文者が多かったものと想像されます。
信秀のことを調べていて、明治四年の散髪脱刀令後は、ほとんどの刀工が作刀を申止したのに、信秀に限っては、それ以後もたくさんの作品が残っていると思っていたのですが、兼定の加茂打ちがあまりに多いものですから、数だけなら、兼定の方がもっと多いように感じています。もしかすると明治四年以降、全国的にも新々刀期の刀工としては、兼定が最も多く作刀した人ではないかと想像しています。

では、どうして越後で刀を注文する人が多かったのでしようか。
当時は中央政府の権力がまだ地方に十分に浸透し切っていない部分があり、越後には脱刀令が市民の意識に浸透しにくい部分があったのかも知れませんし、さらに、当時は農業が最も重要な産業だった中で、越後は広い平野を擁した農業県で裕福だったこともあって、刀を注文する人が多かったのではないかと想像しています。

また、当時の越後の人口が束京より多かったと言うと、ほとんどの方が驚かれますが、本当に多かったのです。

明治初年のデータが見つからなかったので、少し後になりますが、『明治大正国勢総覧』(昭和二年八月二十五日発行、発行所・東洋経済報社)によれぱ、明治十三年の人口は「東京府(原文のママ)九五七、三〇〇名」、「新潟県一、五一六、三三八名」となっています。
明治政府が東京に出来てから、当然東京の人口は増えたはづですから、明治の初め頃はもっと差が大きかったと思われます。ちなみに全国では三五、九二五、三二二名と記録されています(全国を「内地」と記してありました)。

二、兼定と越後観音寺打ちの長巻

実は、兼定は加茂に未る以前にも越後に来ています。
加茂へ未る二年前の慶応四年、戊辰戦争の最中に越後の西蒲原郡観音寺村に来て鍛刀しているのです。これについて、先の米山氏論文は次のように書いています。
「慶応四年四月(三十二才)、命により越後国観音寺村松宮雄次郎方に於て鍛刀すべく、その弟子越後加茂の兼元、同与板兼行、京都兼弘、会津兼宗等を引具して同地に赴いたが、翌五月長岡藩ついに西軍の侵するところとなり、両軍の攻防戦は日々激化したため、六月願の上帰国す」(傍線筆者)

滞在期間は四月から六月までの足掛け二カ月間ですが、西軍と長岡藩との戦渦を気にしながらの製作を考えれば、実際に仕事が出未たのは、ごくわずかな間だったろうと想像されます(滞在は一力月間だったと聞いたこともあります)。
ただ、この時は、会津藩が戦いに勝つために藩の命運を掛けて、武器を造る職人として兼定を越後へ派遣しましたので、多くの弟子も引き連れており、鍛刀には相当本腰が入っていただろうとも思われます。
そして観音寺に来て最初に造ったと思われるのが次の作品です。

押形二、長巻
銘 表 会津刀匠和泉守藤原朝臣兼定
   裏 慶応四戊辰年壬四月於北越観音寺邑為
     松宮直秀君造焉
造り込み 横手のある薙刀造り
寸法  長さ二尺六寸四分(八〇センチ)、反り五分三厘(一・六センチ)、元幅(三・二センチ)、先幅一寸(三・〇センチ)、茎長さ二尺四寸八分(七五センチ)
地鉄  柾目
刃文 ゆるいのたれを交えた沸出未の直刃、刃縁荒沸付き、二重刃、打ちのけ掛かり、湯走り入る。


長大な作品なのに姿良く、形がまとまっています。実戦に使ったらしく、表の中程の錆に刀傷がありますが、物打ち辺の刃にも大きめの刃欠けがありました。それを研ぎ落としたため身幅が狭くなっており、元はもう少し幅があって、刃幅も広かったものです(この研ぎ減らしで、表の帽子の中に鍛え割れ傷が出たのが惜しまれます)。
地鉄は錆身の時も、研ぎ上げ後も明瞭な柾鍛えだったのですが、現在、所蔵なさっている方が再研磨したので見せて頂いたら、なんと小杢目肌になっているのです。あまりの違いに唖然として、改めて良く見直したのですが、あれ程ハッキリしていた柾目がほとんど見えなくなったのに驚きました。柾鍛えといっても元々は小杢に鍛えたものを柾に積んで鍛えたもので、小杢肌を起こすように研ぐと、こうなるのかなと考えている次第です。

