小津安二郎[1903-1963]

 「おれは豆腐屋だ。がんもどきや油揚げは作るが、西洋料理は作らないよ」
 といって、ひとすじに純日本映画を作りつづけて来た小津安二郎は、昭和38年正月から、彼が作品を作る場合いつもそうしていたように、シナリオ作家の野田高梧と蓼科の山荘にこもり、次回作の想を練っていた。その作品は「大根と人参」という題で、ガンにかかった男が主人公で、その男にそのことを知らすべきか、知らすまいかと家族が悩むストーリーであった。

 ところが3月になって、頸にグミのような腫物が出来て痛むので、3月27日帰京、それでも医者にゆくのをいやがる彼を、俳優の佐田啓二らが説得し、4月11日、国立がんセンターに入院させ、17日手術を受けさせた。
 小津は大男であったが、手術中あばれるので、だれか押さえていていくという看護婦の悲鳴に、佐田らが飛んでゆくと、小津は「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていた。念仏など縁起でもないからよしなさい、というと小津は、「痛くて痛くて、何かいってないとたまらないんだ。ナンマイダ」といった。

 以後、彼は手術の痕にコバルトやラジウムの針を刺す、いわゆるコバルト・ラジウム療法を受けた。そのあとで彼はいった。
「60年間生きて来て、いちども長いと思ったことはなかったが、針をいれられた1週間の長さときたら、どう説明していいかわからないよ。そのへんに斧か何かあったら、自殺したいくらいだったよ。お医者というものは、病気の治療はするかも知れないが、痛みの治療はしないんだね。『痛いですか』『痛いですよ』『そうですか』ってんだからね」
 しかしまた冗談好きな彼はいった。
「これでおれも一人前の豆腐屋になれたよ。ガンもどきを作ったんだからね」
 そしてまた見舞いにくる客にはだれにも「なおったら、1本とろうね」「なおったら」「なおったら」と繰り返した。

 7月1日、小津は一応国立がんセンターを退院し、その日鎌倉の自邸で祝杯をあげたが、以前酒を飲んでも全然赤い顔をしなかった彼が、海老をゆでたような顔色になった。
 祝杯をあげたが、無事であったのは1週間ばかりで、右手がしびれ出し、やがて痛みに変わり、食欲をまったく失い、8月はただ寝たきりの生活になった。佐田らが国立がんセンターから、小津がガンだと聞かされたのは9月5日のことであった。

「痛みというものは、100とか112とかいいあらわせないね。ただ痛いというしか言葉がないね」
 といい、苦痛のうなり声が玄関まで聞こえる状態になりながら、なお入院をいやがる小津をふたたび無理に入院させたのは10月12日のことであった。小津の家の前は坂道になっていた。そこを担架で下りながら、「この道をよく酔っぱらって上って来たもんだが…」と彼はいった。

「何も悪いことをしたおぼえはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう」
 と、10月19日彼は病院の天井を眺めていった。(いかに多くの病人がこの言葉を吐いたことだろう!)
「右足がどこかにいっちゃったのかね。ベッドの下に落っこちてるんじゃないかね」
 11月22日には呼吸困難に陥り、気管支切開手術が行われた。以後、声が出ないので、壁にイロハの紙を貼り、その字をさして小津がうなずくことで、わずかに意思が通じる状態になった。
 12月11日、見舞いに来た野田高梧は、小津の顔を見た印象を「おぼえていたくない顔だ」と表現して眼をとじた。

 小津安二郎は12月12日の午後0時40分に死んだ。それは彼の還暦の誕生日であった。
「午後8時、棺にはいって、おやじさんは鎌倉に帰って来た。紅葉がちり敷く山道を、棺をかついで来ると、純白のかけ布の上に、おやじさんの好きだった赤い紅葉が、2ひら、3ひら散りかかった」
 と書いた佐田啓二も、それから約8カ月後の昭和39年8月17日、やはり蓼科から帰る途中、車が橋の欄干に衝突して死んだ。
 彼によって真の名女優たり得た名花原節子は、彼の死とともにしずかに消えた。

 小津の墓碑銘はただ「無」の1字である。

「人間臨終図鑑」(山田風太郎・徳間書店)


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