これこそが先の米山氏の論文にある「命により越後国観音寺村松宮雄次郎方に於て鍛刀すべく」来村して、その頼って来た松宮雄次郎本人のために造った長巻なのです。
兼定の切り銘は常に楷書でキチッと切りますが、この銘はそういう中でも特に当たりノミが強く、常の兼定銘よりも緊張して丁寧に切っているように思います。

また、裏銘の造の次の文字「焉」は、刀銘として他ではついぞ見たことのない文字なので、『広辞苑』で調べたら「(漢文の助字)語調をととのえるのに用いる語。『我関せず』」としか書いてなく文脈の繋がりを考えると、もう一つはっきりしないので、手元にあった『大漢和辞典』(大正十四年刊の服部宇之吉総編、春秋書院発行)を調べたら様々な使い方があることが判りました。

「いずくんぞ」「ここに」「これ」等と読み、「句の終わりに置いて決定の意を表す」とのことですが、これを当てはめて、「北越観音寺村に於いて松宮直秀君のためにいずくんぞ造る」と読むと疑間、反語になってしまいますので、「ここに造る」「これを造る」と読めば、造るを強調する語であることが判るような気がします。いずれにせよ、「目標の作品を理想通り無事造り終えた」という思いが、この一字から伝わって来るように思いました。兼定が入念に造って、入念に銘を切ったことが伺われます。

この作品と兼定の銘の切り方から、松宮直秀が会津藩にとって如何に大切な人だったかが判りますし、この長巻の刀傷から実戦に使ったことも判るのですが、では彼はどういう人だったのでしようか。

この押形は昭和五十八年二月に、新潟支部会員の田村健二氏が所持なさっている時に取らせてもらったものですが、当時、田村氏は「裏銘の松宮直秀は観音寺村の侠客の大親分だったそうです」と話されていましたので、その後、何となく頭の中に「観音寺」「侠客」「大親分」という言葉が留まっていました。

三、ノンフィクション小説「戊辰任侠録越後の侠客・観音寺久左衛門」

昨年のことです。近くの本屋で新潟県内に関係する書籍が並んでいる棚を見ていたところ、『戊辰任侠録越後の侠客・観音寺久左衛門』(中島欣也著、恒文社刊)という本を見つけました(以後『戊辰任侠録』と略します)。

いつも頭の中にあった「観音寺」「侠客」「大親分」が、表題に並んでいるように感じて、手に取ってパラパラめくっていたら、直ぐ、目のなかに「松宮雄次郎直秀」という文字が飛び込んで来たのです。早速購入して読んだところ、この本こそ押形二の所持銘の松宮直秀本人について書かれたものだったのです。著者はあとがきに次のように書いておられます。
「観音寺久左衛門や松宮雄次郎個人に対する資料は、ほとんどが断片的なものだった。それを組み立てて、彼の人間像を浮かび上がらせるのは、かなり難しい仕事ではあったが、逆に言えば、それだけ自由に想像を飛躍させて書けるテーマとも言えた。
しかし私はあえてその資料から、なるべく離れぬように心がけた。たとえば本書の登場人物にしても早足の燕造以外、架空の人は使わなかった。多少窮屈でも、そうしたやり方で松宮の足跡をたどることによって、北越戦争のこれまで書かれなかった断面を、見てゆけるのではないかと思ったからだ」(傍線筆者)とあり、この本がノンフィクション小説であることが判りました。

そして、兼定の為打ち銘として、長年頭の中にあった観音寺の侠客松宮雄次郎について詳しく書かれていたために、会津藩と兼定と、この大親分との関係をよく理解することが出来たのです。
ここでは観音寺久左衛門と松宮雄次郎個人について、そして兼定が入念に製作した長巻が証明する、会津藩と松宮雄次郎の関係について、少し長くなりますが、本書から引用して紹介したいと思います。

四、会津藩と越後の侠客・観音寺久左衛門

木書によれぱ、慶応四年三月初め、会津藩は森武佐十、渡部英次郎、井上哲作、木沢鉄作の四人を松官雄次郎の所へ派遣して、戊辰戦争での会津藩への味方を依頼します。
「だが、何としても、われら迂闊であった。観音寺村は頭から会津領とのみ思うて未たのに、今ようやくわかったが、こともあろうに与板藩領だったとはなあ」と彼らに語らせ、「越後蒲原郡の会津新領は、藩主松平容保が京都守護職という火中の栗を拾う任務を無理に引き受けさせられたのちの加封、つまり職務手当として与えられたもので、まだ五年も経っていない。それに実際、当時この辺の村々の所属は、ごちゃごちゃに人り組んでもいた。観音寺村を中心に半径四キロの円を描いてみると、その中には与板、高崎、会津、三根山、桑名、村上の各藩領、それに幕領、弥彦神杜領と入りまじる」とのことでしたが、目標にしていた観音寺村が会津領ではなかったにもかかわらず、四人が訪ねて協力を依頼した松宮雄次郎は会津への協力を約束するのです。
右の「」内は『戊辰任侠録』からの引用を、示しますが、以下の「」内も特に注釈を付けない眼り、全て本書から引用したものです。

「実は松宮は、単なる博徒の親分ではなかったのである。彼の祖先は、源頼朝の家臣が元久三年(一二〇六年)にこの観音寺村に住みついた豪族、と伝えられる。その後この家の家運は一時衰えたが、享保元年(一七一六年)、中興の祖ともいうべき観音寺久左衛門が初めて松宮家を立て、その十代目がこの松宮雄次郎直秀となるのであった。雄次郎は文政九年の生まれだから、この戊辰の年は四十三歳、森武佐士より十二歳の年長だった。

代々観音寺久左衛門を名乗った松宮家は、裕福な家だったというが、特に雄次郎の祖父の時に巨富を得たといわれる。またこの祖父の時に、松宮家は長岡藩と密接な関係を持ったとされるが、当主は代々観音寺久左衛門を名乗っているため、記録は個人個人が混同されて、この祖父の事跡についても、周辺の事情から推測するほかない。

手がかりは、後年、関東、東海、甲州に二百二十四力所の渡世場を持ったという親分、有名な上州の侠客大前田栄五郎(一七九三〜一八七四年。講談などでは英五郎)。栄五郎は文化四年、十五歳の冬、賭場での殺人事件に関係して越後に逃れたが、この時、彼をかくまってくれたのが、観音寺久左衛門だったという。栄五郎はさらにこののち文化十四年暮れ、二十五歳の時、美濃で悪代官を切って木曽に逃れる。雪の山道を踏み越える間に、凍傷で足の指を落としながら、ようやく越後へたどり着く。
彼が頼ったのは、また観音寺久左衛門。久左衛門は二足のわらじ、つまり目明しもしていながら、お尋ね者をかくまって療養させ、おかげで栄五郎は凍傷と衰弱から立ち直ることができた。
彼は一、二年を久左衛門の許に滞在したと言われる。
『観音寺の親分は、おれの命の恩人だ』
明治七年に亡くなるまで、栄五郎は、この時の話をしては、そう語っていたという」(傍線筆者)

「資産がある観音寺の親分のところには、日本各地から頼ってくる者が多かった。大前田栄五郎は、その後も人を殺した子分を、久左衛門を頼って逃してきているし、捕吏に追われた国定忠次、清水次郎長なども、みんな久左衛門を頼ってきて世話になっているという。
新国劇の舞台で、赤城山の国定忠次が、『観音寺の親分は、今ごろなにをなさっているかなあ』などというのも、この時の忠次の思いを述べたものであろう。これはいずれも雄次郎の父九代目の時のことであるはずだが、この父も侠気に富んだ人物だったと伝えられる」
本書には他にも、観音寺久左衛門についての様々な記述があるのですが、ここでは全てを紹介出未ませんので、興味のある方は是非『戊辰任侠録』をお読み頂きたいと思います。 そして押形二の為打ち銘の松宮雄次郎直秀は、代々続いた大侠客観音寺久左衛門の十代目だったのです。

五、松宮雄次郎と戦いの記録

前項の最初に書いた会津藩が派遣した四人は後に戦いに参加し、森武佐士は一時負傷しますが、それでも無事会津で終戦を迎え、後に自伝を書き残しているそうで、そこには松宮雄次郎について次のように記しているとのことです。
「命運の尽きざるゆえに今に存生(ぞんじよう)にて、この履歴を認め得るなり」として「明治四十二年にまとめた『白伝』」を書いたとされており、この自伝からたびたび本書に引用されていますが、それらはいずれも雄次郎の生の姿を伝えていると思います。

彼の性格について自伝からの引用文は次のように述べています。
「松宮は性温柔、沈勇にして威あり」、「松宮の宅には四、五十曰居りしも、雄次郎は一度も怒気を現せしことなかりし、何時にても喜色を帯・・・・・」と書いていますし、そんな一見温和に見えるにもかかわらず、驚くほどの力を持っており、例えば情報の収集力については「其の神速なる事現在の電信電話の如し」「松宮の行届きしには百驚せり」等と書かれています。
そして、多くの子分を引き連れて、あるいは近在の者に影響力を駆使して会津藩に協力し、本人もこの長巻を持って戦いに参加するのです。
「すでに松宮が集めた兵は千人と称せられ、別に松宮の命によって大野の木山治六親分が集めた分が五百人と称された。これは長岡藩が参戦した五月上旬の時点で、越後口西軍は四千人以上、東軍二千人、のちに米沢、庄内等の奥羽勢が到着した時点で、西軍二万人以上、東軍五千人と一言われることを考えると、東軍の中で占める博徒兵の比率は過大とも思われる。
しかし松宮の配下たちは、これ以外にもあらゆる場面で、変幻白在のゲリラ活動で西軍を悩ませたのだった。三島郡岩田の庄屋、白井荘三郎のリアルタイムの戊辰戦争記録『説話正真日記』の中からそれらしいものを拾ってみると、五月六日の赤田の戦闘で、
『同日女兵六拾人も来由』
などとあり、後の五月二十七日、信濃川有岸地区大面付近の戦闘では、
『会津兵夫人一人夫一の体(てい)二而(て)弐百人程山岸より間道へ迫り、不意に切り込み鋏(はさみうち)て打二而(て)官軍敗走』

また同日の記録、
『百姓の体二て円乃草杯(のくさなど)取り、時分能き節合図と共に切懸(きりかかり)、是二而官軍手負(ておい)、死人多出未(しゆつたい)、敗走に相成候よし』
しかもこの田の草取りの形の伏兵は、こののち松宮の本拠である川西へ帰って、なに食わぬ顔で百姓に戻ったとある。
また日ははっきりしないが、西軍が荷物を運んでいる百姓に案内を頼んだところ、
『能程(よきほど)に導引(みちびき)致し』
百姓姿で潜んでいた伏兵のところへつれて行かれた。一斉に斬りかかられて、
『官軍方討死不数知(かずしれず)』
その間に、道案内の百姓はさっさと逃げてしまったとある」
そして「そういうことがたび重なるにつれて、松宮雄次郎とか、観音寺久左衛門とかいう名は、逆賊に与する者の首領、許せぬ男として、次第に西軍内に知られていくことになるのだった」のです。

六、松宮雄次郎に対する西軍の評価

松宮一家が活躍していることは西軍の知るところとなるのですが、「越後人の草奔の志士、つまり民間の勤王活動家たちが、松宮を"大悪党"として西軍に吹き込んだ」「同じ地元で自分たちと思想的立場異にする松宮に激しい憎悪を持ったとしても不思議はなかった」とのことで、主に地元の勤王活動家たちが松宮を目の仇にして、憎悪を持って西軍に吹聴したとしています。

彼らの中の一人、二階堂安則は、次のように書いているとのことです。
「たまたま松宮勇(原文のママ)次郎等歩兵を煽動して与板を襲い、財貨衣類を掠奪し、乱暴狼籍至らざるなりし」(風後除草)
これは事実と違い、実際は与板を襲ったのは麹町の兵営を脱走した幕府の歩兵隊の一群の衡鋒隊だったのですが、西軍には、あたかも松宮の一派がしたように、憎むべき敵として各前が印されていくのです。
五月二十五日になると、東軍がわずかな間、留守にした寺泊に、薩摩の軍艦乾行丸か一時入港して「布告」を張り出していきます。

「『布告」の未尾には、次のような文、言が添えられていた。
(ママ〕のやか)、観音寺の休右衛門(原文のママ〕の輩(やから)、賊徒相親ミ、手はなはだにくむべき先キト成候罪、甚可悪之所業二付、村中之者の共、速二彼者(かのも)ヲ斬首御詫可申上者也(もうしあぐべきものなり)         天朝軍艦

戦線へ到着したばかりの、薩摩の軍艦の布告である。松宮の名が、観音寺一家の名が、いかにこの方面に知れわたり、その憎悪の対象となっていたかは、これではっきり見てとれるのだった」
これらの記述は、全て松宮の活躍を証明するものと考えます。

七、松宮雄次郎の最期

松宮は子分を参加させただけでなく、白分も一隊を卒いて、戦争に参加していくことになります。
「松宮の指令によって集められた博徒兵たちは、今主として川西の戦場で会津各隊に分散して戦っているが、松宮は別に彼の子分の精鋭を選りすぐって、自分が直接卒いる一隊を編成していた。
『聚義隊』。隊員約五十人、彼の腹心である斎藤新之助、遠藤改蔵の二人が伍長となって、その命知らずの連中を束ねている」

このようにして戦いに参加するのですが、この時に押形二の長巻を所持していたはずで、刀傷が、示すように実戦にも使っているのです。
兼定は六月に観音寺村から会津に帰りますが、その後、越後での東軍は敗戦が続き、
「七月二十九日長岡が再落城し、新潟も陥落したと知った時、米沢藩の撤退は、鮮やかと、言っていいほど千際がよかった。全軍をさっさとまとめると、たちまち八十里越から姿を消してしまったのである」
そして米沢藩は間もなく降伏して西軍に加わります。

八月初めには、奥羽越列藩同盟は三条から五十嵐川を遡り、八十里越から、あるいは加茂から阿賀野川河谷を経て会津へ脱出して行くのですが、「その中に松宮と彼の聚義隊はいたのである」
「八月十日(陽暦九月二十五日)(略)
この朝から、河谷の右岸入口の要地、小松、石間の前進陣地に、西軍が攻めかかってきた。(略)
この関門が破れれば、敵はどんどん河谷へ入ってくる。小松、石間救援の命令は、松宮の聚義隊に下った。
『松宮雄次郎の兵、斎藤新之助の兵四十人をして援けしむ』(『会津戊辰戦史』)
全体で『五十余人』と記録された聚義隊は、他国へ流浪して戦う、この事態になっても、なお四十人が松宮に従っていたのだった」

しかし、戦況は厳しく、元々の会津藩士ではない松宮は会津藩とは別に、やがて降伏することとなります、
「松宮雄次郎の降伏申出書の写しが、市立米沢図書館の『越後機事叢録』に収録されている。
『米沢御軍事方』宛で、『恐れながら書付を以て願い上奉り候」で始まるその文書を口許文に直すと、
『拙者どもは、越後蒲原郡百姓でございますが、(その所在が)会津の御領地になったそうで、出兵を仰せつけられ、やむを得ずその催促に応じてまいりました。しかしその罪を悔いて降伏いたし、兵器刀剣残らず提出いたしますので、なにぷんの御指示をお待ちします。お慈悲を以てよろしくお取り扱いのほど、お願い申し上げます 以上 辰九月』そして『越後国蒲原郡観音寺村百姓雄次郎』を筆頭に、『長岡』だとか、『岩船郡村上』だとか、越後各地の"百姓"四十七名がそこに名をつらねている。(略)

これに対し、彼らの降伏を受け付けた『米沢藩駒島詰』の佐藤孫兵衛と大国筑後は、九月十四日付で『官軍御会議所』へ、彼らの処置についてお伺いの文書をだしている」
と記してありますから、この降伏申出書の提出は九月十四日の何日か前のことだったのでしょう。「これより先八月下旬から降伏に動いていた米沢藩は九月三日に新発田の越後口西軍の総督府に正式に謝罪書を提出し仙台藩もこれに追随した」とのことで、米沢藩は既に降伏して西軍に付いたとはいえ、直ぐその前までは東軍にいて松宮と共に戦っていたのですから、彼の戦功を十分に知っており、彼の処置を出未るだけ穏便に済ませようとして、観音寺久左衛門とか松宮雄次郎とかの名前を伏せて、百姓雄次郎として処置してくれたのではないかとも書かれています。

「十二月十九日『越後府』の名で米沢藩に次のような指示があった。
『その藩(米沢)へ預け置いた越後の土民雄次郎、その他賊軍の募集に応じた者どもは、残らず越後府へ送り届けること』
そして『雄次郎其の外』の者に対しては、次のような達しがあった。
『その方どもは順逆をわきまえず、卑しい身分とは言いながら賊軍の募集に応じ、官軍に抵抗した。その罪は軽くないので、厳重なお叱りがあるべきだが、寛大なお計らいによって、各人身許へ帰される。以後はきっと謹んで本業を守ること』
米沢藩は瀬下沖之助ら二人を責任者として、彼らを越後府の長岡民政局へ送った。翌明治二年正月七日付の越後府民政局の文書では『雄次郎三十六人之者共」を確かに受け収ったことが記されている。(略)
この明治二年の一月半ば(陽暦二月末)松宮は地元の子分七人とともに観音寺村へ帰っきた」

こうして観音寺村に帰ったのですが、前述した、彼が八月初め加茂から阿賀野川河谷を経て会津へ脱出している頃に、観音寺の松宮邸は既に西軍によって焼かれていました。その時のことを本書では次のように書いています。
「(略)松官たちがこうして八月一日、三条へ敗走している時、午後三時ごろに、西軍の一隊は早くも観音寺村に姿を現していた。川西の西軍のうち、与板方面からの追撃部隊はこの日、地蔵堂に達したが、観音寺村から弥彦方而へ進んだのは、海岸道にいた朝廷直属の御親兵二番隊だったようだ。(略)

このころ柏崎の本営にいた越後口西軍の総督仁和寺宮への西軍の報告では、次のように言う。
『三字頃(さんじころ)弥彦へ相進候処、一人の賊も見ず観音寺久左衛門方は一円焼失・・・・・』」

このように松宮は自宅を焼かれたところへ帰って来るのですが、その後の生活はどうだったのでしようか。それについては次のように書かれています。
「松宮の帰郷が知れわたると、たちまち祝儀に白米二百俵余、その他の金品が集まった。彼の信望は依然として大きかった。屋敷の申し出もあったが、彼は断った。米や金品は子分に分け与え、自分は焼け跡に小屋を建てて住んだ。
翌明治三年七月、観音寺の南二里足らずの渡部で、信濃川分水工事の起工式が行われた。 定期的に人洪水に見舞われる流域の農民が、享保年間から待ち望んだその大河津分水だった。
しかし一石当たり一両二分という地元負批に、不満と怒りの声が渦巻いている。おまけに入り込んだ一万人を越す人夫の糧食で、寺泊など付近一帯の物価はうなぎ上りになっていた。
寺泊の町民がまず立ち上がって、地元にある主管の民部省土木司の出張所を包囲する。騒ぎは見る間に西蒲原郡一帯に広がって、燕や吉田などに不穏な空気がみなぎった。(略) この騒ぎの地域は、完全に昔の松宮の縄張りである。工事を成功させるには、今なお信望の厚い松宮の出馬しかない。(略)
松宮に新潟県から出仕の誘いがきたのだった。

官尊民卑の時代、それは彼がふたたび世に出るチャンスだった。しかし彼は動こうとはしなかった」
官尊民卑の時代に官がわざわざ頼んできたのに、隠棲生活から出ることを拒んで、そのまま生涯を終わるのです。
「明治六年、松宮は観音寺の小屋でその生涯を終えた。四十八歳だった。会津藩十森武佐上の『自伝』には、『実にほしむべき者なり』としている」
これが、会津藩に昧方した松宮雄次郎直秀の戊辰戦争にかかわった後の生涯でした。第四項に書いたように、彼は戊辰の年、四十三歳でしたが、亡くなったのはそのわずか、五年後のことでした。
兼定の為打ち銘に秘められた物語です。

八、その他の観音寺打ち

この『戊長任侠録』には、兼定の作品に関係ある記述がもう一つあり、読んでいて目に止まったのか次のところです、
「松宮は近くの地蔵堂の画家富取芳斎(一八○八〜一八八〇)について、本格的に絵を習ったのだった。彼は書もうまい。
『侠客としては異例なりと言うべし』
『出雲崎編年史』ではそう書いているが、……(略)」
このように松宮は絵を習っており、その師が富取芳斎ということなのですが、兼定は観音寺村で、この芳斎のためにも脇指を打っているのです。

押形三、脇差
銘 表 会津刀匠和泉守藤原兼定
   裏 慶応四年戊辰五月佳日為
     芳斎富良君於観音寺村造之
造り込み 平造り
寸法 長さ一尺五厘(三一・八センチ)反り二分(〇・六センチ)元幅九分六厘(二・九センチ)元重ね二分五厘(〇・七五センチ)
地鉄 地に小杢を敷いて、粗めの柾目肌椅麗に揃う。
刃文 直刃、匂口締まり、食違い刃、二重刃交じり沸付き、物打ち辺より焼き幅広がりつつ匂深くなり、帽子盛んに掃き掛けて小丸に長く返る。
身幅広く、重ね厚めでがっちりした、本来短刀として造られたと思われる小脇指、保昌写しで出来が優れています。

富取芳斎は『越佐書画名鑑』(編者荒木常能、発行所・新潟県美術商組合)によれば、次のように記録されています。
「文化五年(一八○八)、蒲原郡地蔵堂町の富取正為の長男として生まれ、名を良通、字を良輔といった。八歳のとき、三条町の五十嵐華亭の門に入り、十年間学んで花鳥画を得意とした。
その後京都に上がり、中村竹洞に山水画を学んだ。江戸に出て、春木南湖・谷文晃らと交わり、また、元・明・清の画を研究して、南画家として故郷に帰った。明治十三年(一八八〇)五月二十六日七十二歳で没した」

『戊辰任侠録』では松宮が芳斎から絵を習ったとしていますが、この脇指は松宮の紹介で芳斎が注文したものと考えられますので、この作品の存在は同書の記述の正しさをも証明していると考えます。
押形二の長巻とともに、この脇指もまた、兼定の入念作です。なお、裏銘に富取を芳斎富良としていることは、持ち主のお話では字を間違えたのではないかと思うと、おっしゃっていました。噂では観音寺打ちを銘した作品がもう一本あるとのことですが、現在確認していません。

兼定は会津藩から、長岡藩を応援するためにわざわざ観音寺村へ派遣されたのですから、このような入念作だけでなく、実戦用の数打ち刀も造ったのではないかと考えられるのですが、次の刀が、その内の一本ではないかと思われるものです。

押形四、刀
銘 和泉守兼定
造り込み 本作り
寸法 長さ二尺二寸八分(六九・一センチ)反り深め
地鉄 柾目肌。
刃文 こずんだ刃を交えたのたれ。

兼定の作品は、どれを見てもまとまりが良く、出来もそこそこで、うまいのですが、この刀は形やバランスが悪く、刃が寂しく、柾鍛えなのに見どころが少ないのです。常の作品とあまりにも趣が異なっていることから、この刀こそ観音寺で打った数打ちの実戦刀ではないかと思っているものです。

この刀は、観音寺村に兼定の刀を持っている家があり、それを借りて来るからと言って見せてもらったもので、その業者の方も観音寺打ちと言っておられたものです。兼定の作品には必ずと言っていいほど裏銘があるのに、この作品には裏銘がなく、右記のように見どころの少ないことから数打ちの作品だと思っています。今までたくさんの兼定の作品の押形をとって来ましたが、裏銘があるのが普通で、ないのはこれ以外では次の脇指の押形五だけでした。

押形五、脇指
銘 会津住和泉守兼定
造り込み 薙刀造り
寸法 長さ一尺二寸九分(三九・○センチ)反り二分六厘(〇・八センチ)元幅九分六厘(二・九センチ)
地鉄 よく詰んで無地風となる。
刃文 互の目、足入り、帽子ふくらに沿って互の目こずんで、先直ぐに小丸、長く返り寄り、物打ち辺鎬に沸付く。
身幅広く、重ね厚めでがっちりとした造り込みで出来もしっかりしています。

新潟県の登録で錆身のままだったので加茂打ちと思っていますが、表銘の肩に「会津住」とありますので、裏銘こそありませんが数打ちではなく、出来もまとまっていて、明らかに押形四の出来とは違うと思います。

ただ、「和泉守兼定」銘で裏銘のないものが全て数打ちかと言えば、必ずしもそうだとは言えないようで、短刀でしたが、裏銘がないのに出来の良い作品を観たことがあります。

九、会津に帰ってからの作品

第二項の米山氏の論文から引用した中にあるように、兼定は四月に観音寺へ来て「六月願の上帰国」しています。会津でのその後について、同論文には次のように書かれています。「七月二十九日長岡城陥落し、以後越後口よりする西軍の進撃が急で、八月一日兼定は弾薬輸送のため津川方面に赴き四日に帰宅、八日には再度輸送に従事して十三日に帰宅す。十五日父子同道で登城、一柳翁介の取次で兼定十一代目の家督を相続し、七人扶持を賜り、席を御近習三ノ寄合に下さる。この時父近江は既に七十五才の高齢であった」

これらの記述から、戦のために一心に働きながら、その間にも高齢の父から家督を相続するという、慌ただしい毎日を過ごしていたことになります。この度、この一文を書くために資料を調べていて、かねて地元にあった兼定の作品が、このような忙しい最中に製作されたものであることに気付きました。

押形六、脇指
銘 表 大日本鍛冶宗匠和泉守藤原兼定
   裏 慶応四戊辰年仲秋
造り込み 平造り、冠落とし
寸法 長さ一尺二寸六分(三八・ニセンチ)反り二分三厘(〇・七センチ)元幅一寸六厘(三・ニセンチ)元重ね二分六厘(○・八センチ)
地鉄 大板目の肌もの、刃縁柾がかる。
刃文 沸出来の直刃、打ちのけ、喰違い刃交じり、表裏ともふくらに沿って二重刃となり、帽子尖って返り長く、棟焼き風となる。









兼定の作品で沸出来の場合は必ずと言っていいほど、大粒の粗い裸沸が付くのですが、この脇指にはそれが見られず、沸粒の揃った品の良い出来です。
また、裏銘の仲秋は旧暦のお盆ないし、八月を指すそうですから、先の引用文から判断すると、これは八月十五日に兼定が十一代目の家督相続を記念して製作したものではないかと推測するのです。

かねて、表銘の肩に大日本鍛冶宗匠と切ってあることを不思議に思っていたのですが、西軍との戦の最中に、会津の刀匠として最も由緒ある兼定家十一代目の家督を相続したのですから、恐らく、それを誇りとして、我こそは日本(東軍)の刀匠の第一人者である、との自負を切ったものではないかと考えている次第です。この脇指は、それに相応しい優れた作品だと思っています。ただ、これは推測ですので、他にもこのような切り銘があるのか、その意味が何なのか、ご存じの方がおられましたら、お教え頂きたいと思います。

そして、この作品を造った約一カ月後、第一項にあるように会津藩は「九月二十二日城中死屍山をなし、傷者満ち溢れるに及んで終に開域し」、その後、兼定は間もなく加茂に来ることとなるのです。
この稿で一部に田村健二氏、佐藤久晃氏からお聞きした話を使わせて頂きました。
『戊辰任侠録越後の侠客・観音寺久左衛門』からの引用では、文中に引用文献が書かれていたものは、そのまま引用させて頂きました。

筆者の中島欣也氏に平成九年十二月十六日にお電話して、著書からの引用について御了解下さるようお願いしたところ、「お役に立つならどうぞお使い下さい」と快い御返事を頂き感謝しています。
また、氏は現在新潟市にお住まいで、著書の奥付からご出身が三条市であることは判っていましたが、旧制県立三条中学校をご卒業とのこと、筆者が同新制県立三条高等学校の卒業ですので、同郷だけでなく高校の大先輩であることが判りました。
その他の引用文献も全て文中に明記しました。 (とやまのぼる・長岡支部会員)

中島欣也先生のこと。

これが掲載された刀剣美術(平成十年十月号)をお送りしましたら次のようなお葉書を頂きました。
ここには、三条八幡宮の境内に昭和十年に建立された信秀の石碑建立に際して、ご尊父様が関係したとのことでした。
それで調べたところ、三条刀剣会が石碑建立に当たった寄付金などの収入と支出を公にした決算書がありましたので、その中から関係のあると思われるところだけを次に掲載しました。

この中で中島広吉という方が、もしかするとご尊父様ではないかと想像しています。

ついでに、この寄付名簿を少し解説しますと、最初の金三十円也の福島要吉は、私の論文「福島家の信秀刀」の主人公の福島さんですし、次の岩田屯は石碑の裏の銘文を作詞をした方、金二十円也の栗原初太郎は信秀の孫、次の今井長三郎は信秀の甥、金十五円也の源川万吉は信秀に名入れの鉄鏡を作らせた源川直茂の息子さん、金十円なりの中にある今井籐七は北海道札幌のマルイデパートの創業者の息子さんです。また、たまたま、数行左側の金五円のところにある、四の町外山栄助というのは私の祖父です。

なお、『戊辰任侠録越後の侠客・観音寺久左衛門』(中島欣也著、恒文社刊)は次の写真で、
定価2000円ですので、ご興味のある方は発刊所の恒文社へここからお入り下さい。

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